2015/02/13

1057【京の名刹重文襖絵の謎】(3)八百姫御殿の古絵図面と今の法然院方丈の平面図はそっくりなのだが、

【京の名刹重文襖絵の謎】(2)からつづき

 この1674年の姫宮御殿の設計図(指図)平面図と、現存の法然院方丈の平面図(1960年にわたしが実測して作った)とを比較してみよう。
 はたして似てるところがあるだろうか、どのように移築して現在のようになったのか。全く似ていなければ前提条件から崩れてしまう。

 現代の法然院方丈(以下「方丈」という)の中心部は上の間であり、10畳の広さに床の間と違い棚があって、襖や床棚の壁には絵が描かれている。実に立派な作りである。
 襖を隔ててその隣りには10畳の次の間があり、ここにも襖絵がある。
法然院方丈上の間 (ネットで拾った複数画像を合成修正)
延宝度の姫宮御殿(以下「御殿」という)の指図に、「姫御殿 四間 六間」と記入のあるあたりが、10畳の間であり、床の間と違い棚があるから、ここが八百姫の部屋であろう。
 現代の方丈の上の間と同じである。隣には、現代の次の間に相当する10畳の部屋もある。
 その両側には広縁があって、これも現代の方丈と同じである。このあたりにちがいない。近づいてきたぞ。

 方丈の中心部と御殿の中心部を白抜きにして示し、柱位置に記号を付けた。


この白抜きの部分は、方丈と御殿とはほとんどぴったりと符合する。つまり、方丈は御殿の南北についていた差出と西側(床の間裏)の広縁を取り払ったものである。
 実測の時に発見して確かめたことだが、現在の方丈の畳縁外側の落縁の柱には、かつて指出の木材が差し込んであったことを示す穴に埋木をしてある跡がたくさんある。つまり移築前は縁よりも外に建物がくっついていたことを示している。
 
 上の間と次の間の柱位置は、御殿のそれとほとんど一致するのだが、実は2本だけ異なる位置にある柱がある。普通に考えると同じ位置にあるはずの、方丈のD柱と御殿のE柱、そして方丈のS柱と御殿のT柱である。
 方丈では、D柱はC柱から1間、F柱から1.5間の位置に立っている。ところが、御殿ではこれに相当するE柱が、C柱から1.25間、F柱からも1.25間の位置にある。すなわちCとFのちょうど中間にある。
 御殿のT柱についても、方丈ではR柱方向に御殿よりも0.25間(約50センチ)ずれて、Sの位置に立っている。
 つまり方丈のDとSの2本の柱は、御殿の設計図のそれぞれEとTの位置から次の間の方向へ0.25間ずれて立っているのだ。

 ええい、めんどうだ、ゴチャゴチャ言うより、インタネットの強みでgif animationにしてお見せする。一目瞭然、赤矢印の2本の柱が、移築で左にずれたことがお分かる。

 これはどういうことだろうか。移築のあたって、なにかの理由で0.25間だけC柱側、R柱側に寄せたのか。どんな理由だろうか。
 あるいは、御殿が設計変更してこうなったのか。
 例えば、この御殿の主となる八百姫は当時20歳、その前に居た寛文度造営の姫宮御殿が焼けて、新しく建てなおすのだから、当事者としてなにか注文つけたかもしれない。
 『前の御殿は畳の線と柱の位置がずれていて、なんだか気持ちわるかったのよ、今度はちゃんとしてたもれ、のお主水よ』。主水とは、作事奉行の中井主水である。

 いやいや、移築してきたのは実は御殿じゃなくて別の建物だったかもしれないとの、疑惑も湧き出るだろうなあ。
 では現地で見ればなにか分るかもしれない。そこで現地実測調査(1960年)の時の観察や写真が役に立ってくる。
 思い出せばあの夏、研究チームは京都の旅館に泊まって、毎日あちこちのお寺に出かけて、御所から移築されたという建物を実測したものだった。祇園祭の山鉾行列もその時初めて見たなあ、見物客の中に美少女がいたなあ、寺で昼寝したなあ、ああ青春の夏のこと、なんて感傷に浸っていては謎解きが進まない。閑話休題。

 部屋の中の写真をみよう。
法然院方丈上之間襖絵 (撮影:平井聖氏 1960年)
これは実測調査したときに撮った方丈の上の間で、右が床と違い棚があり、左の方には次の間がある。
 正面に見えるのは狩野光信作とされる「桐の図」の襖絵である。
 写真の上下に記入したローマ字は、平面図の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。

 ここで襖絵にご注意を!、襖絵のEにあたる位置に、縦に線が入っており、その右と左とでは、なんだか絵の濃さも調子も違うことに気が付くのだ。右の襖にも何本かの縦線が見えるが、なかでも一番左の線が目立つ。
 襖絵は最初に描いたときからこうだったのか。これは何かを物語っているぞ、謎解きの楽しみが始まったぞ。(つづく)


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