●大工棟梁山下元靖の回顧譚
この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖であり、『工匠談』(1969年 相模書房刊)という本を出して、自分のいろいろの仕事を語っているが、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口から設計を依頼され、山下と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。
山下はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、数寄屋会席については何も述べず、吉野窓茶室と離れの工事についての自慢話をしているのが興味深い。
その吉野窓茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
「窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。 それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、 つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、 掃き出しも兼用できるようにしました」(『工匠談』) |
方形屋根のてっぺんにかぶせる陶器の甕について、山下はこう語る。
「茶室の屋根は方形で葺き仕舞いの棟には、直径二尺の摺り鉢を使うことにし、わざわざ三州へ注文してのせましたが、それをみて施主もたいへん喜んでくれました」(『工匠談』1969年)。
ところが関口は、「鎌倉の骨董屋で購って来た二百年前のすり鉢の朱色もよく映って来た」(「吉野窓由来」1940年)と書いているから、どちらが正しいのだろうか。
現在の吉野窓茶室の頂点に乗っている甕について、山口文象が言っている。
「丸窓のほうの屋根に瓶がのっかっていますが、いまのやつはわたしがのせたのとはちがうんです。もっと大きかった。あれはいまあの茶席の足元にころがっている摺り鉢なんです。プロポーションからいって、いまのは小さい」(「住宅建築」1977)。
それで先日の見学の時に床下を覗き込んだら、大きな鉢がひとつ転がっていたから、これが元の擂鉢かもしれない。破損して取り替えたのだろうか、それは榛澤敏郎さんに訊かないと分らない。
吉野窓茶室 北面 2017/12/13撮影DATEY |
吉野窓茶室東面 右は数寄屋会席の南面 |
●現代の茅葺屋根の維持は
吉野窓茶室は茅葺である。その大きな三角屋根と大きな丸窓が対になっているところに面白さがある。
上にあげた平面図を見ると、吉野窓茶席の床面積は3坪弱だが、屋根の投影面積は8坪余り、そのうち土庇が6坪もある。更に下の断面図を見ると、方形茅葺屋根の頂上までは地面から14尺4寸、軒高6尺にたいして2倍以上ある。
全体に対してそれほども屋根が大きい。
吉野窓茶室断面図 |
今どきは茅葺屋根の維持が、なかなか難しそうである。現状を見ると、さしあたって挿し茅による修復が必要なようだ。
棟梁の山下もこれを建てる時に、「その頃、草ぶき屋根の葺ける専門の屋根職人は、北鎌倉の辺には六〇歳になる老人が一人しか残っていませんでした」(『工匠談』)と語っているが、現代はどうなのだろうか。
北鎌倉には、浄智寺の書院と茶室、明月院の開山堂、東慶寺の山門と鐘楼、円覚寺の選佛場、長寿寺山門と観音同など寺院に茅葺が多いが、明月院門脇や巨福呂坂の手前など、いくつかの茅葺民家もある。
茅葺屋根の傷みは瓦葺とは比較にならない速さである。それらの維持修理はどうしているのだろうか。
浄智寺書院は茅葺 2017/12/13撮影DATEY |
明月院門前の茅葺民家 2017/12/13撮影DATEY |
明月院開山堂は茅葺 2017/12/13撮影DATEY |
明月院方丈にも吉野窓がある 2017/12/13撮影DATEY |
集落住民に茅葺職人が居たのでその技術と指導で見事に葺きあがった。茅、稲藁、杉皮、篠竹、真竹などの、野山田畑の資源をとことん活用する技術に感心したものだ。
前の年の茅刈りから始めて完成まで1年間かかった。その手伝いの労働は面白くもあり、また結構きついものだった。
(参照:中越山村で茅葺屋根の小屋をつくる)
法末集落赤渋の湯 茅葺工事 2008撮影DATEY |
なお、山村では耕作放棄した田畑に茅や篠竹がどんどん育っているので、茅葺き屋根材料不足はないが、刈り取る作業が大仕事である。
関連ページ参照
【その1】
【その2】
【その3】
・山口文象アーカイブス「北鎌倉の茶席」
0 件のコメント:
コメントを投稿