京都の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。
その方丈は、江戸時代の初め頃、天皇の姫君の御殿を移築したものと伝えられる。
そこには狩野光信が描いた襖絵があることで有名である。その絵は今では国指定の重要文化財になっている。
昔は、いまのように家を建て替える時には壊してゴミにするのではなくて、どこかに移築して再利用するのが当たり前であった。木造建築はそうすることが普通にできるのである。
特に京都では天皇や貴族の御殿のような格式のある建物は、寺院や神社などが下賜してもらって、そんじょそこらの建物じゃないよ、御所の建物だったんだよって、権威の箔をつけたのだった。
あちこちにそのような言い伝えや文書がある建物がある。中には偽物もある。
法然院の方丈のことは、法然院の公式サイトの歴史のページにこう書いてある。
「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている」
つまり法然院では、16世紀末に建てた後西天皇のお姫様の御殿を、17世紀の終わり近くに貰い受けて、この方丈にしたというのである。
この記述は不自然なところがある。後西天皇1638年生まれだから、皇女の御殿ができたとする1595年にはこの世にまだいない。もちろん、皇女もいないはずだ。居ない皇女の御殿とは?
ではこの古屋敷を、後に皇女の御殿に転用したのだろうか。まさか天皇の娘が古家に住むなんて、そんなことはありえない。
では、もう一人の登場人物の狩野光信はどうか、光信は1608年に没しているから、その建物が建ったという16世紀末には活躍していた。その建物の襖絵を描いたとすれば、そこはタイミングとしては筋が通る。
しかし、御殿の建物(法然院方丈)を天皇と皇女の年代17世紀半ばに合わせると、狩野光信が既にこの世に存在しないことになる。襖絵は生れないことになるなあ。
この方丈には重要文化財となっている狩野光信の襖絵があるのだから、彼が居なくては困る。しかし一方、皇女の御殿を下賜してもらったという格式も大切である。これは困った。あちら立てればこちらが立たずである。
京の名刹に大きな謎が生れた。
これが「京の名刹重文襖絵の謎」物語の始まりである。わたしはこの謎解きに挑もうとしているのだ。
と言っても、わたしは襖絵の専門家ではない。だが、実をいえば半世紀あまりも昔に、わたしはこの方丈の建築の調査をして、それを大学卒業研究論文(の一部)にして、なんとか卒業できたのだ。
ただいま終活身辺整理中で、その卒論「遺構による近世公家住宅の研究」(なんとまあ、ごたいそうな題名だこと!)を引っ張り出して、ホコリを払いつつ処分を思案しているところだ。
でもせっかくだから、その論文で試みた謎解きを、ここで紹介しておきたくなった。未練があるのだなあ。
もちろん論文のままでは無味乾燥なので、多少は面白おかしく脚色を加えるのである。
この続きは、明日のお楽しみ。(つづく)
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