2016/07/04

1201【昔の遊園地を探して】二子玉川に久しぶりに降り立って60年前の記憶の二子玉川遊園はどこに行ったと探してみた

●昔、二子玉川園という遊園地があった
 昨日は暑い日だった。夕方に東急大井町線の二子玉川駅に降りた。特に用はないのだが、電車を乗り過ごしたので、フト思い付いた二子玉川徘徊である。
 再開発後の二子玉川をはじめて見たが、ちょっと昔に高島屋だけだったころと比べて、なんとまあ、上にも横にも街が大きく広がったものだ。
 買物も飲食もしないのでビルに入る気はない。ふ~ん、こんなビルができたのかと見回して、それよりも懐かしい「二子玉川園」がどうなっているのか見たくなった。

 大昔に駅近くに広い遊園地があった。その遊園地に入った記憶はないが、入り口横にあった二子映画館には入った記憶がある。それはもう60年も前のことである。
 もちろん、今はもう遊園地がないことは知っていたが、再開発事業に合わせて公園に生まれ変わっているだろう、どこかにあるはずだ。

●遊園地は二子玉川公園になっていた
 駅前あたりには、商業施設ばかり、その向こうは超高層共同住宅群ばかりで、公園の案内がない。
 とにかく駅からビル街を通って行けば、どこかにあるだろうと歩けば、結局のところ、東の端の一番遠くにあった。初めて歩く道だし、しかもむやみに暑い日だったから、その遠いのなんの、疲れた。
 いまは緑の豊かな世田谷区立「二子玉川公園」となっていることを発見したが、もう中に入る気力がなくなって、入り口で引き返した。往復で疲れ果てた。
公園はこの共同住宅群の向うらしい

RISEには緑が多いが公園はまだまだ向うの方らしい

 なんでこんな遠くに公園を作ったのか、どうせ再開発事業と合わせて作るなら、東西に細長い回廊の形にすれば、駅からも利用しやすいし、街に接する部分も長くなって良さそうだし、再開発施設群もそれに接してつくれば良い環境なのになあ、そうだ、そうやって公園と一体的に計画すれば、こんなに超高層住宅でなくて中高層高密度住宅にできたろうに、、などなど、暑い中を疲れた足を引きずってブツブツ言いながら戻った。
ようやくに二子玉川公園に着いた

公園のはるか向こうに見える建物群は武蔵小杉の共同住宅群らしい




●都市公園の奇妙な都市計画の記憶
 この公園の都市計画について、奇妙な記憶がある。この開園に至るまでには、面倒な紆余曲折があったはずである。
 今は「二子玉川公園」と言っているこの公園は、1957年に都市公園として都市計画決定した。しかし、公園として開園していないままに、東急電鉄が「二子玉川園」の遊園地や自動車教習所等に使っていた。
 実際に都市公園として開園したのは、つい最近の2013年だそうだ。

 だが、最初の都市計画決定の図書に妙な齟齬があった。昔の都市計画図があればよいのだが、見つからないので記憶で書く。
 地図に線を引いて囲っている「二子玉川公園」の図面の範囲は、「二子玉川園」遊園地もその東の教習所もテニスコートも全部を含む広い範囲を描いてある。
 しかるに、都市計画文書の方の面積の数値は、その図の範囲の実面積の半分ほどしかないのであった。図と数字の間で面積に極端に大きな差があった。
 どうして間違ったのか分らないが、そのどちらが正しいとするのか、図の通りという東京都と、数字の通りという東急電鉄とのあいだで揉めていると、仄聞したことがある。
 そして今のようなったらしいから、それが紆余曲折である。

 見てきた今の公園の状況では、どうやら東急の言い分が通ったらしく、「二子玉川公園」の範囲は「二子玉川園」等の頃の半分くらいになっている。
 1989年6月16日に公園の都市計画の変更決定をしたとあるから、この時に西半分を公園でないとしたのであろう。
 その公園でないとしたところの二子玉川園だった土地と、周辺の市街地を合わせて、今の「RISE」と名付けた巨大開発「二子玉川東地区第一種市街地再開発事業」ができたのだろう。
1966年の二子玉川あたり

2015年の二子玉川あたり

●駅名が昔とは変っている
 今は駅名を「二子玉川」というが、昔々は「二子玉川」だった。遊園地がなくなった頃に改名したのだろうか。
 なお、東急東横線に「多摩川」という駅があるが、こちらも昔々は「多摩川」と言っていた。駅前に多摩川園という遊園地があったからだ。
 戦後ながらく、電鉄屋が経営する郊外遊園地が全盛時代が続いたが、元はと言えば阪急がやった通勤とは反対方向電車に客を乗せる作戦だったのだろう。それもディズニーランドの出現が大きく様相を変えた。

 わたしが二子玉川に最近いつ降りたか記憶がないが、とにかくこのような超高層ビルが建つ前だった。
 生れてはじめてこの駅の降りたのは、1957年だったろうと思う。ここから玉川橋を渡った先の高津に住んでいたからだ。
 その頃は、大井町線がここから路面電車になって、ゴロゴロと玉川橋の中央部を渡って川崎側に乗り入れて、溝口が終点だった。

●高島屋からRISEへと街が動く
 その後は、玉川高島屋に来た記憶があるから、1969年以後だろう。
 日本で初めての郊外ショッピングセンターと言われた高島屋が、駅の西側にできたのが1969年であった。それはまちづくりとしても大きな話題となった記憶がある。
 高度成長期の大型店進出でも、郊外への出店は珍しかった。大井町線のイメージが変わり、更に田園都市線が乗り入れて、二子玉川は大きく変わる。

 そののちにこの街に来た記憶は、この街で今のような再開発事業を始めようと東急が考えだした頃で、このあたりのどこかで東急の開発担当の人たちと会合をした記憶がある。1980年代の初め頃だろうか。
 それはRIA(今のアール・アイ・エー)の都市開発の仕事としてRISEになったようだが、担当したMさんは30年がかりだったと、今年の年賀状に感慨深く書いていた。
 そののちにも全く来なかったとは思えないのだが、記憶がない。

 そしていま、高島屋と駅をはさんだ東側に、「RISE」という一大開発ができて、40数年ぶりの大きな動きであるらしい。
 なんだか今はお洒落な街とかで、そのニックネームが「ニコタマ」だそうだ。これを若い女性でも平気で言うとかだから、昔人間のわたしはおおいに嗤うのである。でも、どうして笑われるのか分らないらしいので、そこことを以前にこのブログに書いた。http://datey.blogspot.jp/2015/04/1078.html

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