2020/04/30

1460【コロナ幽閉の日々】空中陋屋に幽閉蟄居の身にできることは「おろおろ日録」を書き連ねるばかり

 誰もかれもがコロナ屋敷の座敷牢に幽閉された日々が続く。出歩くとコロナウィルスに出会うから逼塞せよの戒厳令である。
 この新型コロナウィルスによる第3次世界大戦は、いつまで続くのだろうか。
 そして対ウィルス戦に人間側が勝利する日がいつか来るとしたら、そしてコロナ大戦後の世界は元通りにならないとしたら、いったいどんな世界が来るのだろうか。どんな日常になるのだろうか。

 興味津々と言っては語弊があるが、わたしの人生でこのような大戦争に出会うことは、またとないだろうからしっかり見届けたいと思うのだが、そこまで生きていられるだろうか。
 何しろ対岸の火事見物ではなくて、わが身にコロナがとりつくおそれも十分にある。

 だが実は何もしないことがコロナから逃れる道だというのだから、ただただオロオロと過ごすしかない日々である。そう、このブログに「コロナ大戦争おろおろ日録」を記すばかりである。
 なんだかグダグダと書いているなあ、われながらオロオロだなあ。

 これまでにこれに似た日々があった。それは、2011年の3月に起きた東日本大震災そして引き続いた福島核発電所大事故の後の日々であった。
 あの時もただただオロオロと「地震津波核毒オロオロ日録」を書き連ねるばかりだった。
 その記録を1年づつまとめて編集し、わたしの趣味「まちもり叢書」(DTP)に4冊の本にした。
(まちもり叢書第14号)
「福島原発を世界遺産に― 地震津波そして原発の日々(2011)」
・地震勃発記 ・地震おろおろ日記 ・福島第1原発を世界遺産に登録しよう 
・原発おろおろ日記 ・津波と戦争そして原発1933年と2011年 
・原爆と原発の夏 ・核毒の森へ ・ 分らん原発の日々
 (A5版 108ページ  2012.05発行)

(まちもり叢書第15号)
「地震の自然と人間の文化ー2012年 地震津波そして原発の日々」
・『津波と村』海辺の民の宿命か ・絆を解いて民族大移住時代へ
 ・森の長城が津波災害を防ぐ ・森の長城で大津波に備える市民プロジェクト 
・震災復興で自然と人間はどう折り合うか 
・日本で地震津波原発基地 から安心な町はあるか

(まちもり叢書第19号)
「広域巨大災害があぶり出す日本列島の人間のはかなさ
ー地震津波そして核毒の日々・2013」
・再び唱える「福島第1原発を世界遺産にしよう」
・震災核災3年目 ・東北大津波被災地を訪ねて(名取、東松島) 
・奇蹟の一本松のレプリカ復元保存の意味は  他

(まちもり叢書 第21号)
「核毒の荒野へー地震津波そして核毒の日々・2014」
はじめて福島県の原発事故被災地に行ってきた。
核の毒に汚染された地域は復興がありうることなのか、
われわれ都市計画プランナーにできることはあるのか、
あまりに多くのことを考えさせられて、
心の中にどんよりと澱のようなものが溜まっている。
 あの時はいわば内戦であったが、今回世界大戦である。一般論としては内戦のほうが身辺に影響があるものだ。確かに地震で本棚が倒れたり、停電などの身辺に被害があったが、被害とも言えないくらいであった。
 それにしても、広範囲にわたって壮絶な風景が日に日に明らかになっていく体験と、その後にどのような地域が再登場するのかはらはらしたが、その思いは今と似ている。

 そしてまた、今のこの状況は1945年に終わった第2次世界大戦に似ている。
 あの戦争は1931年から15年も続いたが、わたしは幼少年だったし、静かな田舎町にいたから、真に体験しているとは言い難いが、父が3度も戦場に駆り出された戦中の家庭と世の中の雰囲気、そしてなによりも戦後の空腹の日々を戦争の傷として忘れない。

 今回も世界戦争だが、先の戦争のように目に見える空爆や身辺から物がなくなり人が居なくなっていくことは起きていない。それにも関わらず、毎日の行動に制限が誰にも及ぶことになるとは、身近な戦争である。
 いやいや、これから、人が居なくなっていく現象が身近に起きるかもしれない。自分自身がコロナに連れ去られる恐れもある。

 わたしがあの頃に大人だったら「太平洋戦争おろおろ日録」を書き連ねていただろう。そう思うと、長くもない人生なのに、2度も世界大戦に出くわすとは、今回は大人だからしっかりと見てやろうと思う。
 それにしても良いことは何にもなさそうだから、気が滅入るのは仕方ない。これから死ぬしかない身はともかくとして、次やその次の世代はどのような戦後の日々を送るだろうか、心配でならない。杞憂になってほしい。
 とりあえずは趣味の本づくり「まちもり叢書」に、「コロナ大戦おろおろ日録2020」制作を目標とするか。

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