【戦争の八月(3)】からつづく
九段坂下の昭和館へ
千鳥ヶ淵から九段坂を下るころは脚がヨロヨロ、この辺りでどこか涼しいところに入りたいと、田安門から下を眺める。左に見える虚無僧の笠のようなのは昭和館だが、あそこなら涼しい休みどころもありそうだ。
その右に見える瓦屋根のあるビルは九段会館(昔は軍人会館)、どうやら壊しているようだが、そうか建て直すのか。とにかくあそこまで行こう。
田安門あたりから九段坂下を眺める |
この建物は外から見ると窓がない巨大排気塔のような、バケツを伏せたような、虚無僧の編み笠のような、奇妙な形である。
建築家菊竹清訓の設計で、記憶では計画段階ではこれをくの字に腰折れした(靖国神社に向って礼拝している)姿だったが、景観的に変だとあちこちから総スカンの声が出て、それがこうなったのだった。でも特によくなったようにも見えない。鬼才菊竹にしては駄作だろう。
入り口ホールは冷房で涼しいが座るところがない。上階の展示場に行こうと入場券を買おうとしていたら、案内人がやってきて今日は無料とて、喜んでエレベーターに乗る。
ずっと昔に一度だけ来たことがあるが、内容の記憶はない。観客はたいして多くないが子供連れが結構いる。夏休みの宿題か。
集めた戦中庶民の資料が狭い展示場にこまごまと並んでいるが、足が疲れているのでじっくり見る気分ではない。あとでじっくり見たい資料もあるが、撮影禁止なのでさっさと通り過ぎてしまう。
戦中戦争直後の米搗き一升瓶とか防空頭巾とか学童疎開の記録など、こういうところの定番展示である。しかし、わたしはかつて実際に体験した当事者なので、あの耐乏貧乏腹ペコ生活なんて面白くもない。
庶民生活が展示されているところが、遊就館と対極にあるのだが、戦争によるあの悲惨な生活の影が薄いのは、遊就館と同じだ。
撮影禁止なので、パンフの一部を載せておく。このような資料なら積極的に撮影させて、SNSで宣伝すればよいと思うのだが、どういうわけか。
敗戦放送の日の記憶
下の階の図書室なら座れるだろうと階段を下りていたら、踊り場に人だかりがある。壁の棚にあるラジオから1945年8月15日敗戦放送が聞える。あの独特の棒読みのお経のような節回しである。
音声がきれいなので、「こんなんじゃなくて雑音だらけだったなあ」とつぶやいたら、前に立つ中年男が振り返って「リアルタイムで聴いたとはスゴイですね」と言う。はずかしくなって急いで階段を下りた。
思えばあの内容で、あの口調で、あの雑音の放送を聴いて、どれほどの人たちが、敗戦放送と分ったのだろうか。庶民に理解させる気が全くない。ユーチューブで改めて聴くと、ほとんど言い訳ばかり、なぜ負けたか反省も謝罪もないトップ責任者の言葉。
当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。
当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。
その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して通算延べ7年半も兵役に就いた。最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。
だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
昭和館の展示をわたしが見て思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。
図書室では、「戦史叢書」(朝雲新聞社)全巻が開架でそろっていたので、本土決戦編を取り出して父の3度目の徴兵時の記録をぱらぱらと読んだ。
この書物は、わたしの父の死後に見つけた父の戦争メモをもとに「父の十五年戦争」なる記録を書いたのだが、その時に資料として読んだものだ。
図書室には子どももけっこういて、母親が戦災の絵本を読みきかせしている声も聞える。とりあえずは冷房での休息になったが、閉所恐怖症のわたしはこの建築は窓無しと知っているので、長居すると気分が悪くなる。15分ほどでたちあがる。
おにぎりがつぶれたような変形プランで使いにくそうだし、展示スペースは狭いし、敷地も狭い。これでは増築もできないから、資料を大量に収集してもどう収蔵展示するのか、博物館建築としては困るだろう。メタボリズムを標榜した建築家の設計にしては、いっこうにそのメタモルフォーゼできそうにない駄作である。
靖国神社の近くで、元軍人会館の隣りという立地であり、しかも昭和という天皇制に依拠する館名称とて、これって何だかなあと考えさせる。
九段坂下の旧軍人会館は今
外に出て隣の元軍人会館の九段会館を眺めると、今や建替え工事中である。そういえば311地震で死者を出して閉館していたのだった。
九段下交差点から九段会館を見る 2013年8月15日 |
同上 2019年8月15日 |
これって下駄ばきとか腰巻きとかカサブタとか言われる定番保存開発手法である。東京駅前の元中央郵便局、今のKITTEがこれにいちばん近い手法だろう。
この九段会館は1934年に「軍人会館」の名称で、在郷軍人会が建てて軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供した建築であるから、ここにも戦争の残影がある。靖国神社のある九段らしい立地である。
建築デザインはコンペで決められた。そのコンペ要綱に「容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大」なデザインを求めるとあった。それがこの近代洋風デザインに城郭風の瓦屋根を載せた姿になって出現してのであろう。
このスタイルはその頃の公共建築の流行であったから、軍関係だからこの姿だったとは言えないにしても、日本風デザインを強調していることは確かだ。
そういえば、靖国神社の遊就館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑、日本武道館など、このあたりではどれも日本風勾配屋根である。
いわば地域のデザインコードが働いているようだが、誰かがコーディネートしたのではなく、戦争の時代の表徴として和風と洋風の混合勾配屋根になったのだろうか。
靖国神社遊就館 伊東忠太 1932年 同新館 三菱地所設計 2002年 |
千鳥ヶ淵戦没者霊園 谷口吉郎 1959年 |
それらに交じって建つ最も新しい昭和館が、いかにも特異な姿に見える。地域のデザインコードを無視していると言えよう。
それは菊竹が意図したアンチテーゼか、あるいは菊竹は一般に景観デザインには無頓着だったから、やりたいデザインをやったまでのことだろうか。
冗談で言えば、せっかくだから新しい九段会館の高層部分は、隣の昭和館のデザインの系譜にすればよかったのになあ。
軍人会館は戦後になって国有財産となり、遺族会に貸与して九段会館の名で営業してきた。わたしも何度か会議でここに来た記憶がある。
地震被災して閉館後に、国は競売して東急不動産が取得、またもやホテルになるらしい。それでようやく戦争の影がなくなるのかと思ったら、建築の姿として軍人会館時代を継承すると言うから、まさに残影そのものが表象として継続することになる。
九段坂の上と下を戦争の残影がしっかりと押さえている。
さてもう疲れたので地下鉄に乗って帰ろうかと思うと、九段下交差点は異常に騒がしい。あ、そうだ、毎年ウヨクさんたちが輪になって演説したり、道路を日の丸行進してやってくるだと思い出して、それらを見物してから帰ることにする。
九段下交差点のこちらと向うに別々のグループが10数人集まっていて、それぞれ定番の日ノ丸や旭日旗を建てて、これまた定番らしい天皇ものの演説をしている。
そこへ歩道ではなく車道を、一人一人が日ノ丸の旗を掲げた行列がやってきて、交差点に入ってきた。おお、いつものウヨクデモだな。
「♪うみーゆーかばー♪」とスピーカーで流す小型バンを先頭に、数百人はいそうな参加者が、各人おなじ大きさの国旗を弔旗にして竿の上に掲げて、折から台風影響の強風になびかせながら、交差点を斜めに向うに進んでいく。
その行列にはシュプレヒコールもプラカードもない。国旗が参加者の数だけなびいている。沿道群衆から時折「ありがとう」「ありがとう」と叫ぶ声が入る。
参加者の個性は見えなくて、数百人が統一されている様子である。これはいわゆるデモ行進ではなくて、軍隊の分列行進をなぞっているらしい。その沈黙の旗行列は、交差点を過ぎて向うの街角に消えていった。
参加者たちの顔を見ると老若男女ごくふつうの人たちの様子で、コワモテウヨクらしい風情は見えないのが不思議というか、かえってコワイ。
後でネット検索したら、この行進の最初から最後までを主催者として撮った動画がユーチューブにあり、350人参加だそうである。リーダーらしき人の演説では、靖国に祀る戦死者たちを慰霊する趣旨の行進らしい。最後は靖国神社大鳥居の前に集り、「君が代」と「海行かば」を斉唱して解散した。
なぜ「海行かば」なのだろうか。これは大伴家持が天皇へのひとえに帰依従属を誓う政治的な意味を持つ歌であって、戦死者鎮魂の歌ではない。1948年10月に神宮外苑の競技場で学徒兵たちの出陣式で「海行かば」が歌われたように、天皇の戦争に命を捧げに赴く若者を鼓舞するための歌である。
暑いさなかにいながら、心が寒くなってしまい、そそくさと地下に潜ったのであった。
左手前 昭和館 菊竹清訓 1998 その向うとなり 九段会館 川本良一 1934年 右手前 日本武道館 山田守 1964年 |
地震被災して閉館後に、国は競売して東急不動産が取得、またもやホテルになるらしい。それでようやく戦争の影がなくなるのかと思ったら、建築の姿として軍人会館時代を継承すると言うから、まさに残影そのものが表象として継続することになる。
九段坂の上と下を戦争の残影がしっかりと押さえている。
●九段下交差点ウヨク行列見物
さてもう疲れたので地下鉄に乗って帰ろうかと思うと、九段下交差点は異常に騒がしい。あ、そうだ、毎年ウヨクさんたちが輪になって演説したり、道路を日の丸行進してやってくるだと思い出して、それらを見物してから帰ることにする。
九段下交差点のこちらと向うに別々のグループが10数人集まっていて、それぞれ定番の日ノ丸や旭日旗を建てて、これまた定番らしい天皇ものの演説をしている。
そこへ歩道ではなく車道を、一人一人が日ノ丸の旗を掲げた行列がやってきて、交差点に入ってきた。おお、いつものウヨクデモだな。
「♪うみーゆーかばー♪」とスピーカーで流す小型バンを先頭に、数百人はいそうな参加者が、各人おなじ大きさの国旗を弔旗にして竿の上に掲げて、折から台風影響の強風になびかせながら、交差点を斜めに向うに進んでいく。
その行列にはシュプレヒコールもプラカードもない。国旗が参加者の数だけなびいている。沿道群衆から時折「ありがとう」「ありがとう」と叫ぶ声が入る。
参加者の個性は見えなくて、数百人が統一されている様子である。これはいわゆるデモ行進ではなくて、軍隊の分列行進をなぞっているらしい。その沈黙の旗行列は、交差点を過ぎて向うの街角に消えていった。
参加者たちの顔を見ると老若男女ごくふつうの人たちの様子で、コワモテウヨクらしい風情は見えないのが不思議というか、かえってコワイ。
後でネット検索したら、この行進の最初から最後までを主催者として撮った動画がユーチューブにあり、350人参加だそうである。リーダーらしき人の演説では、靖国に祀る戦死者たちを慰霊する趣旨の行進らしい。最後は靖国神社大鳥居の前に集り、「君が代」と「海行かば」を斉唱して解散した。
なぜ「海行かば」なのだろうか。これは大伴家持が天皇へのひとえに帰依従属を誓う政治的な意味を持つ歌であって、戦死者鎮魂の歌ではない。1948年10月に神宮外苑の競技場で学徒兵たちの出陣式で「海行かば」が歌われたように、天皇の戦争に命を捧げに赴く若者を鼓舞するための歌である。
暑いさなかにいながら、心が寒くなってしまい、そそくさと地下に潜ったのであった。
(完)
参照 「戦争の八月」
参照 「戦争の八月」
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