金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)は、13世紀半ばに創建された金沢北条氏(かねさわほうじょうし)一門の菩提寺であると、入り口の門の傍に案内が書いてある。
ほう、これだと同じ金沢でも、“きんたく、かねさわ、かなざわ”と3種類の読み方があるのか。
●惣門から仁王門までの結界の外
住宅街の中を抜けると、惣門(赤門 1771年)が迎えてくれる。瓦葺だが創建時は茅葺だったろう。瓦だと重い感じがする。
参道の踏み石をすすむと、少し違和感がある。そう、この門は参道に対してきちんと真正面に向いて、やってくる客を迎えるのではなくて、すこし右斜めに向いているからだ。
惣門は参道と直角ではなくて右に振れている |
そういう景観デザインだろうと、通り抜けて振り返ると、惣門はわずかに右斜めになっている。
仁王門にしだいに近づいていくと、また違和感が生じる。この門も真直ぐに迎えてくれるのではなくて、わずかに左の方に身を振っているのだ。
仁王門の中心線と参道の中心線が、門の中でわずかに右に振れていることになる。
仁王門に近づいて、その真正面の股の間から向うを覗くと、反橋と金堂が大きく見える。だが反橋はわずかに右に振れているし、その向うの金堂は左半分しか見えない。
つまり仁王門の中心軸と反り橋の中心軸は振れており、更に反橋の中心軸と金堂の中心軸も振れているのである。
ここまでの参道の軸と仁王門とはわずかに右に振れ、その仁王門の先でもまた軸線をわずかに右に振っているらしい。
ふ~む。これも景観デザインだろうか。
この参道から視線を仁王門の股下に視線を絞って行き、狭い絞った空間をくぐりぬけて行くことで、視線展開の大きな効果があるはずだ。そう空間演出をしてあるのだろうに、門の隣りの柵のあいだから入りこんだのでは、あまりにももったいない。
ここはぜひとも門を通りぬけるようにしてもらいたいものだ。
仁王門をくぐると目の前の反橋の軸線方向が、これまでの参道の方向とはわずかに右に振れていることを知る。仁王門の中心軸とも合っていない。
これは、仁王門をくぐった時に真正面に視線を固定するのではなくて、開けた浄土景観に左右に視線を展開させることを目論んだ景観デザインかもしれない。
反橋を渡る。極楽浄土に渡る橋である。これまでの地上から空中へと、視線がだんだんと持ち上がって、池を超えて広がるのは、別世界にわたる景観的仕掛けである。浄土の中へと昇華するのか。
反橋は池の中之島にいったん降りて、さらに次の平橋をわたるのだが、ふたつの橋は軸がそろっている。この橋から視線の行く先の正面には、金堂が待ち構えている。
ここでまた気が付くのだが、そのまっすぐの視線のあたるところは、金堂の中心線からわずかに右に逸れているのだ。まん中ではない。またもや軸線が右にずれている。
地形的にそのことを要求するような狭さではないから、これは景観デザインであろう。だが、その変化には景観的な作為が見えない。
これは浄土景観形成の伽藍配置手法なのだろうか?
●伽藍の中心軸はなぜ歪んでいるのだろう
称名寺を訪ねて、これが聞いていた浄土景観であるかと眺め入ったのだが、中心軸線の変化の由来を知りたい。
実測図に惣門から金堂までの軸線の変化を、青い線で入れてみた。軸線の最後が金堂背後の稲荷山の頂上に向かうように見える。
金堂が後ろの稲荷山を背負って、その頂上と金堂の中心線を結ぶ線の延長が、伽藍配置の軸線であるらしいが、少しずつずれて振れていく。
もちろん、それらがまっすぐなる軸線上に乗らねばならないのでもないが、この微妙なはずし具合が気にかかる。施工誤差というには、目に見えすぎる。
まさかと思うが、もしかして、もともとはまっすぐだったものが、その後の地震、特に1923年の関東大震災で土地が動いたのか。
1323年に描かれたという称名寺絵図をみても、軸線の変化は判別できない。
この図にある、池を囲む回廊などの大伽藍があれば、今とは大きく異なる浄土景観である。
茅葺の大きな屋根の建築群が、朱塗りの柱が立ち並ぶ回廊を従えて池を取り囲み、それの外まわりを緑あるいは紅葉の山々が取り囲むという、壮大な伽藍の姿を想像すると楽しい。
金堂(1681年)は瓦葺であるが(もちろん創建時は茅葺)、その隣の釈迦堂(1862年)は茅葺である。伽藍の中では釈迦堂が最も美しい。他に茅葺の建築は、参道わきにある光明院表門(1665年)がある。
参道の中心軸に対して少し右に向く惣門 |
参道の両側は桜並木で、参道の敷石はさらにまっすぐに続く。正面に髙く見えてきたのが仁王門(1818年)である。これは銅板葺だが、もとは茅葺であったろう。
仁王門の中心線と参道の中心線が、門の中でわずかに右に振れていることになる。
参道の中心軸に対して少し左に向く仁王門 |
更に気になるのは、仁王門を通してその向こうに見える、反橋(太鼓橋)と金堂(1981年)がまっすぐに見えないことである。
つまり仁王門の中心軸と反り橋の中心軸は振れており、更に反橋の中心軸と金堂の中心軸も振れているのである。
ここまでの参道の軸と仁王門とはわずかに右に振れ、その仁王門の先でもまた軸線をわずかに右に振っているらしい。
ふ~む。これも景観デザインだろうか。
仁王門から覗き込む浄土の庭の反橋と金堂 |
仁王門の中心線から右に振れている反橋 |
●仁王門をくぐって浄土の庭へ
仁王門をくぐることはできないように柵があるので、いったん参道から逸れて左から回り込む。
ここで広い池を囲む盆地状の浄土景観の境内が、一気に出現する。それまで絞り込んできた景観が一気に開けるのである。浄土という結界の中のミクロコスモスに足を踏み入れるのだ。仁王門をくぐることはできないように柵があるので、いったん参道から逸れて左から回り込む。
この参道から視線を仁王門の股下に視線を絞って行き、狭い絞った空間をくぐりぬけて行くことで、視線展開の大きな効果があるはずだ。そう空間演出をしてあるのだろうに、門の隣りの柵のあいだから入りこんだのでは、あまりにももったいない。
ここはぜひとも門を通りぬけるようにしてもらいたいものだ。
これは、仁王門をくぐった時に真正面に視線を固定するのではなくて、開けた浄土景観に左右に視線を展開させることを目論んだ景観デザインかもしれない。
反橋を渡る。極楽浄土に渡る橋である。これまでの地上から空中へと、視線がだんだんと持ち上がって、池を超えて広がるのは、別世界にわたる景観的仕掛けである。浄土の中へと昇華するのか。
反橋は池の中之島にいったん降りて、さらに次の平橋をわたるのだが、ふたつの橋は軸がそろっている。この橋から視線の行く先の正面には、金堂が待ち構えている。
ここでまた気が付くのだが、そのまっすぐの視線のあたるところは、金堂の中心線からわずかに右に逸れているのだ。まん中ではない。またもや軸線が右にずれている。
橋の中心線から右に寄っている金堂 |
こうして惣門、仁王門、太鼓橋、金堂と、称名寺の伽藍の中心を構成する軸線に沿って進んできたのだが、それらが右へ右へとわずかずつ振れて逸れていくのである。
これは浄土景観形成の伽藍配置手法なのだろうか?
称名寺を訪ねて、これが聞いていた浄土景観であるかと眺め入ったのだが、中心軸線の変化の由来を知りたい。
実測図に惣門から金堂までの軸線の変化を、青い線で入れてみた。軸線の最後が金堂背後の稲荷山の頂上に向かうように見える。
金堂が後ろの稲荷山を背負って、その頂上と金堂の中心線を結ぶ線の延長が、伽藍配置の軸線であるらしいが、少しずつずれて振れていく。
軸線を構成する金堂、平橋、反橋、仁王門 |
いや、もしも伽藍の中心線軸の先に稲荷山の頂上を持ってきたいなら、はじめにそのように金堂を配置して、その中心線を惣門まで伸ばした軸線を定め、この軸線上に橋も仁王門も乗せればよい。常識的にはそうやって配置の軸線を決めるものだろうに、なぜそうしなかったのか。
まさかと思うが、もしかして、もともとはまっすぐだったものが、その後の地震、特に1923年の関東大震災で土地が動いたのか。
1323年に描かれたという称名寺絵図をみても、軸線の変化は判別できない。
この図にある、池を囲む回廊などの大伽藍があれば、今とは大きく異なる浄土景観である。
茅葺の大きな屋根の建築群が、朱塗りの柱が立ち並ぶ回廊を従えて池を取り囲み、それの外まわりを緑あるいは紅葉の山々が取り囲むという、壮大な伽藍の姿を想像すると楽しい。
称名寺絵図 1323年 |
創建時のものではないが、17世紀半ばから19世紀半ばまでに再建された伽藍が今の姿である。
金堂(1681年)は瓦葺であるが(もちろん創建時は茅葺)、その隣の釈迦堂(1862年)は茅葺である。伽藍の中では釈迦堂が最も美しい。他に茅葺の建築は、参道わきにある光明院表門(1665年)がある。
まわりの山々は、昔は薪炭採取のために伐採をしたので落葉樹林であったが、いまはそれが不必要になったために、自然遷移で常緑樹が増えている。
かつてはもっと華やかな一面の紅葉風景であっただろう。だからこそ、その中でただひとつ紅葉しない楓の話が、能「六浦」として語られるようになったのであろう。
かつてはもっと華やかな一面の紅葉風景であっただろう。だからこそ、その中でただひとつ紅葉しない楓の話が、能「六浦」として語られるようになったのであろう。
2 件のコメント:
流石!、専門分野に関する伊達見立て!拝読申し上げます。
yamanouerakuo様
お読みいただきありがとうございます。
(まちもり散人より)
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