2021/03/22

1523【前衛音楽会】一柳慧作曲「ピアノ音楽」河合拓始演奏って超面白くてコロナ憂鬱しばし忘却

 春が来た日、久しぶりに音楽演奏会を聴きに行ってきた。コロナ緊急事態措置区域に指定されている関東4都県、明日から指定解除とのこと、その最後の日に行くのも記念になるかもしれぬ、なんて思う。

●前衛現代音楽って面白い

 一柳慧という音楽家については、日本の現代音楽の作曲家として、名前だけは知っていた。それは武満徹とか三善晃とかについても同じである。あるいは旧友が団員でいたころの新交響楽団定期演奏会に年2回通っていたで、何か彼らの作曲を聴いたかもしれない。

 春の日の午後全部を、その一柳の世界にどっぷりと浸ってきたのは、ひとえにコロナのせいである。この閉じ込め空気満杯の世で、何とかして月に1回くらいは非日常世界に出かけてコロナ忘却に浸りたい、それが先月までは能楽であったのが、今月は現代音楽の一柳慧になったのである。

 ただし、たまたまそれをネットで見かけて、会場が近所だし、コロナ逼塞の中で面白いかもしれないと、予約チケットを買ったに過ぎない。プログラム内容をほとんど知らぬままだったから、一柳氏には恐縮するしかないが、結果は実に面白かった。同プログラムで再度の公演あれば、またぜひ行きたい。

 一柳慧氏が神奈川芸術文化財団芸術監督就任20周年記念事業として、神奈川県立音楽堂で、3月20日13時から18時まで連続で、多様なジャンル、多様な演奏家、多様な演出の音楽が、次から次へと登場する駅伝レースのような演奏会、面白かった。コロナ憂さが晴れた。

 もちろん楽曲にも演奏にも教養は何もない、その良し悪しは分からない。現代音楽に関しては、NHKFMで毎日曜日の朝、西村晃による「現代の音楽」を、ただ面白いと聞き流すばかりである。それを今回は興味深く聴いたのは、眼で観る演奏も多かったこと、和楽器による演奏もあったことである。

 コロナがもたらした思いがけない体験を、まったくの初心聴衆のひとりとして、この日の感想を書いておく。3部構成になっている。


●Classicalの部

 出だしの一柳慧作曲「フレンズ」V成田達輝、ふむふむこれが一柳の曲であるか。


 つづいて、武満徹「一柳慧のためのブルーオーロラ」、舞台に紗幕が垂れ下がって、そのむこうに背丈ほどの高さに照明灯らしきものがついている。真っ暗な舞台になり、4人の演奏者が紗幕の裏にひそかに登場して演奏開始、楽器は4人ともサキソフォン、紗幕に抽象的映像が動きつつ映写、演奏者も動く、ふむふむ、これが前衛音楽だな。

 フランク「ソナタイ長調」V成田、P萩原麻未、おお、これって聞いたことあるぞ、そうか、前衛だけじゃないんだな今日は、、武満の口直しか、ちょっと安心なような。

 つぎはベートーベン「クロイチェル」P一柳慧、V成田達輝とプログラムにあるので、これは知ってると思えど、聴けば違うのである。
 単調なピアノ、抒情的なヴァイオリン、知らない曲だが気持ちよいからクラシックなんだろう。あとでプログラムに挟まれた訂正記述、アルヴォ・ペルト「鏡の中の鏡」に変更。臨機応変型音楽家一柳らしいと、このあとの幕間にホワイエでの片山杜秀の話。

●Traditionalの部

 舞台には3面の筝、三味線、胡弓、尺八、大鼓、小鼓、大太鼓がならぶ。黒子のような服装の演奏者たちは6人、和楽器ばかりだが、どうやら古典和楽でないらしい。
 わたしの和楽体験は能楽だけはけっこう多い、面白そう。プログラムを見れば作者にジョン・ケージとかノルドグレンとかスメタナとかあるから、やはり今日の日らしいと期待。

 知っている曲はスメタナ「モルダウ」だけ、でも、どうもなあ、前半はともかくとしても、後半の大河の表現は大編成交響楽団でなくては無理かなあ、筝をもっと数多くすればよいような。

 今日のための新曲初演の森円花「三番叟」、能の三番叟を頭に描きながら聴き始めたが、それと関係なく面白く引き込まれた。よかった。どうでもよい鑑賞方法だが、十五弦筝の柱を動かすのが忙しいことよ。

 和楽演奏というと「春の海」とかで琴ピンコロリンシャン尺八プオーだが、これは大いに違って面白かった。この楽団(というのか)J-TRAD ensemble-MAHOROBAの演奏会あれば行きたいと思った。

●Expeimentalの部

 これが一番面白かった、そう、これは前衛音楽そのものだな、ほとほと参った、おそれいった、クセになりそう、すごい、再度聴きたい、いや観たい。

 一柳慧「ピアノ音楽第1,2,3,4,5、6、7」P河合拓始、聴くというよりも観た眺めたといいたい。演奏者を待つ舞台には、蓋を取り払ったグランドピアノ、演奏者の椅子のまわりにテーブル、その上にガラクタらしき小間物がたくさん、気になる。


 下手から出てきたのは、くりくり坊主、柄シャツ、首に白タオルを巻き、裸足、おお、町工場のおっさん、ピアノ故障直しかよ。なんの予備知識もないから、まさかとは思いながらも、半分はそう思った。

 プログラムには演奏順番は、その日に決めるとあった。そしてそのオッサンは、「今日は1番から順番に演奏する、各パートごとに準備で時間を取るからその間はしばらく待て」とのご注意あり、そうかこの人が演奏者河合であるか。 

 そばの小間物屋の店先から、空き缶やら紐やら何やらとりあげて、蓋の無いピアノの上にかがみこんで、弦に取り付けている。演奏は鍵盤をたたくよりも、弦に直接手を突っ込んで,弾いたり擦ったり叩いたり、時には柄杓、箸、棒、鏝などで弦をつつくほうが多い。

 でたらめ、いや、即興かと思えばそうでもないらしく、楽譜らしき紙を手にとって観つつ確かめつ、小間物を取り上げてピアノにセットしたり、やおら演奏したりしている。
 どこが終わりではじめやら聞いても観ても分からないが、河合が一応は切れ目でお辞儀するから、こちらは拍手をする。

 アッ、ホワイエに展示してあったくさんの抽象画とか詩のような書き物は、この楽譜だったのかあと、いまごろ気が付いた。
 よく見ておけばよかった、とは思えど、見たって今の演奏との関係を理解できるはずもなく、ただただその演奏と曲間の準備とを興味深く眺めいるばかり、準備動作も演奏であろう。

 そうか、これこそが前衛音楽だな、第4(?)ではピアノのそばを歩きつつ、手を突っ込んで演奏、初めのうちは触っているだけで音を出さない静寂ばかり、その間に1観客のイビキがクークーと響く、おおこれは「4分33秒」か、そう、一柳はジョン・ケージに師事したとある。

 ピアノをいじくる演奏者の動き、ピアノから出る音、いったいどうやって河合はあの抽象楽譜から、このような演奏というかピアノ調律というかパーフォーマンスというか、それらを生み出すのか、興味津々で鑑賞していた。おもしろい。

●コロナ禍中演奏会と環境整備

 コロナ対策で、ホールの暖房をしなくて換気だけだろう、だんだんと寒くなってきた。今日の陽気に誘われてつい油断した服装で来たのであった。年寄りは困る、先ほどのインタバルに飲んだコーラが体外に出たいとしきりに訴えてきている。第5終ったところであわてて扉の外に出てしまって、第6、第7を聴き逃し見逃したのは残念。

 あのスタインウェイのピアノは、あんなに弦をいじくられても大丈夫かしらん、もしかして見なかった最後7番でピアノ破壊なんてのがあったかもなあ、あ、そうだ、終演予定の18時ころ大きな地震がったが、その時も演奏していたのだろうか、前衛音楽にふさわしいアクションがあったのだろうか。

 それにしてもこのコロナ緊急事態指定の地域でありながら、よくぞ開催してくれた。途中2回のインタバルにホール内をカラにして消毒作業とのこと、その間にホワイエで片山杜秀が一柳と対話とて、なかなかしゃれている。
 おかげで予期しない音楽会で予期しない演目演奏にであって、現代音楽にはまりそうになっている。コロナのおかげである。

 もっとも、コロナのおかげだろうが、コーヒーくらいは出すコーナーを開設するだろうと思っていたらぜんぜんなくて、自販機コーラに頼る始末。そういえば紅葉ヶ丘文化ゾーン唯一だった青少年センターのレストランがコロナせいか去年閉店、いまや飲み食いなにもできない。コロナ時代向きであるが、、。

 そばの掃部山では桜花がちらほら、よい季節になった。だが環境に大いに不満がある。
 この文化ゾーン施設を県が再整備してのが1昨年、けっこう繁っていた樹木をり倒した。管理上それは仕方ないとも思うが、この音楽堂前の殺風景広場をなんとかしてほしかった。


 広いコンクリート駐車場にタブノキがたったの一本だけ、夏はとてもいられたものではない。駐車場が必要なのはわかる、駐車場でよいからその中に樹木を植えてはどうか、復元的整備とてこのようにしたのなら、それが間違っている。

 これが建った頃はまわりには樹木の多かったし、広場は砂利敷きだったし、音楽堂には楽屋がなかった。そう復元するのでないなら、現代に対応する復元をするべきである。東京駅のように復元さえすればよいとの考え方は間違っている。(202121記)


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