さすがに日本の東西はもちろん世界東西にわたっての仕事である。偶然にも、わたしはこの二つだけを見ているが、そのほかは見ていない。
近藤正一さんの話は、かつて山口文象が率いるRIAが、神奈川大学のキャンパス計画コンペに当選して以来、営々と校舎の設計に携わってきた歴史物語である。
そのお話をかいつまんで書いておく。なお、講演はは中井邦夫さんとの対談形式であった。
1953年、神奈川大学キャンパスの綜合計画が指名コンペになった。指名されたのは、山口文象のRIA,久米権九郎の久米事務所、吉原慎一郎の創和設計であり、審査は神奈川県建築部営繕課の人であった。
1953年は、山口文象、植田一豊、三輪正弘の3名でRIAの発足の年であるから、この3人でコンペに勝ったのだった。
3人の建築家は、戦後民主主義の嵐の中で、建築家共同設計集団として歩もうと、Research Institut of Architecture(RIA)なる不遜な名称をつけたのであった。戦前に建築界では名を成していた山口の名を冠しないところに覚悟ほどが見える。
もちろんこれは山口文象の師であったW・グロピウスがアメリカに亡命して組織したThe Architects Collaborative(TAC)に倣ったのであった。
こうして山口文象は戦後の出発をしたが、3人の誰も財界のバックはなく、あるのは意気込みだけだった。庶民の小住宅設計で、ほそぼそと動き出す。
そのRIAが神奈川大学の仕事を得たことは、歩み始めるにおおきな出来事だった。神奈川大学がRIAを、ゆりかごから育てたのであった。
キャンパス全体の配置計画である「神奈川大学綜合計画」は、何段階かの変容をしていく。中庭や広場を考えながら、幾何学的な形態で構成していく。現代のキャンパスデザインにみるような曲線を使うことはなかった。
山口文象のデザインの真髄は、コンポジションとプロポーションの厳格さ美しさにある。考えていくうちにしだいしだいにそぎ落とされて行く。
「プレーンソーダのようなさわやかさ、後味の残らないデザイン」と、山口文象が言っていたことを近藤は思い出す。
1954年からほぼ1年おきに校舎が立ちあがるという猛スピードであり、1969年に一段落する。
はじめの10年くらいは綜合計画に寄りながら進められたが、後半はかなり乱れて、前半と後半ではかなり違うことになっているようだ。それは大学の急速な拡大に対応するために、とにかく建てなければならなくなり、粗製乱造気味になった。
1955年にできた3号館(2012年取り壊し)は、山口文象の担当によるものである。集団設計を標榜したRIAでは、山口文象も担当者に一人になるのだった。
コンクリート造なのに細いフレームで木造の木割のような表現である。この構造設計は岡隆一で、バランスドラーメンと言われる方式だった。
実はRIAで山口文象が担当した建築は多くはないが、その中でも大規模なものがこの3号館であった。病気がちだったのであまり担当できなかったが、後に寺院や博物館の小品でその力量を見せている。
1955年にできた5号館の担当は植田一豊だったが、そのもとで詳細を書いたのが近藤で、最も印象的な仕事だった。
コンクリートなのに柱間が1間で並んでいて、禁欲的なデザインだった。階段に当時としては珍しいプレキャストコンクリートを使ったり、窓枠のスチールサッシュに凝った。普通の引き違いでガラス面に段差が出るのを嫌って、折れて開く特異なディテールを考え出した。このころは既製品のサッシュはなくて、鉄板を曲げて手づくりだった。
1956年にできた図書館は、いまは6号館となっている。担当は富永六郎。
1959年にできた本館(1999年に取り壊し)の担当は近藤であり、米田吉盛学長が建築趣味でいろいろな注文を出してきて困った。学長自ら図面を描くし、電話でこまごまと指示されつつ図面を描かされたこともある。
大学の担当者は、事務長の小坂さんと施設課長の酒井さんで、学長と合わせて3人が建築担当だった。
8号館、9号館と進んでくると、大学生も量産時代、施設も量産になった感じだし、メンテナンス重視へと移ってきて、オリジナルなデザインがなかなか難しくなった。
1967年にできた体育館の構造設計は山家啓助で、近藤と共にRIAの役員だった。実はこの山家は、神奈川大学建築学科で都市計画の教鞭をとっている山家京子教授の父君である。偶然にして意外なつながりがあるものだ。
RIAにおける山口文象は、集団共同設計という新たな方法を目指して戦後再出発をした。そして植田、三輪、近藤たちの若者にかなり自由にさせて山口文象+RIAの名で発表していたが、実は個人的にはかなり我慢をしていたようであり、建築家個人としてとしてやりたいことがあったようだ。内では言わなかったが外でそのようなことを言っている。
神奈川大学ではRIA初期の集団設計の試みの事例のひとつである。RIA内部もそうだが外部の構造設計たちとも共同して設計を進めて行った。その集団共同設計の試みは、今もRIAでは実験が続いていると言ってよい。
米田吉盛学長の意気込みが、戦後日本の教育も建築も復興へと進む社会的上昇気分の中で育ってこのキャンパスができて行った。
1960年頃 |
植田一豊担当の5号館(1956) |
左・近藤正一担当の旧本館(1959-1999)、右・山口文象担当の3号館(1955) |
現在のキャンパス |
正面は旧図書館の現・6号館、右は5号館 |
5号館 |
・神奈川大学総合計画案
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/02-17.pdf
・近藤正一 インタビュー
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/18-21.pdf
・3号館解体現場調査レポート
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/22-24.pdf
●参照⇒山口文象+初期RIAサイト
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
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