2017/09/22

1286【癌かもしれない日々・3】日光角化症顔面患部皮膚サンプル検査結果報告をもらったけど専門用語だらけなので患者向けにもうひと工夫してほしい

癌かもしれない日々・2】のつづき

 日光角化症との診断が出たときに医師からもらった「組織診断 最終診断 生研」なる、A4判1枚の紙がある。字が小さくて読みにくいし、今日の話と同じことが書いてあるのだろうと思って、その場では読まず質問しなかった。
 で、今、うちで読み始めたのである。

 おおぜいの名前が書いてある。提出医、診断医、確認が2名、ダブルチェック担当医が2名で、なんと計6名もの医師がわたしのために働いてくれたのであるか。

 判決文はここなのだろう。
病理組織診断 
 Skin Actinic keratoisis 悪性
 所見 
 検体は日光角化症の疑いで、左のこめかみの角化性紅斑から生検された皮膚です。長軸方向に2分割して標本としました。
 組織学的には、表層にはparakeratosis含む過角化が見られます。表皮の基底側から表層近くまでに、クロマチンの増量、核の腫大や核形不整の見られる細胞が、配列の乱れを伴い増殖しています。真皮上層には、solar elastosis、リンパ球浸潤が見られます。
 actic keratosisと考えます。

 あれれ、聞いたことを専門的に言うとこうなるのかあ、え~、分らん。ラテン語?も交じる医学専門用語が並んでいて理解できない。しょうがない、貧者の百科事典(google検索)を使って、解読に取りくむことにしようっと。

Skin Actinic keratoisis」とは、「皮膚 日光角化症」であることはすぐに分かった。
「角化」とは、「細胞診用語解説集 」から引用すると、
keratinization 重層扁平上皮の表層細胞に角質(高分子ケラチン)が生成されることをいう。細胞質はオレンジ G好性をしめす。
 注:生理的に角化が起こるのは表皮のみで、生理的には角化のない粘膜が角化することを類表皮化(表皮化生、扁平上皮化生:epidermization)という。粘膜原発の扁平上皮癌が類表皮癌(epidermoid carcinoma)と呼ばれることがあるのはこのことに由来する。
 用例:角化症(keratosis)、異[常]角化[症](dyskeratosis)、錯角化[症](parakeratosis)、過角化[症](hyperkeratosis:角化の過剰状態)
だそうだが、これを読むとますます分らないので、これ以上追及しない。

悪性」とは、なんとも気味が悪い言葉だ。ググると「悪性」だけではわからないが、「悪性腫瘍」は出てきて「癌」のことだそうである。そうか、わたしは顔が癌なんだ、ガンガンか。
生検」とは、患部の皮膚の一部を検査のために切りとる手術のことである。これは先日それをやった時に、なんのことか分らなくて調べて知った。ふむ、あの時切りとった皮膚を二つに分けて調べたんだな。

parakeratosis」とは、細胞用語辞典に「錯角化[症]とある。
錯角化」をググると「正常角化では角質細胞は核を消失するが,角化が不完全な病的角化では角質細胞に核が遺残していることがあり,これをいう.通常,顆粒層の減少ないし消失を伴う.乾癬の病理組織でよくみられる.これは表皮細胞の分化の障害によるとされている」と出てくる。なんだ分らないから、これ以上追及しないことにする。

クロマチン」とは、「真核細胞内に存在するDNAとタンパク質の複合体のことを表す」(wikipedia)とあるので、これ以上追及しないが、やっぱり「増量」するとよくないのだろうなあ。
核の腫大や核形不整」とあるが、ここで「核」に遭遇するとは思わなかった。核とは原発用語とばかり思っていた。わが体内にも核があるんだなあ。
 で「腫大」をググっても分らないので、細胞核の腫瘍が大きいんだろうと解釈。「形不整」とは文字通り形態が整ってないんだろうなあ、それがどうした?

配列も乱れ」とは、文字通りなんだろうが、つまり乱れるのはよくないのだろうなあ。
真皮上層」とは、医師の皮膚構造に関する解説があったから分るが、そこに「solar erastosis」とはなんだろう。日本語翻訳では「日光弾力線維症」であるが、このズバリ解説は見つからないので、あちこち読むと、要するに皮膚に弾力を与えている線維なるものが、日光にあたり過ぎたせいで弱っているということらしい。

リンパ球湿潤」とは、「散在性リンパ組織のうち特に小規模なもの。リンパ球が集合したものであり、感染症に起因する炎症の場に出現し、リンパ球や抗体産生細胞を増殖させる。散在性リンパ組織とリンパ小節とを総称してリンパ組織と呼ぶ」(wikipedia)なので、これ以上追及しない。

 ということで、読んでも実のところ何が何だかわからないが、要するによくないらしいと、おぼろげながら理解した。
 でもなあ、こういう専門用語だらけの文書は、病院内部ではそれでいいだろうし、患者にそのまま出すのもよいことと思うが、そこでもう一歩進んで、患者のための「解説」欄も設けてほしいものである。
 じゃあ、まあ、せいぜいクリーム塗って、顔面修復に努めようっと。このいかにも老人らしいシミだらけの顔が、どんな美顔になるか楽しみだなあ。
つづく

2017/09/12

1284【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.12】超高層建築の東京海上ビルがタブーに触れて起きた美観論争のなれのはてのこの現実はいったいなんだろ


 さて、次はこの広場を北に歩いて、先ほど遠くから眺めた赤い超高層「東京海上火災ビル」に行きましょう。
これまでのガイドコースと今回の位置(赤丸)
●東京海上火災ビルはいまやチビ
 はい、やってきましたこの前に見える道路、左に東京海上ビルと新丸ビル、右に日本郵船ビルと丸ビル、突き当りには東京駅が見えます。
東京駅前道路の行幸通りを東に見る
 この道路の名前は「東京都道404号皇居前東京停車場線」といいます。え、名前が長すぎるって、そう、通称「行幸通り」ですね。
行幸の意味は、天皇がどこか特定のひとつの目的地に向けて外出することだそうですから、そのときに通る道なんでしょうね。散歩とかあちこち行く用事、巡幸というそうですが、では通らないんでしょうかね。あ、天皇専用道路ではないですよ。

 左に見える赤いレンガタイルのを貼った「東京海上ビル」は髙さが99.7mだそうです。
 その向こうに見える「新丸ビル」は高さ197mですから、隣同士なのになんでこんなに高さが違うのでしょうか。こんな地価の高いところでは、東京海上だって目いっぱいの高さまで建てたいでしょうに、どうして半分の高さなんでしょうか。
 それには、わけのわからないいわく因縁があるのです。その話をします。
左は東京海上火災ビル、右は新丸ビル 新丸ビルが5割も髙い
 1963年に建築基準法が変って、建築物の高さ限度31m規制が廃止になりました。超高層ビル建設が可能になり、その第1号は霞が関ビルで高さ147mでした。
この東京海上ビルができたのは1974年でした。1966年に高さ127mで計画して建築確認申請を出したのでした。だから完成までに10年ほどかかったことになります。
 工事が遅れたのではなくて、申請段階でもめにもめて時間がかかったのです。

●日本の民俗的タブーに触れた東京海上ビル
 その揉めた理由は、法律、政治、経済、社会(というより民俗か)など多様な問題がありました。はじめに言っておきますが、この法律的にも技術にも揉めましたが、これらは結果的にはなにも問題ありませんでした。それなのに確認申請段階で揉めたのですから、これはもう政治、経済、民俗問題ですね。
 いちばん興味深いの民俗問題とでもいうべき、「日本のタブーに触れた」からでした。

 そのタブーってなんだと思いますか、それは、この後に見える江戸城の森の中に住む人を、あんな高いビルの上から見下ろすのは「不敬にあたる」からです。
江戸城の森
 いやいやどうも、だれも正面からそう言わないし、だれがそう言うのかだれも分らないのですが、ひたひたとそういう灰色の霧のようなものが、東京海上ビル計画の足元に押し寄せたのです。いまならうるさいネトウヨなんてまだいない時代ですよ。

 それにいちばん近いことを言った人は時の首相の佐藤栄作ですね。佐藤が超高層に反対らしいと聞いた東京海上の山本源左衛門社長が、首相を直接訪ねてなぜいけないのか聞いたそうです。
その返答は「わしゃ、好かん、高いのは嫌いじゃッ」、ホントは「タブーじゃッ」と言いたかったんでしょうが、そうもいかない。これで政治的問題になるんですね。

 1966年から東京海上ビルが建つまで、後に「丸の内美観論争」言われる事件が新聞を賑わわせました。超高層規制派と超高層推進派の論争です。
 でもねえ、タブーのことは思っていても一言も言わずに、「美観を損ねる、損ねない」の論争でした。

 規制派には、世に言う文人、有識者たち、そして専門家としては土木系の都市計画家たちがいました。そして世には隠れタブー派が多くいたでしょう。
 そして表には何も言わなかったようですが、地元の大不動産業者の三菱地所が隠然たる規制派の親分だったようです。その理由は明らかで、これまで31mのビル群を営々とつくってきたのに、そこに超高層ビルをどんどん作られては、商品価値が相対的に下落すると思ったのでしょう。三菱地所の貸ビルはどれも質実剛健であり、お世辞にも建築デザインのないものばかりですからね。これが経済的問題です。

●東京都は規制推進派、建設省は規制反対派
 じつは東京都都市行政の官僚も、慎重派でした。どういうわけだか、東京海上が確認申請出す前から、高さ規制の条例づくりの検討をしていました。規制派とあらかじめ内通してたんでしょうか。だから建築確認申請が出てきても、確認引き伸ばし作戦をあれやこれやとやったのでした。行政不服審査もありましたね。
 東京都が規制派だったのは、当時の山田天皇と言われた首都圏整備局長の山田正男がタブー派(?)で、たぶん、失効していた旧法による美観地区の高さ規制を、新条例にして引き継ごうとしたのでしょう。
規制派の東京都がつくった将来想像図(1966/11/12読売新聞)
なんともヘタクソな姿をわざわざ描いたらしい
推進派は、建築家、建設業界、そして建築基準法の元締めの建設省の建築行政官僚たちでした。建築家と建設業界は新しい仕事をやりたいし、儲かるし、当然です。
超高層推進派の日本建築家協会作成の将来予想模型(1967/09/20朝日新聞)
このダイナミックな姿が現代都市像だ、なんて景観論を振り回していた
 政府の建築官僚たちは、もちろん新たな法による建築で欧米のような都市づくりをすすめたかったことでしょう。東京都の条例づくりにストップかけています。
 でも、いちばん困ったのはこの官僚たちでしょうね、だって政府のトップである首相が反対だと言うのですから、首相の下にいる建設大臣も政治家として進めるわけにはいかない、官僚はそれに従わざるを得ない。人事にも影響あったとか聞いたことがあります。

●高さ100mでタブー派と手打ちしたらしいが、、
 あれやこれやすったもんだの結果は、東京都の条例はできなかったのです。どうしてかよく分りませんが、美濃部革新は知事の登場とかで、政治的な力学が働いたらしいです。
 そしてまた、なんだかさっぱり分りませんが、タブー派(?)の親分と東京海上との裏での手打ち式であったらしく、「高さ100m以下ならいいよ」ってことになったらしいのです。

だから東京海上ビルは当初の高さ128mを、99.7mに設計変更した案で、確認申請を1968年に出し直して、これによりGOとなり、1974年に竣工したのです。
 表向きは、東京海上が勝手に自主的に高さを変更して100m以下にしたので、なにも圧力何度なかったことになっています。
 以後、しばらくは100mなら建ててよいのだとて、AIUやDNタワーなどいくつかのビルがそれで建ちましたね。

 じゃあ、どうして今の目の前に見るように、150mも200mもあるようなビルが林立してるんでしょうかねえ。
 いつのまにやらタブーは消え、100m手打ちも消えたのですかねえ、あの森の中の住人も景観論争の頃とは代替わりしたからですかねえ、え、本当ですか。
 もう佐藤栄作もいないし、規制派の親分だった三菱地所が今やすっかり心変わりして裏切り者となって超高層推進派ですから、あのタブーは経済の前にはあっけなく蒸発したのですかねえ、いやいや、そんなはずは、、、でも、、。
タブーを脱ぎ捨てて発表した三菱地所の「丸の内マンッハタン計画」1986
そして今は、、、
100mでそろう筈だったスカイラインは今や、、
 では、ちょっと悪戯を、、
今じゃあだれでもPCの中でこんなこともできますよ
東京海上の東隣の丸ビルと新丸ビルの間からタブーを覗いてみました。
 考えてみると奇妙な論争であり、奇妙な終結でした。タブーの霧のなかに、100mの真っ赤な大入道がウヤムヤと立ち上がったのでした。
その大入道も次なるガラスモンスターに、大きさとしてはすっかり影を失いましたが、その容姿は新参者どもとははっきりと違う風格を見せているのは、さすがに建築家前川国を作品だからと言いましょうか。

 東京海上が前川に設計を頼んだ動機が面白い。はじめは三菱地所に超高層ビルにしてくれと設計を依頼したけど、どうしても超高層にしてくれない。そこでしょうがないから前川に頼んだのだそうです。
 ただ、今から見ると、公開空地広場の扱いがどうも古臭いし、ビルの公開性がないですねえ、ここらあたりはリニューアルしてほしいと思います。
東京海上ビルの公開空地はなんともそっけない
 この論争の頃に、先ほど訪ねた丸ノ内の三菱1号館と、日比谷の帝国ホテルが姿を消しました。どちらも近代建築の歴史的証人でした。
京都では1964年に京都タワー美観論争があり、1972年に「京都市市街地景観条例」ができました。
 横浜では、1972年に「横浜市山手地区景観風致保全要綱」を作り、73年には都市美審議会を発足させて、飛鳥田市長と企画調整局長田村明による都市デザイン行政が始まりました。
 ということで、この赤い超高層ビルは、その都市景観をつくる大きな契機になったと言ってよいでしょう。

 もっとも、近ごろのこのあたりでは、超高層ビルを建て替えが流行していますから、この東京海上ビルもいつまでこのまま立っているか分りませんよ。
 あの東京駅だって、いつまでも3階建じゃない、超高層になる日が来るでしょうね。
超高層ビルは超超高層に、東京駅も超高層ビルに建て替え?



 では、次に参りましょう。(つづく)

◆景観論争の経緯はこちらを参照されたい
 【資料】東京駅周辺整備調査1988:赤レンガ駅舎をめぐる調査研究(1987)

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/09/03

1283【年金老人ボケ遅延策】役所から書類を書いて出せと指示がきたがこれは高齢者ボケ進行遅延対策なんだろうなあ

●1時間もかけて書いた書類
 「平成30年度分公的年金等の受給者の扶養親族等申告書」と「個人番号申出書(平成29年分扶養親族等について)」の二つを出せ、日本年金機構から手紙が来た。
 1時間かけて書いたのだが、実は書いたのは、姓名と個人番号と〇を2つだけ、ほんのわずかである。なのに1時間もかかったのは、わたしがボケてきたからである。
 けっして書類の記入方法の説明を読んでも、意味が分らなかったからではない。とにかく読んで記入できたのだから、分かったのである。もっとも、正しく記入したかどうかは、わたしにはわからない。

●ゲーム気分で書類解読  
 こういう書類を書くのは得意である。いや、得意ではないが、役所流の記入方法説明書を解読するのを面白がるのである。ゲームの気分になるからだ。
 今は仕事してないから解読の機会はめったにないが、1年に2~3回はある。その解読難の筆頭は「所得税確定申告書」である。
 しかし近年は、国税庁のウェブサイトで申告書記入をできるようになって、解読も計算も必要がなくなり、ゲームじゃなくなって面白くない。正しくかけたのか確かめるすべもない。

 そして今回の申告書と申出書である。久しぶりに頭の体操だと思って取り掛かったが、1時間で解読とPCとプリンターでのコピー作成ができた。
 2ページ書くのに8ページもわたる記入方法説明を読むのだが、若いころと違ってすらすらと頭に入らない。何回も読む、こんがらからる、腹が立つ。
 こんな分りにくい記入方法の説明って、だれが書くんだろう、いや、いや、丁寧に書いてあるぞ、分らないのはこちらのボケのせいだ、怒るな、怒るな。
 
●役所の書類にデザイナーを使え
 でもなあ、このような記入方法の解説って、書く専門家がいるのだろうか。それとも役人が片手間にやってるのか。
 それなりに分らせようとする努力が見え見えに分る記述ではあると思う。だが、デザインというか、レイアウトが悪い。話が前後するのである。
 分ったと思って次をよんでいると、そこまでの用語の解説が出てきて、わたしが思っていたのと違うことを教えてくれる。その説明を頭に入れて、また先ほどの文章に戻って読む。

 まあ、そんなことを繰り返していると、なんとか分って、記入したのである。
 でも、似たような姿の欄がいっぱいあって、行を間違えて書きこんで、線を引いて訂正した。欄を色違いにでもしてくれるといいのになあ。
 あ、そうだ、この書類デザインや記入方法説明書の構成に、グラフィックデザイナーとかコピーライターとか、その方面の専門家を入れてはいかがですか?

●なんで個人番号を聞いてくるんだろうか
 それにしても、これって政府の仕事だろうに、いまさら個人番号を聞いてくるのはどうしてなんだろうか。だって、個人番号ってのは政府が一方的に呉れたものだから、とっくにそっちがご存じでしょうに、なんで聞いてくるんだろうか?
 年金屋さんと番号屋とは縦割り行政なのかい、それって番号を呉れた意味がないじゃん。

●ものすごい費用がもったいない
 この用紙印刷費がものすごいだろうなあ、何千万枚だろうか。それを郵便で往復費用もすごいだろうなあ、何千万通かなあ、何十億円かなあ、印刷屋や郵便屋にやるよりも年金で呉れるといいのになあ。
 個人番号通知書コピーも付けるのだが、わたしはPCとプリンタで造ったけれど、一般には外でコピーするだろうから、その費用もすごい。
 それにまた、日本列島全体でただいまこれを書くためにかけている何千万人もの労力を金に換算すると、いったいいくらになるんだろうか。

●これはボケ対策、景気対策か
 なんてことをダラダラと書きながら思いついたのは、そうだ、これって、日本の何千万人かの高齢者のボケ進行遅延対策として、政府がやってる政策のひとつにに違いないってこと。一生懸命に読んで書けば、ボケがちょっとは止まるかも。
 うん、そうにちがいない。頭をひねってボケ対策、コピー屋に出かけるから足腰対策だな、郵便事業の経営改善対策もあるか、コピー投資で景気浮揚対策か、、う~む、そうか、文句を言ってごめんなさい、ありがたいことです、ケッ。

2017/08/28

1282【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.11】攻め寄せる超高層建築の大群に包囲されつつある江戸城西の丸下皇居外苑


 さて堀端の日比谷通りを南の端まで来ましたから、これから西に向かって日比谷堀に沿って歩きましょう。そして祝田橋を北に渡って皇居外苑に入り、これまで歩いてきた丸の内の風景を遠望しましょう。
今回のガイドマップ 
黄色線はこれまでと今日の行程、橙色丸はこれまでのガイド施設
赤丸は今回の視点場
●江戸時代の堀端風景
祝田橋から真東の日比谷堀の向こうに、先ほどのDNタワーが正面に見えます。左の樹林の中は皇居外苑で、そこは江戸時代には西の丸下とよばれていました。
祝田橋から日比谷堀越しに見るDNタワー21
 実はこのあたりから同じように風景を、江戸時代末期に描いた彩色絵「泥絵」がありますので、比較してみてください。いまは堀端の樹木が繁りすぎているようです。 
左の石垣の内側は西の丸下、正面奥は鳥取藩池田家上屋敷と古河藩土井家上屋敷、
右は日比谷門の高麗門と櫓門、桜田御用屋敷
(『泥絵で見る大名屋敷』平井聖、浅野伸子より)
上の泥絵を描いた時代の江戸切絵図1849年 
今の祝田橋は赤丸あたりから矢印方向を描いている
土井大炊頭と記入のある古河藩土井家上屋敷がDNタワーの位置
●二重橋前から見る超高層群の壁
では皇居前広場に入り、二重橋のあたりから丸の内方面を眺めましょう。この場所は馬場先通りを西に延長した突き当りです。
 全く同じ位置から見て、2005年撮影と2017年撮影の写真を見比べてください。左の方、つまり大手町あたりが、すごく混み合ってきていますね。そして右の方へとだだんだんと混み具合が進んできているようです。いちばん右が先ほど見たDNタワーです。

同じ場所から、空中に舞いあがって眺めましょう。
江戸城上空から東を俯瞰 2016年 goolgle earth
●江戸城住民を見下ろす超高層はケシカラン
左の方に赤い色のあまり高くない超高層ビルが見えます。このあたりで最初の建った超高層建築の東京海上ビルです。
 これが建ったのは1974年でしたが、建つにあたっては建築界にかぎらず、世間も賑わわせた「美観論争」という事件がありました。
 高さ127mで建築確認申請を出したら、法的には問題ないのに、あれこれ政治的介入があって、ずいぶんすったもんだしました。すったもんだしたのは、表向きは「こんな高いものを建てては江戸城の美観を損ねる」でしたが、実は「江戸城内住民を見下ろすのはケシカラン」という世間の根強い信仰みたいなことでしたね。今の様に世の中に景観について喧しい時代ではありませんでした。

 その結果は、頭をちょん切って今に見る100m高さで建ったのでした。要するに、「丸の内あたりでは高さ100m迄は建ててもいいよ」と、どことどこか知りませんが、手打ち式があったらしいです。どうして100mなら良いのか誰も分りません。
 でもねえ、このあたりがから見ると、あの赤い東京海上ビルのまわりには、それよりもずいぶん高いビルだらけですねえ、ヘンですよね。
 都市計画として実に興味ある事件でした。論争の中身はもっと複雑なので、あとで東京海上ビルの近くに行って、眺めながらお話しましょう。

●戦前にもあった江戸城住民見下ろしケシカラン事件
 ところで、このあたりのビルの高さで揉めた事件は、戦前にもありました。その元凶となった建築は、ここから首をぐるっと南に回して見える警視庁のビルです。
 あ、いや、いまのあの建物じゃなくて、あれの先代の警視庁ビルです。
2重橋前から見る警視庁
 1933年に、皇居を取り囲む大手町、丸の内、有楽町、霞が関あたりに、当時の市街地建築物法による「美観地区」指定しました。その主な目的は建築の最高高さを、地区により31mから15mまでの6段階に分けて、制限することでした。

 その差の決め方は地形の高さに対応して、スカイラインを定めているので、いかにも美観を考えたようですが、じつは江戸城址住人との関係で決めたのでした。
この美観地区を定めた動機は、当時建設中の警視庁の新庁舎に望楼タワーがついており、それが31mを越えるものだったからでした。それをみて都市美協会が異議を唱えるなどして、内務省がこの美観地区による規制を出してきたのです。当時の都市計画特別委員会での提案者側の説明に、「皇居の中を窺うことのできるような高さはなるべく避けたい」とあります。
 そして警視庁の庁舎は高さ28mとなり、タワーの鉄骨は組み上がっていたのを、10m程ちょん切りました。ただし、そのタワーの高さが不法だったのではなかったのですから、後追い法規制ですね。
 当時の建築規制行政は警察がやっていましたから、なんとも皮肉ですね。

 その約40年後に、東京海上ビルで同じような事件が起きたのですね。
 もちろん戦後は都市、建築の法律が変わっていて、超高層を建てるのは法的に問題ないのですが、またぞろ高さ制限制度をつくる動きもありました、今度は消えました。
 同じような事件が起きるとは、面白いですねえ。敗戦を境に日本人の意識は大変革したかと思ってけど、そうじゃなかったのですね。
江戸城と超高層建築群
●スカイラインの変貌を追う
さて、ここ二重橋前から見る丸の内方面のスカイラインは、次から次へと高さ100mを超えてきているのですが、いつからこんなになってきたのでしょうか。
 昔、日比谷通りのビル群を西から見て順に撮った、1951年と1974年の写真があります。比較して並べましょう。

 いちばん右が、1938年にできた第一生命館です。今はDNタワーになっています。
  いちばん左は、1916年にできた3階建の銀行協会です。この銀行協会は、このあと1993年に超高層ビルに建て替わり、その足元に当初の外観姿を張り付けて、保存したかのような形を取りました。そして今は、その超高層ビルも壊されてしまい、まわりも含めてさらに大きな超高層ビルへと建替え中です。いやまったく、25年ほどで超高層が建て替わるなんて、なかなか忙しい世の中ですねえ。
1951年と1974年の日比谷通りの建築(『都市住宅7405』から引用)
 1951年は建物の高さは31mの規制の範囲でまだ建ち揃わなくて、スカイラインが歯抜けの感があります。
 それが74年になると、31mのスカイラインがほぼ連続していますが、そのなかに突然に東京海上ビルが突き抜けました。つまり、このあたりから今のスカイライン不揃い超高層時代へと歩み出したのですね。
 この1974年のスカイラインを見ると、東京海上ビルの異端ぶりがよく分ります。

  では、いたずら戯造も含めて1951年から2017年までのスカイラインの変化をGIFアニメにしてみました。

格好よく言えば、スタティックだった景観がダイナミックになってきた、とでも申しましょうか。でも、ここから眺める今のスカイラインには、なんの秩序感もないですねえ。それぞれの敷地ごとに、建てられるだけ容積率いっぱいに建てるだけみたいですねえ、なにか景観マスタープランによって、全体調整してるのでしょうか?
手前は江戸城内新宮殿、向うはバラバラ勝手に建ってくる超高層群
 それにしても、あの過密下町市街地が、そのままノッポビルになったような過密超高層市街地が、この狭い大手町丸ノ内で成り立つのは、江戸城という過去の巨大緑地遺産に全面的に助けられているんでしょうねえ。

 では、次に皇居前広場を北にんうけて、東京駅の真正面から来る行幸道路に参りましょう。(つづく
  
◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。
 
わたしはこの悪名高い戦場からの数少ない生き残り帰還者に出会って、その戦場体験の一部始終を聴き、オーラルヒストリーとして記録し、了解を得てネットサイトに掲載した。
大橋正平戦場物語
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei

 わたしが話を聞いたこの方は、越後の山村の最長老で、その村は2004年の中越大震災で全村避難するほどの被災だった。震災復興お手伝いのマネゴトで、その村に10年ほど通った。
 ある日、田んぼ作業の休憩中にその最長老と話をしていたら、インパール作戦の生き残りであるときいた。ちょうどそのころ、わたしは父の戦争記録をまとめていたので、興味が湧いてインタビュー記録を作ったのだった。
 
 その話とNHK映像と比べてみて矛盾はないのだが、NHKが全く触れなかった重要な大事件がある。
 インパールとともにコヒマという街を攻撃して敗退するのだが、NHK映像にはこちらの戦いも登場する。話を聞いた長老はこのコヒマの戦場に加わっていた。
 戦局は明らかに大敗方向だったのは、武器も食料も後方からの兵站が全くなかったからだ。牟田口司令官は後方からの支援をまったくしないで、ただただ攻めろと指令するのみだった。

 しかしコヒマ攻撃の第31師団の佐藤幸徳師団長は、現地での戦局を判断して司令官の命令にもかかわらず、独断で撤退を命じたのだった。もちろん、軍法会議ものだ。
 現地師団が司令官に反旗を翻したインパール作戦の有名なこの事件を、NHK映像ではまったく触れなかったのは、なぜだろうか?
 わたしはNHKの映像を見つつ、そうかこんなところだったのかと地勢と戦時映像を眺めつつ、話を聞いた村の最長老がよくまあ生き残ったものだとつくづく思った。

 なお、軍法会議モノの抗命をした佐藤は、左遷されたが軍法会議にはかからなかった。軍がインパール作戦大敗北の真相解明を避けたからだった。だれも責任取らないのだ。
 牟田口は生きて帰還し、7万人の死なせた大敗北を謝るどころか、作戦は正しかったと死ぬまで主張した。

 なお、ネット検索したら、もうひとつインパール作戦の映像があった。
【太平洋戦争】なぜ、負けた? ② インパール・コヒマの戦い
https://youtu.be/XjJ8onQqHa8
 ここには、佐藤の抗命事件が詳しく記録されている。

 ついでに、わたしの父のことだが、父は満州事変、支那事変、太平洋戦争の3度延べ7年半も兵役につき、はじめの2回は中国戦線から無事帰還した。
 太平洋戦争の時は、南方戦線に行くベく船を待っていたが、(幸いなことに)輸送船が次から次へと沈没、父の乗る船はこなかった。
 そこで本土決戦とて、小田原に上陸するであろう連合軍を迎え撃つために、山腹に陣地をつくる穴掘り作業中に敗戦を迎え、8月末に無事に帰宅してきた。
 1995年に亡くなって遺品の中から、戦争手記などが出てきたので、その戦争記録を「父の十五年戦争」としてまとめた。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/15senso

 毎年8月になると、戦争の話を書いているなあ。

2017/08/15金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
http://datey.blogspot.jp/2017/08/1282.html
2016/08/22父は三度の戦地から生還したが兵器となった釣鐘は戻らない
http://datey.blogspot.jp/2016/08/1209.html
2010/08/17戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた
http://datey.blogspot.jp/2010/08/30460.html
2013/08/16靖国神社は日の丸小僧・コスプレ親父など右傾き風景
http://datey.blogspot.jp/2013/08/821.html
2011/08/1566年目の空襲と疎開
http://datey.blogspot.jp/2011/08/474.html
2010/08/17戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた
http://datey.blogspot.jp/2016/08/1209.html
2014/08/16終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂に思う
http://datey.blogspot.jp/2014/08/983.html
2014/08/20戦争でも死んでしまえば敵も味方もないと地域別戦没者数を見る
http://datey.blogspot.jp/2014/08/984.html
2014/08/23少年の戦争の日を語るアラキジュ仲間生前遺稿集でも作ろうか
http://datey.blogspot.jp/2014/08/986.html
2009/08/15【ふるさと高梁】夏の日の鎮守の森で
http://datey.blogspot.jp/2009/08/166.html
2011/08/16無差別空襲の日々
http://datey.blogspot.jp/2011/08/475.html

2017/08/15

1282【敗戦記念日定点観測】金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏

 なんだか涼しい真夏の日である。今日(2017年8月15日)は靖国神社に敗戦記念日定点観測徘徊に行ってきた。3年ぶりである。

この前の2014年の記録、その前の2005年と2013年の記録もある。

 九段坂の途中にいつもはたくさんの“ウヨク屋台”が出ているのに、今日は雨もよいのためか、なんだか少ないがいつものヤツも見える。
 わたしがギョッとしたのは、若い大学生あるいは高校生とも見える女性たち5人、並んでパンフを配りながら、黄色い声をてんでに張り上げているその声であった。
 「憲法9条を廃止しましょう
 「憲法9条を廃止しましょう

 それは、まるで毎春の大学にみられる、新入生たちへの部活入部勧誘のノリである。
 え、君たちそんな若いのに、そんなことをいうのかい、どこの子たちだろ、恋人を戦場に送り出す気なんだね、。
 いや、もしかして、アルバイトのティッシュ配りの延長なんだろうか、それにしてもねえ、、、少女のような子たちが、てんでに明るい声で、そんなビラ配りをするのを眺めていて、あまりのギャップ感に当惑し、坂を登ってちょっと汗ばんだ身がうすら寒くなり、呆然として写真撮り忘れた。

 憲法九条廃止コールの乙女らよ明るすぎれば驟雨が包む

 大鳥居をくぐって入る人や出てくる人たちが、今年は少ない感があるのは、雨模様だからだろうか。
 若者が多いのが気になる。来るたびに年寄りが減るのは当たり前としても、若者が増えるのがブキミである。
 参道途中に張ってあるテントの中では、おりしも何かの講演会が始まるらしく、椅子に座って待つ人たちが200人以上は居るが、見渡せば若い人たちが結構多い。どういう人たちなんだろうか。

 いつもの軍人コスプレの男たちがいる。3年前は中年以上の男ばかりだったのに、今回はあきらかに20代の若者が数人いる。新世代をスカウトしたのだろう。
コスプレ若者軍人が鉄砲かついでオイチニオイチニと歩いている。
 いつも見る長老らしきコスプレ軍人がいて、金モール軍服長靴コスプレの若者が直立不動で雨傘をさしかけている。あとで別の場所でこの若者が、ひとりでスマホをいじっていた。
 ナチスの制服らしき姿も見かけた。この毎年登場するコスプレ男たちは、いったい、何者だろうか。

 金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏






そこで思い付いた、これらは神社の祭礼によくある出し物かもしれない。
 このコスプレ男たちも、九条廃止少女たちも、河野談話取消おばさんたちも、靖国国立化親父たちも、いずれも日本の昔からの習慣のお祭り屋台であり、見世物であるにちがいない。
 遊就館はその見世物の常設小屋であるとすれば、これらは明確にコンセプトが統一していいることがわかる。そう、これはなかなかによくできた祭りの出し物である。どこかにウヨク系香具師の元締めがいるにちがいない。

 わたしはそれらを見回っていて、哂いたくなりながらも、だんだんと怖くなってきたから、これらはお化け屋敷群である。夏らしくてよろしい。今日は珍しくも涼しい日だったから、うすら寒くなってきた。
 普通なら、これだけ人出のある祭りの神社には、わたあめ、金魚すくい、射的、焼きそばなどなどが懐かしい屋台が出ているものだが、ここには全くないのが不思議である。やはり特別な香具師の世界らしい。

 雨の中で傘をさして本殿に参拝する列が長く続くのを眺めると、そこにも若者たちの姿が多い。靖国神社のコンセプトに共鳴する若者たちが増えているのだろうか、それとも単なる夏祭りのお遊びだろうか、なんだかブキミになってくる。

そのうち雨が土砂降りになってきたから、さすがに軒下や休憩所に移るものが多くなる。わたしも休憩所で1時間半ほど、雨宿りしつつ文庫本を1冊読んだ。
 遊就館も入館無料のミュージアムショップだけ見た。



雨が小降りになったので九段坂をくだれば、道路に日の丸の旗行列がえんえんと続いている。ウヨクさんたちのデモ行進らしいが、数百人は居た様子である。
 歩道から拍手する人々が多い。雨の中をなかなかのご盛況のようで、怖い。
歩道で見ていると周りから拍手が

右にカーブして戻ること禁止なんだけどなあ
 ということで今日のウヨク見世物お化け屋敷群野次馬靖国徘徊は、真夏なのにコワくて寒くなったのであった。

参照:2014年8月15日靖国神社の記録
   2005年と2013年の靖国神社の記録

2017/08/10

1281【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.10】DNタワーの設計者たちと歴史的建築の保存と再生の表現

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】のつづき

●DNタワーの設計者ー渡辺仁
 この超高層のある「DNタワー21」の設計は、清水建設設計部とアメリカの建築家ケビン・ローチによるものです。
 しかしここで注意したいのは、外観保存した第一生命館は1938年にできたものであり、この設計者は渡辺仁と松本與作でしたから、この人たちも設計者としておかねばならないことです。

 更に、この第一生命館の東隣にあった1933年にできた農林中央金庫ビルは、取り壊して DNタワー21の東面にイメージ保存したのでしたが、この設計者は、渡辺仁であったことも記憶するべきでしょうね。
 渡辺仁はどんなスタイルのデザインでもできる建築家で、現存する有名な建築は上野にある国立博物館の本館、銀座の和光、横浜のホテルニューグランド本館です。
渡辺仁設計 農林中央金庫有楽町ビル 1933年
渡辺仁設計 東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)1937年
●DNタワーの設計者ー松本與作
 松本與作は、第一生命館の計画から設計、監理を行い、事業主である第一生命相互会社の営繕課長だった建築家です。
松本は、今の工学院大学の前身の工手学校を1907年に卒業して、辰野金吾の弟子になりました。そして東京駅の設計の初めから工事が終わるまで携わって建築家となりました。
 その後にやはり辰野金吾設計の京橋の第一生命相互館の設計監理をしました。その縁で辰野の死後に第一生命に入社したのでした。
辰野金吾設計 第一相互館 1921年
 松本は古典的な様式建築が得意だったようです。第一生命館の計画は松本によるもので、その外観の案は西北南の3つの面に、古典的なオーダーのついた太く高い列柱の回廊が巡る姿だったそうです。
 第1生命館の敷地が決まったのは1931年で、実施設計が終ったのは1933年です。このあたりでその頃までに既に建ち、あるいは設計中や工事中の大建築は主に銀行でしたが、どこも外壁に西洋古典様式の列柱を立てていました。
 例えば、日本橋では三井本館、日本銀行、東京銀行、丸の内では第一銀行、三菱銀行、明治生命館、そして隣りの農林中央金庫もそうでした。
 松本もその例に倣いながらも、それを超えてみたかったでしょう。道路に面する3面とも列柱をたて、しかもそこを回廊とするのは、それまでの例にはありませんでした。 

松本は営繕課長として当然のことに、第一生命館の計画から設計そして監理まで一貫して行うつもりだったのでした。松本を全幅に信頼していた矢野恒太社長もそのつもりだったようです。
 ところが、世間がなかなか許さない雰囲気でした。これほど大きな建築の設計をするには、帝大出の建築家によるべきとの声が、多方面から陰に陽にあったのでした。

 松本は大いに悩みました。そして社長と松本が相談して、そのころ帝室博物館のコンペ一等になって評判だった渡辺仁を、松本の共同設計者として起用したのでした。
 渡辺は帝大出です。隣りで先に工事が進んでいた農林中央金庫の設計者だったことも、起用の由縁かもしれません。
 いずれにしても、どんなに優れた能力を持っていても、世間には学歴でしか人を判断しない人々は、昔も今もいるものです。
 渡辺は帝室博物館で忙しかったようですが、二人の弟子たちを設計監理に出したのでした。
 ですから松本與作は、建築家でありプロデューサーの立場であったことになります。
 
 そしてできあがったのが今に見る姿で、三方の古典様式列柱回廊は西側だけになり、南北は柱型だけになっています。しかも丸柱はオーダーが消えて、ズンドウの太い角柱になりました。
 帝室博物館の様に瓦屋根を載せるまではいかなかったけれど、丸柱を角柱にしたのは皇居に面するので日本的なデザインにしたからだと、後に松本は回想しています。

 でもねえ、日本古建築での列柱回廊ならば、唐招提寺金堂でも法隆寺でも丸柱ですよね。こんな組積造のような鈍重なデザインはしませんよ。
 わたしが思うには、その頃に起きてきたモダニズムとナショナリズムを、渡部仁の流儀で合体させたようです。西の列柱回廊の姿を見ると、ドイツ・イタリアのナチス・ファシズム建築的な物々しい臭いがあります。
松本與作と渡辺仁設計の第一生命館 1938年
DNタワーの西の回廊の両脇壁に銘盤を取り付けてあります。右にある銘盤には第一生命館の設計監督として、渡辺仁と松本與作を並べて書いていますね。普通は施主側の営繕担当者を銘盤に刻むことはないでしょうが、ここは特別ですね。それだけオーナー側には松本に対する信頼があったということでしょう。世には渡辺仁だけが第一生命館設計者としてとおりがちですが、松本與作を忘れてはいけません。

 施工受託者・清水組とあるのも注意してください。普通は施工請負ですが、ここは施工受託となっているのは、第一生命館の施工は請負方式ではなくて、第一生命による直営の実費精算方式であり、施工を清水組に委託して行ったという意味です。
 直営方式にした理由は、京橋の第一相互館が清水組の請負だったのですが、工事中に第1次世界大戦のために資材高騰で、請負側に大きな負担がかかりトラブルが起きたことを教訓にしたのだそうです。

●DNタワーの設計者ー清水建設+ケビン・ローチ
 DNタワー21の設計者は、清水建設が計画段階から担当し、設計にはアメリカの建築家ケビン・ローチを共同者として起用しました。
 清水建設は、元の第一生命館を施工受託した建設会社ですし、隣りの農林中金ビルも清水建設の請負施工でしたから、当然にありうることでしょう。
 でも、なぜ更に加えてケビン・ローチを起用したのでしょうか、オーナー側の意向だったのでしょうか。

 1989年から共同作業に入ったそうですが、その頃、日本はバブル景気の頃で、建築界では外国人建築家をデザイン担当として起用することが流行していました。アルド・ロッシ、レム・コールハウス、ジョン・ジャーディ、などを思い出します。
 DNタワー21のケビン・ローチもその流行のせいでしょうか。施工会社の設計では、表向きにもうひとつパンチに欠ける感がある、この際、他に負けない外国人有名建築家を持って来れば、だれも文句を付けられないだろう、なんてね。
 これって、かつて第一生命館で松本與作の共同設計者として渡辺仁を起用したときと、なんだか似ている感じがします。歴史は繰り返す、かな、どうでしょう。

 なお、設計は共同でしたが、行政やオーナーへの対応や工事監理については、清水建設が主体的に行ったそうです。
 ケビンローチは、ボストンで歴史的建築のクィンシーマーケットのリニューアル設計していますから、それも起用の理由だったのでしょうか。同じ頃、ケビンローチは汐留シティセンターを日本設計と共同で設計しています。
清水建設とケビン・ローチ設計のDNタワー21 1995年
●特定街区と歴史的建築物の保存
DNタワー21のデザインのテーマは、計画設計者の清水建設によれば「歴史的建築物の保存と再生」だそうです。
 保存と言っても、第一生命館の外観と、内部の6階にあるマッカーサー執務室と貴賓室がその対象で、そのほかの平面や内装を大きく変更、構造躯体も付加、変更、補強、改造しています。
 内部でいちばんの見せどころであったと思われる1階の営業室はなくなりました。明治生命館とは大きな違いですね。
 もちろん様式建築として第一生命館よりも華やかだった農林中央金庫ビルはすべて取り壊しました。石の柱の頭と脚部だけを保存して一部に再利用しただけです。だから、「保存」だけではなく、「再生」がついているのでしょう。

 でも、再生するならば、全部取り壊してしまい、イチからこのDNタワーと同じものを建てる方が、たぶん工事が楽だし工費も安価だったに違いないと思います。そうしなかった、あるいはできなかったのはなぜでしょうか。
 ここで最も歴史的に有名なのは、マッカーサーがここで仕事していた部屋があるということでしょうね。それは現物を保存しておきたい、これはオーナーの意向だったのか、それとも設計者の考えだったのか、社会の要請だったのか、どうなんでしょうね。なにしろ6階の片隅にあるのですからねえ、難しい課題に対応する結果が、こうなったのでしょうか。

 北側の外壁の東半分を、壁一枚だけ保存したのも、なかなか大変なことだったでしょう。壊して同じものを作っても良さそうに思うのは、南側の外壁の東半分が新築であることと比較すればれば分るでしょう。言われなければ、南北の壁の違いはほとんど判別できませんね。
DNタワー1階にみる保存と再生のプラン
DNタワーになった第一生命館の断面に見る保存と再生
ほとんど別ものとなっている
 そうやってもなおかつ現物保存することにしたのは、「歴史的建築物の保存」というテーマを掲げたからでしょうが、一方ではそれによるメリットがあったからでしょうね。メリットとは、保存することで建築容積率のボーナスがついたことです。
二つの敷地を合わせて、特定街区として再編成し、第一生命館の西半分と北半分外壁を歴史的建築として保存をし、西側列柱回廊とホール部分を公開空地とすることで、基準の容積率1000%のところに230%のボーナスが付きました。
 230%を床面積にすると約16000㎡ですから、これはビル経営としては大きい値ですよね。保存にかかった工事費がそれに見合うのかどうか、わたしは分りません。

 こんなにも保存の努力をしたのに、これが国指定重要文化財ではなく、東京都認定の歴史的建造物である理由はなんでしょうかね。外観と骨組みは保存したけど、内部はあまりに大改変したことにあるのでしょうか。
 ひとつのビルの中に、半分保存しながら、二つの金融機関を別々に入れるという、かなり難しいクイズを解くようなプランニングをしているので、内部の大改変をせざるを得なかったのでしょう。

 それにしても、イチから建てるのなら下から順に作ればよいところを、梁も柱も床もある既存建築の中にはいって、下から上まで壊したり造ったりくっつけたり、いやはやご苦労な仕事だったでしょうねえ。
 明治生命をMYプラザにしたのと比較すると、外観は似たようなものですが、造り方は実はずいぶん異なっているのでしょう。

 ではその列柱回廊と公開空地のホールに入ってみましょう。
西側列柱回廊 実はかなり狭い
この玄関ホールは、もとの第一生命館の1階営業室の一部にあたりますが、このインテリアデザインは全く新しいものですね。
 でもねえ、わたしの好みで言えば、まわりの壁も床も全部が灰色の御影石ですから、なんとも陰鬱ですねえ。それに休憩したくても椅子がなくて、喫茶店に入るしかないから、明治生命館とは大いに違いますねえ。もうちょっと親しみやすい空間にしてほしかった。
 どうして元の第1生命館営業室のデザインを、イメージとしてでも保存しなかったのでしょうか。
元の第一生命館の西側回廊から入ったところの1階営業室

DNタワー21の西側回廊からの入口ホール(屋内公開空地)
ではそろそろ、次に参りましょう。
(つづく)
●参考文献
・「谷間の花が見えなかった時 近代建築の断絶を埋める松本與作の証言
          (伊藤ていじ著 彰国社刊 1982年)
・「DNタワー21(第一・農中ビル) 歴史的建築物の保存と再生
          (清水建設著 丸善刊 1996年)
・「都市住宅 特集・丸の内」1974年5月号 鹿島研究所出版会刊

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版