2018/01/01

1313【更に・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉浄智寺谷戸に関口邸茶席を創った人守ってきた人未来に伝える人

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その6
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)
その5】のつづき

●関口邸茶席を創った関口泰

 この茶席をつくった関口泰(せきぐち たい 1889~1956)は、朝日新聞論説委員だったジャーナリストであり、評論家として政治や教育論の著作を多く世に問い、加えて旅と山歩きを趣味として随筆や短歌俳句もよくした。
 著作の公刊書も36冊と多く、『民衆の立場より見たる憲法論(1921年)から始まり、『軍備なき誇り(1955年)が最後であった。没後に関口を惜しむ人々や近親者が編集刊行した『関口泰文集(1958年)と『関口泰遺歌文集 空のなごり(1960年)に、主な著作が収録されてその足跡がよく分る。
 この浄智寺谷戸を愛した関口は、『金寶山浄智禅寺(1941年)なる深い歴史考証の著作を出版した。その「後書」に、関口が浄智寺谷戸に居を構えた1930年頃の風景や人物の状況を細かに記している。それらを瞥見して関口のことを記す。 
浄智寺の庭の関口泰 引用元:『空のなごり』1960年
 静岡市に生まれ、東京帝大法科大学を卒業、1914年から19年まで国家公務員、そのあと朝日新聞に入社して論説委員、1939年に退社し、評論家として活躍することになる。リベラルな立ち位置で政治や教育の評論をよくし、政府や自治体の委員なども務める。1950年に初代の横浜市立大学学長となった。
 1930年に北鎌倉の浄智寺谷戸に自邸をつくり、34~5年に自邸の南に茶室や会席などの別邸を設け、また赤城山に別荘を構えていた。鎌倉と赤城から数多くの評論と随想を世に出し、浄智寺谷戸で67年の生涯を閉じて宿痾の苦を脱した。

 碩学の関口の評論について、わたしに論ずる能力も資格もないので、ここでは浄智寺谷戸の茶席について、関口の著述から紹介をしておく。
 この茶席についての紹介文とでもいう随想の「吉野窓由来」は、『山湖随筆』(1940年)と『空のなごり』に収録されており、わたしのウエブページ『北鎌倉の茶席(旧関口邸茶席)』に引用掲載しておいた。
 このなかに関口が山口とベルリンで、吉野窓茶室の話をしたことが書かれているが、二人の最初の出会いはその前に日本であったらしいことを山口文象は語っている。それは山口文象が関東大震災直後からの建築運動を通じて、多くの美術家や文化人たちと交流を持ったので、その頃であろう。

 関口はなぜ茶席を設けたのだろうか。母方の茶道の家系を追ったエッセイ「の家元(『空のなごり』所収))にこう書いている。
私の祖母が山田宗徧の家から出てゐるので、私の母が一時宗徧流の家元の八世を襲ひ、不審庵十一世宗貞を名乗ってゐたことがあった。(中略)わたしはここに機会をえて、宗徧の血統が微かながら残ってゐたことを記録し、私個人としては、道安好みの一畳台目どうこの席で、(中略)十一世不審庵宗貞の霊前に茶を奉ろうと思ふのである
(『軍備なき誇り』1955年 河出新書)
 どうやら、血筋のゆえにやむなくとなり、多くの子どもを育てて茶室も道具も持たずにいた母・操への敬愛、思慕そして供養が根底にあったようだ。

 関口の文章は、「やわらかく話すように出来ていて、それが論理の絲で長くつないであり、長い文章だがそれが分りよく、分りよい文章に得て欠けている髙い気品があった(『空のなごり』の序文)と、朝日新聞社で論説委員の同僚だった笠信太郎が書いている。 
 そこで、関口の単行本をせめて1冊は読もうと、わたしが選んだのが関口最後の著書『軍備なき誇り』である。
 これが出た1955年といえば、戦争が終わって10年目、日本では逆コース、再軍備、ビキニ水爆実験、原子力兵器、憲法改正、吉田長期政権などの言葉が行き交う世相の頃である。国際情勢は朝鮮戦争が休戦になったばかり、東西緊張が高まる中で、ベトナムあたりがきな臭かった。読んでいて、日本と国際情勢の諸課題も複雑さは、その頃から現代になっても不幸にしてよくなっていないようであり、人名と国名を入れ替えると今に通じる有様で、関口の論調が今の朝日新聞調であるのが、なんともはや興味深かった。

●関口邸茶席を設計した山口文象

山口文象 1932年
建築家山口文象(やまぐち ぶんぞう 1902~78 戸籍名は瀧蔵だが蚊象と自称、40歳から文象、55歳で戸籍も文象)は、大工棟梁の次男として東京浅草に生まれた。職工徒弟学校を卒業して清水組に入ったが、建築家をこころざして逓信省営繕課に移り製図工となった。そこで才能をぐんぐん表して認められる。
 関東大震災の後、内務省復興局と日本電力で橋梁やダムのデザインにもかかわった。仲間の若い建築家の卵たちを糾合して、建築運動のリーダーとして建築界で名が知られた存在となり、多くの美術家や文化人との交友を得る。1927年から建築家石本喜久治のもとで、朝日新聞社屋や白木屋百貨店等の設計にたずさわった。
 1930年に幸運な機会を得てシベリヤ鉄道でヨーロッパ遊学の旅に出て、ベルリンで建築家グロピウスに師事し、各地を回って船便で1932年に帰国した。

 1934年に出世作となる日本歯科医学専門学校附属病院を発表して一躍スター建築家となる。1936年には「黒部川第2発電所・小屋ノ平ダム」を発表して、土木と建築の両方の才がある建築家として確固たる地位を築いた。
 しかし、戦争がその行く手を阻み、10年ほど事実上の逼塞の後、1952年から共同設計集団RIA(Research Institute of Architecture)を率いて戦後の再出発をした。それは現在の㈱アール・アイ・エーとして都市建築コンサルタント組織に成長し、これが山口の戦後における最大の作品と言ってよいだろう。

 戦後は何度も大病入院して、組織の長としてはつとめたが、自分で設計する活躍をあまりできなかった。いくつかの珠玉作品のひとつに晩年になって、あの関口邸吉野窓茶室を拡大したような大屋根の寺院「是の字寺海龍院本堂」の設計をしている。ただし、それは木造ではなくてコンクリと鉄であり、丸窓はない。
是の字寺本堂(1971年 愛知県岡崎市) 右は山口文象画内観パース
 関口が「ドイツのバウハウスにゐた新建築家の山口蚊象君とに相談して早速建築をはじめたのである(『吉野窓由来』、ただし山口はバウハウスで学んでいない)と書いているが、茶席が実現した1934年の頃の山口文象は、「洋行帰り」の「国際様式」に通暁した、モダニズムデザインの流行建築家への道を勢いよく登り始めていた。
そのモダン建築家が、なぜ純和風の数寄屋建築の設計をできるのか。茶席の設計を関口から依頼された時のことをこう語っている。
「……茶席もつくりたいというわけですね。「文ちゃんどうだい、茶席もできるかいな」、「いやあ、やってますよ、まっ白い建物ばかしじゃなくて日本建築もやってます、茶席できます」「そう、じゃひとつ頼もうかなあ」……」『住宅建築』1977)
 関口も山口文象の仕事ぶりを知っていて、危惧したのだ。

 だが山口文象は和風には自信満々だ。茶室は京都の現物で研究している。
谷口吉郎や吉田五十八の茶席なんか、わたしは茶席だと思っていませんね。あれは学問的に、非常に厳しい割り出し方からきていて、それが基礎になって先生の茶席になっている。わたしのはそれとはちがう。わたしの親父が大工で、茶席も手がけていましたから、親父の後をついて歩いたりして、ごく自然に感覚的というか触覚的というか、身体で覚えたところがあったと思いますね。とくにプロポーションね。ぼくのは、だから感覚から入って行った茶席だと言えるでしょうね『住宅建築』1977)
 机上で学んだ大学出の有名建築家よりも、出自として身体に滲み込んだ才能があるのだと、いかにも自信に満ち満ちた言葉である。

 流行最先端のモダニズムで売り出した山口だが、実は住宅は和風伝統風も洋風モダン風も設計をした。今は洋風モダン住宅は一軒も残っていないが、この関口邸茶席のほかに2件の和風伝統住宅が現存する。
 関口邸茶席と並んで創建時の姿をもつ和風建築は、新宿区にある小説家の「林芙美子邸(1940年、現・区立林芙美子記念館)で、数寄屋と民家風をつき交ぜた巧みなデザインである。その書斎の北庭に向って、関口邸茶席にある忘筌写しが左右反転して登場する。
 大田区にある「山口文象自邸(1940年)はモダンなプランで、和風ではあるが木太い北陸民家風で数寄屋とは全く異なる。今は原形を若干は保ちながらもかなり改変されているが、実はその改変過程が面白い。
林芙美子邸 1940年       山口文象自邸 1940年

 山口文象は関口邸のころから一気に多作となって話題作を発表し、鎌倉にも関口邸のほかに彼の作品があった。中でも北鎌倉に1935年に建った「山田智三郎邸」は、時代の典型的な最先端モダンデザインであった。北鎌倉にはもうひとつ山口の和風作品「前田青邨邸アトリエ」(1936年)があり、これは現存すると仄聞したことがあるが、どうなのだろうか。
 山口が石本喜久治のもとで仕事していた頃の1929年に担当した、「朝日新聞社社員クラブ」が鎌倉の由比ヶ浜近くに建っていた。1925年頃には数寄屋橋際に建った朝日新聞社屋の設計にも携わっている。そこで当時は論説委員の関口に出会っただろうか。
山田智三郎邸 1935      前田青邨邸アトリエ 1936

 なお、山口文象に関してまとまったものは、ウェブサイト「山口文象+初期RIAアーカイブス」と下記の3冊の本がある。山口に関する資料の一覧はこちらを参照のこと。


●関口邸茶席を建てた大工棟梁山下元靖


 現存する関口邸茶席とその北に隣接する旧関口邸の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖(1896~? やました もとやす)であった。山下については、その自著『工匠談』(1969年、相模書房)の他に情報が無いので、それをもとにここに記す。
 山下は1896年に静岡県の伊豆下田に生まれた。14歳で下田の町棟梁の親方に弟子入りして修業し、その間に蔵前高等工業夜間部で学び、1921年に独立して大工棟梁となり、横浜で町場の大工として仕事をした。
 戦争中と直後は横須賀で軍関係の仕事をしたが、1950年から町棟梁として再出発、主に逗子鎌倉方面で茶室などの数寄屋建築を得意として仕事をし、全日本建築士会理事や神奈川県建築審査会の委員などを務めた。

 本格的な数寄屋造りの建築に取り組んだのは、1931年から2年ほどの東京深川の鰻料理の「大黒屋」の工事だった。その設計者は石本喜久治であり、これを契機に建築家たちの工事をするようになり、また数寄屋建築の研究をしてその方面の仕事を得意とするようになった。
 山口文象は石本事務所で1930年まで日本橋の白木屋百貨店設計をしていたが、「山口氏と私とは、昭和五年以来交流のある間柄でありましたが、『工匠談』とあるから、山下と出会っていたのだろうか。
  
 『工匠談』にはその多くの木造住宅の仕事を語り、大工技法の秘訣などを書いている。その中に「北鎌倉の関口邸の茶室」の章があり、関口邸茶席の吉野窓茶席と離れの2棟について、職人技の自慢話を書いている。
 そこには関口邸茶席を含む合計3棟を工事したとあるが、現存する茶席2棟は山口文象設計だが、他の3棟は山下の設計施工と推測するとは、前述したとおりである。
 1935年の関口邸竣功のときをこう語る。
長い工事も各職方の努力の結果、無事に落成したので、祝賀の園遊会が催されました。その日の来賓はいずれも一流の名士ばかりで、邸内には甘酒やしるこ、それにおでんやすしなどのいろいろの模擬店が設けられ、なかなか盛大なものでした。そして私たち各職方も手伝いに招かれましたが、私どもは餅つきを頼まれたので、私が得意のコネドリをして、大工連中で景気よくついたものです。私の長い大工生活のうちで、こんな盛大な落成祝賀会は初めてのことでありました

●関口邸茶席を受け継ぎ保ち伝える人々

 関口没後からしばらくして(1970年前後か)、建築家の榛澤敏郎さんが別邸の茶室と会席を受け継ぎ、京都から職人たちを呼び寄せて丁寧な修復をほどこし、谷戸と建物を愛でつつ、建築の想を練り図面を画いて過ごされてきたようだ。地域に根差したこの建築家の作品は鎌倉の各所にあり、関根邸茶席を訪ねるために北鎌倉駅に降りると 広場の左右に榛澤建築が迎えてくれる。
 この関口邸茶席が、創建時とほぼ同じ姿かたちで今に伝えられているのは、ひとえに榛澤さんのお陰である。今、榛澤さんの設計になるそのアトリエの和風建築が、控えめに建っている。2017年に榛澤さんはこの谷戸を去り、土地建物とも地主の浄智寺に戻された。
右に榛澤敏郎さん設計のアトリエ

 この記事でのわたしの記述テーマは山口文象の関わりかたを探ることにあり、したがって現在のこれらの建築そのものについてはほとんど触れていない。
 それはその能力がわたしにないことがあるのだが、今のこの建築を語るべき人は榛澤敏郎さんをおいて他にはいないはずだからである。敬服するこの建築家の話をいつか聞いてみたい。

 そしてまた、この谷戸を守ってこられた浄智寺さんにも、関口家のご関係者にも、聞きたいものだ。
 設計図を発見した建築家の小町和義さんにも、山口文象の戦中戦後の弟子として、そして茶室建築の名手として、話を聞きたい。
 
 そして今、浄智寺住職の朝比奈恵温さんは、この茶席を高く評価して朽ちあるいは転ずるのを惜しんで、その英断で保全活用公開へと大きく舵を切られたのである。
 これの南隣の「たからの庭」を運営する「鎌倉古民家バンク」が受け継いで運用することになった。今、大勢のボランティアたちが、2018年春の公開に向けて整備に取り組む。茶席の新たな歴史が始まった。
 美しい浄智寺谷戸には、これを創り、継ぎ、伝える素晴らしい人々がいるのだ。


(あとがき)

 最後に、建築家山口文象とこの記事を書いたわたし(まちもり散人=伊達美徳)との関係を書く。
 山口文象先生は、わたしが60年安保デモ参加がもとで大学から先へ行き暮れていたときに、協同設計アトリエとして主宰するRIAに拾って下さった恩人である。時に出先にカバン持ちでついて行くとか、『建築家山口文象』編集を担当するとかで、山口の身近にいたこともあった。山口晩年作品「町田市郷土資料館(現・市立博物館)の詳細設計図面を描いた思い出がある。
 わたしは建築から都市計画に専門を転向したが、実は出自が建築史なので、日本に西欧モダニズム建築導入時のキイマンのひとりとしての建築家山口文象の追っかけを、山口の生前から仕事兼趣味で続けている。そして前述の山口文象本3冊とウェブアーカイブスを編み書いたのが、山口文象先生のわたしへの遺産である。
 わたしがRIAを離れてフリーランスになったのは、山口文象先生没後11年、わたしを山口先生に押し付けて下さった恩師の建築史家藤岡通夫先生が他界された次の年であった。
 このところ山口文象に関してはもう新情報がでてこないようだし、わたしも終活どきになったので、長年にわたり収集した山口関係資料全部をRIAの山口文象資料庫に納めてしまった。それでもう山口追っかけ卒業のはずが、2017年10月に山口の愛弟子小町和義氏から関口邸茶席設計図発見の知らせ、そこに偶然にも同茶席保全公開の準備中と聞いた。さっそく現地訪問し、RIAで資料再調査、図書館で関口泰と山下元靖について調べ、ここに駄文を連ねた。個人的趣味で書いたが、何かの役に立てばうれしい。
(完 2018/01/01)

(追記2018/01/14)
関口氏茶席は2018年4月から、
新名称宝庵(ほうあん)となって公開される。
https://www.houan1934.com/
https://www.houan1934.com/access

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