2024/04/08

1809【今年も人生最後の花見】願はくは花の下にて春死なむそのキャンパスの満開のころ

 今年も人生最後の花見に母校キャンパスを訪ねてきた。毎年毎年、最期いや最後の花見をしてきたのだが、今年でもう最後だな、と言いつつ毎年来ている。今年こそ最後だな。
 ホホウ咲いておるな、今年も、おおけなげなことよ、これほどに身を横たえるほどに老いさらばえても、これほどに腰が曲っても、これほどに瘤瘤の身となっても、これほどに衰えたる姿でも、春が来れば幹にも枝にも樹冠にも、花をつける。その健気さよ。

本館前にはもう立つことも難しく横に横にと何本も杖つきながらそれでも咲く老い木


老い木の花のもとにはキャンパスの主の若人たちが満開

老いさらばえてしまえど幹にも小さな花を咲かせるけなげさよ



 この老い木の姿はすごい。能・西行櫻のように、花の精の白髪老人が現れて、西行の歌を謡っても不思議ではない。

 花見んと群れつつ人のくるのみぞ あたら櫻のとがにはありける 

 さすがに老い木の老いのすごさを見かねたか、若木が登場して老木の列の外に立ち並んでおり、今やそれなりの花を咲かせているのがうれしい。
 あと数年でこれら老い木群は退場して、若木の列が今よりも一回り広く大きな花のドームをつくるだろう。それを私が見ることはない。花の下に埋める死体になりたい。
あと何年かしたら老い木の列は消え、その外に立ち並び待つ若木に替わるだろう

 さて、ではここからはようやく本命桜花の登場である。
 今年も桜花ドームはあるのかと、老いさらばえたるわが身を杖にすがって伸ばし見上げれば、おお、これはすごい、ドーム健在である。花は空一面をおおうのであった。
 その老友桜の姿に、わが身のよれよれをを恥ずかしがるばかり。いや、ヨレヨレぶりは我が身よりも桜の方がはるかに勝っているのだが、現役としての咲きぶりにはコテンパンに負けてしまった。
今年も咲いてくれたか、よしよし

おお、狂気のごとく咲くとは、このことか、

おいおい、これは咲きすぎだろ、大丈夫か、その老いの身で、こんなに花咲かせて、

まさかこれを最後のひと花として咲かせたのではあるまいなが

 これが今年の花である。ドーム下から見上げるとすごいものだが、外から全体を見ると、老い木の曲がりや暴れが気になる。今や老々介護ならぬまさに老々花見である。
 今年の花は、どこか狂気をはらんで咲き誇る気配だ。なんだか危ない気がしてくる。これを最後に一花、いや最期のひと花咲かせてやった、なんて老い木のひそかなつぶやきが聞こえたような。いや、こちらの僻みのせいか。

花のもとには老い木にふさわしい花見客もちらほらといる

今年も人生最後の花見やってきた老い木にふさわしい同期の仲間
この中の一人は忙しく仕事をしている現役の建築家であるのが嬉しい

 ここは今、新卒学生を送り新入学生を迎えたばかりの若い人たちのキャンパス、彼ら彼女らを大きく包み抱えこんで咲き誇る花のドームは、彼らのキャンパスライフの記憶に刻み込まれているはずだ。
 ところが、わたしたち60余年も昔の老いたる卒業生には、そんな春の花の記憶は全くないのである。下の写真はそのころのキャンパスの姿だが、若木が立ち並ぶばかりであった。それでもちらほらと咲いていた記憶もあるにはあるが、印象はごくごく薄い。
1950年代のキャンパス風景

現在のキャンパス風景(google earth)

 こうして今年も何回目かの人生最後の花見を決行したのであった、だが、これまでと大きく違ったのは、広いキャンパスのいつものコースの半分しか回れなかったことだ。そう、足腰が追い付かないのだ。
 そしてまた、花見につきものの、そのつきものつきの花見弁当を楽しんだのは一人だけ、そして商店街のいつもの店での花見反省会もできなったことも、大きな変化である。桜の老い木よりも、こちらが先に消えると自覚させられた。何しろ八十路半ばを越えたのだものなあ。来年の大岡山老々花見は、はたしてあるだろうか、賭けるか。

 ここで格好つけて世阿弥のごとく「老い木の花」を語りたいが、非才の身にできぬものは仕方ない。せめて本歌取り狂歌を。

願はくは花の下にて春死なむそのキャンパスの満開のころ

(20240408記)

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伊達美徳=まちもり散人
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