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2009/05/15

128【世相戯評】海賊対処法で自衛隊派遣とは危ない危ない歴史の教訓

 5月13日の新聞に、(社)日本船主協会が「海賊対処法」案の早期成立を訴える意見広告を出している。
 ソマリア沖のアデン湾に出没する海賊退治に、自衛隊を派遣して鉄砲を打ってもよいようにしようって法律を早く成立させよ、それは海外からの輸入に頼って生きている日本人の生活を守ることなんだから、というのである。

 ちょっと待ってくれ、なんだかいつか聞いたことがあるような、、。
 そうだ、今、父の戦争を調べていて読んでいる日中戦争の出だしに似ているのである。
 日清・日露の戦争で中国東北の満州に権益を得た日本は、そこに暮らしだした日本人の生活を守るためと、関東軍・支那派遣軍を送り込み、その後はこの現地軍が日本人を守るためと暴走するのを、不拡大といいながら押さえるどころか、成り行きに任せて後追いした政府の無策、そして衆愚に陥った当時の日本人たちが、日本にも中国にも悲劇をまねいたのである。

 船主協会が日本人を人質に取っているような言は、満州の関東軍やソマリア海賊とも同じ論理となってしまう。
 それでなくても、遠い公海上の民間の商船をなぜ税金でしかも自衛隊で保護するのかって、何かがひっかる。これは地震災害出動みたいなものかしら、でも違うよなあ。

 どうもよく分からないが、やるとしても、自衛隊の派遣ではなくて海上保安庁の仕事のように思う。
 広告には、ドイツの軍艦に救われたことがあるので、日本も軍艦を派遣せよと書いているが、日本の軍艦(があるとすれば)は、憲法で他国のそれとは全く違うことを認識してほしい。
 出先での日本に関する安全を守るためと武力を繰り出すことについては、過去のことから考えて、かなり慎重になる必要がある。

 そもそも、日本人が輸入に頼らなければ生きてい行けないことにも問題がある。もちろん輸入しなければならないものもあるが、必要のないものまで輸入しているのも事実だ。
 ハケン労働者のことも大変な問題だが、ハケン軍艦はそれ以上に大変である。

2009/05/14

126【父の15年戦争】父の戦場の手記をもとに戦争の歴史を書いてみる

 これまで歴史には興味はあったが、戦史には特別に興味もなかったし、戦記の類には全く関心がなかった。
 ところが、このところ日中戦争史にはまっている。
 それは、亡父の遺品から日中戦争での日誌が出てきたので、読んでいたら、父は何故そんなところで命を賭けるようなことをしたか、がぜん、興味が湧いてきたのだ。

 1931年からの15年戦争のうちの7年半を兵役で過ごしていて、さいわいにも生きて戻ってきたのであった。その留守の間に、その父を失い、幼い長女を亡くしているのである。
 ひとりの庶民の歩兵が、初年兵入営から終戦の月までに、どのような背景の下で、そのようにもわが家を留守にしなければならなかったのか。

 一般に歴史はほとんどが俯瞰の視点から書かれているが、それをひとりの兵隊から見る虫の目の視点に置き換えて読むと、これは身近なものと感じられる。
 戦記にも興味が湧いているところだ。インタネットサイトにも沢山の庶民の戦記が載っている。
 父の日誌に出てくる用語が分からない。兵隊の制度自体から知ることから始めなければならない。

 軍歴なるものがあると知った。兵役でいつどこに行ったか、いつ除隊したかなどが書かれている個人別の履歴書で、陸軍は各都道府県で管理しているのだと分かり、父のそれを請求したら届いた。日誌と照合しつつ、旧満州国の地図を広げ、日中戦史を読んでいる。

 それにしても戦史を読むと、あの頃の戦争はなんだか成り行きで進行している感じがする。ほとんどマスタープランらしきものもなくて、あれだけの悲劇がずるずると拡大するのが、読んでいて気持ちが悪い。
 その成り行き大局のもとで、そんなことは知らない小さな歩の駒としての通信兵の父は、前線では目の前で仲間が死に、戦地の農家で食糧を挑発(略奪)し、職業の神官として戦地で死者を弔い、東京大空襲に出会い、3回もの兵役から生還した。
 ひとりの兵士とその留守家族の視点からの戦争として、それなりのノンフィクションを書けそうだ。

2009/04/13

118【父の十五年戦争】父の遺品の蛇腹写真機

 15年前に逝った父の遺品に、ガラスの乾板(65×80mm)に写す蛇腹式写真機がある。カメラというよりも写真機がいかにもふさわしい。
 父のアルバムにある古い写真から判断して、初めて子(夭折したわたしの姉)が生まれた1935年に購入したようである。

 その後のアルバムの様子では、1942年頃までは使ったらしいが、戦争時代になると乾板は手に入れられなくなるし、写す当人の父は兵役で居なくなるし、その留守中にわたしが玩具にして壊したりした。

 それでもわたしが中学生くらいのときに何とか使えないものかと、カメラ屋に相談に行ったことがあったが、もう乾板を売っていないからだめといわれた記憶がある。カメラの名前は「KINKA HAND CAMERA」と書いてある。日本製だろか。

 今ではさわると壊れるくらいに、ぼろぼろとなっいる。もう処分しよう。
 父は映像に趣味があったらしく、手回し式8mm映写機があり、フィルムが2巻あった。そのひとつがチャップリンの出演するものだったが、もうひとつはなんだか忘れた。

 幻灯機もあり、絵を描いたガラスを透過して写すものだった。絵の内容は、宗教的なものだったような、うろ覚えである。
 小学生くらいまでは時々見て遊んだ覚えがあるが、わたしが物心ついてからは、父にそのような趣味はなかったようだ。

 どちらの機器ももうないが、あれば骨董品として価値があるのだろうか。
 いつの日かわたしの遺品のPCやデジタルカメラを見て、同じようなことを息子が思うだろうか。

 追記:これを書いた1年半後にカメラの製造所が分かった
      ●参照343続・父の遺品の蛇腹写真機