昔々に自分が書いた文章のある冊子を、ふたつ発掘した。これも終活の一環である。
ひとつは、55年ぶりにみる大学卒業研究論文であり、もうひとつは64年ぶりにみる中学校クラス文集である。
懐かしいと思わなくもないが、中身を読むとなんとも不思議な感じで、その中にある文章の書き手のわたしは、いまここにいるわたしと同じ人間とは思えないのである。とくに大学の卒研のほうにその傾向が強い。
まずは中学校のクラス文集のことである。こちらの方を、大学論文よりもむしろよく覚えているのが、おかしい。
昭和27年(1952年)12月24日発行、編集人は高梁中学校3年5組新聞部とあり、66ページのホッチキス止め、手書きガリ版刷りの冊子である。
冊子の名前は『鳩舎』である。
記憶にはあるのだが、あれからなんども引っ越しをしたのに、まさか自分の家の本棚から出てくるとは思わなかった。
ひょっこりと本棚の奥から出てきたのは、たぶん、家を出たときから持っていたのではなく、10数年前に亡くなった母の遺品の中にあったのを見つけて、そのときから持っていたのだろう。
卒業写真アルバム、卒業証書、学業成績表も一緒にあるから、母が保管していたいたにちがいない。
アルバムを見るとそのクラスの人数は51人、担任教師の小野八重子先生は、たぶん新卒で初めての赴任だったような気がする。一学年が5クラスあったから、それなりに大勢の中学校だったことになる。
その頃は「新制中学」といっていたものだ。戦後の学制改革で、それまであった中学校は新制の高等学校になり、新制度の中学校が生れたばかりの頃の中学生だった。
街にはこの新制中学校と旧中学校から変わった新制高校の両方があったから、その頃の大人は用事で中学校へ行くとて旧制中学校だった高校へ行って、そこで初めて間違いに気が付くことをよくやっていたものだった。
旧制中学が移行した新制の高校と違って新制中学は新設だったから、1年生の時は校舎の建設が間に合わなくて、小学校に間借りをしていた。
新校舎ができても教室数が足りなくて、大学の様に教科ごとに教室を生徒が移動したのだった。まだ戦後のドサクサ時代だった。今では、この場所に中学校はなくて、他に引っ越したようだ。
この3年5組の小野先生は、生徒たちからおおいに慕われた人だった。まだご健在なので、いまでも訪ねて行く当時の生徒がいるほどである。わたしもこの先生には憧れたものだ。
文集『鳩舎』は、小野先生の情操教育の賜物のひとつだろう。そういえば「山びこ学校」は、あのころのことだったから、先生もそれを意識していたのだろうか。
15歳の少年少女たちの、文章が盛りだくさん載っている。小説もあれば詩もあり論文もあり、日記もある。幼い物言いもあれば、ヘンに気負っているやつもある。
わたしは、この冊子を作る時の担当の一人だったので、よく覚えている。男女仲間7人で、ガリ切りから印刷製本までやった。最後の時は徹夜もやったと、あとがきに書いてある。そうだったような覚えもあるような気がする。
わたしが書いた2編の「随想」が載っているので、ここに転載する。
「あまのじゃく」
僕は普通よりも違ったことを考えるのが好きだ。また逆の事を考えることも。右と言えば左と、左と言えば右、たてといえば横、上といえば下と全く逆に考えてみることも楽しいものだ。又、普通のことを肯定して今度はその一歩上のことを考えるのも楽しい。この考えることは大きな価値があると思う。異なる事を考えるということは進歩をもたらすことになろう。このことにより何んらかの新らしい道を発見できることもあると思う。しかし、いたずらに考えるだけではならない。
「瞬間」
僕はある一瞬をたっとぶ。時計の振り子の止まる時、一枚残った柿の葉が落ちる瞬間、勿論、自然にである。めったにその瞬間は見つけだせない。又それだからこそ尊ぶ。知っていてもとらえにくい時だ。化学実験など瞬間をみなければならない時がある。そのような時はなおさら瞬間に価値がある。
・生はこの永遠の間に於ける一瞬時なり――――カーライル
常識的なことを、いかにも気取って書いているのがおかしい。最後の警句なんぞ、どこから取ってきたのだろうか。
ところでこの文集は第1号とあるので、その後に第2号をつくったのだろうか。記憶がない。
なんにしても、遠い遠い日となってしまった。こうやって、昔々を懐かしむようになっては、おれもおしまいだよなあ。
(追記20150205)これを読んだ当時の仲間のひとりから連絡をもらった。『鳩舎第2号』は出されているとのことであった。次の年の4月4日発行で、中学校卒業記念文集になっているとのこと。
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