こうやって見て、法然院方丈の襖絵には、柱の移動のために仕立て直したことが明瞭に分かった。では襖に移動した跡があれば、建物にもそれらしい跡があるはずだ。
上之間のD柱が、横に4分の1間(約50センチ)ずれる前のEの位置、つまり桐の図の継ぎ目あたりの敷居、鴨居、内法長押、天井長押などを、上から下までしげしげと観察する。
あった、見つけた。一番上の天井長押のEの位置に、かつて柱がついていた痕跡があるのだ。天井長押はもとの材を使っているのだ。
こうして襖と長押に同じ位置(E)に痕跡があるということは、建物と襖絵とは同時に移築してきて、どちらも仕立て直したと考えて間違いない。
では、方丈の次の間につづく、食い違いになった田の字型の4室はどうなのか(その図はこれ)。上の間、次の間とくらべて、作り方のレベルが低く、襖絵は墨絵である。御殿の絵図にはこれにぴったりとある場所は見つからない。
この部分の実測もしたのだが、柱の太さ寸法とその面取寸法が、襖絵のある中心部と同じであった。柱の寸法は、当時の御所建築の基本的となる尺度であり、同じ建物なら同じ寸法であるから、こちらも姫宮御殿の材を使って建てたと考えてよいだろう。
これで建物と襖絵の出自は、明確になった。
延宝度の造営時に、指図から設計変更して柱の位置をずらしたのではなくて、法然院に移築時にずらしたのであった。移築時にずらせてくれたおかげで、建物と襖絵が同時に移築されたと分かり、襖絵の描かれた時点もわかった。
整理すると、1675年に後西院御所に建てた姫宮御殿を、1685年に後西院が没し、1686年に八百姫が没した後に、法然院の方丈として移築したのである。
移築の年は、法然院では1687年としている。襖絵もその時に一緒の移築された。
さて、ここからがいよいよ「襖絵の謎」の核心部分である。
この建物と襖とは、1675年に後西院御所を再建したときに建てた姫宮御所であるあるから、襖絵もその時に描かれた。ではその画家は誰なのか。
法然院に移築された姫宮御殿が建った1675年の仙洞御所の延宝度造営に関する資料に、その造営の助役にあたった岡山池田藩に伝わる文書(「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」岡山大学図書館池田文庫蔵)がある。池田家はこの造営の深くかかわっていたのだ。
その文書の中の「絵筆功代」に、これに携わった絵師として永真、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されている。これ以上詳しい記述はない。
ひとりめの永真とは狩野安信(1613-1685)で、光信(1565-1608)の甥である。光信は徳川家御用絵師狩野派の家系で狩野宗家の5代目にあたる。永真は光信の子の定信の養子になって、狩野宗家を継いだから、光信から言えば義理の孫にもあたる。
ふたりめの洞雲とは狩野益信(1625-1694)で、光信の弟の孝信の孫にあたり、駿河台狩野家を起した人である。
3人目の右京とは、狩野時信(1642-1678)のことで、狩野安信の子である。
そして4人目の内匠とは、狩野家の門人筋のひとつである築地小田原町狩野家の狩野秀信で柳雪と称した。
これらのうちの誰かが姫宮御殿の襖絵を描いたことになる。
狩野派系図 |
ところが21世紀の現在、この襖絵は狩野光信の作とされている。
だが光信は1608年に没したから、この姫宮御殿が最初に建った、つまり襖絵が最初に描かれた1675年には、この世にいない。
では光信がこの襖絵の作者でないとすれば、だれか。
上にあげた4人のうちに、右京と称した狩野時信がいる。実は時信より2代前の狩野光信が右京と称していた。後生になって混同を避けるために、光信を古右京というようになる。
ということは、この襖絵の作者右京時信を単に右京と伝えているうちに、右京光信と混同してしまったのかもしれない。
もちろん推測の域を出ないが、この世にいなかった光信よりも、そのとき62歳であった時信の方が、矛盾がない。
ここから先は、障壁画の鑑定のできる専門家に見てもらわないと、わたしにはまったく分らない。これまでこの襖絵が狩野光信作とされてきているのは、専門家が鑑定して、他の光信の作品と同じような筆致があるからそうしたのであろう。建築史と美術史は別ものらしい。
ということで、わたしの1960年の卒業研究論文の一部をもとにした古建築探偵エッセイの連載はおしまいである。大学時代の昔へ、更に17世紀の京都へとタイムマシーンにのって旅してきたが、また21世紀に戻った。
謎は完全に解明されはしなかった。
襖絵がつぎはぎになった原因は、移築の時に柱位置を移動したからである。それに合わせて仕立て直した襖は、どうも無様になったことは否めない。
では、なぜ柱を移動したのか、これも推測の域を出ないが、次の間とそろえたかったのかもしれない。しかし次の間を変えずに、格が上位にある上の間のほうを、襖絵が無様になっても変えたのは、何故だろうか。
建築技術的にはどうにでもなるから、なにか家相とか呪術的なことがあったのだろうか、それは謎のままである。
ふたたび法然院公式サイトhttp://www.honen-in.jp/の歴史のページ覗く。
『1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている』
「伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)」とは、後西天皇も皇女もどちらも生まれる前に建った御殿があったことになる。
1961年以後の研究による知見であろうが、実に興味深く、ぜひとも詳しく知りたいものである。
21世紀法然院方丈上の間と17世紀仙洞御所姫宮御殿を2秒間で旅する (この写真はインタネットから拾った複数の画像を加工合成して作成した) |
なお、この襖絵が光信の作であろうと時信の作であろうと、重要文化財指定になるほどの重要な美術品であることを、わたしは否定するものではない。
また、当初の襖絵を移築の際にきりばりつぎはぎしたので、今の襖絵は不自然であることをもって、復元するべきと思っているのでもない。つぎはぎから330年近くになることもまた重要な文化史である。
東京駅の赤レンガ駅舎のように、当初形態への復元こそが正しい歴史文化の継承であるとする現今の文化財感には、わたしは大いに疑問を持っている。(完)
(追記2015/03/08)
2015年3月7日にTVのBSフジで「法然院と知恩院」なる番組をやっていたので、法然院方丈のことがどう出てくるか見た。
そのナレーションで、この方丈は伏見城の御殿を移築してきたという。
(参照「法然院と知恩院」の一部学術コピー動画http://youtu.be/dylj3hOXNSs)
法然院の公式サイトには「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである」と書いてある、
「もと伏見にあった」とは、そういう意味なのか。電網検索したら、そんなことを書いてあるサイトも見つかった。 伏見城のことをwikipediaで読んでみた。
法然院のサイトに書いてあるように1595年の伏見城の建物とすれば、秀吉が造った指月伏見城の御殿のことになる。
しかし、その伏見城は御殿門も天守も慶長伏見地震で壊れてしまった。でも焼けなかったそうだ。そのあとは伏見城は木幡山に移転した。
もしかしてその地震で御殿は壊れなかったか、壊れても部材を再利用して、木幡山伏見城に移築したのかもしれない。
その伏見城が1619年に廃城となり、その建物があちこちに移築された記録があり遺構もある。
ということは、それを1675年に後西院御所造営時に皇女の御殿として移築し、さらにそれを1687年に法然院の方丈に移築したということになるのだろうか。
う~む、後西天皇のお姫様は、地震で倒れた80年も前の家を移築した建物を、また御所に2度目の移築をしてきたボロ家、いや、エコハウスに住んでいたのか。ほんとかしら。
◆資料
「法然院方丈について」(平井聖、伊達美徳 1961年建築学会関東支部研究発表梗概集)
「遺構による近世公家住宅の研究」(伊達美徳 1960年度東京工業大学理工学部卒業研究論文)
◆参考資料
「法然院公式サイト」http://www.honen-in.jp/
「狩野派絵画史」(武田恒夫 吉川弘文館 1995年)
「別冊太陽 狩野派決定版」(山下祐二ほか 平凡社 2004年)
「国宝・重要文化財大全2 絵画下巻)」(毎日新聞社 1999年)
「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況―」(細谷理恵・浜中邦弘 同志社大学歴史資料館館報第13号
BSフジTV「法然院と知恩院」
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