2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭


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