新潟ブランド米の「魚沼産コシヒカリ」が旧魚沼郡地域産の米に名づけられるのだが、わたしのコシヒカリはその地域にすぐ隣接する山里で採れるのだ。名乗ることはできないが、事実上は魚沼産と変らない。
10年前にその米に出会ったのは、その前の年の2004年10月に中越大震災があって、わたしが所属していたNPOが復興支援で、その被災山里に入り込んだことからである。復興支援のひとつと思って、集落の営農組合から買い求めて10年となった。
じつは、この米の飯に慣れてしまったわたしの舌は、外食で美味い飯を食うことをあきらめさせた。入院した病院の飯が不味くて、パンに代えてもらったこともある。
中越震災復興というと山古志村ばかりが有名だが、あのあたりの山里はどこも山古志のような状態だった。
わたしたちのNPOが入り込んだのは、そのような被災地山里のひとつである長岡市小国町法末集落である。
平地はほとんどない傾斜地ばかりの集落、森林と棚田と伝統茅葺民家群が織りなす風景は、日本の山里の原型を想わせる。
地震で山林は崩れ、田畑は割れ、家屋は傾き、道路は壊れた。中越大地震のときの集落民119人・53戸の全世帯が麓の町に避難した。避難勧告解除は翌年の夏だった。
法末集落の住民たちは、行政支援を待たずに震災直後に自力復旧にとりかかった。集落が生きる基盤の棚田の修復が最も急務で、来年に米の作付けできるかどうか大きな心配だった。
年によっては4mも積もる豪雪がやってくる前に、土に埋もれ崩れた棚田や農道を修復したい。他の被災地域のほとんどの農地が、行政による復旧を待って1年の休耕をしたのに、この集落では次の年には3分の2の棚田が作付けをしたのは、自力復旧の故である。
米つくり農業こそがこの集落民の生きがいなのである。そうやって、自力で家も神社も修復しつつ、集落に戻ってきた。
あれから10年、集落ではその間にはいろいろなことがあった。今では震災時の6割の70人の住民がいる。高齢化率は73%である。
あの大戦の終った頃には、今の10倍の700人も住んでいたとは、ちょっと信じられない。
この10年、集落人口も世帯も減ったが、新たに4世帯が入ってきた。この村は内山さんと大橋さんばかりだが、そこに新たな姓が増えた。
そのうちの1世帯は、わたしたちの仲間であり、とうとう棲みついて集落住民となり、米つくりに精を出し、山村活性化への策を起しつつある。
わたしたちのNPOの支援活動も一段落して、時々遊びに行く程度になった。わたしたちも10年の歳を重ねて、高齢化したのである。
この春、『和 震災復興 法末の10年』という冊子が、法末集落から発行された。この10年間の集落と住民たちのさまざまな物語が載っている。
下記↓にその抜粋を紹介した。
『和 震災復興 法末の10年』
https://sites.google.com/site/hossuey/housue10
さて、これからの10年、人口減少と超高齢化時代の日本のなかで、この集落はどのような道を歩むのだろうか。
●参照
・中越震災から10年・復興の山村はこれから
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hossey10
・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
・中越山村の暮らし
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#chuetu
・山村の四季を愉しむ
http://datey.blogspot.jp/2013/05/775.html
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