今朝の新聞(朝日東京版)の記事に、「津波犠牲 企業の責任は」との見出しがある。
銀行屋上に避難したが、津波がそれよりも高かったので被災して、死者・行方不明者が出たので、銀行は責任をとれという訴訟の話である。
この訴訟の判決はこの22日だというのが、このニュースである。
わたしは訴訟内容については、いうべき能力をもちあわせていない。
ここで言いたいのは、この新聞の見出しの「犠牲」である。
「犠牲」というからには、その津波被災と「なにか」とバーターの関係にあったのだろう。つまり、その「なにか」への捧げものととして、「なにか」の利益のために、被災したということになる。
朝日新聞は、判決の出る前に、企業の「犠牲」になったのだと、ここで報道しているのである。
マスメディアがこれほど一方に加担して報道していいのか。あ、自民党みたいになっちゃったなあ。
わたしは企業の肩を持つ気はさらさらないが、それでも報道が一方的すぎるよなあ。
こう書いたが、実を言えば、これは単なる新聞屋の言葉遣いの間違いだろうと、わたしは思っている。
近ごろ、死者のことをなんでもかんでも犠牲者という風潮がある。
野原で落雷に遭って落命した事件でも、犠牲者と報道すれば、そこに避雷針を立てなかった行政体の犠牲者だということになり、税金で補償することになれば、納税者全員が犠牲者を生んだ犯人ということになる、、のだろうか。
死者を忌み言葉にしてしまって、言い換えのつもりでうっかり犠牲者と言うとその死者の周りの生者まで巻き込むんだってことを、忘れてやしませんか、ってんだよ。
●参照http://datey.blogspot.jp/2013/02/722.html
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