2013/02/17

722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もひっくるめて犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる

 東日本大震災以来、妙に気になる言葉がある。「犠牲者」である。
 津波に襲われた死者も、テロで人質にされて殺害された死者も、通り魔に刺された死者も、いずれも犠牲者とマスメディアは書く。
 あるいは、これはずっと昔からのことだが、戦争の犠牲者とよくいう。
 ずっとなんだか引っかかっている。死んだ者は誰でも「犠牲」者なのか。

 そもそも「犠牲」とは、なにかとなにかがバーター関係であることがまず前提にあるはずだ。
 Aが有利になるためにBが不利になるのだが、このときBはAの立場を肯定して、やむを得ず、あるいは積極的に自分の立場を選んだ場合に、BはAのために「犠牲」になったというはずだ。

 スポーツの野球に「犠牲打」というプレイがある。
 あちこちの解説を簡単にまとめると「打者はその打撃でアウト(犠牲)となるが、それによって塁上にいる他の走者が進塁し得る打撃を指す」とある。自分はアウトになるのに味方チームの得点へのアクセスを容易になるように導く行為である。

 古典的には、牛などの生き物を神にささげて(生贄)、神の恩寵を得ようとする行為である。
 このとき牛は犠牲になる。もっとも、このとき牛は肯定していないだろうが、それを提供した飼い主が肯定していることになる。

 さて、津波に襲われた「犠牲者」は、何とバーター関係にあるのだろうか。
 津波は天然事象だから、それ自体は何かの目的をもっていはいないから、バーターは成立しない。
 ただし、こういう例では犠牲である。たとえば消防団の人で他人の避難を助けるための活動で、自分が避難に間に合わずにやむを得ずに落命した人である。他の人の命とバーター関係になっている。
 だれもかれも津波の犠牲者として言うのは、どうも引っかかる。

 同様に犯罪による死者は、何とバーターなのか。テロリストのいう目的とのバーターとか、アホバカ通り魔の言う理由とのバーターは成立しないことは明らかだろう。
 戦争の犠牲者という言葉も、どうも抵抗がある。戦争という行為を肯定しているからこそ戦死者を犠牲者というのだろうと、わたしには思えてくるのである。
 フィリピンの山中で非業の戦死をしたわたしの叔父は、あの悲惨な戦いを肯定してはいないだろう。ましてや遺族においておや。

 考えてみるに、近頃はどうも、いわゆる「非業の死者」はすべて「犠牲者」というようになったらしい。
 非業を非難しているつもりかもしれない。しかし、非業と死とはバーターにならないのだ。
 死者を悼むつもりでこの言葉を使うとすれば、使い方を間違っている。
 言葉は世につれて変ることは承知しているが、それにしても、「死者」と「犠牲者」はもっと慎重に使われるべき言葉であると、わたしは思う。

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