老衰で87歳とある。ということはわたしと同年である。え、わたしも老衰で死ぬ資格があるんだと気が付いたのだ。
ほお、同年の方の老衰死とは意外感があったのだ。老いて衰えるという語句の語感は100歳前後のことかと思いこんでいたらしい。
そうか、わたしも老衰死する、そう、格好良く言えば大往生するかもしれない歳なのだ。
なんだか安心、いや、なんというか、死と二人三脚やっているような、静かな隣人として死がいる、そんな気分になってきた。ふむふむ、そうなんだな、なんて考えなくても実は当たり前のことなんだな。
しかしそれにしては、昨年夏に家人が死に遭遇したのを思い出すと、けっこうドラスティックなもののはずだが、わたしの日常は普通に起きて食って出して寝て、読んで書いて歩いているけど、これでいいのかしら。頭にある老衰と日常とのギャップが気になる。
これから死ぬためにはそれなりの準備がいるのだろうが、何にもしていないけど、老衰死はどうやってやってくるのかしら。やはりいま流行りというか当たり前のことというか、介護という段階があるのだろうなあ。家人がそうだったように。
と思いつつ同じ新聞記事を見るとこんなことが載っている。おやおや、死ぬための準備を手伝ってもらうというか支援してもらうべき介護事業者が、次々と廃業しているそうだ。う~む。
そうか、わかったぞ、こうなれば自力で老衰死するしかないのだな。そうかあ、よしよし、え~と、どうやるのだろうか、どうしようかな、、。しかしまあ、今年中は畏友の歌集上梓プロジェクトが動いているから、来年になってから考えることにしよう。87歳でもできる老衰には、もうちょっと待ってもらうしかない。
(2025/01/29記)
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伊達美徳=まちもり散人
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