2019/08/20

1416【戦争の八月(3)】アジア太平洋戦争で日本人戦没者より多い被侵略国の死者を想う千鳥ヶ淵戦没者霊園


千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ

 靖国神社遊就館ホールで涼んで一休みしたので、拝殿の前あたりで参拝客の列にその年齢性別の多様な人の様子を見物して、南に境内を出た。
 これから千鳥ヶ淵戦没者墓苑を目指すのだ。薄曇りながら暑い街のなかを歩くと、台風の余波で若干の風が吹いているので助かる。学校や共同住宅や事務所などのビル街を抜けて、千鳥ヶ淵に出ると豊かな緑の陰と水の涼しさが嬉しい。

 そうだ、この水と緑の空間は江戸城の北の丸であり、皇居の外苑の一部、つまり実は天皇家の領分であったことに気がついた。これから訪れる墓苑はもともとは宮家の邸宅地であった宮内庁管轄地であったし、そこでの埋葬者たちも天皇の命令のもとに外地に出かけて戦って死んだ人たちが大部分を占める。あたり一帯に天皇制あるいは天皇教とでもいう空気がみなぎる。


 靖国神社が民営の慰霊施設とすれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は国営である。だから宗教色はないはずだ。だが後でネット検索したら、この日に僧侶たちの団体が仏式の儀式をしているのがみつかったが、ほかの例えば神職たちのそれは見つからなかった。
 だからと言ってここが仏教による墓苑ではないだろうから、どの宗教も儀式をしてもよろしいのだろう。
 

 とは言いながら、ここには天皇制(天皇教)という日本独特の宗教性が色濃くあることを感じるのである。例えば、前屋をはいると左右に昭和天皇の大きな歌碑がふたつも待ち構えることがそれを表徴している。

 納骨の六角堂に各界からの献花がたくさんあるが、総理大臣や天皇からの花もある。どちらも靖国神社には行かないが、こちらには来るのか、あるいは靖国神社のように献花だけだろうかと思ってまとでネット検索したら、政府広報にアベサンが献花して拝礼する動画があった。

 献花者の名札を見てきて気がついた。どの名も敬称はつかないのは、死者への捧げ物だからあたりまえだろうに、例外が正面左右にある2つには「陛下」の敬称つきである。
  ということは、天皇の命令で死んだ者は、死後も天皇の隷下にあり、花を下げ渡されているということか。

 ところで天皇教の表徴である天皇の名札だけが2本もあり、しかもどちらも「天皇皇后両陛下」と表記されている。天皇と皇后とふたつではない。二人まとめては失礼のように思う。
 他は例えば、「内閣総理大臣安倍晋三」であり、「呉竹会長頭山興助」であり、「長崎県遺族代表団」である。「内閣総理大臣安倍ご夫妻様」ではないし、「長崎県遺族代表団殿」でもない。
 ここでは公的な職位や団体名を書くのならば、「徳仁天皇」だけであるべきだろう。せめて「徳仁天皇」「雅子皇后」の2本にすれば他とバランスするのだがと、眺めていて思ったのであった。


日本軍に押しかけられた国の死者は

 ここにはアジア・太平洋戦争で日本列島の外で死んだ人たちの内で、引き取り手のない37万人分の遺骨が埋葬されているとのこと。遺骨収集を今も継続していて、最近その遺骨が日本人ではないことが分ってきたとかのニュースもある。
 わたしは死ねば人は自然に還ってしまうと考えるから、わたし自身の父母たち墓にさえも疎遠であるように、霊を祭る神社も遺骨を保存する霊園にも何も感じない。もちろん他人がどう感じているのか、それは自由である。

 その遺骨の死者の数え方を「37万柱」と公式サイトに記しているが、「柱」とするのは神道によるの神の数え方である。国営墓苑でも、死者は神道による神になって祀られるのか。ここは宗教性を抱いている。
 大きな説明版が立っていて、アジア・太平洋戦争の15年で、日本人の軍人軍属一般人の戦没者は240万人と記されている。その戦争の区域の各国ごとの数が記されている。あんなに遠くまで出かけて、こんなにも多くの死者を出したのかと驚く。
説明版のアジア太平洋戦争区域戦没者地図(実に見づらい)
上の図を分りやすく書きなおした図(朝日新聞2019年8月16日)
地球儀に戦争のエリアを描くとそのあまりの広大さに兵站不能な戦争だったと、
 しかしその一方では、その日本人の死者たちがそこに戦争に押しかけたならば、その押しかけられた側の各地には人々が住んでいて戦争に遭遇し、やはり死んだはずである。そのことを忘れてはなるまい。
 他の戦争の資料では、例えばフィリピン人は110万人、中国人は1321万人、朝鮮人は20万人が死んだとされる。上の地図にその各国の戦没者数を書きこんでみた。
赤字は日本軍に押しかけられた側の国の死者数
押しかけた日本人よりも、押しかけられた側のほうがはるかに多くの死者を出している。それらは背中合わせの死者である。想像力をそこに働かせないと、死者の一部しか見ないことになる。
  そう、アメリカ軍に押しかけられた沖縄戦で多くの日本人が死んだように、各地の戦争でその地の人々が死んだのであった。わたしの父も日本軍の一員として2度の中国戦線にいった。父の世代はそんなにも多くの人々を殺しに出かけたのか
 そのことに暗然とすると共に、それを説明版のどこにも書いてないことにも暗然とする。戦争を相対化する表徴はどこにもないのか。それでは靖国神社と同じであるが、それでよいのだろうか。

天皇教の軸線設定

 靖国神社と違って、こちらの人出はまったくもって少なくて静かなものである。この違いはなんなんだろうかと、毎度思う。
 この施設の配置は納骨堂の六角堂に向かって、北北東から南南西への軸線を設定しており、したがって拝礼は南南西に向けて行うことになる。一般に神社なら本殿は南面し礼拝は北に向かい、仏教寺院なら本堂は東面し礼拝は西に向かうのが原則だから、ここではどういうことなのだろうか。南西の海の死者ばかりではないはずだ。
 ところで、靖国神社はほぼ東西軸配置であり、本殿は南面ではなく東面していて、礼拝は西に向かうのだから、これはまるで仏教寺院配置であるのは何故だろうか。

 そしてまた地図を見ていて気がついたのは、長屋門のような前屋を抜けて、その先にある納骨の場の六角堂に至る北北西から南南東に向かう軸線を、北北西に伸ばしていくと靖国神社の本殿に突き刺さるのである。ここで死者に礼拝したときの姿勢は、その背後の方向つまり尻を突き出す先に、もうひとつの死者を祀る神社本殿がある。
 更にまたその軸線を逆に南南東に伸ばすと、皇居の新宮殿に至るのだ。つまり死者を礼拝すれば、そのまま天皇を礼拝することになり、まるで天皇遥拝殿であるのだ。
 特に今は二つの献花の名札「天皇皇后両陛下」に向かって礼拝するから、これはあまりにも象徴的というか寓意的過ぎる天皇教の表徴である。
千鳥ヶ淵戦没者霊園の施設配置の礼拝軸線設定は、
後方は靖国神社本殿へ、先方は皇居新宮殿に至る
六角堂を礼拝するこの軸線上の向こうには皇居新宮殿があり、
背後には靖国神社本殿がある
 この寓意的軸線の設定は、敷地の制約からやむをえず出てきた配置には見えないから、意識的にそのように設定したのに違いない。
 それは造園家・内田剛によるデザインか、建築家・谷口吉郎によるものか。仏教系でも神道系でもない軸線、これは明確に天皇教の軸線設定である。

  こちらは靖国神社よりもずいぶん狭いと思う。ここは公園としての墓苑だから、もっとエリアを広げてほしい。今はまわりの高層ビルから覗き込まれている。
 敷地を広げることが今さらかなわないならば、千鳥ヶ淵の側を囲まないで、濠と一体的総合的にランドスープデザインをしてはどうか。千鳥ヶ淵に北の丸公園とつなぐ橋、あるは軸線の延長上に橋を架けてはどうか。
   谷口吉郎の建築は、このスケールならば、先生の得意とするところである。1959年建設だから、わたしが大学で教えていただいていた頃であったか。

あらたな戦争の予兆に出くわす

 疲れてきた、もう地下鉄九段下駅に向かって帰ろうと、千鳥ヶ淵に沿って歩いていると、なにやら喧騒な雰囲気に出くわした。
 路上に大勢のインド系の顔をした人たちが集まり、大声を上げ、旗を振っている。言葉も分らず、プラカードの文字も読めない。
 はて、今日はいつも東京で出会う外国人観光団体客に出会わなかったが、ここで出会うとは何だろうか。立派なモダン建築の前であり、みればどうやらインド大使館らしい。
パキスタンの国旗を振っている
それで思いついたのは、これは今や国際紛争になろうとしているインドのカシミール併合問題の余波だろう。インド大使館前でインド系の顔の人たちが抗議デモするとすれば、これはパキスタン人たちだろう。
 振っている旗に、星と新月が描いてあり、後で調べたらやはりパキスタンの国旗である。アジア太平洋戦争の残影のなかをよろよろと歩いてきたら、こんどはインド亜大陸の現実の紛争、もしかしてまたインド・パキスタン戦争再来か、新たな戦争の予兆に出くわすとは、まったくもって暑い地球である。

 もう足が疲れたから、九段坂を下って帰ろうと思う。(実はこの先で、更にまた戦争の表徴の数々に出会うのであるが、)

戦争の八月(4)】につづく

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