謎解きは佳境に入ろうとしている。
法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを移築したものらしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本だけ柱の位置が、横にずれている。
そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。
現在の法然院方丈 上之間「桐ニ竹図」襖絵(ネットから拾った複数の画像を修正合成) |
ローマ字の記号は、平面図と同じ位置にふってある。つまり、Dは現在の方丈の柱の位置であり、Eは院御所の姫宮御殿のときの柱の位置である
右(D-F間)の2枚の襖の桐の図の内、左の襖のEの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左のD柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱Eの位置にあたる。
その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張りとか、描き足したした感じである。
では、上之間の柱Dを、移築前のようにEの位置に戻したら、襖絵はどうなるか復元してみることにした。コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
D-F間の桐の図の襖は、D柱が0.25間右に寄ってEの位置にきて、その幅は1.25間となり、襖はこれを真半分にした2枚に、画像の上で仕立て直す。
D-E間の絵を切りとり、残りの幅の襖絵をツギハギして1枚にして、これを縦に真半分に切って、2枚の同幅の襖に分けて貼りつける。
このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。
次は柱Dの左の一間巾の竹の図の襖である。現在はC-D間2枚の襖として入っている。Dの柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
D柱をEに寄せて、左右共に1.25間の襖にしたら、左の竹の図の中央が空白になった |
現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。
では、竹の図で切りとれたほうは、どんな絵だったのか。それは、現在の図からおおよその想像はつく。岩の根元あたりに群生する竹の根元あたりを描けばよいだろう。しかし存在しない絵を復元するのは不可能だ。
そこをわたしはいつもの「戯造」の手練手管で誤魔化して、一応それらしく偽造したのである。
こうして「桐ニ竹図」を復元したのだが、まあまあ贔屓目に見れば、現在の方丈の絵柄よりも、この復元贋作襖絵のほうがよろしいようですが、いかがですか。
E柱から左の竹の図の空白部分を適当に描いて、オリジナル襖絵を「戯造」してみた |
こんどは復元とは逆に、かつての後西院御所の姫御殿にあった「桐ニ竹図」襖を、法然院方丈に移築する際に、どのように襖絵を仕立て直したか、その過程をgif animationで見てください。330年前の絵師の仕事を、たったの10秒で再現。
法然院方丈「桐ニ竹図」襖を、330年前のオリジナルから、現状へと仕立て直す過程 |
まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、オリジナル襖絵を復元してみたのである。このページ最上段の現況の襖絵と比較して見てほしい。
法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に復元
(さすがにカラーではごまかすのが難しくて、竹の図の偽造部分のできが悪い)
|
0 件のコメント:
コメントを投稿