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2014/10/20

1014神奈川大学初期キャンパスデザインについて近藤正一さんの話

 横浜にある神奈川大学の建築学科創設50周年とて、記念の講演会を聴きに行ってきた(2014年10月18日)。講演者は、近藤正一さんと槇文彦さんであった。
槙さんのお話は、ご自分が設計してきた数多くの大学キャンパスの建築について、名古屋大学豐田講堂から始まり、この講演会の会場であるセレストホールまでの解説であった。
 さすがに日本の東西はもちろん世界東西にわたっての仕事である。偶然にも、わたしはこの二つだけを見ているが、そのほかは見ていない。

 近藤正一さんの話は、かつて山口文象が率いるRIAが、神奈川大学のキャンパス計画コンペに当選して以来、営々と校舎の設計に携わってきた歴史物語である。
 そのお話をかいつまんで書いておく。なお、講演はは中井邦夫さんとの対談形式であった。

 1953年、神奈川大学キャンパスの綜合計画が指名コンペになった。指名されたのは、山口文象のRIA,久米権九郎の久米事務所、吉原慎一郎の創和設計であり、審査は神奈川県建築部営繕課の人であった。
 1953年は、山口文象、植田一豊、三輪正弘の3名でRIAの発足の年であるから、この3人でコンペに勝ったのだった。

 3人の建築家は、戦後民主主義の嵐の中で、建築家共同設計集団として歩もうと、Research Institut of Architecture(RIA)なる不遜な名称をつけたのであった。戦前に建築界では名を成していた山口の名を冠しないところに覚悟ほどが見える。
 もちろんこれは山口文象の師であったW・グロピウスがアメリカに亡命して組織したThe Architects Collaborative(TAC)に倣ったのであった。

 こうして山口文象は戦後の出発をしたが、3人の誰も財界のバックはなく、あるのは意気込みだけだった。庶民の小住宅設計で、ほそぼそと動き出す。
 そのRIAが神奈川大学の仕事を得たことは、歩み始めるにおおきな出来事だった。神奈川大学がRIAを、ゆりかごから育てたのであった。

 キャンパス全体の配置計画である「神奈川大学綜合計画」は、何段階かの変容をしていく。中庭や広場を考えながら、幾何学的な形態で構成していく。現代のキャンパスデザインにみるような曲線を使うことはなかった。
 山口文象のデザインの真髄は、コンポジションとプロポーションの厳格さ美しさにある。考えていくうちにしだいしだいにそぎ落とされて行く。
 「プレーンソーダのようなさわやかさ、後味の残らないデザイン」と、山口文象が言っていたことを近藤は思い出す。 

 1954年からほぼ1年おきに校舎が立ちあがるという猛スピードであり、1969年に一段落する。
 はじめの10年くらいは綜合計画に寄りながら進められたが、後半はかなり乱れて、前半と後半ではかなり違うことになっているようだ。それは大学の急速な拡大に対応するために、とにかく建てなければならなくなり、粗製乱造気味になった。

 1955年にできた3号館(2012年取り壊し)は、山口文象の担当によるものである。集団設計を標榜したRIAでは、山口文象も担当者に一人になるのだった。
 コンクリート造なのに細いフレームで木造の木割のような表現である。この構造設計は岡隆一で、バランスドラーメンと言われる方式だった。
 実はRIAで山口文象が担当した建築は多くはないが、その中でも大規模なものがこの3号館であった。病気がちだったのであまり担当できなかったが、後に寺院や博物館の小品でその力量を見せている。
 
 1955年にできた5号館の担当は植田一豊だったが、そのもとで詳細を書いたのが近藤で、最も印象的な仕事だった。
 コンクリートなのに柱間が1間で並んでいて、禁欲的なデザインだった。階段に当時としては珍しいプレキャストコンクリートを使ったり、窓枠のスチールサッシュに凝った。普通の引き違いでガラス面に段差が出るのを嫌って、折れて開く特異なディテールを考え出した。このころは既製品のサッシュはなくて、鉄板を曲げて手づくりだった。

 1956年にできた図書館は、いまは6号館となっている。担当は富永六郎。
 1959年にできた本館(1999年に取り壊し)の担当は近藤であり、米田吉盛学長が建築趣味でいろいろな注文を出してきて困った。学長自ら図面を描くし、電話でこまごまと指示されつつ図面を描かされたこともある。
 大学の担当者は、事務長の小坂さんと施設課長の酒井さんで、学長と合わせて3人が建築担当だった。

 8号館、9号館と進んでくると、大学生も量産時代、施設も量産になった感じだし、メンテナンス重視へと移ってきて、オリジナルなデザインがなかなか難しくなった。
 1967年にできた体育館の構造設計は山家啓助で、近藤と共にRIAの役員だった。実はこの山家は、神奈川大学建築学科で都市計画の教鞭をとっている山家京子教授の父君である。偶然にして意外なつながりがあるものだ。

 RIAにおける山口文象は、集団共同設計という新たな方法を目指して戦後再出発をした。そして植田、三輪、近藤たちの若者にかなり自由にさせて山口文象+RIAの名で発表していたが、実は個人的にはかなり我慢をしていたようであり、建築家個人としてとしてやりたいことがあったようだ。内では言わなかったが外でそのようなことを言っている。

 神奈川大学ではRIA初期の集団設計の試みの事例のひとつである。RIA内部もそうだが外部の構造設計たちとも共同して設計を進めて行った。その集団共同設計の試みは、今もRIAでは実験が続いていると言ってよい。
 米田吉盛学長の意気込みが、戦後日本の教育も建築も復興へと進む社会的上昇気分の中で育ってこのキャンパスができて行った。
1960年頃
植田一豊担当の5号館(1956)

左・近藤正一担当の旧本館(1959-1999)、右・山口文象担当の3号館(1955)

現在のキャンパス
正面は旧図書館の現・6号館、右は5号館
5号館

●参照⇒神奈川大学建築学科デザインコース作品集「RAKU」2011年度
・神奈川大学総合計画案
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/02-17.pdf
・近藤正一 インタビュー
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/18-21.pdf
・3号館解体現場調査レポート
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/22-24.pdf

●参照⇒山口文象+初期RIAサイト
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html





2014/06/20

965・山口文象設計の総同盟会館・全繊会館という戦後初期労働運動拠点を“発見”

 この「伊達の眼鏡」ブログにも「まちもり通信」サイトにも書いたが、山口文象設計の青雲荘・友愛病院という建築が1936年にできて、それが1894年にできたJ:コンドル設計の日本労働会館(旧・惟一館)と並んで建っていた。
そしてこれらは、1945年に太平洋戦争の空爆で炎上したのである。焼け残りのコンクリート躯体を再利用修復して雑居ビルになっていた青雲荘・友愛病院は、1964年になって消えた。

 山口文象と青雲荘物語はそこでおしまいと思っていたのだが、実はさかのぼって戦後に発展する物語があったことが分かった。
 焼けて消えた日本労働会館跡地に、1949年、総同盟会館・全繊維同盟会館が建ったのだが、これが山口文象設計であったのだ。
 40年ほども山口作品を追っていながら、これは知らなかった。もうドイツにでも行かないと新発見はあるまいと思っていたから、ちょっと興奮した。そのまえにコンドル作品と山口文象作品が並んで建っていたことにも興奮したのだったから、2重の喜びである。

 昨年、この総同盟会館・全繊会館について山口文象設計であろうかと、友愛労働歴史館から問い合わせをいただいて、調べたことがある。
 山口文象の設計かもしれないとの根拠は、青雲荘のオーナーであった財団が発行した『財団法人日本労働会館六十年史」(1991、渡辺悦次著)に、総同盟会館の落成式の様子について、次のように記述(177頁)があることによる。

「会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、11月に着工、翌1949年8月4日に落成式を行った。(中略)建坪は251坪(総同盟会館111坪、全繊会館109坪)、共通ホール29坪、費用は合計600万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。(中略)山口設計事務所長に感謝状が贈呈された。」

 1949年に解散した山口文象建築事務所の資料は、RIAが所蔵保管している。その中に青雲荘・友愛病院については、竣工写真や設計図面がある。また当時の雑誌に山口文象の名前で発表している。
 ところがRIAの山口文象資料には、総同盟会館・全繊会館に関するもの全く見当たらない。
 さらに、山口文象建築事務所の最後の所員であった方に直接に聞いてみたが、そのような設計をした記憶がないとのことであった。
 ということで、山口設計事務所の記述でもあるし、山口文象作品かどうか判断できないまま、保留していた。

 5月27日に、友愛労働歴史館での「J・コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」展覧会に関連して、「松岡駒吉と山口文象が青雲荘にこめたメッセージ」と題する講演会があった。わたしが講演者である。
 建築や都市関係者相手のレクチャーは何度もしてきたが、労働運動関係者相手は初めてのことで、なにか新しい反応があるかと期待していたら、やはりあった。
 後日、そこに聴衆としていらした方からお手紙が来た。『全繊同盟史第2巻』(1965年 全繊同盟史編集員会著)のなかに、全繊会館が山口文象建築事務所の設計との記述があると、ご教示をいただいた。 
 その本には、「全繊会館進む」(408頁)と題して、次のように記載されている。

「当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)よち借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。
 会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。
 設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円(以下略)」

 これには山口文象建築事務所と正確に名前が出ているし、規模も総同盟会館の記述と符合する。となると、この二つの会館は山口文象の設計であったことは間違いあるまい。
 そこで建築学会の図書館で当時の「新建築」、「国際建築」、「建築文化」を探したのだが、登場してこない。建築雑誌に載るような建築はまだそれほどない時代で、けっこう大きくしかも山口文象設計ならば載りそうなものだが、どういうわけかない。

 山口にとっても、1949年と言えば、仕事がなくて山口文象建築事務所を閉鎖した年だから、宣伝のためにも載せそうなものである。
 本格戦争になった1941年頃からは、めぼしい仕事はなくて軍需工場の工員宿舎の設計で食いつないでいたが、戦争が終わるといよいよ仕事がなくなり事務所は閉鎖した。その後は、猪熊弦一郎の支援で高松近代美術館と久が原教会があるくらいなものだった。山口の戦中戦後ほぼ10年間は、蟄居時代であった。

 こうして戦後初期の時代の大変革の中で、ようやくにして合法化された労働組合運動の拠点として、焼け残り青雲荘も総同盟会館も全繊会館も、大きな役割を果たしたのであった。
 戦後が確実に終わった1964年、これらは取り壊されて高層ビルに建て替えられた。1936年からの山口文象の物語はそこで終わったが、なぜ続かなかったのだろうか。
 多分、山口文象建築事務所が消えてRIAになっていたことを、建て替え時の総同盟側が気が付かなかったのだろうと推測するしかない。

 というわけで“新発見”だが、今のところ図面も写真も、こんなものしか見つからないない。もうちょっと調べてからこの建築のことを書きたい。
この左に焼け残り改修の青雲荘が建っていたはず
全繊同盟史第2巻にある全繊会館の写真

1960年前後頃か、左から改修した青雲荘、総同盟会館、全繊会館
  なお、この新発見を導いてくださった方は、まずは展覧会を開催された友愛労働歴史館事務局長の間宮悠紀雄氏、そして講演会にいらしてご指摘をいただいた、UAゼンセン(全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟=旧・全繊同盟)会長の逢見直人氏である。お礼を申し上げます。

参照
講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」2014年6月
●「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い2014年3月

参照建築家・山口文象+初期RIA(伊達美徳)
  まちもり通信サイト(伊達美徳)

2014/05/28

928・講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」

 「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」と題する展覧会が開催中である。会場は友愛労働歴史館(東京都港区芝2-20-12)、会期は2014年3月10日から8月30日まで。

 コンドルとは、日本の明治政府がイギリスから招へいした建築家で、19世紀末から日本に洋風建築をもたらし、日本人建築家を育てた人である。
 山口文象とは、コンドルよりも2世代ほど後の建築家で、20世紀前半のモダン近代建築で一世を風靡した人である。
 この二人の建築家の作品、イギリス人の設計した19世紀末の和風建築「惟一館」の隣に、日本人が設計したモダン建築「青雲荘アパートメント・友愛病院」が、並んで建ったのが1936年のことだった。

 そして、このことについてわたしに講演を依頼されたのである。依頼主は展覧会主催の友愛労働歴史館と労使関係研究協会であり、聴衆は労働組合関係者を主とする。
 その講演題名は「松岡駒吉、山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」であり、労働組合団体関係者にこの青雲荘と友愛病院の建築的意義を話せとの求めである。
 都市建築関係者や学生院生たちを相手に講演は何度もしてきたが、労働組合関係者相手とは珍しい体験である。
 聞く方も、労働運動などについての講演は聞くことはあっても、こういうテーマは珍しいことであるらしい。こちらにとっても、なにか新しい情報が得られるかもしれないと、楽しみである。

 ということで、2014年5月27日の午後の2時間を、有意義に過ごしてきた。
 なんと47名もの聴講者がいらして、研修会場が満員になった。その世界のことはよく知らないが、参加者リストにはUAゼンセン、JP労組、CSAなどの団体名が書いてある。山口文象創設のRIAから数名参加している。
 ドイツでの左翼活動とか、労働者への医療、あるいは東京駅の容積移転などについての質問や意見があって、こちらが勉強になった。

 勉強になったと言えば、この講演のために、松岡駒吉という戦前から戦後にかけて日本の労働運動の強力な指導者について、にわか勉強をして、これは面白かった。
 松岡がどうして山口文象を起用したか、そこをを知りたいが、憶測の遊びしかできない。

 話の基本的なことは、既にこの「まちもり通信」に、「コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い」と題して書いているが、講演だからいろいろと派生する話題にも広げるし、ほとんど憶測になることもどんどん話したのであった。
 当日講演会で使用した映像資料は下記を参照のこと。
講演画像「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ5MBPDF 2014)

参照:◎1936青雲荘・友愛病院診療所(東京市)
まちもり通信総合目次

 

2014/04/15

917建築家山口文象の自邸がTV番組に登場「古くて新しい家」

 本に書評があるように、TV番組にも「映評」ってのがあるのかもしれないから、いちおう書いておく。もっともTVをめったに見ないので、他の番組をみて比較する批評にはならない。
 2014年4月13日夕方、建築家山口文象の自邸を写した番組が、フジテレビで放送された。わたしも取材に協力をしたので、めったに見ないTVをその時間だけ見た。
 しかし、たった2分ほどの番組で、その前後途中に見たくもないたくさんの商業広告がでてきて、これだからわたしはTVを嫌いなのだ。

 番組名は「ロマン建築の旅」といい、有名建築家の住宅作品を順次放送するそうだ。
 その1回目は坂倉順三による「岡本太郎邸」であり、2回目が「山口文象自邸」(1940年竣工)をとりあげた。
 自邸の外観、中庭、サロンを中心の映像に、自邸と同じころにできた山口の作品である「黒部第2発電所」と「林芙美子邸」の写真を挟み、山口文象の子息の音楽家山口勝敏さんが語り、プロのナレーションによって概括する。

 ナレーションが、「古くて新しい家」、「74年前に建てられたが、いまだ未完成」という通り、できてから実に多様なる変遷があって、いつも新しいことがあったこの家、それが最も面白いところなのである。
 山口の頭の中の常に変更中の設計図によって、金ができると始めてしまう毎度の改変工事が続いて、金がなくなると工事が止まり、とりあえずの完成、入れたコインの額だけ動く器具(そのときはベルリンで住んだアパートの暖房器具を例にとりあげた)みたいなもんだと、山口当人から聞いたことがある。毎度動かされる家族は大変な目にあっていたらしい。
 いつも新しいこの家は未完成こそが本来の姿であるのだが、山口文象がいなくなったいまでは、これが完成した姿だと言わざるを得ない。

 2分やそこらの超短時間番組では、その変遷を詰め込むのはとうてい無理だろうが、当初のコテコテの民家風のインテリアと、いまの姿を重ね合わせるbefore-after映像を見たかった。
 家族や生活様式の変化によって、また山口文象の気分によって、間取りが何度もドラスティックに移り変わったてきたが、実に面白いのだが、。

 勝敏さんがそれについて、「いつまでも和と洋のデザインの間で、悩みつつ矛盾に揺れていた自作の実験場」と語るだけで、映像に出なかったのが残念だった。
 和と洋の両方の名手だった山口文象の世界を、ひとつの建物で長期間にわたって見せた建築作品であるが、建築は今の姿しか見えないので、この作品の真髄は見えないのである。

 ナレーションで気になったところ。
東京大田区、閑静な住宅街にひときわ目を惹く、一軒の家がある
 ふむ、一般の眼から見ると、あの家は「ひときわ目を惹く」のであるか。わたしは何回も訪ねて見慣れたせいもあるかもしれないが、そうでなくても、あの家は目を惹く代物だろうか。
 あのような道から平入りの瓦屋根の和風の家は、できたとき1940年の昔からの普通の住宅地の風景であった。モダンデザインで売り出した山口文象だが、実はこのような和風はお得意だった。
 それが今や、ナニヤラハウスとかナントカホームという大衆好みの今風住宅が建ち並ぶのが、この久が原でも当たり前の風景であり、山口邸は居ながらにして特異な姿になった、ということだろう。

浅草の大工の棟梁の息子として生まれ、独学で建築家になった
 ふむ、独学でねえ、わたしは山口文象自身の口から、独学だと言っているのを聞いたことも読んだこともない。わたしもこれまで山口についてはいろいろ書いてきたが、独学と思ったことは全くなかったので、ちょっと意表を突かれた。
 建築の専門家である大工を育てる中学校(職工徒弟学校大工分科)では「学」になならず、大学の建築学科を出ていないから、これを「独学」というのかしら。
 山口文象に建築を教えた師匠はいなかったのかと言えば、当人の口から出る彼が師匠とした建築家の名前は、山田守、岩元禄、石本喜久治(後に大喧嘩するが)、グロピウスである。
 特に、18歳で就職した逓信省営繕課で、多くの大学出のエリート建築家たちの下で修業をしたのだから、これを独学と言ってよいのだろうか。

 独学と自分でも言っているらしい有名な建築家に、安藤忠雄がいる。その彼とても、水谷頴介の下で働いたこともあるし、大阪工業大学に籍を置いたこともあるようだ。
 実は山口は学歴コンプレックスを持っていたようで、東京帝大の偽学生として伊東忠太の講義を聴いた(ほんとうならば時期的には東京美術学校であろう)とか、ドイツでグロピウスアトリエにいた頃にベルリン工科大学大学院で学んだとか、しゃべっている記録がある。それは後に東京工業大学の講師になったことで解消したようだ。
 大学で専門的に勉強しないで一流になることを独学というなら、学歴社会の象徴のような言い方の感がある。

 それで思い出したが、ある建築史家は、山口文象が大工から転身して建築家になったと思い込んでいたそうだ。
 山口は大工の子だが、当人は大工を仕事にしたことはなくて、その兄の山口順造が父を継いで大工となり、この山口自邸も彼の仕事であった。
 学歴ついでに、山口文象がバウハウスで学んだと書いてある建築史の本があるが、それは間違いである。山口が弟子入りしたしたグロピウスは、既にバウハウス校長を退任し、ベルリンでアトリエを持っていた。
  
離れには、下町情緒あふれる長屋
 ふ~ん、下町情緒ねえ、何だか雰囲気が違うよなあ。
 ここは当初は書生部屋だったのであり、その後は親戚や弟子たちが住んだこともあり、自邸改造中の家族の避難場所であったりした。まあ、形は長いから長屋だろうが、下町情緒はどこにもない。裏に路地があるくらいか。
 このナレーションの作者は、山口が下町の長屋で生まれ育った出自を、ここに文学的に託したのだろうか。

ヨーロッパ建築をとりいれた黒部川ダム
 あれ、これはダムじゃないよ、発電所だよ、正確には「黒部川第2発電所」、ついでに言えば、これにつながる山口がデザインしたダムは「小屋平ダム」。
http://www.suiryoku.com/gallery/toyama/kuro2/kuro2.html

「明治から昭和へ駆け抜けた建築家は、古い殻を破りたいとあがき続けていたのかもしれない」
 おお、これはうまくナレーションを納めてくれましたねえ、そのとおり。
 江戸の残る旧弊な下町から抜け出て山手のこの地に家を構えこと、和風の名手でありながら西欧モダンデザインで世に出たこと、個人作家と集団オルガナイザーの間で悩み続けたこと、そう、あがき続けた建築家であった。

「山口文象+初期RIA」アーカイブズ
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html


2014/03/01

902【山口文象】J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い

J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い 伊達美徳

◆コンドル、山口文象、キリスト教、労働運動

 ジョサイア・コンドルと山口文象の設計した建築についての展覧会が、2014年3月10日から東京の芝にある「友愛労働歴史館」で開かれる。
 日本の近代建築史をちょっとでも知っている人は、このあまりにも縁がなさそうな二人の建築家たちの間に、そして日本の労働運動の歴史との間に、どのような関係があるのか不思議に思うだろう。

 J.コンドル(Josiah Conder、1852 - 1920年)は、20世紀への変わり目を挟んで40年ほどを日本で活躍したイギリス人建築家、山口文象(1902-1978年)は、1930年代から戦争をはさんで40年ほど活躍した建築家である。
 年代的にもその出自からしても、あるいは極端に違う作風からしても、普通に考えると出会うはずもない。

 ところが、このふたりの設計した建築が、東京都港区の芝にある同じ敷地の中に立ち並び、太平洋戦争の空襲で焼けるまでの9年間ほど、今考えるとなんとも特異な風景をつくっていた。
 並んでいたのは「日本労働会館」と「青雲荘アパート・友愛病院」という。日本労働会館がコンドルの設計であり、青雲荘が山口文象の設計であった。
 どちらも財団法人日本労働会館の所有で労働者運動の拠点であり労働者のための福祉厚生施設であった。この財団のバックには、労働運動のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)がある。

 今はどちらの建築も消滅して、跡地には同じ財団によるオフィスとホテルの入る超高層建築が建っている。
 そのビルの一角に、財団が運営する「友愛労働歴史館」があり、その展示室で戦前の活動拠点であった消え失せた二つの建物について、その歴史を再発見しようと企画した展覧会を開くのである。 

 いろいろ聞いて、調べてみると、日本の労働運動とキリスト教活動は元は深い関係にあったのだった。
 コンドルが設計した日本労働会館は、前身はキリスト教会の「惟一館」であり、その教会が日本の労働運動を起こす源流となり、活動拠点となった場であり、山口文象が設計した青雲荘は、労働者のための本格的な厚生福利活動の源流となった場であった。

 コンドル、キリスト教会、労働運動そして山口文象という、一見したところ関係があるとは思えない人物と事柄が、実は深く結びついていることを知って大いに興味がわいた。そこで、ここに素人論考を展覧会の案内のつもりで、素人向きに書くことにした。

 わたしは山口文象についてはそれなりに研究してきたが、コンドルについては建築史ディレタントの域を出ないし、キリスト教と労働運動についてはまったくの門外漢も甚だしい。
 労働運動側の事情については、その歴史館事務局長の間宮さんにうかがった話、友愛労働歴史館サイトにある各種の資料、『財団法人日本労働会館六十年史』(1991、渡辺悦次著、日本労働会館)などを主な資料として記述する。

以下全文は「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い
https://sites.google.com/site/dateyg/seiunso

2014/02/15

895ジョサイア・コンドル、山口文象、キリスト教ユニテリアン、労働運動ってどんな関係があると思いますか

 ジョサイア・コンドルと山口文象、この二人の建築家たちの展覧会が近いうちに開かれるので、ちょっとだけ予告を書いておく。その企画をちょっとお手伝いしている。
 日本の近代建築史をちょっとでも知っている人は、このあまりにも無縁そうな二人のどこに接点があるのだろうと、不思議に思うだろう。わたしだって、2カ月ほど前までは思いもしなかったことだ。

  コンドルは20世紀への変わり目を挟んで40年ほどを日本で活躍したイギリス人建築家、山口文象は1930年代から40年ほど活躍した建築家である。年代的にもその出自からしても、あるいは極端に違う作風からして、普通に考えると出会うはずもない。

  ところが、このふたりの設計した建築が、東京都港区の芝公園近くの日比谷通りに面して同じ敷地内に仲良く並んで立ち並び、太平洋戦争の空襲で焼けるまでの9年間ほど、今考えるとなんとも特異な風景をつくっていたのだ。

 その風景はこうであった。

 この右に見える和風というか和洋折衷建築が、コンドルの設計であることにまずびっくりする。このユニテリアン教会「惟一館」は1893年に建った。ここはこの教会活動のクリスチャンたちがおこした社会活動から生れた労働者団体「友愛会」(のちに総同盟、現在の連合)の活動拠点であり、1931年から「日本労働会館」として日本の労働運動の源流であり本拠となった。これができた年には三菱一号館ができている。

 一方、その左に見えるのが、山口文象のモダンデザインで、さもありなんという姿である。1936年、山口文象設計の「青雲荘アパート・友愛診療所」が建った。労働者のための病院と賃貸共同住宅の複合ビルであり、労働者の福利厚生の施設であった。これができた年には「番町アパート」ができているが、ほぼ兄弟作の感がある。

 今はどちらも消滅したが、跡地には同じ財団によるオフィスとホテルの入る超高層建築が建っている。そのビル内に財団が運営する「友愛労働歴史館」があり、その展示室で戦前の活動拠点であった消え失せた二つの建物について、その歴史を再発見する企画の展覧会を開くのである。

 いろいろ聞いて、調べてみると、日本の労働組合運動とキリスト教活動は出発点において深い関係にあったらしい。コンドルの設計したユニテリアン教会の唯一館は労働運動を起こす源流となり、後に活動の拠点となった場であり、山口文象が設計した青雲荘は、労働者のための本格的な厚生福利活動の源流となった場であった。

 コンドル、キリスト教会、労働運動そして山口文象という、一見したところ関係があるとは思えない人と事柄が、実は深く結びついていることを知って、驚いている。
 調べているうちに面白くなって論考を書きはじめたが、わたしは山口文象についてはそれなりに研究してきたが、コンドルについては建築史ディレタントの域を出ないし、キリスト教と労働運動については門外漢も甚だしい。そのうちにここに掲載しますので、お楽しみに。



2013/12/09

872評伝「RIA創設の建築家 山口文象の生涯」

建築ジャーナリズム界のメジャーファッション誌といえば、老舗雑誌の『新建築」である。
わたしが学生の頃は、これに加えて『建築文化』『近代建築』『建築』があり、『国際建築』はあったかもう廃刊していたか、その後『都市住宅』が出た。
今は『近代建築』だけが、なんだか広告専門誌のようになって続いている様子だが、他はみな廃刊らしい。

その『新建築』が、別冊と銘打って特別テーマのムックを次々と出しているようである。設計事務所特集や開発事業者特集も多いようで、商業的宣伝誌の様相になりつつある感がある。
そのひとつとして11月に『まちをつくるプロセス RIAの手法』が発刊になった。
RIAとは、昔は「RIA建築綜合研究所」、今は「㈱アール・アイ・エー」のことで、正式社名にはRIAはないのだが、昔からRIAとかいて流布ししており、初期はリアと読んでいたものだ。

そのRIAの創立60年記念誌を兼ねた出版らしい。
主に都市再開発、今流の言葉でいえば「まちづくり」に関して、要領よくまとめてある。
そしてそのなかに、「RIA創設の建築家 山口文象の生涯」なる4ページにわたるコラムがあり、近藤正一さんとわたしが執筆している。

そのわたしが担当した山口文象評伝を、ここに紹介する。
https://sites.google.com/site/dateyg/bunzo-syougai
近藤さんの書く、山口文象がなぜRIAを始め、なぜRIAという名称なのか、そこのところが面白いのだが、そこは本を買ってお読みください。

なお、この本の書評は、このブログに前に紹介した。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/ria-process

●参照→「山口文象+RIA」サイト
https://sites.google.com/site/machimorig0/#bunzo

2013/11/03

852建築家山口文象がデザインした家具を観に行った

「建築家と天童木工」なる家具の展覧会を、天童木工東京ショールームに観に行った。
会場には、山口文象、丹下健三、黒川紀章、坂倉順三、オスカー・ニーマイヤーなどの有名建築家たちのデザインした家具が展示してあった。もちろん、天童木工が製作したものだけである。
●「建築家と天童木工」展覧会風景

わたしのお目当ては、もちろん山口文象デザインの座卓である。
1961年第1回天童木工家具デザインコンクール金賞の作品である。展示の説明にこう書いてある。
整形合板を立体的に用い、美しい造形の座卓。特に甲板は水滴の波紋を連想させるようなカーブをしている。その美しさの反面、甲板に狂いが生じやすく平面を保つことが難しいため、商品化は見送られた。
●山口文象デザインの座卓


そしてまた、そのコンクールのことも書いてある。
1961年、民間では初めてとなるコンペを開催、審査員に剣持勇(審査員長)、丹下健三、豊口克平、渡辺力、長大作、建築評論家の浜口隆一など、豪華な顔ぶれが並ぶ。応募規定は「成型合板を一部または全体に使用したものであること」。

このテーブルがあることは知っていたが、現物を見るのは初めてである。山口文象やRIAの建築作品紹介の雑誌写真には、自分の設計した家具が登場してることがよくあるので、これを探したら、あった。
●山口文象邸のサロン風景(1969年発行『新訂建築学体系・木造設計例」彰国社より)
山口文象の自邸の写真の中に写っている。座卓としてではなくて、小テーブルとして使っている。その向こうの椅子も山口文象デザインかもしれない。
この写真は、1961年~1969年の間に撮ったのだろうから、とすれば、わたしは山口邸で見ているはずであるが、忘れていた。
展示室の係りの人に、この座卓は天童木工の収蔵品かと聞いたら、どこかのお宅から借りてきたが、それがどこか知らないという。では、山口邸から来てるのかもしれない。

山口文象はいくつもの家具デザインをした。新制作派協会展覧会にも出品している。1953年にRIAを結成してから、メンバーの近藤正一と組んでいるようだ。
この小テーブルの前には、1954年全国工業デザインコンクール最優秀賞をとった小椅子がある。二次元カーブのプライウッドを組み合わせた量産向きの家具である。
●小椅子(通称チリトリ椅子)
口の悪いRIAの連中は、「これは通称チリトリ椅子というのだ」、そして「椅子にもなるチリトリなんだ」とも言った(今やチリトリは死語かもしれない)。
RIAの会議室にいくつもあったが、二つのチリトリの接合部の金物が外れやすくて、そっくり返らないように座ったものだ。

戦前の山口文象の建築作品の写真には、彼のデザインした家具が写っていることが多い。既製品の洋家具がない時代だから、建築家が家具の設計をするのがあたり前であったらしい。
●1928年三宅やす子邸の家具
山口文象が石本喜久治の下にいたころに担当した住宅であるから、山口のデザインかもしれないが石本のデザインかもしれない。

●1934年日本歯科医科専門学校付属医院の家具

 ●1934日本歯科医科専門学校付属医院の手術見学教室の机

●1950年久が原教会の椅子と講檀(プライウッドによる簡素なデザイン)

●参照⇒建築家山口文象サイト(伊達美徳)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2013/08/23

823スコラセミナー「建築家山口文象と逓信建築」に大勢おいでいただき感謝


 昨日、青山のJIA会館にて、スコラセミナー「建築家山口文象と逓信建築」なる、マニアックな話をする機会をいただきました。
 20人もいらしたら大成功だろうと、資料も椅子もお茶もそこまでしか用意してなかったら、40人近くもいらしていただきビックリ、アタフタ、ほんとうにありがとうございます。
 しかも大学院生から諸先輩までの諸兄諸姉と年齢幅も広く、嬉しいことでした。暑い中をおはこびいただき、恐縮しました。ここでお礼を申し上げます。
 それにしても世の中には、物好きというか、暇なというか、わたしを含めてそんな方々がおおぜいいらして、平和でいいなあと思いました。
 音声はありませんが、画像だけでもご覧になるならば、こちらからどうぞ。
http://goo.gl/RTlVX9

2013/08/10

818東京青山のJIA建築家会館で8月22日(木)午後3時から建築家山口文象について講演します

この8月22日(木)午後3時から東京青山のJIA建築家会館で、
建築家・山口文象のことを逓信建築に絡めて話する機会をいただきました。
スコラセミナー主宰の郵政建築出身の建築家・野崎英彦様からのお誘いです。
超高層下駄ばき姿となった東京中央郵便局KITTEのデザインも話題にします。

この猛暑の中の夏休み中にもかかわらず、
お出かけいただき話を聞いてくださいというのも、
まことに申し訳けなくて気がとがめますが、
ご都合つくならばおいでくだるとありがたく存じます。

――――――――案内状――――――――

「第16回スコラセミナー」を下記のごとく開催致します。

どなたでも、ご参加くださいませ。
事前申し込みの必要はありませんので、会場に直接おいでください。

■日時:2013年8月22日(木)15:00~18:00(講演、意見交換、懇親会)

■場所:日本建築家協会 JIA会館 1階建築家倶楽部会議室(案内図を参照)
  (社)日本建築家協会・関東甲信越支部
   〒150-0001 渋谷区神宮前2-3-18  
   TEL: 03-3408-8291  FAX: 03-3408-8294

■講演(15:00~16:30) テーマ「建築家 山口文象 人と作品」
・山口文象とはなにものか
・山口文象が語った逓信建築における山田守と岩本録
・東京中央郵便局をめぐる山口文象の言説及び近代建築保存の諸問題

■講師:伊達美徳(山口文象ストーカー、アーバンプランナー)
「建築家山口文象+初期RIA 」https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
「まちもり通信」https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
「伊達の眼鏡」http://datey.blogspot.com/

■質疑応答、意見交換、懇親会(16:30~18:00)
  講演会場にて、暑気払いの飲み物をいただきながら、気軽にやりましょう。

■参加費:1500円
  当日会場でいただきます。資料代、お茶代、懇親会飲み物代等ですが、懇親会参加・不参加とも同額です。

 
■お問合せ先 
  野崎英彦(事務局代表)mobil:080-5380-3800 
       Email:nova_einozaki@mac.com

●もっと詳しくは下記ご案内をご覧くださいませ。
http://goo.gl/r6ddCB
 出てきたら左上の下向き矢印をクリックして取り込んでください。

■建築家会館 会場案内(右図参照)
―――――――――――――――――――――――――



2012/12/03

694藤沢の海岸にある中国国歌作曲者の聶耳(ニエ・アル)の碑は山口文象設計  

   
●湘南海岸の森の長城
 東北の津波被災地に行ってから、森の長城のことが気になり、鎌倉の世界遺産ワークショップでも、そのことをしゃべった。
 その森の長城のモデルケースが、藤沢から平塚にかけての海岸は湘南海岸沿いにある幅広で長大な防砂林である。
 砂丘の上に松林を主としながらも常緑広葉樹との混交林であるところが特徴的で、震災復興で「森の長城」を提唱している植生学者の宮脇昭先生の指導でつくった森である。
 よくある白砂青松の疎林の松林ではないのは、砂が飛ぶのを防ぐ目的だからだ。同時に、津波が来たら密な植生はその水の勢いを幾分かはそぐだろうとも思う。

 先日その森の長城を見に行ってきた。その森のことを書く前に、そこで思いがけなく建築家・山口文象の作品に出会ったので、そのことを書く。
 その東西に長い樹林帯が東の端で切れるのが、藤沢市の引地川の河口部であり、その海岸の向かいに江の島が見えるところである。


●中国国歌作曲者の記念碑
 この河口部にある公園の中に「聶耳記念広場」がある。真ん中に四角な1m角ほど、高さ60センチばかりの石のモニュメントがあり、周りを低い塀と生垣が取り囲む。
 モニュメントは陸側から海側にむかって眺めるように配置され、その背景の一部に2m角ほどの壁がたっていて、若い男の顔のレリーフがはめ込まれている。
 その男の名は聶耳(ニエ・アル 1912~35)、中国の音楽家であり、日本に来ていた1935年に この海で泳いでいて溺死した。まだ23歳であった。
若くして異郷で死んだにもかかわらず、「義勇軍行進曲」の作曲者として有名な人であるらしい。彼の故郷の昆明には、彼の名をつけた公園があるという。
 その「義勇軍行進曲」が、1949年に中華人民共和国の国歌となったのを記念して、藤沢市民の有志からその海で死んだ聶耳を記念する事業を行おうとする運動が起こり、1954年に碑を建てたのであった。
 まだ日本と中国とは国交が開いていない時代だったが、除幕式には中国からの要人も出席した。その後も今日まで中国の要人がくるという。

 その碑の設計者が、建築家の山口文象であった。
 雑誌「新建築」1955年4月号に山口文象が設計者としての言葉を書いているのを読んでみても、聶耳ととくに親交があったようでもない。何が故に山口文象がデザインすることになったのかはわからないが、社会党系の文化人に知り合いが多かったことから、その方面からの紹介だったのかもしれない。
 1954年の山口文象のデザインの範囲は、碑、秋田雨燕による碑文、敷石とその周りの砂利敷きを縁取る石までであるようだ。サルスベリの木のことを「思わぬエフェクトを創り出してくれました」(設計者のことば「新建築1955.4」)と山口は書いているので、周りの造園は彼の設計ではないだろう。

 碑のデザインは、ムクの稲田石を四角に切って、耳の字をモチーフの切り込みと突起をつけている。謎解きのようで面白いが、こういう類の記念碑がほかにあるだろうか。
 このころ記念碑デザインの第1人者は、建築家谷口吉郎であった。山口文象と谷口は親交があったが、こういうもののデザインについては、山口が谷口を意識していたであろう。
 それが「私は今までの定型化された碑の概念を捨てようとしました」(設計者のことば「新建築1955.4」)となっているのだろうが、果たして谷口の向こうを張るほどのものになったと言えるだろうか。

●変転した配置と位置
 1958年に関東を襲った狩野川台風による高波で碑は流されて荒廃していたが、1965年に再建された。この時に山口文象が関わったかどうかわからない。
 さらに1986年に再整備がされているが、この時は山口文象は他界しているから関係はなさそうだ。RIAも関係していないことは、わたしが知っている。


 
 新建築1955年4月号に載っている写真や配置図と比べると、現在はずいぶんと変わっている。ネットに登場する写真で見ると、何回も配置も造園もデザインが変わっているようである。しかし、碑そのものは作り直されることもなく変わらずに中心にある。

 秋田雨雀による銅板の碑銘は、1954年の当初には碑の前に浮くようにあったが、いまは周囲の壁にはめ込まれている。
 なお、この碑文は、一部に誤りがあったので1986年に井上靖が手を入れて訂正して作り直したという(「聶耳歿後60周年記念講演」葉山俊1995年)。
 新たな記念物として、碑の背後に聶耳のレリーフ(作:菅沼五郎)がはめ込まれた壁が建っている。これは1986年の整備の時に設けられたとある。

 この再整備の時に、元は引地川の西にあった碑を、東側に移動した。
 引地川河口部の見晴らしの良い公園の中にあって、明るい雰囲気である。
 気になったのは、いろいろな碑文やら解説版やら標識やらが建っていることである。再整備の時や何かの記念行事の時に増えていくらしいが、環境デザインとしては煩瑣になってきていることだ。

●中国との友好な時代はどこへ
 
 ところで、、昨今話題となっている東南海大地震による津波のことを考えると、引地川は津波の遡上のルートとなるだろう。
 ここには防波堤も防潮林もないから、津波に一番に持って行かれるだろう。この碑だけではなくて、海に裸で向かっている無防備なこのあたりの市街地全部がそうなるだろう。

 もう一つの大波も気になる。このところ尖閣列島事件以来、日本と中国の関係が不安定である。この碑が国交のない時代から日中友好の役割を持っていたことを、いま思い出す人がいるのだろうか。(2012.12.02)

詳しくはこちらを参照のこと
●参照:1954聶耳の碑

2009/11/28

207【建築家山口文象】日本の表現主義展


 日本表現主義をテーマにした大規模な展覧会が全国美術館を巡回している。わたしは既に栃木県美術館で見てきたが、この12月から千葉県松戸市の市立博物館で開催する。
 ここに建築家山口文象の作品も登場している。それの作品とは、1924年の創宇社第2回展点にパースを、同年の分離派第4回展には模型を出品した「丘上記念塔」である。
 パース原版も模型も失われている(いつも展覧会打ち上げパーティーで川に放り込んだとか)から、パースは本からのコピーで、模型は復元して展示している。

 このコンテで描いたパースは、実にすばらしい絵だと当時の建築家志望若者連中がこれを見て憧れ、山口文象がリーダーの創宇社建築会に入会者が増えたという。
 メンデルゾーンのアインシュタイン塔を連想させるデザインは、確かに日本の表現主義の建築における萌芽の時代を思わせる。

 創宇社展ポスターはメンバーが順繰りに描いたそうだが、第1回及び第3回のポスターは山口作で、これは竹村文庫に保存されている実物が展示されている。
 もうひとつの山口文象作品は、前衛劇「ドイツ男ヒンケマン」舞台装置である。これは写真展示であるが、1925年に創宇社第3回展に出品している。その頃に山口文象たちは、「劇場の三科」なる演劇団体を結成して、前衛劇を演じたのでそのひとつである。

 同時期の建築家の作品は、山田守の「聖橋」がでているが、これも展示されてはいないが山口文象が設計のために描いたコンテパーすが存在しているのだ。
 岩元禄による「京都西陣電話局舎」もでているが、これも山口文象によれば岩元を手伝ったという。

 そのほかには石本喜久治、堀口捨巳、滝沢真弓など分離派の作品展示が多いなかで、金澤庸治とか川喜多煉七郎のような、少しアウトサイダーの作品があるのが興味深い。
 時代相から言えば山口文象も基本はアウトサイダーであるが、あるときからインサイダーになったという才能の持ち主である。

 それにしても、建築、絵画、彫刻、工芸、写真、演劇、映画などの多ジャンルを、表現主義という断面を横断してみるのは、実に面白くて興味が尽きない。
 おお、これもそうなのかと思いつつも、あまりに多すぎてとても消化しきれないのは、こちらの能力の限度をこえているのだから仕方ない。
 とにかく面白いから、12月8日から松戸での展示を見ることをお勧めする。

●躍動する魂のきらめき-日本の表現主義-展 
 明治維新以来、およそ40年をかけて、日本はようやく一通りの近代化を果たすことができました。ヨーロッパという明確な目標があった時代には、ひたすら選考するモデルを追いかければよかったのですが、自らを一人前として自覚するようになったら、今度は何を目標とするか自ら考え出さなければなりません。こうして明治末すなわち1900年代から、何に向うべきか、またその問いをどう表したらよいのか、日本の表現者は自ら問わなければなりませんでした。(松戸展案内より一部引用)
・開催期間 2009年12月8日(火)~2010年1月24日(日)
  ※休館日-月曜日(ただし1月11日(月)は開館し、翌12日(火)休館)
         12月28日(月)~1月4日(月)
・開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
・開催場所 松戸市立博物館 
  ※所在地:〒 270-2252 松戸市千駄堀 671
    (Tel)047-384-8181  (Fax) 047-384-8194

●参照→建築家山口文象+初期RIA

2009/10/09

189【建築家・山口文象】町田市博物館37年目の訪問

 今から37年前に竣工した町田市博物館をはじめて訪問した。その建物の設計者は山口文象である。
 40年前、わたしは山口が社長のRIAに所属していて、その博物館の設計を山口のデザインの指示に従って忠実に実施設計図面にする作業を、新入り間もない若手の二人とやったのであった。その若手のひとりは後に三代目の社長となった。

 実は、わたしは実施図面は描いたが、現場に行ったことが一度もなかったのである。
 歳とってくると、“思いついたらすぐやる主義”になって(つまりぐずぐずしていると人生の機会を逃すのだ)、これもそのひとつで、行ってきたのだ。
 図面と竣功写真を見ているから、現場のスケール観に違和感はなかったし、さすが山口の建築はプロポーションが良い。

 ところどころヘンに不恰好なところがあるので、よく見ると後に付け足したり、修理したところである。
 例えば入り口の大きな庇の軒先に、大きな箱型の雨樋を回しているのだが、実に不恰好きわまる。
 わたしの記憶では、屋根を下ってくる雨は軒先の手前で屋根に溝をつけて樋にしていたのだが、その溝の先にもいくぶんか屋根があるので、そこの雨が軒先に直接落ちてくるのを増設雨樋で受けるようにしたらしい。軒先をシャープにしたかったのだが、ちょっとわたしの細部設計が甘かったか。

 大きな変化は、壁面や軒裏のほとんどがコンクリート打ち放しにしていたのに、改修で全部に白い塗装が吹きつけてあるのだ。これで全体にシャープさがうすれて甘い感じなった。説明をしてくれた若い館員も、そう感じていると言っていた。

 開館当初は町田郷土資料館といっていたが、今は町田市博物館となっている。郷土資料館系の出土品等は一部を管理しているが、とてもここだけでは不可能なほど大量にあるのだそうで、別に資料庫を作っているとのこと。

 これは山口文象の晩年の作品であり、わたしの思うに、RIAにおける山口文象が直接手を下した最後の作品であろう。
 晩年の山口文象作品は、大屋根がいつも基本モチーフとなっている。岡崎市にある是の寺はその典型例であり、京都岩倉にある平安教会もそうである。
 町田市博物館の大屋根は、すぐそばの史跡公園にある復元した縄文時代住居の茅葺大屋根と呼応しているかに見える。
 実は戦中に設計した山口自邸は大屋根である。 

参照山口文象+初期RIAアーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html