2017/06/20

1271【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド3】頭の上の空気をあちこちに販売して保全修復費用を捻出した「2012東京駅」

 【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】からつづく

 では、東京駅を丸の内の側から眺めて考えましょう。
 まわりが超高層ビルなのに、なぜ、ここだけが3階建てなのでしょうか。JR東日本はよほどお金があるので、超高層に建て替えて不動産で儲けようという気がないのでしょうか。それともおカネがないので、昔の姿に改修するだけにしたのでしょうか。
中央に見える東京駅赤レンガ駅舎だけが低層3階建ての建築なのは何故か

 でも、聞くところによれば、この改修するだけでも500億円もかかったとのことです。文化財保全のためとは言いながら、その衣装代というかお化粧代というか、その巨額事業費を運賃だけでまかなうことが可能なほど、JR東日本は儲けている企業なのでしょうか。それならば、貧乏人としては運賃を下げってもらいたい。

●赤レンガ東京駅は身売りして500億円稼いだ
 実は、低層3階建てにしても超高層にしたのと同じ不動産活用の方法を、ここで発明したのです。
 それは超高層のにするところを3階までにして、そこから上空の空気を周りのビルに売って金にしたのです。空気を売るって、なんともすごいですねえ、キツネもタヌキもビックリの換金術です。
 500億円かどうか知りませんが、とにかく超高層を立てたと同じになる仕組み発明して、JR東は稼いだのです。発明とは言いすぎですが、そう言う法制度が新たにこのために作られたのでした。
 まあ、考えようによっては、もとは国鉄の土地、つまり国民の財産でしたから、それを有効に活用したのはよかったと思いましょう。貧乏人のわたしとしては、運賃に還元してほしいけどなあ。
東京駅赤レンガ駅舎はその上の空気をこの6か所のビルに売ったので
周りを超高層ビルで囲まれて谷底になってしまった

 具体的に言うと、このあたりの土地の上にはその土地を敷地にして建物を建てると、敷地の13倍の床面積まで建てることができるように、都市計画で決めています。この13倍のことを専門用語で「容積率」と言います。
 つまり、敷地いっぱいの建物だと地上13階建てのビルになるのです。それをまわりを空けて広場にしたり、文化施設を作ったり、駐車場をつくると、実際には15倍以上建てられますから、20階建てや30階建ての超高層ビルになるのです。

 この東京駅は3階建てですから、13倍のところを2倍くらいしか使っていないので、残りの11倍くらいに相当する床面積を、近くの他所の敷地に売ったのです。つまり、身売りですね。これで事実上は13倍建てたと同じことになるわけです。

3階建て東京駅でも超高層なみ不動産経営できるカラクリ
 上手い仕組みですね、これを専門用語で「容積移転」と言います。どこの土地でもできるのではなくて、東京駅から丸の内や有楽町あたりだけに、特例的に許可されている制度です。
 いまのところ日本中で、このあたりにしか許可されていません。この特例制度は、東京駅の低層保全のために作られたと言ってもよいでしょう。
JR東日本は東京駅丸の内駅舎敷地の未利用容積率を分割して
赤い矢印の先の各ビル敷地に移転して売却あるいは床取得した

 その身売り先は6か所に切り売りしています。これからもっと増えるかもしれませんが、その容積率を買った6本のビルは、自分のところの13倍の上に買った容積率を載せて建てるので、大きく高くなります。東京駅の周りが特に超高層群なのはそのせいもあるのです。
 たとえて言うと、6人のでっぷり太った大柄の旦那衆に身を売って得たカネで、衣装を買いお化粧直ししたのですね。そうしたら、それらの間に埋もれて文字通り日陰者になった東京駅姐さん、あ、こりゃ譬えがちょっとゲスかもなあ。

●後藤新平と辰野金吾、マッカーサとレーモンド、二人の伊藤滋
 さて、振り返れば、この赤レンガ駅舎の現地保全を決定した1988年の八十島委員会の報告書(東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告には、こう書いています。
「丸の内駅舎は、長きにわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし、今後、具体化に当たっては次のような点について検討するものとする.
イ 建物自体の耐力診断を踏まえ、形態保全の具体的な方法を検討するものとする.
ロ 土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分配慮しながら新たな建物を建築する方法、駅舎の上空の容墳率を本地区内の他の敷地に移転する方法等により実施する.」
 この最後のくだりの容積率移転が、特例制度をつくることによって実現したわけです。この「本地区内」とは東京駅と隣接街区だけの範囲を意味していましたが、今の実際の範囲は丸の内、大手町、有楽町までの広い範囲で移転が可能になっています。

 この東京駅のための特例の新制度(特例容積率適用地区)を生み出す指導をしたお方が、都市計画家の伊藤滋さんです。ここにもまた伊藤滋さんの登場です。
 これって、建築家の辰野金吾さんが設計した「1914東京駅」を、マッカーサーが戦争で焼いて「1945東京駅」にしたのを、建築家の伊藤滋さんが「1947東京駅」に修復し、更にそれを都市計画家の伊藤滋さんが「2012東京駅」に作り替えた、こういうことになるのでしょうね。

 というわけで東京駅見物の最後に、独断偏見一覧表にしておきましょう。

では、そろそろ東京駅を後にして次に進みましょう。
(つづく)


2017/06/13

1270【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】空爆廃墟「1945東京駅」を不必要に華麗に復興した「1947東京駅」は米軍への復讐戦か



 東京駅の南口ドーム内から外に出て、正面に来ました。
 幅が300mもあるこの赤レンガ3階建ての建築は、今日おいでのみなさまはご存じでしょうが、実は4代目でなんですよ。世の中には、これが戦前からこの姿のままずっと建っていて、数年前にきれいに化粧直ししたのだろうと思ってる人たちが多くいるような気がするし、これからどんどん増えてきそうに思うのです。
でも違うんです、この建物はいったんは廃墟になったのです、しかもそれは不幸な大事件で人為的に燃やされたのでした。そう、太平洋戦争下の空襲、いまは空爆と言いますが、1945年5月25日の深夜に、燃え上がりました。皇居も燃えました、八重洲の街も燃えました。3月10日に次ぐ大空襲でした。大勢の人が死にました。
1945年5月25日深夜の空襲で銀座、東京駅、丸の内、皇居炎上


●空爆廃墟「1945東京駅」の登場
わたしがこのガイドとして伝えたいのは、この赤レンガ駅舎は日本の歴史を背負っているということです。
 20世紀初めに華麗な姿で初登場したこの建築が、20世紀半ばに戦争によって燃やされ無残な廃墟にされたのを、敗戦直後に焼け残った躯体を再利用して修復復興して20世紀を生き延び、21世紀の初めに再度の修復で今の姿になった、この建築の変転の裏にあるのは近代から現代日本の歴史そのものです。
 
 初代「1914東京駅」は3階建てでしたが、焼け焦げた2代「1945東京駅」を修復するときに被害甚大の3階を取り除いて2階建ての3代「1947東京駅」にしました。それが戦後わたしたちの世代がながく親しんだ東京駅の姿でした。
 東京駅と言えば、全国から修学旅行でやって来たものだし、旅の登りはここが終点でこの先は下りばかりです。だれもが知っている、日本人の駅でした。
 「1914東京駅」は今見る「2012東京駅」と同じ姿ですが、その間に「1945東京駅」と「1947東京駅」があります。
「1945東京駅」壁と床の躯体は燃え残ったが屋根や内装は焼失
「1945東京駅」の屋上の焼け落ちた屋根



「1945東京駅」北口ドームの被災状況

「1945東京駅」中央の天皇専用玄関の様子 台形ドームは焼失

「1945東京駅」全体像 手前の水面は工事中の新丸ビルの地下にたまった雨水
(1945年 米軍写真家G Faillaces撮影)


●廃墟を復興して「1947東京駅」の登場
 東京駅を特徴づける南、中央、北の3つのドームは、鉄骨がぐにゃぐにゃになって燃え落ちました。長い間の戦争の末に敗戦して疲弊し切った日本に鉄骨はありませんでしたから、今度は木骨トラスでドームをかけました。木造大架構は戦争中の飛行機格納庫の技術の応用でした。
鉄骨ドームの代わりに木造のドームをかける 南戯地ドームは底面八角形、頂面正方形
手前から工事中の中央ドーム、北口ドーム

「1947東京駅」の各ドーム形状(2004撮影)

 この台形ドームの中に、先ほど見たアルミ製半球天井が架かっていました。北口ドームも同じですね。中央ドームの形は、もとの形のように木骨で再現しました。
 なお、ドームの屋根葺き材は、1914東京駅では石綿スレートだったが、1947東京駅では亜鉛メッキ鉄板ペンキ塗りだったのです。それを石綿スレートにふき替えたのは1952年だそうです。つまり応急トタン葺だったのが、元の材料で再現されたわけです。

 下のドームは「2012東京駅」、つまり「1914東京駅」を再現した姿です。上の写真と比較してみてください。
「2012東京駅」は「1914東京駅」の姿を再現
ところで、「1914東京駅」の南北ドームは、八角形で立ち上がって、その上に丸いキャップをかぶせたようなデザインです。「1947東京駅」のドームをつくる時に、何故同じ形にしなかったのでしょうか。技術的には木造でも作れるはずです。

 そうしなかったのは、技術問題ではなくて、その時の担当建築家たちのデザインによる選択だったのでした。内部のあのアルミ半球天井は、鉄道省建築家たちのコンペで決めたそうです。そしてこの正八角形から正方形に絞る台形ドームは、そのインハウス建築家たちの元締めの建築課長・伊藤滋による案だったそうです。

 どちらも「1914東京駅」のそれらと比べて、明らかにモダンの味を持っているのは、辰野金吾とは違う空気を吸った建築家世代の現れでしょうね。
「1947東京駅」デザインスケッチ(鉄道省建築課制作)に見るモダンさよ
外壁を見ましょう。こちらは今見る2012東京駅ですから、燃える前の1914東京駅と同じ姿です。3階建てです。

2012東京駅(2013撮影)
 下の写真は、1947東京駅の壁面です。ご覧のように2階建てでした。
空襲で3階が特によく燃えたので、レンガ強度が劣化しているとして取り壊し、2階建てにしました。ですから、上の写真の2階の窓の上で水平に切りとったのです。
 ピラスター(付け柱)の上部た切りとられましたが、下に見るように、また改めて左官工事で柱冠飾りをつくりました。もちろん窓枠も硝子もなくなっていたので作りました。軒のコーニスを少し深く出して、パラペットも立ち上げ、形を整えています。
 まったくもってよくやりましたね。そのほかにも、余りにもきれいに整えたので、知らぬ人はこれが1914東京駅と思っていたことでしょう。
1947東京駅(2006撮影)
ところで、この1947年の修復工事は、占領軍の命令でもあったのでした。道路が壊されてしまった日本で、鉄道は日本統治のための重要なインフラでした。東京駅内にRTOと呼ばれる占領軍用のオフィスの設置も命令されました。
 今の東京駅の京葉線コンコースの一角に、大きな壁面レリーフが展示されていますが、これはそのRTOの内装として「1947東京駅」に設置されたものでした。建築家中村順平の下に本郷新などの当時の新進美術家たちが集まって制作した一大美術作品でした。
RTOにあったレリーフ(東京駅京葉線コンコースに移設保存)
復興時のこれらの件は、その当時を回想する本『東京駅戦災復興工事の想い出』(松本延太郎著 1991年)によって、わたしは話しています。

●華麗な復興「1947東京駅」は空爆軍への復讐戦か
外観や内装など、特に占領軍の命令でもないのに、頑張ってしまったのは、鉄道省建築家たちの本能的な頑張りだったのでしょうか。伝えられるところでは、3~4年間をもてばよい、直ぐに建替えるから、とのことだったそうです。
 保存建替え論争の時にも、そのような仮設だから建てなおすべきとか、あるいはまた、仮設だからこそ復元すべきとか、言われたものでした。だが、その仮設建築が1947年から60年間も使われたのですから、これはいったいどうしたことか。

 考えてみれば、本当に仮設建築ならば、屋根はドームじゃなくてトタンぶきの切妻でよいだろうし、ドーム天井だってアルミ半球でなくて平らなベニヤ板でよいだろうに、外装だって燃えて痛んだレンガ壁の修復じゃなくてモルタルを塗っておけばよかったろうに、などなど、どう見ても仮設建築ではありませんでしたね。
 
 ところが、そんな「1947東京駅」にも、どう見ても応急仮設にしか思えないデザインのところがありました。それは線路のあるホーム側に面した壁です。こちら側の壁は、ホームの木造屋根の火災によって特に損傷が大きかったのでした。
 その大きな壁は、レンガ色でしたがよく見るとレンガは見えなくて一面の塗り壁でした。窓周りも柱型も、一切の装飾はありません。色つきモルタルだったのです。 

 さすがに駅前広場から見えない側は、応急的な仕事だったのです。まさにこれこそが仮設であったのです。でも、この姿でも60年間をしっかりと務めを果たしたのです。表側をなぜにあれほども力を入れたのでしょうか。
1947東京駅のホーム側の姿(1987年中央線ホームから撮影)
この赤レンガならぬ赤モルタル東京駅を眺めていると、いくらレンガの代わりとはいえ、あまりの悪趣味なその色に辟易してしまいます。もしかして空爆下の東京都民が流した血の色か。
 ふと、もしも赤じゃなくて白色だったらだったらどうなんだろうと思い付いて、やってみました。ヤヤッ、これって表現派というか、けっこうモダンに見えますねえ、表は擬古典様式、裏はモダニズム、スゴイスゴイ、辰野さんも伊藤さんもビックリのイタズラ。
イタズラで北口ドーム壁を白塗りにしてみた

1947東京駅のホーム側の姿(1987撮影)
 もちろん1914東京駅は、線路側も表側と同様にしっかりとデザインをしてあったことは、今に見る2012東京駅がそれを示してくれています。
2012東京駅の1914東京駅を再現するホーム側(2017中央線高架ホームから撮影)
 全部が色モルタル塗壁、トタン屋根、ベニヤ板天井でもよかったのに、この「1947東京駅」の頑張り様はどこから出て来たでしょうか。建築家の性でしょうか。
 考えていて思い付いたのは、これは大事な東京駅を空爆で焼いた占領軍への、鉄道省建築家たちの復讐戦だったのだろうということです。

 ドームやらレリーフやらの飾りで、占領軍に迎合したのではなくて、単なる修復以上の新デザインもして見せることで、彼らに復讐戦を挑んだのでしょう。わたしにはそう思えるのです。しかも表は復興した姿なのに、裏は焼けた壁にモルタル塗の被災の姿のまま、その余りの落差を表現することで、戦争の文化財破壊を目に見える形で訴えたつもりだったのかもしれません。

 敗戦直後の人も金も物もない疲弊しきった日本で、よくまあ頑張ってやったものです。鉄道省だから資材の調達ができたのでしょう。それにしても、その後の60年もこの姿が生きたのですから、復讐戦は成功したということでしょう。

 あれまあ、1945年までタイムマシンで遡上してお見せするガイドをやってましたので、ずいぶん長口上になりました。次を見ましょう。つづく

註:掲載した1945年空爆被災写真のうち、モノクロ写真は『鉄道と街・東京駅』(永田博、三島富士夫 1984大正出版社)、カラ―写真は『マッカーサーの見た焼跡 東京・横浜1945年』(ジェターノ・フェーレイス 1983年文芸春秋)から、それぞれ引用しました。


2017/06/02

1269【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド1】今見る東京駅赤レンガ駅舎は4代目の姿

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド(1)
まちもり散人

 みなさま、ようこそ。本日の現代まちづくり塾東京駅周辺まち歩きガイド役・まちもり散人こと伊達美徳です。ガイドすると言ったって、わたしはこの地域に何の関係もないので、独断と偏見に満ちた似非ガイドでございます。説明をあまり信用しないで各自適当にご判断下さいませ。
 若干の関係があったと言えば、30年ほど前に政府が東京駅周辺の再開発調査をしたことがありますが、そのときの作業班コンサルタントのひとりで、東京駅赤レンガ駅舎保全の調査担当だったことくらいなものです。
 ガイドするのは初めてではなくて、大学での野外講義として学生たちを引き連れて何度も来ました。今回のように大人団体にレクチャーするのは初めてで、どんな質問をいただくか楽しみです。

 まず、本日のガイド資料をご覧ください。A4版8ページです。
 簡単に今日のルートと狙いをお話します。ガイド資料1ページのこれをご覧ください。

 まち歩きテーマは『近現代都心景観変転史の現場を歩く』としましょう。
 このあたりの超高層景観はこんなぐあいに出現してきましたね。
・高さ50尺時代→100尺時代→45m時代→100m時代→無限時代
・1966年丸の内美観論争が起こり超高層景観時代へ、
・1977年東京駅建替論争そして歴史景観保全試行時代へ
・1988年東京駅現地形態保全が決まり保全と開発実施時代へ
・2001年特例容積率適用区域指定により百鬼夜行超高層時代へ

 このマップのから順番に説明して歩くつもりですが、途中で気が変るとか疲れてやめるかもしれません。
 その番号の場所ごとの見どころを書いておきます。 
①東京駅丸の内駅舎(重要文化財、特例容積放出900%→200%)
・1914年創建の姿は日清日露日独戦勝の記念碑
・1945年空爆炎上→1947年修復の姿は敗戦と復興の記念碑
・建築家伊藤滋の修復デザインは焼いたアメリカへの復讐戦だったか?
・西の原爆ドームと東の東京駅は日本の双璧の戦争記念碑だった
・1988年政府調査の八十島委員会で「現在地で形態保全」と決定
・調査担当したわたしは戦後形態で保全せよ復元反対と唱えていたが
・2012年3階と屋根ドームをレプリカ再現し外装を全体的に修復
・低層低容積率で保全のために未利用容積移転で工事費500億円調達
・衣装と化粧代を稼ぐため身売りした超高層ビル6本の日陰者に

②東京中央郵便局→JPタワー(東京駅から特例容積受取1300%→1520%)
・1933年創建→2012年一部保存一部曳家保存で前面腰巻保存
・モダン建築だから保存市民運動は東京駅ほどには盛り上がらず
・ヘルムート・ヤーンのデザインはNY9・11事件のパロディか?

③三菱一号館→三菱一号館美術館(東京駅から特例容積受取1300→1520%)
・1894年創建→重文指定を嫌って1968年抜き打ち解体撤去→
・跡地等に建つビル2棟と隣接の1928年創建八重洲ビルを撤去→
・2009年レプリカ再現三菱一号館美術館と丸の内パークビル建設
・重要文化財指定狙いは失敗

④明治生命館(重要文化財)→丸の内マイプラザ
・1934年創建、共同化した隣接地に容積移転して保全

⑤第一相互館→DNタワー
・1938年創建、1945年から占領軍の最高司令部となりマッカーサーがいた
・共同化した隣接地に容積移転して保全

⑥行幸通り(参照:資料4:景観の変化を追う)
・1966年天皇タブーに触れた東京海上超高層計画の今は?
・高さ100mで手打ちしたのにまわりは200mか
・東京駅復元で何が変ったのか。
・そのうちに東京駅も超高層建て替え時代が来るかも

⑦東京銀行集会所→東京銀行協会ビル→?
・1916年創建の銀行協会を1993年にカサブタ腰巻保全して超高層ビルに
・現在またもや取り壊して超高層に改築中だが今度はどんな保全か楽しみ

⑧日本工業倶楽部会館(三菱銀行本店ビル特例容積放出1300-1235)
・1920年創建→2003年半分保存と半分レプリカ再現で復元
・なんだかかなり窮屈無理無理保全の感じ

⑨新丸ビル(東京駅特例容積受取1300%→1665%:丸の内で最高容積率)
・7階オープンテラスから眺める東京駅、JPタワー、八重洲の街

 ここから先は行けたら行くってことで。
⑩日本ビルなど(個人的に懐かしいビル)
・ただ今5棟取り壊し再開発事業日本一超高層ビルに建替とか

⑪東京駅八重洲口駅舎等(特例容積受取900%-1304%)
・1929年電車乗降口開設→1948年八重洲新駅舎開設→翌年炎失
・1947年外堀埋立、1948年八重洲駅ビルの鉄道会館・大丸開館

 さて、
 ここは東京駅丸の内駅舎の南口ドームの真ん中、ここから出発します。
 頭の真上をご覧ください。なんともハデハデ飾り丸天井ですねえ。白いカラスがとまってる、いや、ハトですかねえ、動物のようなのも何匹かて、どうも十二支らしいですよ。手の込んだ日本的な工芸的な装飾で、この洋風建築に似合ってるんでしょうか。


  このコテコテ装飾天井が現れたのは2012年ですが、その前はこれと全く違って、ローマのパンテオンドームみたいでしたね。
 四角な格子部品を立体的に組み立てた半球天井で、余計な飾りのないモダンとクラシックが調和したなかなか良いデザインでしたね。
 1947年にできたそれは、敗戦で用無しとなった戦闘機の材料と製造技術だったという、時代の背景を伝えるものでした。それを取りはずしてこれに作り替えたのです。


この東京駅丸の内駅舎の建物が最初にできたのは1914年でした。日本は19世紀末から10年おきに日清、日露、日独(第1次大戦)の戦争をやって連勝してきました。
 日本の中央駅として建てられたこの東京駅は、その開業イベントに中国のドイツ領で対独戦争に戦勝した将軍の凱旋行事に合わせました。
 この駅は、明治日本帝国の戦勝記念碑であり、その帝国統合の中心である天皇のための駅であったのです。正面を皇居に向け、行幸道路をまっすぐに設け、天皇専用の玄関が中央にありました。エイド時代からの繁華街である京橋、日本橋、銀座のある八重洲側には、開業から15年間も出入口がありませんでした。
 太平洋戦争の末期1945年5月25日の深夜、東京駅はアメリカ軍の空爆を受けて燃えてしまいました。このときは皇居も炎上し、消防隊はそちらが忙しくて、東京駅は燃えばかりだったとか。8月15日、日本4連勝ならず大敗戦、復興日本の出発です。
1945年5月25日深夜に炎上した東京駅の北口ドーム
9月から燃え残ったレンガ壁とコンクリ床を再利用して修復にとりかかり、1947年に一応の姿になりました。さきほどのアルミ半球天井が現れたのはその時です。
 それから60年、それを戦前の姿に戻そうとて、2007年から再修復工事をして、今のようになったのが2012年です。

 つまり、東京駅丸の内赤レンガ駅舎は、これまでに4つの姿を見せてきました。この後の話がこんがらからないように整理しておきます。初代は創建時の1914年の姿、これを「1914東京駅」といいましょう。
 2代目は1945年にアメリカ軍空爆で燃えて煤けた壁とぐにゃぐにゃ鉄骨屋根になった姿、これを「1945東京駅」と言いましょう。
3代目はそれを2階建てにして屋根を付けて修復した「1947東京駅」、
 4代目はそれを更に修復して初代の姿にコピー再生した「2012東京駅」で、今見ている姿です。

では、駅前広場に出て正面から見ましょう。
つづく

2017/05/26

1268【タイムマシン】中学生のわたしが作文をもち、大学生のわたしが論文かかえ、前世期から21世紀にやってきた

 しばらくぶりに、M先生からお手紙を頂戴した。中学校3年生の時のクラス担任だった数学の教師である。特別な事件があったのでもないが、M先生には絶大な尊敬の念を抱いている。何年かに一度の感じで、特に用事もないが、なにかで文通がある。
 先日のお手紙のなかに、3枚の古ぼけた紙が同封してあり、こう書いてある。

終活へ向けて整理していました処、中三の時 伊達・(ほかにM君・H君の名が書いてある)三人の「自己を語る」が出てきて、びっくりいたしました。この三人だけのが残っていました。
 どうか十五の君に会ってみてください。大人の階段を上りはじめた時と思います。

 どれどれと赤茶けた紙を開けば、その題でクラス全員が書かされた作文らしく、ヘタクソな字で何やらゴタゴタ書いてある。
 読んで赤面した。書いたとは全く覚えていないが、わたしが書いたとは分かる。2年生のクラスでの悩み、3年のクラスになっての希望、これからの小さな抱負とか、内容に思い出せることもあるが、ほとんど思い出せない。
 その幼い書きぶりには、今、これを書くために、読み返してもはずかしい。タイムマシンに乗ってきた十五歳のわたしはなんとまあ幼いことよ、とても大人の階段を上りはじめてなんかいないのであった。

 ハイ、M先生、十五歳のわたしに会いました。読みながら恥ずかしくてモジモジしたくなり、先生の前に居るような空気が漂ってきました。
 先生は大学を出て、わたしたちのところが最初の赴任校で、最初の担任学級でしたね。先生に出会えて本当によかったと思っています。もちろんわたしだけじゃなくて、あの三年五組の少年少女たちは、みんながそう思っています。
 だから今も、先生の隠居所に誰とかれとなく誘い合って、ちょくちょく押しかけるのですね。
卒業記念写真 1953年

 M先生は、わたしたちが卒業する時に結婚されたが、それまではO先生だった。結婚相手は同僚の理科教師のM先生である。その男のM先生も生徒たちに慕われる人だったから、こちらは驚くと同時に大いに喜んで、最高のカップルと思ったものだ。
 両先生を慕う生徒たちは高校生になっても、新婚M先生の自宅にしょっちゅう押しかける常連がいた。中には大学進学相談もしていたやつもいた。
 それにしてもあれから65年、今もこうして遠くにいる疎遠のわたしにも手紙を下さる。そしてあのころの教え子たち慕われ続けるとは、教師冥利に尽きるお方である。うらやましい。

 作文を同封してあったM君、H君ともに近傍に住んでいるので、さっそくそれぞれに転送した。3作文でわたしのがいちばん幼いのに、ちょっとガックリした。2人の作文も読んだので、やむを得ずわたしのコピーも同封した。
 故郷のあたりにいる同クラスだった元少女たちに、M先生からこんなお手紙を戴いたよって、羨ましいだろうと自慢げにメールしたら、その作文を読ませろと返事が来た。
 でも、見せないのだ。あんな幼い奴だった自分を、たとえ同期生とは言え、いや同期生だからこそ逢わせるなんて、恥ずかしくてできない。
1953年に作った学級誌

 M先生、わたしは不肖の生徒にて、故郷を離れてから先生に会いに伺ったのは1度だけです。あれはもう20年近くも前でしたか、故郷で高校同期会があった帰途に、M君が行こうよと誘ってくれて、倉敷駅の喫茶店でお会いしました。
 ほぼ半世紀前のあのはつらつとした若い先生が、どんな老婆で現れるか実は心配で、逢いたいけれども逢いたくないと悩んでいました。幸いにも現れた古希の先生は昔のままで、不思議な驚嘆とともに安心したのでした。思い返すと、あれもタイムマシーンでしたね。

 このM先生に出会ったことから、しばらくはわたしも教師になろうとおもっていたが、高校生になったら建築家になろうと心変わりしてしまった。
 そして大学で建築を勉強するとき、人生でもうひとりの尊敬するH先生に出会ったのだった。社会に出てからも仕事で建築史に関する調べごとがあると、いつも指導していただいた。
 今もかくしゃくとして、被災した熊本城の復元の指導をされ、もう何十年もNHKTV大河ドラマの建築考証を続けておられる。
 このH先生も教え子たちから慕われて、今も毎年1回囲む会をしているが、先生は毎年登場されるのに、教え子の方に超高齢化による脱落者が出てくるのはなんともはや。

 実はこのH先生からも、一昨年にタイムマシーンに乗った23歳のわたしに逢わせていただいたことがある。それは保管して下さっていた、わたしの大学卒業研究論文である。
 その研究を指導して下さったのはもちろんH先生であるが、今まで保管されていたのには恐縮してしまった。まさかわたしの論文だけではあるまいが、先生の専門研究分野の近世住宅史の資料の一部だからであろう。
 さすがに中学生とは違う意味だが、読んでみて面白くもあり恥ずかしくもあった。ほう、けっこう面白い論考だったよなあ、あ、そこをなんでもっと突っ込まなかったのか、なんて思ってしまった。
 いま読んでも面白い一部分を、エッセイ風にしたのが「京の名刹 法然院の謎」である。

 そうだ、わたしの終活で整理品の中から、なにかタイムマシン種を見つけて、だれかに送りつけてやろうかな。
 どうぞ、M先生もH先生も、お元気にお過ごしください。 

2017/05/17

1267【東京風景GSIX】内に草間ツブツブ提灯がぶら下がり外に暖簾がかかる「銀六」大箱出現で銀座の空が狭くなった

●GSIXあたりは国際的ミーハー大混雑
 1年半ぶりに東京銀座に遊びに行ってきた。最近できた話題の大型施設「銀座シクス」を観てきた。6丁目にあるからシクスだろうが、安易なネーミングだよなあ、そうだ、わたしが粋な名づけをしてあげましょ、銀六って。
 とはいっても本当の目的は、その中にできた観世能楽堂で能楽を観るためであったが、当然のことについでに「銀六」も見てきた。
 再びとはいっても、買い物する気も金もないから、内部は能楽堂だけでよいのだ。どうせ大きな吹き抜けがあって、わたしには縁のない品物が並ぶだけのことだろう。
昔々、銀座松屋の吹き抜けをはじめて見たときビックリしたが、
いまどき、もうこんなことで驚かない
またまた、とはいっても、全く観ないのも徘徊ミーハーとしてシャクだから、能の休憩時間に地下3階から地上5階まで登って、吹き抜け空間のあたりの便所に行ってきた。
 案の定、エスカレーターが上り下りする大きなアトリウムがある常識的大規模商業空間である。
 今、人気沸騰の草間弥生模様の提灯がたくさんぶら下がる。わたしは草間の大量ツブツブ羅列ゲージツを観ると、じんましんが出そうになる。

 それにしても、この人混みは尋常ではない。ミーハーが増殖しつあるようで、しかも国際的である。表通りはヨチヨチ歩きでないと進めないほどの混みようで、アジア系外国人がいっぱいいる。平和な世の中だ。

●銀六は銀座伝統景観をフィーチャーか

 銀六出現で銀座景観がどうなったか、周りを歩いてみてきた。
 建物の高さは銀座ルールとか言って、建築の最高の高さを56mに抑えてあるので、今どきの墓石型超高層ビルではない。ほぼ敷地いっぱいにドデンと大箱が転がっている。
 立面と利用を上下2段に分けて、下3分の1は店舗、上3分の2はオフィスらしい。上層階は黒いガラス窓に階ごとに庇が出ているが、下層階も同じように庇を出しているが、庇の先にパネルを取り付けて、ダブルスキンにしているらしい。

 つまりこれは商家が軒先につるした暖簾だな、その証拠には暖簾に店の名を大きく書いている、Dior(縁がないなあ)とかCÉLINE(これも)とかGSIX(これは銀六のことらしい)とか。そのパネルがぺらぺらしているのは、暖簾だからだな。

 内部のテナントに対応して、縦割りに別々の暖簾デザインになっている。個別の店舗ビルが立ち並んでいる風情なのである。どうやら、銀座特有のコマ割りペンシルビル街並みをフィーチャーしたらしい。
 以前ここに建っていた松坂屋は、百貨店でございとデカく見せていたけど、こうやって銀座寸法に分節するのも、よろしい。
めいめいの暖簾をかけたファサード

かつての銀座松坂屋はこんな立面だった
これは、テナントの変更があったら、暖簾をかけ替えるようにパネルを取り換えるのだろう。おお、商家の伝統的発想であり、建築家谷口モダニストにそのような商才があるとはねえ。
暖簾ごとに光り方が異なる
●銀座の空が狭くなった
 今どきの超高層仕立てなら、上層階を下層階よりも壁面を引っ込めて高く立ち上がるのだが、ここでは高さ制限があるために引っ込めると床面積を損するとて、下層も上層も同じ壁面のズンドウ仕立てにして、容積を稼いだらしい。
 地下も6階まで掘っている。能楽堂も地下3階にあって、地下深く潜り潜って観に行くことになったし、しかも見所の幅が狭くなっったので、閉所恐怖症のわたしは、もう松濤にあった時のような観世能楽堂通いをや~めたッと。

 高さ31mがざっと2倍の56mの箱になって、それが横に転がっていると、さすがに銀座の空が狭くなった感を免れない。上層部を左右に分けて、あいだに隙間をつくって空を見せてくれると良かったのに。
 三原通りは広くなってセットバックもしているが、そのほかはほぼ道路いっぱいの壁面であるから、圧迫感がある。セットバックすればいいってもんでもないが、。
 超高層反対の銀座ルールも良し悪しである。 
三原通り
それで思い出したが、ずっと前にこんな戯画を作ったことがある。銀座の近未来風景である。なんだかつまらない。http://datey.blogspot.jp/2014/03/903.html

中央通りと三原通りの間にあった区画街路を廃止して、その道幅分を三原通り拡幅に付け替えたらしい。
 だがその自動車交通の排除をできなかったようで、ビルのまん中を串刺しにトンネル状に通路が抜けて車が通っている。つまり1階はあいかわらず以前と同じに二つに分かれている。せっかく共同化したのに、これじゃあ床の使い方がもったいないよなあ。
 交通機能からはこの貫通車動線を外せなかったのか、それとも完全廃道にするには近隣街区関係者の同意が得られなかったのか。
 建築の床利用計画にはかなり不都合なのは、現に銀座通りから入って能楽堂に行こうとしたら、いったん外に出てぐるっと三原通りまで回らされてしまった。
貫通道路
銀六を貫通した区画街路は更に三越も貫通する
●再開発事業のプランナーはだれだろうか
 この開発は14名の地権者たちによる、組合方式の市街地再開発事業であるそうだ。
 商業的超一等地でも共同事業だから、表と裏の大勢の銀座旦那衆権利者間の調整はけっこう大変だったろう。
 法定再開発だから行政手続きも面倒だっただろうが、だれがやったのだろうか。
 設計は谷口吉生と鹿島建設と公表資料にはあるが、この共同大事業のプロジェクトマネージャーは、いったい誰だったのか分らない。

 1昨年の工事中にこの前を通った時に、仮囲いに表示があり、設計監理は銀座六丁目地区市街地再開発計画設計共同体と書いてあったが、これは谷口と鹿島のことだろう。
 それに並ぶもう一枚の看板があり、設計プロジェクトマネージャーとして森ビルとアール・アイ・エーの名が書いてあった。この2者の役割が事業のマネージャーなんだろうが、公開されている資料には、どれにも見えないのはどうしてだろうか。


 このような大規模な事業は、設計に入る前に構想や企画や計画の段階がかなり長いし、それが設計の条件を決める重要な仕事なのだが、この種の公表資料には、最後の設計者の名は出ても、初めの企画者や計画者の名が出てこないのは、例えば新国立競技場でも豊洲市場でもそうであり、なんとも不思議である。
 プランナーの仕事をやってきたわたしには、不満である。
 まあ、日本では設計者の建築家の名が普通に知られるのも珍しいから、ましてやその前さばきをするプランナーって、そんなものが世の中に居るのかいって、そんなもんだろう。悲しいねえ。

●銀座4丁目あたりも変化か
 銀座と言えば昔は尾張町交差点、今は4丁目であるが、わたしは戦前の風景を見たことはない。1950年代半ば以降の記憶で言えば、服部時計店は相かわらず、三越が交差点角に顔を出してきたのは2010年だった。

 サッポロ銀座ビルは1970年に建ったが、このたび見たら建て替わっていた。
 なんだかもこもこした網目で、これってビール瓶が転んでも割れないように網目発泡スチロールでくるんだつもりのデザインだろうか。
 ただし、裏に回ると普通の壁になってしまうから手抜きであるよなあ。
向うに三越、手前にサッポロだけど網目模様が横や裏にはない
銀座三愛ビルが日建の林昌二の設計で建ったのは1960年のこと、それは建築界でも話題だったが、一般にもその姿が評判になった。
 建築自体が広告塔となり、戦後商業ビルとして成功の先端を行ったが、今もその姿が健在なのは服部時計店と同様である。
 これを見上げて、昔々その向こうにあった「森永ミルクキャラメル」地球儀広告を思い出す。三愛と比べて屋上ネオンサイン広告の迫力に建築と無縁の景観のいやらしさがあった。
 あ、今思い出したが、三愛ビルの足元の陰に、流政之作の小さな黒い招き猫が鎮座していたが、観てくるのを忘れた。いまも居るのだろうか。
こうや手見ると三愛ビルが有象無象の街並みを率いているようだ
人、人、人で埋まっている銀座であった。その半分以上は外国人観光客のような感じだが、昔々、日本人団体旅行の一団が、パリでもミラノでもロンドンでもニューヨークでも、わがもの顔に歩いていた時代があったのに、今は日本がその舞台になっていることを肌で感じる。
 まあ、平和で宜しいじゃござんせんか。
 7丁目のライオンビアホールは健在のようだから、近いうちに行っておこう。これもいつつ建て替えで消えるかわからないし、こちらがいつ消える身になるかもわからないのだから。

参照:銀座おのぼりさん徘徊と松坂屋の巨大再開発http://datey.blogspot.jp/2015/10/1132.html