2020/07/27

1478【コロナ大戦の日々】人生でめったに出会えないこのパンデミックを、千載一遇のチャンスとして暇つぶしと老化防止に役立てよう。

 ●身に迫るコロナ大戦

 こんなコロナ・パンデミックなる世界史的事件に巻き込まれるのも、あまりに長く生きているからだな。昨年末に逝った親友を羨ましい。
 せっかくだから、まことに興味あるめったに会えない事件で、どたばた騒ぎもあちこちで発生するから、老後の暇つぶしとボケ防止になるから、面白がって付き合っていこうと思う。
 もっとも、患者になるとまわりが困るだろうから、その手前あたりで、。

 わたしのこれまでの人生で、このような世界史的事件に巻き込まれたことは、一度だけあった。それは第2次世界大戦、日本の位置から言うとアジア太平洋戦争である。
 田舎町に住んでいたから、都会のように空爆に出会うことはなかったが、戦争末期と直後の頃の食料難が酷いものだった。日々の空腹に襲われて、少年のわたしにはこれが戦争による大被害だった。

 今回のコロナ大事件は食糧難に至っていないが、もしかして各国での食料の囲い込みになると、日本の自給率は4割以下だそうだから、またもや空腹に襲われるかもしれない。
 まあ、先の大戦の時と違って歳とってしまっているから、少食だし、たとえ食えなくて死んでも構わないとも思う。

 これまで出くわしてきたいろいろ大事件を思い出せば、ベルリンの壁崩壊、阪神淡路大震災、リーマンショック、東日本大震災などあるが、いずれも身に迫ることとして実感したことはなかった。
 だが、今度のコロナ事件は、自分の身に及ぶ世界的事件として、ひしひしと実感がある。こんな感じは、あの戦争のとき以来だから、これは「コロナ大戦」と言いたいのだ。

 先の大戦を身に染みて実感したが、わたしが住んでいた小さな街(高梁盆地)を敵が襲うことは、直接的にはなかった。
 しかし今回のコロナはその盆地にさえも、遅ればせながらこの7月末になって、ついに初の感染者2名を出した。敵は直接にやってきたのだ。
 その感染者たちは、スリランカから地元大学への留学生だという。はるばる勉強にやってきて感染とは気の毒なことだが、これがまさにパンデミックである。どこにいても身に迫る。

 実は忘れていたが、わたしが少年時代に実感していた感染症の恐怖があった。それは結核である。田舎町でも身近に患者がいた時代で、同期生で亡くなった者や、治療で学年を遅らせたものが数人いた。
 いまPCRとかワクチンとか疾病検査治療専門語を普通に言うように、ツベルクリンとかBCG接種とか言ってたものだ。

 かなり大昔から世界中にある病だから、今のコロナのような騒ぎはしなかったが、実態としてはかなりのパンデミックだった。
 だからそのための「結核予防法」を作って、今回活躍している保健所システムを作り上げて対処してきた。
  
 50年代だったかにストレプトマイシンの登場で、劇的に治療が進んでいまは忘れられた病となった。そこで保健所を大幅縮小したところに、今回のコロナに不意打ちを食らった。でもネットで調べると、今もコロナ並みに患者や死者がいるらしい。
 もしかして、コロナも結核並みに人間と共存して生きていくのかもしれない。
 
●活動促進と活動自粛との矛盾政策

 今年早春からはじまった新型コロナウィルス流行は、感染者数がこの夏前になっていったん落ち着いて、低下方向になったかに見えていた。
 ところが、このところまたもや日々増加傾向にある。それも日本だけでなく、世界中がそうである。定説通りに第2波がやってきたらしい。

 その一方では、4月以来の活動自粛続きで産業界は沈滞し、人々も閉塞状態なので、世のあちこちから自粛をやめたい活動したいの声も大きになる。
 そこで政府としては、緊急事態の活動自粛要請を解除して、しかも活動促進施策実施をあじめた。だがもういっぽうでは、活動の自粛継続を呼びかけざるを得ないという、なんとも矛盾した政策をやっている。

 活動促進政策はいろいろあるらしいが、「GoTo●●」というのが良し悪しの評判である。旅にでもイベントでも買い物にでも、どこかに出かけて金を落として産業振興しなさい、その支出費用に対して、税金から一定の金銭補助をしましょう、というのである。
 当然のことに、出かけることはコロナ感染チャンスを拡大する。つまり補助金はコロナ拡大に税金を投入することになる。
 これこそコロナ予防治療対策に投入する税金とは逆方向の投資である。

 もう一つの施策に「マイナポイント」なる政府補助事業がある。今日の新聞に詳しく書いてあったので目を通したら、要するに現金払いでない買い物には、いくばくかの補助金をだすから、せっせとお金を使いなさい、ということらしい。現金支出を相手にしない。
 これの恩恵を受けるには、背番号カードやらクレジットカードやらナントカポイントカードとかスマートフォンとか、あれこれ現金払いでないシステムに加入していなければならない。

 わたしは、マイナポイントの条件となる背番号カードだけは持っているが、スマートフォンがない。PCを持っているがカードリーダーがない。システムに対応していないのだ。要するにマイナポイント政策からお断りされているのだ。
 他人様が使えば使うだけ、わたしの払った税金を損すると思ってしまう「マイナスポイント」なのである。

 わたしのような超高齢者としてはネットに親しむものでも、どちらの施策の恩恵も受けられないのである。それは補助金であるから、一定以上の家計支出をしなければ得られないからだ。
 だが貧乏人の私には、その支出をできないから、補助政策の出番がない。他人がこれを利用すればするほど、わたしの税金を損する仕掛けである。

●21世紀人体に発生した新たな陰部

 ウーム、悔しいことである。こうなればひとつだけ思いつく「コロナで税金取戻し策」にとりかかるかな。それはコロナに感染し、公費負担で治療してもらうのである。
 なんともリスキーながら、これなら可能である様な気がする。どうせ先は長くないのだし、高額の後期高齢者健康保険料だって、ほとんど取り戻していないから、やってみる価値はあるかも、。

 それが目的ではないが、日々、ご近所の横浜繁華街を徘徊して、コロナの街の変化を観察し続けている。
 そうして発見したというのもおこがましいが、大変化は人々の風俗である。そう、貧富男女階層人種に関係なく、だれもかれもが布や合成繊維などによるマスクをつけて、覆面姿が一般化したことである。これは激変である。だれもかれもが覆面する社会が、こうも突然に来るとは思わなかった。

 法律の定めでもないのに、これほども覆面姿が行き渡るとはねえ、太平洋戦争末期の防空頭巾もこれほどではなかったし、スモッグ公害の70年代もこれほどではなかった。
 覆面こそが21世紀中葉の一大流行ファッションとなるに違いない。そうだ、イスラム教徒に覆面ファッションがあったが、あの宗教こそ世界の最先端を行っていたのか。

 実はわたしは2月、3月頃までは、マスクしないで出かけるのが普通だった。ところが店先や道端で、そばにいる人に妙に避けられる雰囲気になり、あるとき店で支払い行列の前に立つ男から「寄るな」と言われた。そうか、マスクが要るのかと、ようやく気が付いたのだった。
 そう、マスクはコロナ教時代の踏み絵になったのだ。覆面しないでは店にも図書館にも入れなくなった。これを踏むことで初めて社会が受け入れるとは、なんとも居心地が悪い、息苦しい。

 ふと思う、もしかしてマスクは陰部を隠すパンツになったのかと。つまり、これまでは下方に陰部があり、それを隠すためにパンツをはいていたが、これからは人体の上方にも陰部が登場し、それを隠すのがマスクである。
 かくて覆面姿こそが正しい服装となり、鼻と口を公衆に露出すると猥褻物陳列罪に問われるのである。

 まあ、初めてのことで、政治家も専門家も市民も、だれもかもが、ああせよこうせよと百家争鳴である。だが、現実にはコロナ禍は一向に収まらないから、生物としての人間はあきらめて、文化としての人間が表に出てくることになる。
 しかし、感染による死という生物的現実が何もかも押し流す。こんな混乱社会に生きていることを、直視していくしかないが、どこか楽しんでいる自分がいる。

 おお、コロナよ、新たな社会秩序をもたらす神よ、わたしも踏み絵を踏んでしまったコロナ教信者です、お導き下さいピンピンコロナへってね。(2020/07/27)



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