2015/02/15

1058【京の名刹重文襖絵の謎】(4)今見る狩野光信作「桐に竹図」は330年前には違う姿でお姫様の部屋にあったのだ

【京の名刹重文襖絵の謎】(3)からつづき

 謎解きは佳境に入ろうとしている。
 法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを移築したものらしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本だけ柱の位置が、横にずれている。
 そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。
現在の法然院方丈 上之間「桐ニ竹図」襖絵(ネットから拾った複数の画像を修正合成)

次のモノクロ画像は、卒業研究の現地実測調査の時に撮った写真とそのほかの文献をもとにして、上之間の「竹ニ桐図」の全部を合成、修正、切り貼りして、わたしが作った。現在の「桐ニ竹図」の襖はこのように入っているのだ。
 ローマ字の記号は、平面図と同じ位置にふってある。つまり、は現在の方丈の柱の位置であり、は院御所の姫宮御殿のときの柱の位置である

 右(D-F間)の2枚の襖の桐の図の内、左の襖のの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左の柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱の位置にあたる。
 その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張りとか、描き足したした感じである。

 では、上之間の柱を、移築前のようにの位置に戻したら、襖絵はどうなるか復元してみることにした。コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
 D-F間の桐の図の襖は、柱が0.25間右に寄っての位置にきて、その幅は1.25間となり、襖はこれを真半分にした2枚に、画像の上で仕立て直す。
 D-E間の絵を切りとり、残りの幅の襖絵をツギハギして1枚にして、これを縦に真半分に切って、2枚の同幅の襖に分けて貼りつける。
 このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。
 
 次は柱の左の一間巾の竹の図の襖である。現在はC-D間2枚の襖として入っている。の柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
D柱をEに寄せて、左右共に1.25間の襖にしたら、左の竹の図の中央が空白になった
桐の図では、いまある図を切り取ればよかったが、こちらでは今は存在しない絵を復元しなければならない。
 現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。

 では、竹の図で切りとれたほうは、どんな絵だったのか。それは、現在の図からおおよその想像はつく。岩の根元あたりに群生する竹の根元あたりを描けばよいだろう。しかし存在しない絵を復元するのは不可能だ。
 そこをわたしはいつもの「戯造」の手練手管で誤魔化して、一応それらしく偽造したのである。
 こうして「桐ニ竹図」を復元したのだが、まあまあ贔屓目に見れば、現在の方丈の絵柄よりも、この復元贋作襖絵のほうがよろしいようですが、いかがですか。
E柱から左の竹の図の空白部分を適当に描いて、オリジナル襖絵を「戯造」してみた
もうひとつ「戯造」画像をお見せしましょう。
 こんどは復元とは逆に、かつての後西院御所の姫御殿にあった「桐ニ竹図」襖を、法然院方丈に移築する際に、どのように襖絵を仕立て直したか、その過程をgif animationで見てください。330年前の絵師の仕事を、たったの10秒で再現。
法然院方丈「桐ニ竹図」襖を、330年前のオリジナルから、現状へと仕立て直す過程

 まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、オリジナル襖絵を復元してみたのである。このページ最上段の現況の襖絵と比較して見てほしい。
法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に復元
さすがにカラーではごまかすのが難しくて、竹の図の偽造部分のできが悪い)
そしてまた、この襖のあたりで次の謎解きのヒントを発見したのだ。(つづく)

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