2016/12/27

1242【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランドになっちゃった東京駅丸の内駅舎の歴史についてご隠居と八五郎の10年ぶりの長屋談義

東京駅周辺徘徊その1】からの続き

八五郎:ご隠居、元気ですかい。
隠居:おや、八ッぁんかい、ひさしぶりだね。うん、元気だよ、口だけは。
:先日ね、10年ぶりに東京駅のあたりをぶらぶらしてきましたよ。いやもう超高層ビルがびっしりで、あたまのうえあたりが鬱陶しいったらないね。あんなにビル建てる場所ありましたっけ。
:いやいや、建ち並んでた高層ビルを、もっと高く太く次から次へと建てなおしてきてるんだな。
:壊す費用だって莫大だろうに、それでも儲かるんですね。でも東京駅だけは低いままに建て直してましたよ。
:あれは建て直したのじゃなくて、戦後修復した建物に3階部分を増築して、ついでにお化粧直ししたんだよ。いわば再修復だけどね。
:そういえば、そのことで10年前にご隠居と長屋談議をやったことがありましたね。どうせならもっと高く建て直しゃよかったのに、なんでです?
:うん、まあ、昔の形に戻してみたかったんだな、その化粧代金が500億円かかったけど、もっと髙く建てられる権利、つまり頭の上の空気を売って調達したんだね。
:すごいねえ、ホントに空気を金にするんだもんねえ、人間はキツネやタヌキ以上ですね。
◆このあたりの詳しい談議はコチラ
 
:ちょっと東京駅の歴史を振り返ってみようかね。これが1914年にできたときの写真だよ。
:そうそう、10年前の姿から今はこの姿に戻ってましたよ。赤くてキンキラで派手なもんで、ナントカランドみたい。1914年にこれを見た日本人は、そのキンキラキンの西洋建築に圧倒されたでしょうねえ。
:その頃の日本は、日清、日露、日独って10年ごとの戦争に勝ち続けて、先進の西欧列強に並ぶ帝国になる背伸びを始めた発展途上国だったからね、このような成り上がり的建築にあこがれたんだよ。

:でも、次のアメリカとの戦争では負けちまって、東京駅は敵からの空爆で燃えてしまったのでしたね。
:そう、1945年5月のこと、屋根は燃え落ち、内装は全焼、でも煉瓦壁やコンクリ床は燃え残った。
:創建から31年目ですよねえ、もったいない、でもまあ、東京中が燃えたんだからしょうがないや。

1945年3月10日の東京大空襲で炎上し屋根がなくなり壁だけになった東京駅

:そこでね、燃え残った煉瓦壁や床を再利用して応急修復したんだよ。それができたのが1947年のことだった。
:その戦後修復東京駅が2007年まで見えていた姿だったのですね。
:そうだよ、それが60年間もあった。創建時の姿は31年間だから、戦後修復の姿の方が2倍くらい長くあったんだね。
:戦後応急修復建築にしては、エラク立派なものでしたねえ、今の姿からキンキラキンを取り除くとあの姿でしたねえ。
:そうだね、あの金も物資もない時に、機能的には要らないものなのに燃えた3つのあのデカいドーム屋根まで作り直したんだからねえ、よくまああそこまで立派に修復したもんだよ。
:かんがえようによっては、あのままでこそ重要文化財級でしたね、対清露独戦勝+対米敗戦記念碑だったんですものねえ。


:それが1970年代の終わりころから、国鉄は赤レンガ駅舎を高層ビルに建て直したいといいだし、歴史文化好きの市民たちは保存しろとか、建築史関係者は辰野金吾の設計だから復元しろとか、あれこれ騒がれてきたんだね。
:どこかの市長が、壊すならうち市のの公園に移築してひきとる、なんて言いましたね。
80年代半ばの世の中のバブル景気と国鉄民有化政策も絡んで、いろいろあったけど結局は「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告東京駅専門有識者委員会が「現地で形態保全とし、政府もそう決めたんだな。そのときに空中権の移転も示唆されているよ。
それで今のようにキンキラキンの昔の姿に戻すことに決めたんですか。今や時代は右寄り、なんだか復古調の世の中ですからね。
いや、専門家の委員会では、復元せよとは言っていないよ。わたしは戦後修復の姿で保存するべきと思っていたけど、その後に復元する方向になったらしいね。
:そう、建築の世界じゃあ、古い姿ほど価値があるって思い込みがあるでしょ。わたしたちの時代の歴史的意義が深い戦後修復よりも、1914年の姿が価値があると思うらしいですよ。
:でも、復元たって実は半分上は2012年にコピーして作った新しいものなんだな、へんだよね。やっぱりナントカランドが好きなだけなんだろ。
:じゃあ、三菱1号館美術館と大差ないですか。
まあ、これらキンキラ出現もまたひとつの歴史ではあるけどな。ただねえ、あの戦後修復の姿は、日本の愚行と不幸を今に眼に見えて伝える戦争と復興の記念碑だった、それが消えて惜しいことをしたよ、国鉄建築家の伊藤滋の修復デザインとしても秀逸だったしねえ
2012年にキンキラキン化粧の1914年の姿に戻った現代の東京駅

:ところが、そのナントカランドキンキラ新東京駅もまわりから攻められてますよ。前後左右からガラス箱大入道集団に襲われているみたいですよ。
:そのガラス張り超高層は、東京駅空気を売った先のビルなんだな、だからあんなにもデカいんだな。
:そうか、お化粧代として空気を売ったら、お返しとして日陰になった、あ、そうか、身を売って日陰者になっちゃった。
東京駅が上空の空気を売った先の6つのデカビル

:身を売った先ばかりじゃなくて、これからどんどん大入道が建ち並ぶらしいよ。これは八重洲側の開発について最近その事業者が発表した絵だよ。
:おやおや、乱杭歯のように立ち並ぶねえ。

:さてさて、この先どうなるのだろうねえ。
:ちょっとそれを描いてみましたよ。どうですかい、もちろん、いい加減な推測戯画ですよ。
:うわっ、どうせならこんな乱杭歯じゃなくて、金屏風を立てたように都市デザインすればいいのにねえ、キンキラ新東京駅がもっとキンキラキンになるようにね。

:あ、そうだ、こんなのもありますよ。ほれ、30年ほども昔々に建築家の丹下健三からの提案があったでしょ、辰野金吾デザインをそのまま高さ100mにするって、それを絵にしてみたんですよ、
:うわ、すごいねえ、あ、そうそう、わたしは丹下事務所でその模型を見たことがあるよ、ほう、これなら東京駅自体が金屏風、いや赤屏風になるんだな、わはは、う~む。

つづく


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2016/12/24

1241【東京駅周辺徘徊その1】東京の丸の内と大手町は今やデブデカ超高層ビル群おしくら饅頭なんとも鬱陶しい景観

派手に着飾った東京駅はいまや八重洲側の開発で背景もこんなに賑わってきた
まだ歯抜け背景だけど続く開発でこれから乱杭歯が建ちならぶので乞うご期待

 久しぶりに東京駅下車、1985年頃から毎年2回くらいは定点観測し続けてきたのだが、さすがにもう飽きた。
1960年代末から80年代半ばまで、東京駅北口にある事務所に通勤していたので、八重洲・丸の内・大手町の30年前の姿が脳裏に刻まれている。
 特に、1980年代半ばに政府の仕事で東京駅周辺再開発計画を担当したので、表面的なことばかりではなく、ある程度は深く知ることもあった。
 その後も、このあたりが中高層ビルから超高層ビルへと、都市景観が変化しつづけるのを観察するのが面白かった。

さて、久しぶりの丸の内・大手町は、建築群がここもそこもかしこも高く髙く太く太く大きく大きくと、一途に増殖し肥満し続けているのであった。すごいのだが、どこか狂気のごとくも見える。
 昔の超高層建築は細くて高くて孤立していたから、すらっとして格好が良かったのだが、今どきの超高層建築はデブデカ肥満児というか巨体に成長して、しかも群れているのである。
 それらデブデカ建築群がおしくら饅頭でひしめきつつ、道の両側からてんでにワラワラと覆いかぶさってくるのは、なんとも鬱陶しいものである。

 建築を作品として鑑賞する気にならないのは、鑑賞するような建築がないのか、それともこれほど立ち並ぶとよほど奇抜なデザインでないと見るべき建築にはならないのだろうか。例えば三菱一号館美術館のようにクラシックコピー建築にするとか。
 摩天楼の街のニューヨークやシカゴのような建築的面白さが、丸の内と大手町にはないのだ。

 1988年であったか、丸の内の大地主の三菱地所が、いわゆる「三菱丸の内マンハッタン計画」なるものを発表して、超高層の墓場のような将来像が不評を買ったことがある。
 そしてそれから30年ほどの今の丸の内・大手町は、中高層ビル群は次から次へとガラスの石塔群に建て替えられて、超高層ビルが雨後の竹の子のごとくたちならんでいる。あまつさえ超高層ビルを壊して超高層ビルに建て替えることさえやっている。
1988年丸の内三菱マンハッタン計画の丸の内俯瞰図

2015年 上の絵とほぼ同じ視覚の丸の内俯瞰画像(google earth)

 マンハッタン計画が発表されたころは、バブル景気初期の頃で、東京のオフィス需要がものすごくなる、それに対応しようとてあれこれあったものだ。
 この計画への世の批判は、その墓場の如き漫画的お絵かきもあったが、基本は丸の内・大手町の都市計画としてその大規模な集中に対応できるのか、そしてまた東京一極集中を助長して国土計画として適切か等であった。

 わたしがこの絵を見て思ったことは、1966年から1年ほど起きた景観論争のことである。超高層の東京海上ビル計画が発表されて、高いビルは皇居を見下ろすのでケシカラン、いや高いビルこそ先進国であるとか、反対賛成の論争である。
 建築家たちは賛成、知識人は反対という構図であった。その頃に誰もが思った基本的な疑問は、超高層建築群がつくりりだす都市景観は、はたして美しいものとなりうるか、という思いだった。

 このとき反対の企業側の急先鋒は三菱地所であった。三菱の反対論の底には、19世紀からえんえんと築き上げてきた丸の内の不動産価値の大きな変動への不安であったのだろう。
 世間も業界もすったもんだ、総理大臣まで介入、行政不服審査にもなり、あれこれの末に、では高さ100mまでにしましょうよと、とくに根拠もない業界手打ち、以後しばらく100m丸の内だった。
 それが三菱丸の内マンハッタン計画は高さ200m提案であるから、20年後の大変節にわたしは笑ってしまった。(美観論争についてはこちらを参照

 その後、バブルパンクとか平成大不況とかリーマンショックとかいろいろあったが、いま見る状況はマンハッタン計画はとにもかくにも実現しそうというか、既に実現してしまったという姿である。
 それはもう底が抜け落ちたというか、天井が破壊しつくされたというか、。
 では、あの頃の批判とか問題をすべて乗り越えることが、東京都心も日本もできたということなのだろうか。う~む、とてもそうとは思えないのだが、。

 そんな摩天楼景観をきょろきょろ見上げて眼も首も疲れるが、ふと、昔ながらの8階建て程度のビルを見つけると、おお健在かと懐かしく見つめるのだった。
三菱地所が「ビルヂング」と命名していた頃の、そんなビルがまだいくつかある。たぶん、建て直しを待っているのだろう。
右端は丸の内超高層第1号の東京海上ビルだが周りが高くなって埋没、
中央の銀行協会ビルは建替えた超高層ビルをまた壊して超高層建替え中

アートで暑苦しさをなんとかするか

こんな笑える自然の広場もある

巨大開発中工事場にとり囲まれてポカッと空いた将門塚は
今どきでも祟りがあるとて誰も地上げしない真空エリア

将門塚を取り囲むこの開発は祟りがあるかもなあ
建築主、設計者、施工者そして入居者のみなさまお大事に

あそこに見える8階建て「ビルヂング」は今や貴重な「低層」建築

そのひとつに「日本ビルジング」があったが、ここの中にあった事務所に通勤してたのだ。
 いま、その前を通れば工事用の囲いがビル全体を覆っていて、解体中であった。こんどは跡地に日本でいちばん高いビルを建てるとか。
日本一床面積が広かった日本ビルも解体中、跡には日本一高いビルができるとか

いまから30年ほど昔だが、東京駅周辺再開発計画の仕事がらみで、このあたりの写真をたくさん撮ったことがある。そのほかにも画像を数多く収集しており、今はそれらがPCの中にある。久しぶりにそれらを取りだして、今の姿、将来を並べてみよう。
 30年前はビルに入って外を撮影するのは難しくなかったが、いまではシャットアウトばかり、しょうがないから、俯瞰写真の一部はgoogle earthのお世話になって比較する。

1987年 東京駅八重洲口大丸屋上から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元前、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄本社いずれも建て替え前

2017年 東京駅八重洲口の建替え後の大丸12階便所から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元後、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄いずれも建替え後


1987年 八重洲口大丸屋上から北西方面俯瞰
駅前広場の北にある国鉄本社ビルがまだ健在

2015年 上とほぼ同じ俯瞰(google earth)
左は建替後の新丸ビル、中央に国鉄本社建替後のオアゾ

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)






2016/12/19

1240【父の十五年戦争】戦中の海外日本植民地にあった神社を研究すると意外に深く苦い歴史が露呈してくる

 わたしの生家は備中の高梁盆地にある神社である。父が宮司をしていた。わたしが後を継がなかったからか今は宮司不在だが、神社は今もある。
高梁盆地にある御前神社 写真:川上正夫 2015年

 父は1931年から日本の15年戦争中に3回も兵役につき、3回とも無傷で戻ってきた。最後に帰還した日は1945年8月31日であった。
 2度目の中国北部では通信兵の本務の傍ら、本職を生かして所属する軍隊での諸神事を司った。兵役に出る前に軍から指示があり、あらかじめ装束を持参して入営したそうだ。
中国の敦河で日本が作った神社(父のアルバムより)
流造らしい本殿が見える

中国の保定で日本が作った神社(父のアルバムより)
既存の廟建築に和風の向拜を付加したように見える

●戦争と神社

 わたしは父の遺品のなかに、彼の兵役中の記録を見つけた。それを『父の15年戦争』という戦中の家族の記録として本にまとめ、兄弟や親せきに配布し、全文を「まちもり通信」サイトに掲載している。
 この中の中国戦線での軍隊神事関係の記録を読んだお方二人から、去年と今年に問合せのメールをいただいた。どちらも戦場や植民地での神社や神道についての研究者である。

 そのような研究が今では行われているのかと初めて知り、若干の感慨をもってその方たちに父が遺したメモや写真のコピーを提供した。
 これまでにもわたしのサイトを見て、論文を書く学生や院生から都市や建築のわたしの仕事や歴史的研究についての問い合わせはあったが、異分野の研究者からとは珍しい。
 その研究者のひとり、中山郁さんはわたしの父の軍隊での祭祀行動を知りたいとのことだった。陸軍における戦場慰霊と「英霊」観』を書かれ、そこに父のことも一部引用してある。それを掲載した論文集『昭和前期の神道と社会』(2016年、坂本是丸編、弘文堂)をいただいた。
 
 またもうひとりの研究者の中島三千男さんは、日本の植民地にあった神社が、今はその跡地がどのようになっているか研究中とて、父の記録の中に出てくる中国での神社について知りたいとのことであった。
 中島さんから著書『海外神社の跡地の景観変容』(2013年、お茶の水書房)といくつかの論文集をいただいた。
 それらを読んで「海外神社」なるものにがぜん興味がわいて、中に紹介されている参考文献の『海外神社史上巻』(小笠原省三)、『植民地神社と帝国日本』(2005年、青井哲人、吉川弘文館)など何冊か読んだ。

海外神社とは、要するに外国において形成した日本人コロニーに、日本人がつくった神社のことである。
 とはいっても海外日本人コロニーは、現存するブラジルの日本人社会もあれば、現存しないがいまだに戦争後遺症をひく朝鮮半島や中国東北部の植民地もあり、その研究は意外に複雑多様なものらしい。
 沖縄もそれに含めるとさらに複雑になり、まことに興味深いものがある。

 かつての日本植民地における神社については、戦争と神道、植民地支配と神道、植民地都市計画の神社立地など、なかなか刺激的なテーマである。
 植民地と言っても、台湾、朝鮮、樺太、満州あるいは南洋諸島があり、そこでの神社のあり方も多様であるが、いずれにしても日本の敗戦でほとんど消え去ったということが、その意味をいちばん物語っている。
 特に朝鮮では日鮮一体化・皇民化政策に神社が使われたので、日本人コミュニティのシンボルの神社跡地は、憎しみのメタファーの危険性をさえはらんでいる。
 海外神社とはかなり特殊な時空に起きた現象かと思ったら、実は深刻な歴史をえぐりだす普遍の種らしい。

●海外神社研究
 
 中嶋三千男さんから案内状をいただき、神奈川大学での「海外神社研究会」なる会合にヤジウマ一般参加してきた(2016年12月17日、神奈川大学)。なかなかに刺激的な報告が続いて、実に興味深く聞いたのであった。
 太平洋戦争で日本軍が占領して悲惨な戦場となったフィリピンで、消え去った神社を探索した調査報告(稲宮康人氏)では、マニラ、ダバオ、バギオで4つの神社跡地を確認したが、今回はとにかく場所の確認作業だったようだ。
 面白かったのは、どこの神社跡地でも一部に土を掘り返した跡があり、聞けばそれは伝説の山下将軍財宝探しの山師たちの仕業で、今でも日本関係跡地を探しまわっているらしい。

 旧満州開拓団神社跡地の調査報告(津田良樹氏)は、加藤完治たちが送りこんだ数多くの満州開拓団コロニーは消え去っても、その共同体のシンボルとして開拓民たちが自ら作った神社の跡地について探索している。
 それはまるで時間をさかのぼるタイムマシーン秘境探検隊であり、いくつも特定に成功した努力に敬服する。
 だが津田さんは「今も重い気持ちが抜け去らない」という。ソ満国境に近くの入植地では敗戦時戦乱による開拓団民多数遭難死の悲劇があり、その一方で土地侵略者開拓団への中国側の今も続く憎悪があり、それに向きあわざるを得ない現地調査には辛いものがあったようだ。
 満州・朝鮮という日本植民地の神社跡地探索が小さな傷痕かとおもえば、実は後遺症を大きくえぐりだすかもしれないという、歴史の重さが研究者にのしかかっている。

 「植民地期満州における日本の宗教」と題するフランス人研究者(エドワール・レリソン氏)の発表も面白かった。
 宗教的人物からキメラ満州という特殊にして特定の時空を追うとして、明治天皇、松山珵三、水野久直、乃木希典、加藤完治、溥儀、新田石太郎、出口王仁三郎をとりあげて、ドクター論文を執筆中だそうである。この顔ぶれを論文にまとめるとは、すごいとしか言いようがない。
 わたしたち日本人は、満州に対しては日本特有の目(それをどういうか難しいが)を持っているような気がするのだが、それをひきずらない外国人には新鮮な何かがありそうだ。どう展開するのか興味がある。

 琉球・沖縄の神社に関する報告(後多田 敦氏)の報告も、実に興味深いものがあった。聞いてみると本土から進出した日本の神社は、沖縄ではまことにマイナーな位置であるようだ。
 琉球王国に於いて確立していた祭祀制度に対して、薩摩侵略、琉球処分、アメリカ占領というそれぞれの大政治的変革がどう影響を及ぼし、あるいは及ぼしえなかったか、社会史として面白い。

 沖縄では戦前戦中とも、日本国政府が台湾や朝鮮でしたようには、神道を押し付けえなかったそうだ。
 琉球時代からの聞得大君を頂点とするノロたちがよる女性祭祀システム地域にしっかりと根を張っており、彼女たちが拠るウタキの神社化を画策しても成功しなかったらしい。
 琉球王国を舞台の小説「テンペスト」(池上栄一)を、学問的方向からあらためて思い出した。沖縄と神道の関係は、近代日本植民地でのそれとは明らかに異なるフェーズであり、これも興味ある研究テーマのようである。

 私事である「父の十五年戦争」は、戦争という大きな公事に取り込まれた私事であるとは思っていたが、この様な回路の端っこに組み込まれているとは思わなかった。
 海外神社研究が、これからどう展開するのか楽しみである。わたしの関心は、朝鮮と沖縄のそれである。

●参照外部サイト:海外神社(跡地)データベース 
http://www.himoji.jp/database/db04/index.html

●参照まちもり通信サイト:父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2016/12/09

1239【日本統合リゾート列島】いまさらギャンブル解禁しなくたって今や日本も人生もギャンブルだらけだよ

●景気が悪いので賭場で稼ぐんだな

熊五郎:こんちわ―、ご隠居、寒くなってきましたねえ。
ご隠居:おや、熊さん、いらっしゃい、焚火でもしようかね。
:でも、こう風が吹いてちゃあ、長屋に燃え移るかも、やめましょ。
:どうも、景気が悪いね、この辺でなにか一発ドカンと、いいことないかい。
:そりゃやっぱり、宝くじ、パチンコ、競馬、競輪、、。
:庶民そのものだな。そういやあ、賭博場を日本でも作ることができるようになるらしいね。
:そう、IR法ですってね。
:なんだ、IRって、AIとか、IPとか、ICとか、またかい。
:いや、統合リゾート法、Integral Resortっていうらしいけど、要するにギャンブル遊園地を許可するってことらしいです。
:その遊園地では、どんな賭け事をしても処罰対象にならなんだね、いいなあ、賭け麻雀、賭け碁、賭けゴルフ、オイチョカブ、チンチロリン、、。
:古いね、ま、よく分らないけど、マカオとか香港とかラスベガスにあるような、カジノって賭博場をつくって、開帳してもいいらしいですよ。

●日本を取り戻す親分さんたちの賭場開帳

:ふん、ルーレットかい、それが、なんで「統合リゾー」トなんだい。
:賭博場で夜っぴて遊ぶためにホテルもいる、飲食店もいる、家族で来れば遊園地もいる、ついでに国際会議も賭博場でやるってことらしくて、だからなんでもありの統合。
:ふ~ん、昔バブル景気のころにリゾート法ってのができて、あっちこっち山の中を開発して大失敗したけど、あれの都市版だな。こんどは失敗しないのかい?
:いや、それが儲かるのか儲からないのかよく分らないけど、国民の代表たちが儲かると言って議員立法するのですから、儲かるんでしょ、たぶん。
:ギャンブルだから、もちろん公営だな。
:いやそれが、民営でやらせて景気をよくするってことらしいですよ。
:やや、とうとう民営博打場をお許しになるんだな、こりゃ江戸時代のように、日本のあちこちで博打場を開いて儲ける親分さんたちが、再登場するんだな、清水次郎長とか笹川繁蔵とか、どなたさんも、よござんすか、さあ、張った張ったあって、う~む、そこまで日本をトリモドスのかい、、。

●国営賭博開帳して儲けを福祉と教育に投資

:さあ~、どうなんでしょ。でも儲かるから民営でやるんでしょうね。
:かならず儲かるなら、ますます民営じゃなくて、いっそのこと国営でやればどうだい、ほら、どえらい借金財政の国庫に、博打の儲けがドド~ンと入れば、たちまち財政健全化達成だよ。
:あ、そうですね、儲けは全て福祉政策の財源にするとか。
:そうそう、全部を老人福祉のためにつぎ込んでもらいたいな。ギャンブル法大賛成。
:勝手な年寄りだね、いや、やっぱり若者が希望をもてるように、教育につぎ込んで貰いたいですね。
:それもいいだろ、じゃあ、熊さんもわたしも、国営ギャンブル場開設ということで、IR法賛成だな。
:でも客が来てこそ儲かるんでしょ、だれが来るのでしょうね。
:パチンコ、競馬、競輪、競艇なんてやってる人たちだろ。
:え、カジノとなるとやっぱりどこかの王様とか、どこかのバカ社長とかのような気がします。あの場外券売り場の貧乏ったらしい姿の人たちじゃないでしょ。
:いっそのことその賭場に出入りできる者は、外国人だけ、日本人は高額所得者に制限するってのはどうだい。それで外貨をがっぽり稼ぐんだよ。
:高額所得者からもがっぽり稼いで、彼らへの税負担軽減分をここで取り戻すってね。
:まあ、なんにしても、わたしたち庶民にゃなんの関係もない法律だね。
:そう、そんなものが近所にあると喧しいから、この長屋の近くには作らないでほしいですね。

●人生そのものが大博打なのに今さら

:それにしてもだよ、この世はギャンブルだらけなのに、いまさらギャンブル公認かい。
:そういや、先だってアメリカじゃあ大博打で大穴がでましたね、トランプゲームで。
:そうそう、イギリスでもEU離脱なんて大ギャンブル、そうか、日本も負けてられないってことかな、地球は今やギャンブル宇宙。
:人生もギャンブルだらけですよ、特に結婚なんて、よくやるもんですよ。
:あ、そうだな、まさに相互依存症になってるな。
:まあ、生まれてくることそのものが大博打ですもんね。
:そしてね、いつかは必ず死ぬけど、それがいつかどこか分らないままに生きてるってのも、究極のギャンブルだよな。
:そして日常ではどこでもパチンコやってて、あ、そうか、この日本列島は既に巨大統合リゾートになってますね。いまさら法律は要らないですね。


2016/12/05

1238【谷戸の変容】違法建築判決の共同住宅ビルを見に行ったら典型的な谷戸の斜面緑地開発だったが、


 このところ「六浦」づいている。まずは、能の「六浦」(むつら)、そして横浜の六浦(むつうら)にある称名寺(しょうみょうじ)を訪問、こんどは同じく横浜六浦にある谷戸(やと)を訪問と、3連発である。
 もっとも、能の六浦と称名寺とは、称名寺の所在地の今の地名は違うが創建時の中世では六浦だったし、能の物語の舞台が称名寺なので互いに関係があるが、3番目の六浦の谷戸はそれらとはまったく関係がなくて、たまたままたもや六浦だったのだ。
 その谷戸の現代的変容に、ちょっと興味をそそられた。

●六浦の違法建築判決の共同住宅ビル

 その六浦の谷戸を訪ねたのは、全くのヤジウマである。
 そのあたりで建設中の大きな共同住宅ビル(いわゆるマンションのこと)が、裁判で違法建築であるとの判決を食らったとの新聞記事を読み、どんな所なのか興味がわいたからだ。
 わたしはこの共同住宅開発とは何の関係もない。

訴えた方、訴えられた方、ともに困惑しているのにヤジウマとは何事と怒られそうだが、これでもわたしは昔は都市計画を専門としていたので、その点での興味であるからお許し願いたい。
 ネットでそのおおよその場所が分かったので、訪ねたら三浦半島あたりでは典型的な谷戸だった。
土地造成中のグーグル写真
訪ねる共同住宅ビル開発位置の概略図


 谷戸とは、褶曲の多い地形を割って流れるメインの川筋の両側に流れ込む谷筋の、細長い谷間の低地のことで、横浜から横須賀あたりにかけての、斜面住宅地の典型的な風景である。
そこでは、たいていは昔から人々が住み続けてきて、なり行きまかせで谷底を平らにし、まわりの斜面地の際を段段状に削って平らにし、坂道と階段のある立体住宅地が、細長くつづく。複雑な地形で、カオスな風景となることもおおい。
 ここの谷戸もそのとおりで、入り口から奥まで前後左右の斜面地が住宅になっている。かつては斜面は緑の豊かな環境だったろうが、今や単に地形的に落ち込んだ日陰の谷間の、車も入りにくい住宅地に過ぎない。
 ここは柳谷戸(ヤナギヤトまたはヤナギガヤツ)という地名らしい。

●5階建てだけど3階建て共同住宅ビル

 そしてこのたび見に来た例の新開発共同住宅は、ほぼできているらしい。
 柳谷戸の入り口から見えるし、谷戸の細い道を奥へ奥へ辿って行けば、左にコンクリートの絶壁がえんえんと続いており、その上に5階建ての共同住宅ビルが長々と横たわっている。
柳谷戸への入り口、向こうにクレーンの立つ建物がそれらしい
谷戸の細い道の向こうに工事中らしい共同住宅ビル
 工事看板を見ると、地上3階、地下2階と書いてある。目に見えている5階建てではなくて、これは3階建てなのであるか。
 どうやらこの階数の設定が、建築基準法に悖るとて建築確認取消判決になったらしいが、そのどこが悖るのか、建築の専門家でないから見てもわからない。
 肝心なことを分らないが、見ていて建築よりも都市計画的にいろいろ考えることがあった。
谷戸の西側の絶壁崖上に5階建てに見える共同住宅ビル
谷戸住宅地から西を見上げる斜面地の新開発共同住宅ビルの北半分
谷戸の奥から見下ろす共同住宅ビルの北半分、谷戸の東も絶壁
見てすぐに分ることは、谷戸の中もその上の新開発共同住宅も、同じ都市計画の区域なのに、その景観のあまりの違い様である。
 都心の市街地では、このような高層と低層の建築群が並ぶことは珍しくはないのだが、ここのように低層住宅地として規制の厳しい郊外では、余り多くないかもしれない。

 そしてその柳谷戸の西沿いにある絶壁下の細い道から、絶壁上斜面地の新共同住宅への細い分岐道があり、その突き当りにエレベーターを設けて、絶壁上斜面に登るらしい。
 ここから六浦駅までは10分もかからないが、まさかこの路地の突き当りが正面玄関ではあるまい。
谷戸西側の絶壁上斜面の新開発共同住宅ビルと絶壁下の谷戸住宅
絶壁はがけ崩れ防止対策として公共事業による既存のものらしい

この先からエレベーターで絶壁上斜面の共同住宅へ登るらしい
●尾根の上から見ればほとんど平屋

 このあたりで他にも同じような開発があるかもしれないと、更に谷戸の絶壁道を奥へ奥へと行けば、突き当りにもう居住者がいるらしい既存の大きな共同住宅ビルが建っていて、狭い道路はその裏玄関らしきところに吸い込まれた。
 しかし、これらの新旧二つの共同住宅ビルが、この絶壁下道からのみのアクセスということは、まさかあるまい。この谷戸を尾根の上にあるチャンとした道路が正面玄関だろう。ただし、そこだけだと六浦駅からかなり遠くなるので、こちらは歩いて駅と結ぶ裏口なのだろう。
谷戸西側絶壁下の道は、奥斜面に建つ既存5階建共同住宅ビルに入り込む
このビルも同じ手法で建てたのだろうか、でもこちらは問題なかったのか。
谷戸から尾根上台地に登って見る上の写真の共同住宅は2階建て
 そして尾根上台地のに登って見ると、そこはきちんとした計画的開発住宅地であった。
その一角にこの違法判決住宅ビルの、工事中の入り口があった。そこから覗くと谷戸から眺めるような5階建てビルでもないし、地上3階建てでもないし、単に平屋の長屋程度にしか見えないのであった。
 この上と下の景観的ギャップが、なんともすごいのである。
 開発の空間的影響が、空間的ゆとりの少ない谷戸側に大きく、ゆとりのある台地上側には少ないのが、どこかアンバランスである。
 しわ寄せが谷戸側に一方的に行っているのは、現行の建築基準法に問題があるようだが、むしろ都市計画の問題としてとらえるべきだろう。現状では、用途地域指定は上と下で大差ないが、大きな差があるのは、上には地区計画があり、下にはそれがないことであろう。
尾根上台地から新開発共同住宅ビルを西側から見ると平屋
 いろいろの資料を突き合わせてみたら、この開発はこのような配置状況であることが分かった。連続する斜面緑地をすっかりカバーしている。共同住宅ビルの背中は斜面にもぐりこんでいるらしい。

 ついでに、柳谷戸の西隣りにある同じような谷戸も気になったので見てきたが、こちらにも谷戸絶壁上に大きな共同住宅が建っている。
 おやおや、ほとんど同じようなものである。はて、こちらは問題とはならなかったのか。
柳谷戸の西隣りの谷戸の崖上開発
これも尾根上の台地から見れば2階建て
●谷戸というミクロ流域生活圏の変容

 六浦もそうであるが、三浦半島の人々は大昔からそこに小さな集落をつくって暮らしてきた。近代的な目で見れば、尾根の上の台地のほうが環境が良さそうに思えるが、漁労と水利あるいは交通の便でそうなったのだろう。
 そこはミクロの流域圏としてかなり閉鎖的な十数戸の集落をつくり、緊密な生活圏であった。空間的には狭く細長い船底地形であり、集落の前後左右を守るように急な斜面緑地が覆っている。明確な結界を構成している。

 じつは、わたしもここ六浦にほど近い鎌倉で谷戸暮らしを、40歳頃から四半世紀もしていたのであった。
 そこは一年じゅうウグイスやホトトギスの鳴き声が聞こえ、リスが窓辺にやってきて、夜はタヌキさえ訪問してきた。春から夏の緑の成長の勢いは、怖いほどに押し寄せてきたものだ。
わたしが住んでいた鎌倉の谷戸、右に台地上の計画的開発住宅地

 近代水道ができてから尾根上の台地開発が行われるようになり、高度成長期から人口圧力で大規模な住宅地開発が進む。
だが、尾根下の谷戸は台地開発とは、一般的にはほぼ無関係な世界であった。
 これらは平面的には隣り合わせだが、立体的には上下の位置関係にあり、その間には急斜面緑地が境界林を形成しているのである。地形的にも環境的にも景観的にも、この境界林が重要な意味を持っている。ここを境にそれぞれが結界を形成していた。

 ところが、その境界林であるはずの斜面緑地に、初めは谷戸側からなし崩し的に戸建て住宅が綻びのように上場に建てられていく。
 そして次は台地の上側から計画的開発の手が入ってくるようになった。かつての台地上開発では開発残地であった斜面地が、世の中一般の地価上昇から見て相対的に安価であることと、建設技術革新で、あらたな開発の対象となってきた。
 結界の破れ方が、それまでのような綻びをつくろう漸進的な様態ではなくて、メスで切り拓いて外科手術的に髙い絶壁とか巨大な建物が代替登場する。

 訪ねた六浦のここも、昔からの谷戸の暮らしの場が、近現代の住宅開発で大きく変容する現場のひとつであった。谷戸の左右の絶壁がそれを物語る。
 取り残されていた谷戸と、開発された台地との境目で、摩擦の発生である。訪ねて興味がわいたのは、その生活圏の景観変容の生々しい現場であることだった。そこで、さらに景観変容の歴史をたどってみた。
 なかなかに日本の戦後高度成長から今日までの、郊外生活圏の変化が興味深いが、これはこのあたりでは特別に珍しいことではないのだろう。
 わたしが住んでいた谷戸でも崩壊防災の絶壁はできたが、斜面地と尾根が市街化調整区域であり、そこは古都法によって保全されていたから、ここのようにはならなかった。

柳谷戸とその周辺地区のこの半世紀の変遷
谷戸が次第に裸に剥かれていく様子がよく分る






さて、つぎはどこの緑地が食われるか
それとも人口減少時代になってそろそろ満杯か

●斜面緑地と谷戸の居住環境

 この斜面緑地はどうして生まれて、だれのものだったのだろうか。
 たぶん、尾根上が台地状の新住宅地に開発されたとき、その周辺の急斜面のために開発に適さない土地として、結果的に緑地となっていたのであろう。
 だから、この土地にかかる費用は、台地上の開発者の負担、つまりその住宅地の購入者の負担に転化されていたのだろう。
 それが今になって開発適地として生まれ変わった。とすれば、この開発利益の受益者は台地上の居住者でなければならないだろうが、そうはならないのは確かだろう。

 斜面上からの開発に襲われて斜面緑地を失った谷戸は、日当たりも通風も車の便もよくない坂道ばかりの住みにくい住宅地となった。だだ駅には近いのが利点である。
 その斜面緑地の存在で、その所有者とも開発者とも関係のない谷戸の住人たちは、反射的に受益していたのだが、こんどはそれを失うことで反射的に不利益に転換するという痛い目にあっている。
 だが、もともとの負担者ではないから、甘んじるしかないのだろうか。

 斜面地住宅には、高齢者は住みにくい。しだいに空き家が増えつつあることは、柳谷戸を歩いてみても気が付いた。わたしが住んでいた鎌倉の谷戸もそうであった。
 定住的な住宅よりも、賃貸借型小規模住宅(アパート)が増えているようだ。自分が住まないとなると、過密に建て替えるからしだいに生活環境が悪くなる。

 このような暮らしにくくなった郊外の谷戸住宅地の今後は、いったいどうなるのだろうか。横浜や逗子、横須賀には数多く存在する。
 六浦の柳谷戸とその崖上開発とを見て、ひとつの谷戸全体をまとめて環境整備に手を付ける必要があると思い、それはここだけでの問題ではないとも思ったのであった。
 かつての谷戸という長屋のような暮らしが、今や共同住宅ビルという現代長屋に、とって替わられつつあるのかもしれない。
 なんにしても、これは違法建築以前に、現代における居住環境の確保について基本的な大問題を抱えている。
 
●「まちもり通信」サイト内の参照記事:鎌倉の谷戸脱出記

「伊達の眼鏡」ブログ内の参照記事
 ・能「六浦」 http://datey.blogspot.jp/2016/11/1235.html
 ・称名寺 http://datey.blogspot.jp/2016/12/1236.html