あのなあ、それっておかしいよ、新聞に新聞自身の広告を載せるのなら、その分の新聞購読料を負けなさいよ。
それもたまになら許せるが、最近しょっちゅう朝夕刊ともにその広告が載る。
ほかにいっぱい広告があるのを我慢しているのは、その広告の掲載料収入でで新聞社の経営をしてるのだからと思っているからだよ。
それがあんたのところの広告が2面も占めてるは、その分、広告料が入らなくても経営できるんだってことでしょ。
ならば購読料をその分だけ引きなさいよ。
さらに気に入らないのは、どう見ても広告そのものであるのに、「全面広告」って記載をどこにもしないで、一般記事を偽装していることだ。
一般記事だから購読料の対象だって言いたいんだろうが、そりゃおかしいよ。
さて、新聞がデジタル化して、紙でなくなるって時代はすぐ来るだろう。新聞が紙であったことが忘れられるだろうから、今のうちにそのことを書いておこう。
昔々、新聞がまだ紙だった頃のことだとさ。
新聞は、弁当の包装紙だった。うん、結構保温能力があるので便利だったし、弁当を食べるときに読んだものだ。
新聞は、畳の下に敷く湿気防止用紙だった。大掃除の時に畳をあげてそとに干すのだが、つい古新聞を読んでて怒られるのであった。
新聞は、八百屋の包装紙だった。野菜の大きさに対応して、いろいろに包んで売ってくれたもんだ。
新聞は、便所の尻拭き紙(トイレットペーパーの正式名称)だった。家庭の大便所の中には、きれいに切りそろえた新聞紙が重ねてあったもんだ。あのころ日本人は肌が丈夫だったんだなあ。
新聞は、保温材だった。大学山岳部のころ、雪山でのテントの中で寒さに対抗するには、ヤッケの下に新聞を着ると暖かいのだ。動くとガサガサやかましかった。
新聞は、蠅たたきだった。丸めてバシンと打つ。あ、いまでもゴキブリにそうやってるな。
新聞は、飛行機だった。大きな折り紙飛行機を、2階の窓から外にふわふわと飛ばしたものだった。そういえば、折り紙の兜も新聞の大きさだからできた。
新聞は、薪を燃す焚きつけだった。風呂も焚火でも野営場の炊事でも、薪に火をつけるには新聞紙を軽く丸めて下のほうにおいて火をつけるのである。これは今もそうだろう。
デジタル化するとこれらの使い方は出来なくなるのが寂しいが、でも、もうどれも過去のことばかりになっている。
今じゃあ新聞紙を毎月のゴミにして出している有様だ。
デジタル化すると、寝ころんで読むのは、まあ、携帯型あれやこれや電子機器でできるから紙新聞と大差はないだろう。
寝ころんで天井に投影して読むと、手がつかれないだろうなあ、そういうのあるかしら。
今にわたしもそうするときがくるだろうが、まだしばらくは紙で過ごそう。
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