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2020/04/30

1460【コロナ幽閉の日々】空中陋屋に幽閉蟄居の身にできることは「おろおろ日録」を書き連ねるばかり

 誰もかれもがコロナ屋敷の座敷牢に幽閉された日々が続く。出歩くとコロナウィルスに出会うから逼塞せよの戒厳令である。
 この新型コロナウィルスによる第3次世界大戦は、いつまで続くのだろうか。
 そして対ウィルス戦に人間側が勝利する日がいつか来るとしたら、そしてコロナ大戦後の世界は元通りにならないとしたら、いったいどんな世界が来るのだろうか。どんな日常になるのだろうか。

 興味津々と言っては語弊があるが、わたしの人生でこのような大戦争に出会うことは、またとないだろうからしっかり見届けたいと思うのだが、そこまで生きていられるだろうか。
 何しろ対岸の火事見物ではなくて、わが身にコロナがとりつくおそれも十分にある。

 だが実は何もしないことがコロナから逃れる道だというのだから、ただただオロオロと過ごすしかない日々である。そう、このブログに「コロナ大戦争おろおろ日録」を記すばかりである。
 なんだかグダグダと書いているなあ、われながらオロオロだなあ。

 これまでにこれに似た日々があった。それは、2011年の3月に起きた東日本大震災そして引き続いた福島核発電所大事故の後の日々であった。
 あの時もただただオロオロと「地震津波核毒オロオロ日録」を書き連ねるばかりだった。
 その記録を1年づつまとめて編集し、わたしの趣味「まちもり叢書」(DTP)に4冊の本にした。
(まちもり叢書第14号)
「福島原発を世界遺産に― 地震津波そして原発の日々(2011)」
・地震勃発記 ・地震おろおろ日記 ・福島第1原発を世界遺産に登録しよう 
・原発おろおろ日記 ・津波と戦争そして原発1933年と2011年 
・原爆と原発の夏 ・核毒の森へ ・ 分らん原発の日々
 (A5版 108ページ  2012.05発行)

(まちもり叢書第15号)
「地震の自然と人間の文化ー2012年 地震津波そして原発の日々」
・『津波と村』海辺の民の宿命か ・絆を解いて民族大移住時代へ
 ・森の長城が津波災害を防ぐ ・森の長城で大津波に備える市民プロジェクト 
・震災復興で自然と人間はどう折り合うか 
・日本で地震津波原発基地 から安心な町はあるか

(まちもり叢書第19号)
「広域巨大災害があぶり出す日本列島の人間のはかなさ
ー地震津波そして核毒の日々・2013」
・再び唱える「福島第1原発を世界遺産にしよう」
・震災核災3年目 ・東北大津波被災地を訪ねて(名取、東松島) 
・奇蹟の一本松のレプリカ復元保存の意味は  他

(まちもり叢書 第21号)
「核毒の荒野へー地震津波そして核毒の日々・2014」
はじめて福島県の原発事故被災地に行ってきた。
核の毒に汚染された地域は復興がありうることなのか、
われわれ都市計画プランナーにできることはあるのか、
あまりに多くのことを考えさせられて、
心の中にどんよりと澱のようなものが溜まっている。
 あの時はいわば内戦であったが、今回世界大戦である。一般論としては内戦のほうが身辺に影響があるものだ。確かに地震で本棚が倒れたり、停電などの身辺に被害があったが、被害とも言えないくらいであった。
 それにしても、広範囲にわたって壮絶な風景が日に日に明らかになっていく体験と、その後にどのような地域が再登場するのかはらはらしたが、その思いは今と似ている。

 そしてまた、今のこの状況は1945年に終わった第2次世界大戦に似ている。
 あの戦争は1931年から15年も続いたが、わたしは幼少年だったし、静かな田舎町にいたから、真に体験しているとは言い難いが、父が3度も戦場に駆り出された戦中の家庭と世の中の雰囲気、そしてなによりも戦後の空腹の日々を戦争の傷として忘れない。

 今回も世界戦争だが、先の戦争のように目に見える空爆や身辺から物がなくなり人が居なくなっていくことは起きていない。それにも関わらず、毎日の行動に制限が誰にも及ぶことになるとは、身近な戦争である。
 いやいや、これから、人が居なくなっていく現象が身近に起きるかもしれない。自分自身がコロナに連れ去られる恐れもある。

 わたしがあの頃に大人だったら「太平洋戦争おろおろ日録」を書き連ねていただろう。そう思うと、長くもない人生なのに、2度も世界大戦に出くわすとは、今回は大人だからしっかりと見てやろうと思う。
 それにしても良いことは何にもなさそうだから、気が滅入るのは仕方ない。これから死ぬしかない身はともかくとして、次やその次の世代はどのような戦後の日々を送るだろうか、心配でならない。杞憂になってほしい。
 とりあえずは趣味の本づくり「まちもり叢書」に、「コロナ大戦おろおろ日録2020」制作を目標とするか。

2018/07/13

1150【西日本豪雨大水害】基地原発火山海嘯遠くして地震希なるふるさとに豪雨

近ごろ大災害がたびたび起るような気がするが、昔はそうでもなかったのだろうか。災害とは人間が関係するところで起きるのであり、人に無関係な地で何が起ろうが災害にならない。
 ということは、人間が災害に遭いそうな土地にも広がって利用する様になったからだ。都市計画から言えば、土地利用の規制緩をしてむやみに市街地を拡散してきた結果だろう。気候変動のせいかもしれないが、身近で分かるのは土地利用問題である。
2018年7月倉敷市真備町大水害区域における宅地拡大

●倉敷市真備町の大水害を地誌的に調べてみた

 わたしに土地勘のないところで大災害が起きても、なかなかピンとこない。1995年の阪神淡路震災の時はある程度はぴんときたが、2011年の東日本震災では東北地方に土地勘がないので、細かい状況をなかなか理解できなかった。
 ところが、このこの7月初めの西日本豪雨災害は、わたしの岡山県の故郷あたりも水害に遭ったから、これはある程度は土地勘がある。
 幼いころから知っている地名が、ネットや新聞に出てきてやきもきした。故郷にいる幼馴染たちにメールで色々と状況を聞いたら、知人たちには大きな被害はないらしい。

 しかし、倉敷のすぐ北にある真備町の広大な地域が水没し、死者も多く出たのは、まことにお気の毒なことである。このあたりは高梁川流域でも最大の水害名所である。
 今回の大浸水が起きた地区は、倉敷平野から丘陵を北にひと山越えた真備町の盆地状の平地である。真備町は高梁川支流の小田川流域で、1894年、1972年、1976年に大きな浸水被害、そのほか何度も水害に遭っている。
 それにもかかわらず宅地化は進み、今回の2018年大浸水被災である。

 大昔から何度も浸水が起きていて、1894年の大水害のあとで20年以上もかけて徹底的な河川改修が行われた。
 それは日本でも有名な大事業であったらしく、わたしが少年時になにやら偉業として聞いたがもう忘れていて、「酒津の堤防」という言葉だけが頭の片隅にあった。今回の水害でネットで調べてその内容を知った。関連していろいろ知ったので、それらをもとに書く。
1925年までは高梁川はふたつの分れて流れていた

 北から高梁川が丘陵を開削するように伐りこんで、南の倉敷平野に注ぐ直前に、西の真備町から流れ来る小田川を合流する。今回の氾濫は、小田川の洪水を高梁川と合流点で呑みこめなくて、また真備町側に戻ったことが原因らしい。
 そうなることが予想されていたので、小田川の流路を変更する計画を国土交通省はもっており、近々に着工する予定であったのが、間に合わなかったようだ。
1925年高梁川大改修後も真備町ではたびたび浸水している

 その間に合わなかった小田川の流路変更の計画(高梁川水系河川整備計画 平成 29 年6月国土交通省 中国地方整備局)を見ると、興味深いことに気がついた。
 かつては高梁川が、この小田川との合流点から下流で、2筋に分れて東高梁川と西高梁川になっていたのだ。1894年大水害後、これを一本にまとめる河川改修をして、1925年に完成した。
 その東高梁川を廃して堰き止めたのが、私の記憶にあった「酒津の堤防」である。東高梁川の跡地は倉敷の市街地に飲み込まれた。
 酒津から上流側は東高梁川を本流として残し、西高梁川を廃して上下を堰き止めた柳井原貯水池になっている。

 小田川の流路の変更計画は、小田川を柳井原貯水池につないで、廃止したかつての西高梁川を復活、つまりもとの西高梁川に戻すのである。西高梁川を完全復活をするなら、東高梁川も復活しなくてもよいのか、なんて思ってしまう。
 河川治水技術をわたしは知らないが、治水対策で廃止した河川を、また治水対策のために復活するとは、1925年に廃止した河川改修自体が失敗もしくは不全であったことを意味するのだろうか
 たしかにそれ以後は、倉敷市街地の水害はなくなったようだが、真備町の小田川大氾濫は相かわらず起きているから、その面での治水は失敗だったのだろう。もっと推測すれば、用水を優先して治水が不完全であったのだろうか。

 治水の難しさを思いつつ、真備町から倉敷にかけての地形を眺めていて、なんとなく気がついたことがある。
 もしかしたら、真備町の盆地状の平地は、倉敷平野への高梁川の氾濫を防ぐために、洪水時の一時的な遊水池として設定されていたのではないか、ということである。その昔には、人が今ほど平地部に住んでいなかっただろうからである。現に小田川もその支流も、天井川に近いようだ。

 もしも今回の豪雨で、高梁川合流点より下流の倉敷の酒津あたりの高梁川堤防が切れていたら、合流点から小田川へのバックウォーターが発生しなくて、真備町の浸水は無かっただろう、逆に言えば、真備町の浸水が倉敷市街への浸水を防いだのかもしれない、と思うのである。
 わたしは治水の専門家ではないから、どなたか専門の方から、あるいは地元のお方から、お叱りを覚悟で書いた。

 余談をひとつ。わたしはてっきり、真備町を「まきびまち」と読むとばかり思っていたら、実は「まびちょう」と読むらしいのだ。この町出身の右大臣吉備真備(きびのまきび)の街でしょ、井原鉄道には吉備真備駅だってあるのに、いいのかなあ。

被災の地「まきびまち」と読みておれば
           テレビラジヲは「まびちょう」と言う

いにしえも大水害のありぬべし
  吉備真備は施策なせしや


(追記20180717:岡山の知人が「まびちょう」と読むことについて、町史で調べて教えてくれた。1952年の昭和の大合併で「真備町」が生れたのだが、このとき吉備真備に因んで町名をつけたが、「真備公の人名は「まきび」であるが読み易く「まび」とした」との記述があるとのこと。ちょっとどうかなあと思う。わたしの出身地の高梁も「たかはり」と読むように変えていはいかがでしょうか。

●大局的には高梁は日本列島でいちばん安全かも

 近頃は各地域ごとにハザードマップなる地図が公表されるようになった。昔は公表しようとすると、町内会とか不動産業界から反対を食らっていた。土地の評判が悪くなる、地価が下るというのである。
 さすがに近ごろのように災害が多いと、ハザードマップ公表が普通になってきているらしい。よいことである。問題は住民がそれを気にするかどうかである。事件が起きて初めて気がつくのだろう。
 ただし、ハザードマップには、洪水、土砂災害、津波についてのみの局地的な地図情報である。災害発生の種は軍事基地、核発電所、火山等もあるが、これら広域的な災害の種はどうしてハザードマップにないのか。

 わたしの生まれ故郷は、川の名前の由来になっている高梁市内の高梁盆地である。今回の豪雨はここも襲って、地区によっては浸水がおきたり山際が崩れたりした。
 このような局地的な災害は起きるが、大局的に見て高梁あたりは、日本列島では有数の災害の起きにくい地域だと、わたしは気がついたのである。
 日本列島レベルのハザードマップは一般にはないので、自分でネットから災害の原因となる地形や施設などを探してきて、そこに高梁の位置を入れてみたのだ。
核発電所の立地状況(赤丸が高梁の位置)

火山の位置(赤丸が高梁の位置)

アメリカ軍基地の位置(赤丸が高梁の位置)
地震発生率(黒丸が高梁の位置)

 これらを見ると、わたしのふるさと高梁は、いずれの災害の種からも遠く離れていて、安全なところなのである。日本一安全な地域かもしれない。
 豪雨で局地的に被災したが、それは日本列島どこでもありうることだから、大局的に見て比較すると、やっぱり高梁は日本でいちばん安全な地域だろうと思うのだ。
 地域振興にこういうネタを使えば良いのにと思う。

基地原発火山海嘯遠くして地震希なるふるさとに豪雨
               はるか故郷を想いて散人詠

2016/11/23

1234【津波避難放送】福島で大地震で津波が来るからいますぐ逃げろとラジオ放送の迫力のすごさ

 あ、枕が動いているぞ、ふっと目覚める、天井照明器具が揺れる、ああ、止まらないぞ、おお、地震だ、大きい、長く続く、本が降ってくるかな、起き上がる。
 枕元のラジヲをつけると、なんと咆哮する如き放送が、、。

今すぐ逃げてください、津波はすぐ来ます、できるだけ高いところに直ぐに逃げてください、ご近所にも声をかけ合って、直ぐに逃げてください、決して引き返していはいけません、東日本大震災の時を思い出して下さい、福島浜通りで大きな地震がありました、沿岸部の方は今すぐ逃げてください、プルルルル―、プルルルル―、プルルルル―、津波警報です、すぐ逃げて、、、、、、、

 おお、おお、初めて聞いた緊急避難指示の放送だ、ド迫力がある、途中に状況の放送も入るが、ほぼこの文句がえんえんと続いている。
 このあたりは津波に関係なさそうだが、聴き続けていて、だんだん怖くなってきた。
 起きて居間のTVをつけると、画面中央に真っ赤な字で「すぐにげて!」とあり、海を映している。あ、あの海の向こうから津波がやってくるのかと。画面を見つめる。
 このとき、自分の心の卑しさを知った。津波が来なければよいのにと願う気持ちの端っこに、あの津波の押し寄せる怒涛の風景をまた見たいと思う気持ちが潜んでいるのである。


 しばらく眺めていてもTV画面の中に変化はないので、緊迫感が薄れて寝室に戻る。
 ラジオはあい変わらずに、逃げてくださいを繰り返していて、こちらの方がはるかに切迫感がある。TVとラジオの違いに妙に興味がわいた。TV画面は実況でありながら、なんだか作り物臭いのだが、ラジヲのアナウンサーの緊張感ある言葉遣いが、生々しいのだ。

 と、新しい情報とて、福島第2原発で燃料貯蔵水槽の電力供給が切れたと言っている。え~っ、それは大変だあ、、、。

 すぐに逃げてください、福島原発がまた事故です、もうすぐ爆発します、放射性物質の核の毒が降ってきます、原発から20キロ圏にお住まいの方は、大至急に避難してください、直ぐにできるだけ遠くに逃げてください、決して引き返してはいけません、すぐにも原発が爆発するかもしれません、風が北向きですから、浪江町・飯館村・南相馬市のかたは大至急逃げてください、そちらの方に避難しないでください、今すぐ逃げてください、核の毒が降ってきます、、、、、、

 幸いにして、こんな放送はなかった。でも、5年前の3月にはこんな放送があったのだろうなあ、たぶん、、、、いや、なかったのかなあ、、、。

 ところで、今回の地震は北米プレートなるものが原因にあるかとか、、、、あ、なんだ、トランプのせいなのかい、だからか、TPP離脱という津波が押し寄せて来たもんなあ。



2016/04/22

1189【地震津波核毒おろおろ日録】ヒビ割れだらけ日本列島で天災人災から少しでも安全そうな地域をネット徘徊で探す

●天も地も右も左も上も下も大揺れの日々

 災害は忘れぬうちにやってくる。
 熊本を中心にして九州のお方たちは、いま、揺れる大地におそれおののいておられることでしょう、心からお見舞い申し上げます。
 日本列島では、お見舞い申し上げる立場が、明日は逆転して申し上げられる側になるのが、悲しい。
 
 「地震雷火事泥棒」と言っていた日本伝統の災害番付は、今や「地震津波原発ミサイル」と言い換えなければなるまい。
 日本列島のあちこちで地震が起きると思ったら、あれから5年でまたまた九州で大地震、そして太平洋の向うの南米でもおきて大勢の人が死んだ。
 火山の噴火も奄美とか箱根とか桜島とか阿蘇とか、煙を派手にあげる。
 負けてはいられぬと地震ナマズが奮い立って、熊本あたりで大地震を起したらしい。次はもうちょっと南に寄って南海トラフで暴れるぞって、ナマズも健在を誇示している。
 ヒビワレ煎餅かコナゴナ硝子板かの日本列島は、はたして人間が住むところなのか。

きな臭いのは大地ばかりじゃなくて、人間の方だよなあ。集団的自衛権行使問題なんて、東京のあたりを震源地にして、人間ナマズが暴れている。
 北方の海の向う半島付け根あたりから、日本列島の軍事基地とか核毒発生施設(原発のこと)めがけてミサイルが飛んでくるかもしれない。基地と原発からから遠くに住みたい。
 もう、この日本列島では、どこにに行けば安心して暮らせるのか、皆目分らない。
 外国に逃げ出す金力も気力もないしなあ。

●日本列島で比較的安全なところは、あるか?

 ということで、しょうがないから、せめて日本列島の中で暮らすに、ちょっとは安心できそうなところを探しに、これからネット徘徊にでかけよう。
 その条件は次のようである
(1)地震がないって無理だろうからせめて他と比較して少ないところ
「日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)」
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

1923年~2013年のM6以上の地震発生地図
http://kojishin.iinaa.net/jishinmap6.html#

(2)海で地震があっても津波がやって来ないところ
「国土交通省 津波ハザードマップ」
http://disaportal.gsi.go.jp/viewer/index.html?code=4

(3)噴火する活火山から遠いところ
「国土交通省 火山ハザードマップ」
http://disaportal.gsi.go.jp/viewer/img/japan/s6.gif
「内閣府防災情報 日本の活火山分布

(4)核発電所から遠いところ
「全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室」
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/
このページはスゴイ。
 
(5)軍事基地から遠いところ
これがアメリカ軍の日本での基地の分布

 もちろん、このほかに気候とか地形とか便利さとかもあるけどね。
 ということで、これをお読みのあなたは、どこかよさそうなところが見つかりましたか。

●地方創生は安全な地域であることからだな
 
 ところで、上に見た地図類は、どれもこれも危険なものがある場所を示すものばかりである。しかもこれらを一緒にした地図がないから、安全な地域を探すのがけっこう面倒である。
 どうして安全地図というか、逆ハザードマップがないのだろうか。誰か作ってくれるとありがたいのですが。

 近ごろ、痴呆じゃなくて地方創生なんて政策で、日本列島でだんだん減っていく人間を、各地域で奪い合う作戦を練っているらしい。こちらの地域こそいいところだと宣伝するのだろう。
 そこでこういう宣伝したら効果あると思いますよ。
 こちらの地域は昔から地震は少ないでのすよとか、つい最近大地震がったから100年以上は無いでしょう、とか。
 海から遠いから、絶対に津波はきませんよ、とか。火山からも遠いですよ、とか、核発電所から200キロ以上離れていますよ、とか、米軍基地も自衛隊基地もありませんよ、とか、。
 それを見ると、きっと移住してくる人が増えるような気がする。そんな地域逆ハザードマップを作ってはどうですか。
  
 実は、わたしもそう言う想いでいろいろなハザードマップを見ていて、わたしはなんとマヌケなんだろうと気が付いたことがある。
 それは、わたしが捨てた故郷が、日本列島の中でも有数の安全な地域らしいのである。今ごろそれに気が付くとは、なんとも皮肉なものである。
わたしが捨てた安全な故郷は高梁
 それでも、わたしには、身近に安全な場所があることを知っている。
 それは、あの世である。死んでしまえば安心も安全もないもんだ。
それを思うと気楽なもんだ。

●参照:地震津波核毒おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2016/04/16

1187【地震津波火事核毒】もういいかげんにしてくれ~未練はないけどこの世をいやになっちゃうよ~

 こんどは九州で大地震がただいまどんどん発達進行中である。こわい。
 なんだか震源地が北東に進んでいて、もうすぐ四国にわたって伊方原発直撃だろうなあ。
 そして南西にも進んで行けば、薩摩川内原発を直撃、おお、どうするのだろうねえ。
今さら核発電をやめても、完全に危険でなくなるまでには何十年、何百年もかかるとかで、こうなったら毒を食らわば皿までって覚悟して、あきらめの境地でこの列島でよろよろと生きて行くしかないのかなあ。

 ちかごろ身に覚えがあるだけでも、1995阪神淡路、2004中越、2007中越沖、2008岩手宮城、2011東日本+福島核毒、2016熊本・大分、もういいかげんにしてくれ~
 どこか安心して暮らすことができる所をおしえてくれ~。あ、そうか、一番手軽に行けるその地をおもいついたぞ、そう、あの世である。

2016/03/11

1180【震災核災5年目】福島核毒の地には野生動物たちが高濃度の放射性物質を摂取しつつ生きつづける

●福島核毒の森に生きるイノブタはどうしているか

 3年前にこんなニュースがあった。
東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)」

 わたしはこれを読んで、このブログに福島核毒の森に生きるイノブタのことを書いた。
 http://datey.blogspot.jp/2013/01/708.html
おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。
 でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。

 そのイノブタは今どうしているだろうかと、TV番組「被曝の森~原発事故5年目の記録~」(NHK)を見た。福島核毒の地に生きる動物たちの今をレポートしてくれた。その宣伝文句は次の通り。
福島第一原発事故によって、今なお7万人もの住民が避難して生まれた広大な無人地帯。5年の歳月で、世界に類を見ない生態系の激変が起きている。
 植物が街や農地を覆いつくすほどに成長。イノシシの群れが白昼堂々と街を歩き、ネズミやアライグマが無人の家に侵入して荒らすなど「野生の王国」化が進む。
 降り注いだ放射性物質は、特に“森”に多く残留していることが判明。食物連鎖を通じて放射性物質が動植物に取り込まれている実態も明らかになっている。“被曝の森”で何が起きているのか。世界中の科学者が地道な調査を続けている。

●元家畜は野生動物にはなり得ないらしい 

 でもTV映像には、野生化したブタもイノブタも登場しなかった。
 その一方で、イノシシはたくさん登場した。人が絶えた集落や田畑が草地へ森林へと還っていく核毒の地に、5頭もの子を連れた夫婦イノシシが、放棄された住宅を棲家にして、昼日中の道や畑をうろうろと走り回っている。
もともと野生のイノシシは生き残っても、元家畜のブタが生きるには困難な環境なのであろう。
 それにしてもイノシシたちだって、かつては人間の作物を横取りすることで生きていた面が大きかったはずだから、田畑が放棄された今、木の芽や草や虫を食って生きるのだろうか。

 そういえば2年くらい前までは、ブタに限らずウシやヤギや飼犬も放棄されて、無人の地を放浪していたニュースがあったが、彼らにも野生になることはできない環境なのだろう。それらの死体は他の逞しい野生動物の餌になったのだろうか。
 他に登場してきた動物は、サル、ネズミ、ハクビシン、アライグマなどだった。これらは人間に寄生しなくとも、野にあっても生きることができるのだろう。
 野生で一般によくいるはずのタヌキ、キツネ、ウサギ、イタチなどはどうしているのだろうか。

●高濃度放射線で野生動物ジュラシックパークか

 ところで、一度は高度の放射線を浴びたし、また高度の放射性物質を含む野山の果実や草木を食している彼らには、異常はないのだろうか。
 そう、ゴジラのように異常成長したイノシシは居ないのか、アナコンダのように巨大化したマムシはどうか、不謹慎ながらジュラシックパークを期待したが、そんなことはなかった。

 動物の異常を調査する学者たちの研究も紹介されたが、捕まえた動物の内臓等を調べると、高濃度の放射性物質が蓄積されつつあるという。だだし、5年くらいの短期間ではまだどう影響するのか分らないらしい。
 チェルノブイリでもいろいろ調査されているらしいが、ニホンザルはあちらにはいないし、人にいちばん近い動物だから、福島でのサルの調査は貴重なものになるらしい。

 ツバメの二つに分かれる尾羽の形が、左右でアンバランスになる異常が多く見られるとする動物学者もいる。植物学者によると、アカマツの枝の成長には明確に異常が見えるという。これらはどちらもチェルノブイリで見られる異常に似ているそうだ。

 映像の作り方が、動物相という地域の生態系に目を向けていなくて、特定の種の特定の個体の行動を追っているで、全体像が分からない。植物相についても、核毒地の植生調査をしている学者はいないのだろうか。
 生態系がどう変化しつつあるのか、その変化が異常なのか一般的なのか、その辺のことを知りたいものだ。もっとも、核毒まみれで調査するってのも、無理なお願いですね。

●野生の王国化した核毒の地は人間の地に戻る時が来るか

 さて、核毒の地に生きる動物たちの生活圏は、森林のある産地ではなくて、人間が放棄した住宅や田畑のある平地であることが分かったそうだ。それは捕まえたイノシシに発振器やカメラをつけてまた放して、行動圏を調べたのだ。
 そのイノシシが撮ってくれた映像に、除染をしている人間が写っているから、イノシシは人間を避ける必要がもうないとして、近寄って好奇心いっぱいで眺めているらしい。夜中に畑に出てくる動物ではなくなっている。

 空き家にはイノシシもハクビシンやアライグマも棲んでいる。たしかに野生とはいっても、地下の洞穴や木の洞に棲むよりも、チャンと屋根があったほうがいいだろう。
 こうやって集落は次第に野生動物の森になっていく。人間が田畑を作り住みつく前は、彼らの棲家だったのだから、還っていくと言った方がただしいかもしれない。
一昨年秋に浪江町で見た核毒で放棄された田畑が自然植生に覆われていく風景
この地の放射線量が減衰して、再び人間が戻ってきて住みつくことができる地になるのは、いつのことか分らないが、住みつくためにはなりの投資が必要であろう。
 果たしてそういう時が来るのだろうか。

2016/03/10

1179【震災核災5年目】3・10東京空爆を忘れまい、3・11福島核災を忘れまい

 2016年3月9日、なんと福井の核発電(高浜原子力発電所3、4号機)に稼働ストップの仮処分決定が大津裁判所から出されたそうだ。
 あの3・11事件以来、核発電所問題はようやくここまで来たのか、これで何かが変わるのか、いや、また別の判決が出てひっくり返るんだろうが、そうやって繰り返しつつ核発電所禁止へと進むのだろう。
 いやいや、その前に、もうひとつ大事故が来ないと変わらないかもしれない。広島長崎・福島と来て、三度目の正直で変わるのだろうなあ。

●3・10と3・11という二つの記念日

 明日は5年目の3月11日(東日本大震災)である。
 そしてその前の今日は、71年目の3月10日(東京大空襲)であることも忘れたくない。前者は2万人、後者は10万人の命が一気に奪われた事件だ。
 この二つの大災害の原因は、前者が天災であり後者が人災である大きな違いがあるはずだったが、前者に核発電所の事故による大災害を伴って、どちらも人災になった。

 3・10は東京だけの被災だが、3・11は東日本と言う広大な地域の被災であると、それらの違いを言う人がいるかもしれない。
 だが、3.10もじつは日本各地の都市が被災した空襲のひとつであったのだから、3・10よりも被災範囲は広かったし、被災期間も長かった。
 3・11では被災地に対する救援が、他の地域や他国からも行われたが、3・10とその前後の被災地は、他からの救援を受けることができなかった。どこもかしこも被災したし、国際的に孤立していたからである。平和な時のありがたさが分る。
 だが、地球上では今も空爆の日々の地があり、それを逃れようと脱出する人々がいるのが現実である。
 参照:無差別空襲の日々 
    http://datey.blogspot.jp/2011/08/475.html

 3・11の福島核毒拡散事件は、3・10東京大空襲の延長上にある8月に起きた広島と長崎の核爆弾投下事件につながるだろう。
 そして8・15となるのだが、とにかくそこから立ち直るには、わたしたちは15年もかかった。もちろん、広島と長崎の被曝者たちは、それで終わることなく、未だに引きずらざるを得ないままに生きて死んでいく。
 福島核毒被災者たちも、そうなるのであろうか。

●あれから5年目の対照的な二つのTV番組

 久しぶりにTV番組を見た。
 ひとつは、5年前の3月、あの福島原子力発電所がもたらした核毒拡散で、人影の絶えた広大な町や村の跡に復活しつつある野生の地、そこに生きる多くの野生動物たちの姿を映す「被曝(ひばく)の森~原発事故 5年目の記録~」(NHK 20160308)である。
 人間が入り込んで町や村を築くまでは野生の地であった土地が、いまや人間が放棄して再び野生の地に還りつつある風景である。
 人の営みのはかなさを思った。

 もうひとつは、5年前の3月、あの巨大津波がもたらした海辺の市街地の壊滅で、人影が絶えた広大な街の跡に復活しつつある新生の街、そこに再び生きようと帰還する人間たちの姿を映す「史上空前のまちづくり~陸前高田」(NHK 20160308)である。
 かつては野生の地や海を、いったんは人間の地にしたものの、津波によって再び野生に還った地になったのだが、これを再び人間の土地に還そうとする風景である。
 人の営みの強引なる強靭さを知った。(つづく)

参照
地震津波核毒おろおろ日録

2015/10/18

1134『いまなお原爆と向き合ってー原爆を落とせし国でー』大竹幾久子著

 本棚がいっぱいだし、もう読んでいる人生の時間がないし、カネもないので、これからは本を買わない、本棚にある未読本を読む、そこにない読みたい本は近くの図書館で読む、と決めて4年目だが、ついつい買ってしまった。

いまなお原爆と向き合って
―原爆を落とせし国でー
 大竹幾久子著 本の泉社 
          2015年8月発行

 戦争が終わって70年、終わるために大きな犠牲を払ったのが、アメリカが日本で爆発させた核爆弾であった。当時5歳の大竹幾久子さんは、爆心から1.7kmの自宅で、母子4人もろとも重症瀕死の被爆をした。
 医療もほとんどない中で、試練を超えてようやくに生を取り戻したら、10月になっていた。爆心近くで兵役の父は帰らないまま、残された母の戦後は更に壮烈だった。

 その大竹幾久子さんが、この夏に原爆を糾弾する本を出した。今はカリフォルニアに住むアメリカ人となっているのだが、その地で訴えているからこそ、迫力がある。
 一緒に被爆した母の証言の叙事詩のような言葉を、そのままに書き取ったオーラルヒストリ―が、じわじわとした迫力で胸に迫ってくる。
 これは英語版も添えてあるから、アメリカ人も読むだろう。その地獄絵の描写の一部を掲げる。


 Some were completely red, with raw flesh burns.

 The scorched skin slipped from their bodies,
 And hung in loose strips, like paper streamers.
 And their faces!
 Eyes,noses,mouths,ears had all melted down.
 And the hair...the hair...
 Had burned away from the scalps.

 A man's arms and legs...were almost torn away...

 We saw his bones protruding like bloody skewers.

 And One...

 Had a gaping hole in his chest...his ribs were exposed

 And One...

 His belly was split open,
 And oh,he was holding his bowels in place!

 And one...

 His skull was smashed open...
 One eye dangled down on his cheek,

 And Another...

 His head was split so badly...
 l couldn't tell which side his face was on.

 All were streaked with blood and dirt.

 The lucky ones still wore shreds of pants、
 Scorched and tattered though they were.
 But most wore no clothes at all.
 Their garments were shorn away
 Or burned off by the bomb's searing blast.

 l saw masses of naked, bloodied,burned flesh,gasping faces so disfigured

 That l could not tell the men from the women.
 This one...that one...
 l had never seen such horror!
 Were they truly human beings?

 l once saw a painting of hell.

 But l swear this sight was more nightmarish than that



 アメリカで歌詠みとなった著者は、原爆のことから原発のことへと、切ない思いをくり広げて詠う。


 被爆後に小二で我は主婦となり作りし夕餉は毎日目玉焼き

 爆心地で死にたる父はアメリカに帰化せし我を許し給うや

 体内に残留放射能もつ不安 押し込めて生きしこの七〇年


 戦後70年とは、原爆被害70年であるのだが、それは戦争という大きな渦巻で見るだけではなく、その渦の中の一人一人の人間がいることを忘れてはならないと、これを読んでおもいなおしたのであった。
 核毒問題がフクシマであらためて襲ってきながらも、この実に身近な核毒恐怖さえも、もう忘れて核発電の再開をする日本という国家、そして核爆弾の恐怖は、いまも更に地球を覆い尽くしつつあって、大竹幾久子さんの静かな怒りは続く。
 わが身に潜む70年の恐怖を、こう裏返して見せるのである。


  おめでたい話

 あれから70年以上も生き延びて
 めでたく もう古希も過ぎた

 近ごろ ときどき こんなことを考える

 放射線は細胞に突然変異を起こさせるという
 ひょっとして わたしの細胞は放射線の好影響を受けて
 老化せず

 わたしは世界一の長寿者になるのではないかと


なお、著者の夫も兄も、わたしの大学時代からの親友である。

関連ページ
500・カリフォルニア歌人
https://datey.blogspot.jp/2011/09/500.html
879・カリフォルニア閨秀歌人の歌が朝日歌壇に入選した
https://datey.blogspot.jp/2013/12/879.html
648・日本人は5度目の大被曝体験をしても原発を動かす
https://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html



2015/10/05

1130【地震津波核毒騒動】東北地方の津波被災地復興に取り組むアドボカシーな都市計画家たちの重くて軽い存在

 新国立競技場の計画に関して、都市計画家という職能の専門家が関わっていることを、このブログの記事に書いたら、それまでに書いた多くの新国立競技場関連記事の20倍以上の読者数になり、これを「炎上」というのであろうか。
 都市計画家って、それほど人気があるものなんだ、え、ほんとかよって、面くらっている。
 では、都市計画家が関わる別の話を書こう。これも「炎上」すれば、都市計画家の人気度合いが本物かどうかわかる。
(追記:この記事を掲載3日後のアクセス記録は、この前の新国立競技場の都市計画家の記事の10分の1にも及ばない。残念)

●東北の復興に関わる都市計画家たち
 東日本大震災から4年半、各地の復興の動きに、都市計画家たちも当然にかかわってきている。
 だが、いろいろなメディアに復興の動きと諸問題が報じられるが、それを支援している都市計画家たちのことは、ほとんど出てこない。いったい何をしているのだろうか。
 昨日(2015年10月4日)、NPO日本都市計画家協会(以下「家協会」と言う)が主催する「全国まちづくり会議」において、その家協会が会員の都市計画家を現地に派遣して支援する復興計画について、復興の現状、問題、展望などについて報告とシンポがあった。

 巨大津波で壊れ失われた街への都市計画家の復興支援とは、行政が作る大きな網かけの復興基本計画づくりへの仕事から、その網目から漏れた小さな集落住民が自力で取り組む復興へのボランティア的支援まで、大小いろいろな段階がある。
 聞いてみると、家協会が現地からの要請によって派遣している先は10地区ほど、いずれも上に述べた後者の、小のほうにあたる地区ばかりらしい。派遣専門家は20人足らずのようである。
 
 だから、大の復興計画づくりのような大きな金が行政からでるものではないから、家協会も専門家たちもカネの苦労をしている。
 とにかく地域の住民たちとひざを交えて、これからどうしたいのか、話し込んで聞くことから始める。初めは手弁当で通うしかないが、そのうちに行政から地元への支援金がでると、そこから家協会にいくばくかはまわしてくれることもある。
 あるいは家協会が諸財団や企業の公益支援事業に応募して、いくばくかは自前調達する。

 しかし、いずれにしても交通費程度の費用にしかならないから、専門家としての人件費は持ちだしボランティアである。「金持ちでないと専門家としての支援継続は難しい」と、報告者の専門家から述懐があった。もっとなことである、泣けてくる、シクシク。
 都市計画家たちは、いずれも小さな都市計画事務所を構えているが、家協会は個人会員制だから、個人のボランティア仕事に所員を使うわけにはいかないし、そのようなカネはでないが、とにかく忙しい。大学の研究者である都市計画家たちもいるが、同じようなものだろう。
 しかも、地元密着型であるから、時には行政計画に対する批判も含む地元型復興計画づくりになるから、これを行政が支援する筈もない。

●大きな行政復興と小さな地元復興
 家協会が派遣している専門家たちは、いずれも都市計画家の職能から言えば「建築・まちづくり系」である。
 都市計画家に一般分類があるのではないが、大別して「土木・都市基盤整備系」(仮に「土系」という)と「建築・まちづくり系」(仮に「建系」という)があると言えよう。もちろん、この境界は明確ではないが、その人の大学での専攻が土木系か建築系かで分れる。
 家協会会員にはそのいずれもがいるが、派遣しているのは家系のようだ。

 聞いてみると、各被災自治体が国政府の支援を得てつくる大きな復興計画は、土系の都市計画家が受注したらしい。
 これに建系がはじかれたのは、国が支援にあたって起用する都市計画コンサルタントを、土地区画整理事業の実績のある土系にせよと指示したからだそうだ。どうやら土系の大学教授が国を指導したかららしい。
 その大復興計画は、巨大防潮堤、広範囲盛土市街地、丘上住宅地となって、今、現れつつある。

 だから建系都市計画家は、その巨大計画から漏れた小集落の復興支援とか、あるいは行政と対立する住民たちの相談相手とか、大復興計画の中の一部のまちづくりとか、小さな復興へと取り組んだのだ。しかもどこかからカネを調達してくるしかない。
 派遣専門家がその大きな復興計画の携わっていれば、それとあわせて小さな復興計画にも動くことができるのだが、そうはうまくいかないものだ。

 もっとも、そのことは支援する都市計画家にとっては、誰に雇われているのでもない個人だから、柔軟にして自由に発送し行動できる専門家として、復興への思いを地域の人々と一緒に計画へと積み上げて行き、行政の計画に反映させることもできるのだそうだ。
 家協会の考える復興のあり方は、自立と持続をテーマに、住民が自ら考え、住民が自ら行動することを支援することで、地域の自立的復興を促し、そこから持続するコミュニティーを組み立てることにあるという。
NPO日本都市計画家協会の考える復興のあり方

●アドボカシープランナーとしての都市計画家
 これが全部でもないだろうが、小さな地元からの復興計画は、そのような専門家たちの支援状況で動いているらしい。
 これはまさにアドボカシープランナー(advovacy planner)である。だが、それで食える道は、今の日本にはなさそうだ。
 これまでのそのような努力に、心から敬意をはらうのである。2004年中越震災での経験を、わたしから言えば次世代の都市計画家たちが、立派に継承していることに感激したのだ。
 家協会による2005年からの中越復興支援は、限界集落のある山村に集中的にかかわり、古民家を手に入れて、どっぷりとはまり込んだ。あちこちから支援資金を受けながら、似たようなもんだったなあと、回顧と反省をしたのであった。
 中越支援は今は日本都市計画家協会の手を離れた。その時の支援仲間たちが出資して地元組織として会社を設立し、集落住民に「帰化」してしまった仲間のひとりが社長となり、棚田で米つくりをしつつ、村起しに取り組んでいる。

(追記;10月4日の全国まちづくり会議の震災復興フォーラムで報告したプランナーの名前を列記しておく。小泉秀樹、江田隆三、神谷秀美、高鍋剛、渡会清治、加藤孝明、内山征)

●参照:法末集落へようこそ 
https://sites.google.com/site/hossuey/
 
●参照:地震津波核毒オロオロ日録 
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
 

2015/05/31

1095【小笠原地震】大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

●天も地も右も左も上も下も大揺れの日々

 久しぶりに大揺れだったなあ、小笠原のあたりが震源だとか。
 うちの7階空中陋閣借家は、ユッサユッサ、歩くとフラフラしたのは、ただいま第4腰椎圧迫骨折の身の身障者体験中のせいもあるが、歩行する足を上げておろそうとすると、そこの床が逃げるのであった。ユラユラ歩く。
ひび割れガラス板に乗る日本列島

 やや、なにやら家の中でザ~ザ~水が流れる音がする。7階まで津波がやってきたか。
 なんとまあ、風呂の湯が大波となって蓋を押し上げ、津波となって洗い場をバチャンバチャンと襲っているのである。
 この風呂の湯の流失による損失が、今回の唯一の震災被害であった。

 このあたりは幕末の開港の街として、入り江を埋め立てつくったから、地盤が悪い。
 こういう類の地震があると、なにやら長周期地震動とか言って、高層ビルはユルユルと大きく揺れるのだそうだ。それが嵩じるとポキンと折れたり、バタンと倒れるのだろう。
 倒れなくても歪んだら、鉄ドアが開かなくなって幽閉さてしまう。あわてて玄関を開けたのであった。

 一昨日は奄美群島の口永良部島で火山の噴火、近くの箱根山が噴火するらしいなんて言ってたら、遠くでこの噴火、それに桜島も噴火だそうだ。
 そういえば御嶽山の噴火があったなあ、こうなれば近くの富士山も負けていられないって、噴火したくてウズウズしているんだろうなあ。
 火山ばかりにいい格好させたくないって、地震ナマズが奮い立って、小笠原あたりで大地震を起したらしい。次はもうちょっと北に寄って、東南海トラフで暴れるぞって、ナマズも健在を誇示している。地球がきな臭い。
 そういえば、つい先日茨城県あたりでも揺れたなあ。だんだん近づくずくなあ、楽しみだなあ。

 きな臭いのは地球ばかりじゃなくて、人間の方だよなあ。集団的自衛権行使問題なんて、東京のあたりを震源地にして、人間ナマズが暴れている。
 遠くのISとか凹ハラムとか北コリアとかって人間ナマズも暴れているらしい。
 もう、この地上では、どこにに行けば安心して暮らせるのか、皆目分らない。日本列島はなんだかひび割れガラス板に乗っているようだしなあ。

 それでもいくところがないから、せめて日本列島の中で暮らすに安心できそうなところを探してみよう。
 その条件は次のようである。
(1)地震がないって無理だろうからせめて他と比較して少ないこと
(2)海で地震があっても津波がやって来ないこと
(3)噴火する活火山から遠いこと
(4)核発電所(原発のこと)から遠いこと
(5)軍事基地から遠いこと
(6)気候が寒冷あるいは猛暑でなくて温暖なこと
(7)山間や荒蕪の僻地でなくて適当に便利なこと
 
 この中での「~から遠いこと」の条件だが、実はどれくらい遠くなら良いのかわからないから、まあ100~200kmくらいにしておこうか。

●日本列島で安全なところは、ここだ!

 実は、先ごろそう思って、あれこれ調べていたら、その結果が実に意外なところにおさまったのであった。そこは、わたしの生まれ故郷(岡山県高梁市)だったのだ。
 ぴったりとあてはまったのは、客観的データによるのであるから、贔屓目じゃなくて、本当ですよ。
 このブログにそれを書いていたのだが、一部補足整理してここに採録する。
高梁の位置
(1)の地震問題である。
 これ↓を見てください。高梁のあたりは地震が少ない。
  日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 (2)の津波問題である。
 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のよう。
 中央防災会議資料 http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif
 東南海トラフ大地震が起きても四国の向うの事件だし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川を遡上して到達するには、あまりに遠すぎる。

 (3)の火山問題は、鳥取県の大山が一番近いが、それでも結構遠い。富士山が爆発しても、高梁まで灰が降ってくることはなかろう。

 (4)の核発電所問題である。
 島根原発が、高梁に一番近いがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
  全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 (5)の軍事基地問題は、一番近い米軍基地は山口県岩国だから、これもかなり遠い。

 (6)の気候問題は、住んでいた少年時代の記憶では、雪はめったに降らないし、猛暑でもない、温暖な地であった。
 ところが最近、ときどき日本一の猛暑ランキングに高梁市が登場する。この50年ほどで気候変動が起きたのか。不思議だ。
 故郷に住む旧友に聞けば、昔と変わらないけど、その原因は、最近、数年前に気象台の測候所ができたことだという。え、なんのこと?
 住民が肌寒い日であっても、「今日は日本一の高温」と発表されて、奇妙かつ不思議な気分だそうだ。「気温を測ってる場所がおかしい」とのこと。ということで、(6)も、まあ問題なしとしよう。

 (7)の僻地問題は、地方都市としては、そこそこに便利なところであるから、良しとしよう。

 というわけで、生れ故郷は良いところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知ったのである。
 わたしの生まれ故郷だけがそうではないが、各地域がこの地こそ安全な条件にあることを宣伝すれば、日本列島の人口再配分が進みそうな気がする。
 この場所は危険だという情報はたくさん出てくるようになったが、ここなら安全だという情報が意外に少ないのは、どういうわけだろうか。

 もっとも、わたしは今の地から逃げ出すには、もう間に合わない。生まれ故郷にはもうひとりの親戚もなし、父母の住んだ家も空き家問題解消のために処分した。
 だが、わたしには、ひとつだけ逃げ出すべき安全な場所が、かなり近くにあるのだ。これを思うと気楽なもんだ。
 それは、あの世である。。

2015/02/24

1061東電福島原発事故は浪江町請戸の住民たちを直接に殺していたのだった

福島県飯館村の長谷川さんの話を聴いたときに、同時に上映された映画が「日本と原発」であった。
 この映画は、福島原発被災住民を支援している弁護士たち(河合弘之、海渡雄一)が制作した。福島原発事故の悲惨さと原発なるものの非情さを、論理的かつ平明に伝える。
 
 そのなかで、わたしが昨年の秋に訪ねた福島県浪江町請戸地区が登場して、その被災者や救難活動の話がある。請戸のことは、わたしはここに書いている
 請戸は福島原発の有る双葉町の北に隣接する街で、地震、津波のうえに重ねて、核毒がやってきて3重苦をこうむった。
 その今や核毒の荒野が広がるむこうに、原発の排気塔が3本立っているのが見えていた。
 わたしがそこで余所者として見ただけでは、想像もできず実感もできなかった衝撃的な話が、映画の中で語られた。
福島県浪江町請戸 荒野の向こうに3本の原発排気塔が見える 2014年9月

3月11日、請戸地区の街は地震と津波で、完全に瓦礫の地に変わり果てた。その瓦礫の下には、生きたままに閉じ込められた人たちもおおぜいいた。すぐに救助活動が始まり、夜まで続いた。ある消防団員は、瓦礫の下から助けを呼ぶ合図を聞いいた。
 夜が更け、機材のない、大浪警報も出たので、明日来るから頑張れといって、去った。ほかにも生き埋めの人たちが居たに違いない。
 
 ところが、12日早朝に、原発から10キロ圏内からは避難せよとの指示が出た。救助活動よりも、住民避難誘導を優先せざるをえないので、救助に行けなかった。
 それでも13日までは何とかは入れたが、原発が爆発した14日からは、避難指示地域に指定されて入れなくなった。救助を待っていた人が居ただろうに。


 ようやく入れるようになったのは1か月後の4月14日のこと、それも規制をくぐってひそかに入った人が、意外にも低線量であることを発見したからだったという。
 原発はすぐ隣を超えて核毒を遠くに広くばらまいていたのだった。なにしろ絶対に起きないとされた事故だから、なにが起きるかだれもその対応を考えていなかったのだ。
 腐乱した遺体を搬出する作業になった。それは餓死かもしれないが、助かる命はあきらかに原発のために殺されてしまった。

 地震と津波の2重苦であれば、次の日に救助に行くことができたのに、3重苦めのせいで死が積み重なった。
 あの3重苦の核毒の荒野には、そのような恨みつらみがこもっているのであったか。
 被災地の実情は、眼でみなければわからないが、見ただけでもわからないことだらけである。

2015/02/23

1060東電福島原発核毒バラマキ事件の最悪トバッチリ被災地・飯館村の酪農家の話を聴いた

 東京の青山で、飯館村のこと、福島原発のことなど、見聞きしてきた。
 あの東電核毒バラマキ事件の最大のトバッチリ被災地である飯館村から、酪農家・長谷川健一さんがやってきて、彼が3・11から記録してきたドキュメンタリー映画を見て、話を聴いたのだ。

 わたしは昨年の秋、飯館村を訪れてその実情を見学してきた。そのことはここに書いているhttp://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html
 そのときは余所者として、表面的なことしかわからかったが、地元住民の立場からの映像と実情と意見を聞くことができて有意義だった。わたしが現地を見てきたからこそ、彼の話がよく分った。
飯館村の酪農家・長谷川健一さん
東京青山の東京ウイミンズプラザにて 20150222
村の長谷川さん(左端)
酪農家仲間の板書きの遺書


村長(右)ともとことん話して方針違いで決別
牛舎で餓死した牛のミイラが累々

山林を除染しないから集落にも農地にも核毒は流れ下ってくる

福島県民の初期被曝線量5ミリシーベルト以上の被爆者のうち8割が飯館村民

それでも原発は地震多発地帯にぞくぞくとできるし輸出さえもしている現実は、、

 長谷川さんが描いてくれた映像で、仕事も生活も家族もコミュニティも、そして大地さえもが原発核毒によってどんどん崩壊していく様は、まるで地球が溶解していくようだ。よって立つ大地が核毒汚染で、人間のものでなくなっていく。しかも人災で。
 その加害者は東電と国家という巨大組織であり、被害者は個々人であるという図式の中で、そのあまりの理不尽な仕打ちが続く。
 長谷川さんは、悩んだ末に村長とも決別して、ひとりの人間として、酪農家として、集落の長として、巨大組織に対抗して立ちあがっていくのである。

 なにしろ、よるべき土地が消滅したのだから、未来はもちろん明日さえも見えない先行きである。
 たとえ核毒が去って、よるべき土地がよみがえるころは、もう長谷川さんたちはこの世にいない。もしかしたらその次の世代もいないかもしれない。
 それでどうやって未来を描きうるのだろうかと考えても、暗澹たるものだ。
 未来が見えない被害者には、自死を選ぶ人たちもいるそうだ。長谷川さんの酪農仲間が「原発さえなければ」と壁の板に遺書を書いて自死した。超高齢老人が家族の避難の手足まといにならないようにと、自死を選んだ。

 加害者たちが絶対に起きないと言っていた原発事故が起きて、大量に広範囲に核毒をばらまいたのだから、再び起きない保証は何もない。
 とりあえず未来をみるには、再びこのようなことが起きないように、今の時代に原発を禁止するしかない。長谷川さんが未来のためにできることは、それだけだ。
 長谷川さんだけではなく、それは3・11経験世代がやらねばならないことである。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/12/21

1040東京駅開業百年赤レンガ駅舎復元に浮かれて戦災遺構消滅問題をだれも問わない

 今日の新聞(2014年12月21日朝日新聞東京版)のふたつ並ぶ記事に注目する。
 記事のひとつは、「赤い駅舎守った愛」なんておセンチな見出しで、赤レンガの東京駅が開業から100年目を迎えたこと、その建物が戦災で当初とは変わっていた姿を昔に復元したことである。復元を賛美している調子である。

 もうひとつは、{宮城・岩手 大型遺構は取り壊しも」とのみだしで、東北の街に散在する東日本大震災の大きな災厄を記念する遺構や遺物を、どのようにして保存をどうするか現地ではいろいろと動きがあるが、大型の建物の類はほとんど壊されつつあるというのである。

 この二つの記事は別ページながら隣り合わせに載っていて、新聞屋は意図としなかったかもしれないが、読みようによっては重要な関係がある。
 一方は戦前の有名建築を市民たちが努力して保存復元に持ち込んだとするものだが、もう一方の方は、あれから3年余でもうその災害遺構を壊しているとして、対照的な態度であることの記事である。
 
 だが、わたしが読めば、どちらの記事も災害遺構の扱いについて、どうも冷淡で災害を忘れたがる日本人たちについての記事である。
 というと、たいていの人は、東日本大震災の遺構については災害のことだけど、赤レンガの東京駅がどうして災害遺構に冷淡な日本人の話なんだよ、と思うだろう。
 実は、復元前の赤レンガ東京駅舎は、日本に2つしかない第2次世界大戦の壮大なる災害遺構建築だったのである。それを復元によって事実上の取り壊してしまった。

 二つしかないと書いたが、そのもうひとつは広島の原爆ドームである。あちらは幸いにして復元されないで、原爆の悲惨さをそのままに今も建っている。
 東京駅は1945年5月にアメリカ軍の空爆によって炎上し、レンガとコンクリートの骨だけになったものを、あの物資のない時代に2年がかりで修復した、あの不幸な時代の記念的建築であった。
 日本の戦争の悲劇ばかりか、そこからの復興への歩み出しを体現する、実に貴重な建築だったのだ。日本人のほとんどが一度くらいはここを利用したことがある有名建築だった。

 いまからちょうど百年前の1914年開業から、1945年空爆炎上までの存続期間は31年だった。そして修復開業した戦後の姿が出現した1947年から、復元工事で消え去る2007年までの期間は60年間だった。戦前の姿よりも戦後の方が、2倍も存続していたのだ。
 わたしたちが知っている戦後復興の東京駅は、復元という美名に聞こえる義挙(偽挙)で、戦争という大災害遺構を消滅させてしまった。

 ここに至る間に、原爆ドームの様に戦争の悲劇の記念碑としての保存価値を論じた気配はない。
 1947年よりも1914年の方が昔だから、なんでもかんでも昔の方が良いという今の世の昔帰りの風潮は政治のトップに典型的だが、庶民も今回の衆議院翼賛選挙で見る様にそうらしいばかりか、建築史学者も建築家たちもそうらしい。
 戦争で被災した建築なんか見たくもない、でも新建築の建て替えるのも時代の風潮からダメらしいから、この際ちょうどよいから容積率を売った金で、昔の姿に建て直そうってことにしたのかもしれない。

 そうやって出現した金ピカ東京駅は、ディズニーランドさながらのミーハー的姿で、まさにミーハーにもてはやされている。
 今日のニュースによれば、記念の特別デザイン乗車カードを買う人たちが何千人も集まってきて混乱大騒ぎになったとか、まさにミーハーテーマパーク化は成功した証拠である。
 それにしても、なんで大勢の大人たちがこんな子供じみた騒ぎを起こすのか、私には世の中を理解不能になってしまった。

 建築を文化として保存することに意味を忘れてしまったらしい。単に懐古趣味の成金の産物に成り果てたようだ。
 文化人類学で文化とは、人間の行為の総体をいうから、戦争という人間の最悪の行為も文化である。福島の核毒事故(原発事故のこと)も文化である。そしていずれも忘れないように記念遺跡を後世に伝えることも文化の行為である。
 したがって、金ぴか復元建築も新たな歴史文化に踏みだしたことになるのだ。また30年後に起きる戦争で焼けることになり、それを修復復興してから60年目にまた昔の昔の姿に復元する、なんてことを繰り返すのであろう。それもまた人間の文化であり、歴史である。

 さて、東北の被災地に横たわる被災建築遺構は、どのような思想をもって後世に伝えることができるのか、あるいはできないのか、なかなか興味深いことである。
 なかでも人災として戦争にもひとしい大災厄の原発事故による核毒被災遺構をどう扱うか、これには最も注目していきたい。
 わたしは福島原発を世界文化遺産と世界記録遺産に登録するように唱えているんだが、だれも注目してくれない。

再び唱える「福島原発を世界遺産に」
http://datey.blogspot.jp/p/2011321-httpdatey.html
 

◆「東京駅復元反対論」(まちもり散人サイト)については下記を参照
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokyoeki


2014/10/27

1017【福島東電核毒地帯徘徊9】バス内はいま十マイクロシーベルト車窓の街が溶けて流れる

 こんな歌が今朝(2014年10月27日)の朝日歌壇に載っている。

   枝道を鎖して入れぬ区間あり長い六号線息止め走る
                   (福島市)青木崇郎

 わたしも9月に、まさにこの体験をしてきた。青木さんには無粋をお詫びしつつ、この歌の風景を写真でお見せする(2014年9月20日撮影)。

双葉町の帰宅困難区域内の国道6号には両側がバリケード20140920撮影

これは双葉町と大熊町の福島第1原発のすぐそばを通る国道6号の一部で、普通なら核毒濃度が髙くて立ち入り禁止の「帰還困難区域」のなかを、特別に通り抜け許可区間である。
 しかし、核毒が国道だけ薄いってことはあり得ない。通る車は窓を閉め切っておかなければならないし、もちろんバイクや自転車は走行禁止である。どの車も全速力で走り抜ける。
 その時のことを、わたしのブログにこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1005.html

 そして、わたしもその国道区間のことを歌に詠んでみたのである。

双葉町にて     まちもり散人

バス内はいま十マイクロシーベルト車窓に街は溶解しつつ

帰還さえ困難という異界にておののきおののき疾走に疾走

国道は左右に連なるバリケード核戦争の市街戦なるらし

 そのほかにこんな歌を詠んだ。

浪江町にて     まちもり散人

破れ船核毒の荒野を漂えば舳先のかなたは壊れ原発


海嘯に弄ばれたる死者の群いまだ雑魚寝の核毒の荒野


雲低き核毒牧野に群れる牛一瞬の陽光降りてまた閉ず


核毒の里にも秋の実りあり茸に落ち栗ひろいて食らわん

 この浪江町で見たことはこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1003.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1004.html
http://datey.blogspot.jp/2014/10/1006.html

飯館村にて     まちもり散人

肥沃土を剥ぎとる除染の黒袋稔りなき田に鄙の賑わい


秋深く核毒の荒野ひろごりて眼閉ずれば黄金の穂波

人は逃げ鳥も蝶も飛び去りて核毒の地には介護老人

見わたせば人も稲穂もなかりけり核毒村の秋の夕暮れ

飯館村でのことは、こう書いた。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/999.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1000.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html

参照⇒地震津波核毒オロオロ日録