2009/10/09

189【建築家・山口文象】町田市博物館37年目の訪問

 今から37年前に竣工した町田市博物館をはじめて訪問した。その建物の設計者は山口文象である。
 40年前、わたしは山口が社長のRIAに所属していて、その博物館の設計を山口のデザインの指示に従って忠実に実施設計図面にする作業を、新入り間もない若手の二人とやったのであった。その若手のひとりは後に三代目の社長となった。

 実は、わたしは実施図面は描いたが、現場に行ったことが一度もなかったのである。
 歳とってくると、“思いついたらすぐやる主義”になって(つまりぐずぐずしていると人生の機会を逃すのだ)、これもそのひとつで、行ってきたのだ。
 図面と竣功写真を見ているから、現場のスケール観に違和感はなかったし、さすが山口の建築はプロポーションが良い。

 ところどころヘンに不恰好なところがあるので、よく見ると後に付け足したり、修理したところである。
 例えば入り口の大きな庇の軒先に、大きな箱型の雨樋を回しているのだが、実に不恰好きわまる。
 わたしの記憶では、屋根を下ってくる雨は軒先の手前で屋根に溝をつけて樋にしていたのだが、その溝の先にもいくぶんか屋根があるので、そこの雨が軒先に直接落ちてくるのを増設雨樋で受けるようにしたらしい。軒先をシャープにしたかったのだが、ちょっとわたしの細部設計が甘かったか。

 大きな変化は、壁面や軒裏のほとんどがコンクリート打ち放しにしていたのに、改修で全部に白い塗装が吹きつけてあるのだ。これで全体にシャープさがうすれて甘い感じなった。説明をしてくれた若い館員も、そう感じていると言っていた。

 開館当初は町田郷土資料館といっていたが、今は町田市博物館となっている。郷土資料館系の出土品等は一部を管理しているが、とてもここだけでは不可能なほど大量にあるのだそうで、別に資料庫を作っているとのこと。

 これは山口文象の晩年の作品であり、わたしの思うに、RIAにおける山口文象が直接手を下した最後の作品であろう。
 晩年の山口文象作品は、大屋根がいつも基本モチーフとなっている。岡崎市にある是の寺はその典型例であり、京都岩倉にある平安教会もそうである。
 町田市博物館の大屋根は、すぐそばの史跡公園にある復元した縄文時代住居の茅葺大屋根と呼応しているかに見える。
 実は戦中に設計した山口自邸は大屋根である。 

参照山口文象+初期RIAアーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2009/10/04

188【言葉の酔時記】女子、女性、女流

 女のテニス選手やゴルファーの誰やらが引退したとか優勝したとかニュースである。それが誰でも一向に興味はないのだが、気になるのは、どうして女のスポーツプレイヤーは「女子」なんだろうか。なぜ、女流とか女性とか言わないのか。

 女の小説家を女流作家というが、女子作家とは言わない。ついでに、作家というと小説家を意味するのも不思議である。美術作家も建築作家もいるのに。
 女の歌人や俳人は女流かな、能役者も女流能楽師か、古典的な代物は女流というのかもなあ、いや、娘浄瑠璃とか女義太夫と言うなあ、わからん、漫画家やイラストレーターはどうなんだろうか。
 女流建築家ということもあるような気がするが、女性建築家というほうが普通かもしれない。UIFAという国際組織があるが、この日本支部は、国際女性建築家会議という。

 女子アナと電車の吊り下げ週刊誌広告に書いてあるのは何のことかと思ったら、女のアナウンサーのことらしい。なんで女性アナ、女流アナでないのか。
 囲碁将棋では、女子棋士ではなくて女流棋士とか言ったような。スポーツは女子でゲームは女流かしら。
 女子社員なんていうが、女流社員とは言わないなあ。帰国子女って、あれはなんだろうね。

 なんとなく女子→女性→女流の順で、格が上になっていくような感がある。ついでに、新聞では、女とあれば悪いやつで、悪くないのは女性と書くのも不思議である。
 ところで、男子、男性とは言うが、男流とは言わないのはどうしてだろうか。男流作家とか男流棋士とか言ってもよさそうなのに。

 芸人的世界では男は当たり前なので、わざわざ言う必要がないということかしら、でもそうかなあ、今や小説書きは女の方が多いかも、。多いほうに短称優先権があるなら、そのうちに作家とは女のことで、男は男流作家というようになるかもしれない。

 俳優のみが男優と女優と両方を区別するのは、映画や演劇では男女同じ数だけ俳優は必要だからか。それなら、なおさら分けて言う必要もなさそうだが。
 そういえば、病院ではちょっとまえまでは看護婦がいた。それがいまは看護師に統一されたということは、そのまえは男子看護婦とか看護夫と言っていたのだろうか。

2009/10/01

187【世相戯評】民主党の居住・住宅政策は?

 9月から国交省に民主党の大臣が座って、ダムやら道路やらちょっと目先の派手な話題ばかりだが、もっとも基本的な居住政策については、なにか変えてくれるのだろうか。
 日本では55年体制の自民党政権下では、基本的人権としての社会政策であるべき居住政策が存在しなくて、住宅政策という経済政策で住むところをつくってきたのである。

 居住政策は持ち家建設促進政策という経済政策であって、ちょっと景気が悪くなるとローン優遇なる借金政策を進めるのである。借金で持ち家にしないと、屋根の下に暮らせない政策なのである。
 その結果は、日本人の家庭はどこでも大借金返済を数十年もかけて、ほかの生活費を犠牲にして暮らしているのである。

 生存権という基本的人権のひとつの居住の場を、借金で買い取らなければならないという奇妙なことが、先進国といわれる日本では起きている。
 だから、今の100年に一度のような不況が来ると、目に見えてその矛盾があらわれて、住宅戸数は統計上では十分に足りているのに、借金が返せなくなって住宅が無い人が出てくるのである。

 では借家に入ればよいはずだが、日本では借家には全くといってよいほど促進政策がないのである。だから狭くて環境の悪い高家賃の賃貸借住宅しか、一般向けには無いのである。
 低家賃の公営賃貸借住宅はもうほとんど建設をしないから、なかなか入れない。公社や都市機構(UR)のような公的賃貸住宅も新規建設をやめて、しかも現在の賃貸住宅の家賃を民間なみに高額にしているのである。
 全くこの国は、人間の居住権という基本的なところに政策が欠けていることおびただしい。

   ◆◆◆

 そして今日(2009.9.30)の朝日新聞には、賃貸借住宅の家賃滞納者のブラックリストを作って、その者の入居を排除するシステムを共有する家賃保証会社の団体ができるとある。
 ちょっとでも滞納すると業界に知れわたって、家を借りることができなくなるのだそうだ。なんだかサラ金みたいである。
 そんなことをすると社会的にまずい、という家賃保証業界の同業者もいるし、弱者救済活動をしている人は反対を表明している。

「連帯保証人を見つけられない低所得者が増えたうえ、滞納を避けたい家主側の需要もあり、(家賃保証)業界は急成長。国土交通省によると全国で約70社。民間賃貸契約の約4割にかかわっているとのデータもある。民間信用調査会社の調べでは把握できる29社の売り上げは08年は約218億円で、2年前の2倍以上に達した」(asahi.com 2009年8月15日) 

 このように強気の業界状況からわかることは、家賃保証業界が成り立つほどに日本の賃貸借住宅市場において家賃滞納ケースが多くなってきていることと、賃貸借住宅業界はあいかわらず貸す方が借りるほうよりも強い立場を堅持しているということである。
 家賃滞納で借家を追い出されて、別の貸家を借りようにもブラックリストに載っているので入居を断られ、行くところがなくて野宿者になる人が、これからどんどんでてくるのだろうか。

 悲惨なアジア・太平洋戦争が終わって既に64年、衣食住のうち衣と食は戦後復興したが、住はいまだに戦後復興から置き去りなのである。
 居住政策を経済政策担当の国交省ではなく、社会政策担当の厚生労働省の所管にしてはどうか。トンカチ屋ばかりの国交省には社会政策は無理である。
 民主党さんよ、社民党と共にご努力いただき、賃貸借住宅促進策を展開していただくことを期待している。(090930)

2009/09/30

186【世相戯評】東芝の不可解な広告

 2009年9月21日朝日新聞の全面広告に、地球の森をどんどん切り倒して行って、そこにソーラーパネルを敷き詰めていくイラストレーションが描いてあって、こんな言葉が書いてある。
王子さま、太陽の光をもっと上手につかえば、未来はもっと明るくなると思うんです
 イラストレーションは、サン=テグジュペリの「LE PETIT PRINCE」の挿絵をモディファイしている。
 この広告主の東芝は、どういう頭の持ち主なのであろうか。
 きっと地球人の科学技術信仰への皮肉としてこの広告を載せたのにちがいないと、わたしは思うのだ。
 だがしかし、どうも東芝はまじめに森をパネルに置き換えたいと考えているようにも思える。
 地球を大切にしたくないという意思を表明する、いまどき大胆というか、不可解な企業の広告である。

185【法末の四季】棚田で稲刈りが終わったがへとへと 

 棚田の稲刈りをこの前の週末2日間で終えた。3段に分かれた棚田の約700平方メートルの稲を、延11人が取り組んで、実働は10時間くらいで、全部をハサにかけた。
 倒れている稲が6割くらいあって、腰を曲げて起こしつつ刈るのは骨が折れた。

 更にまた、水が引いていないところが全体の2割くらいあって、ここでの稲刈りは、田の草取りと同様の難儀なことであった。
 とにかく脚が泥田に取られて、簡単に移動できないのだ。
 泥の中に倒れている稲を起こしつつかるのだが、刈った稲を泥の中に置くわけにも行かないので、畦まで持っていくのが一苦労である。

 地元の人たちはコンバインでダダダ~ッと刈り取り・脱穀・稲藁裁断散布を同時にやっているが、わたしたちは昔流の手刈りだ。
 しかし、手刈りだけだと2日間では終えることができないので、バインダーなる手押し刈り取り&結束機を借りてきて、一部は機械刈りとなった。
 刈った稲を束ねて、背負ってハサ掛け場まで持って行き、ハサに下から順に乗せ掛けていくのだ。

 この作業を一日中やっていると、次の日は背中と腰が猛烈に痛くなって、2~3日は起き上がれなくなる経験を3年前にした結果、いまではアミノバイタルなる筋肉疲労予防薬をあらかじめ飲んでから取りかかっている。どうやら効き目があるらしい。

 今年はプロの田んぼも稲の倒壊が著しい。倒壊した稲を刈るコンバインは大型でないと、起こしながら刈ることができないのだそうだ。
 機械が刈り取りやすいように、倒れた稲を一定方向に揃える人手もかかる。

 ある地元の篤農の人の話では、稲のでき具合はそれほど悪くないのだがほとんど倒れたために、いつもは要らない大型コンバインを借りた損料や、人手が要ったための人件費などで、これも百年に一度の不況みたいに人生70年初めての天候のせいで、今年は稲作の儲けはゼロになったと嘆いていた。

 ハサ掛けで乾燥した米を取り込んで、脱穀・籾摺・精米して飯となって口に入るのは、2週間後のお楽しみである。

2009/09/25

184【法末の四季】もうすぐ美味い新米が食えるぞ嬉しいなあ

 明日から稲刈りである。中越山村・法末集落の棚田の米作りは今年で4年目、稲は稔っている。
 今年は雨が多くて育ちが悪いのか良いのか、半分以上は育ちすぎて倒れているので、稲刈りが面倒そうである。いちいち起こしながらかるので、手間がかかるのである。

 わたしたちの田んぼばかりではなく、米つくりプロの地元の人たちの田んぼでも、今年は稲が倒れているところが多い。
 わたしたちは手で刈って、ハサ掛けして天日干を10日ばかりやった後に、脱穀・精米する。

 田植えも手でやったし、草取りも這いつくばってやったし、そんな手間のかかることやっているのは、これが趣味だからである。
 地元の人たちはコンバインなる機械で、ダーッと刈り取りから脱穀・稲藁を切り刻んで田に撒くところまでいっぺんにやってしまう。乾燥は機械で行なうのだ。

 でも、集落内のところどころにハサ掛けもしているから、プロだって自分の食べる米は美味いのが良いと、ひと手間かけているらしい。
 春の田植えからようやく口に入るときがやってきた。あと半月ほどである。
 農作は天の導くままに1年がかりのサイクルでやるだけで、高度工業化しようと高度情報化しようと、急ぐこともゆっくりすることもできない。

2009/09/24

183【言葉の酔時記】仏事の経文と神事の祝詞

 今朝の朝日新聞にお経の現代語訳を唱えているという坊さんの投稿が載っている。
 わけの分からぬ言葉ではなく、しっかりと意味の通った現代日本語に翻訳して、仏前で唱えるのだそうである。
 当然のことのように、年寄りにはありがたみがないと評判悪く、若者には評判が良いとのことである。
 葬儀や法事などの訪問先の仏事で、坊さんのお経と唱和するようにと、葬式屋が経文パンフレットを渡してくれることが往々にしてある。
 やむをえず周りに合わせて口だけ動かすまねをしつつ、この字をどうしてこう読むのかしら、解説を読んでどうしてこういう意味になるのかしら等とマジメに見ても、ほとんど意味を成さないのである。
 どうも中国語でもなさそうなので、インド語のなまったのじゃあるまいかと思いつつ、それ以上の興味も湧かないでいる。
   ◆◆
 では神事ではどうか。
 こちらは祝詞(のりと)であるが、共通祝詞とイベントごとに作る祝詞とがある。
 前者は「大祓詞」(おおはらえことば)とよばれて、万葉仮名による古文の日本語ではあるが、経文ほどではないがわからぬことには変わりはない。
 後者は、読み下し漢文もどきの擬古文であるから、聞いていてほぼ何とかわかる。
 経文も祝詞も特徴ある抑揚をつけて唱えるのは、なにか宗教的ヒーリング効果を狙っているのだろう。歌みたいなもので、うたっていると安らいできて、それがありがたみにつながるのだろう。これはキリスト教の賛美歌の類と全く同じだろう。
 だから聞いていて意味がいちいちわかると、そのたびに頭が覚醒してしまうので困る、なんてことで、年寄りが抵抗するのは、年寄りとしてわかるような気がする。
 わたしは経や祝詞などを唱えるような殊勝な心がけは全く無い。門内の小僧と違って、鳥居内の子は習わぬ祝詞は読めないのである。
 しかしながら何事にも例外はある。昨年の母の葬儀では、父がこの日のために書き遺していた母への誄詞(れいし、死者へは祝詞ではなくこういうらしい)を、わたしが奏上した。糟糠の妻をたたえる言葉が連ねてあった。 

2009/09/22

182【言葉の酔時記】ジェフリーアーチャーの小説に出てくるJapanese knotweedって変だよ

 イギリスの大衆小説家ジェフリー・アーチャーJeffrey Howard Archerの『A Prisoner of Birth』なる三文小説を、今、ペーパーバックで読んでいる。
 全615ページの349ページまできたところに、Japanese knotweedという単語が出てきた。
 なにかわからないままに読み進むと植物らしく、それが土地に生えているとそこに建っている建物に地下茎が侵蝕していって、コンクリート建物でも知らぬ間に倒壊するほどになる、とあり、大阪でそのために集合住宅が倒壊した事件があって、それにちなんでの命名だと書いてある。

 え、そんな危ない植物があるかしら、そんな事件あったっけ、聞いたこともない。
 困ったときのウィキペディアで、検索してみるとなんとイタドリのことである。
 イタドリとはスカンポともいって、その辺に生えている雑草で、わたしたちが子供のころは皮をむいて塩をつけて食った、あのただの雑草のことだそうである。

 あんなものが家を倒すことは絶対にない。せいぜい道路舗装の割れ目が広がるくらいだ。
 英語版Wikipediaを見ると、どうやらイギリスでは繁茂しすぎて困っている外来種植物で、駆除を進めているらしい。でも建物を倒すとは書いていない。

 この小説の舞台は主にロンドンである。どうやらイタドリ建築倒壊説は、小説家の創作であるらしい。
 この公害植物がこれからどのような役割を小説の中で果たすのか、いまのところおよその見当がついているが、ここではもちろん書かない。
 でも、これを読んだ世界中の読者が、そんな怖い植物が日本にあるのかと思うに違いない。
 Japaneseとあるだけに、日本にとっては罪作りである。

   ◆◆

 アーチャーの三文小説は、Kane and Abel、As the Crow Flies、First Among Equals、Sons of Fortune等、ほぼ例外なく面白い。最近は、偽証罪で有罪となって投獄された経験を生かして、A Prisoner of Birthのように牢獄小説とでも言うべきジャンルで稼いでいて、小説家は転んでもただでは起きない。

 イギリスにはケンフォレットKen Follettがストーリーテラーとして名高いが、作品の質によしあしがある。概して歴史もの(The Eye of the Needle、The Pillars of the Earth、A Place Called Freedom、World without End 等)は面白いが、現代物はどうも面白くない。

 フォーサイスFrederick Forsythは最近は書かないようだ。処女作「ジャッカルの日」や「The Devil's Alternative」のように実に面白いのだが、本題に入る前に衒学的に説明がくどすぎて、わたしのような英語を母国語としないものが受験英語勉強程度の実力で読むには、ちょっとめんどくさい。そこを乗り越えると面白くなるのだが、。

 三文小説に限って英語ペーパバックで読んでいるが、原則として辞書を引かない。単にめんどくさいからであって、3割くらいは分からない単語があるが、前後から類推すると、三文小説だからなんとかなるものである。

 それでも読み終えるのに、同じ値段の日本語三文小説の5倍以上の時間がかかる。だから安くつく娯楽であるし、なんだか英語の勉強しているような気になるところが、三文小説にうつつを抜かしている自分に対する言い訳けになる。
 毎日読み続けていると、時に夢が英語になることがある。目覚めてなんであったか思い出せないが、夢の中では流暢にしゃべっていたのであった。

2009/09/21

181【横浜ご近所探検】お三ノ宮神社の神輿見物

横浜都心の関外地区は、今、お祭の最中である。ビルの谷間にお囃子のBGMが流れている。
 メインストリートの伊勢佐木町の通りは、端から端まで車はシャットアウトして、道の真ん中にみこしがデンと置いてあったりする。
 関外の鎮守とも言うべき「日枝神社」、通称「お三ノ宮神社」の祭であることが、あちこち掲示してある。

 うちの空中陋屋にも、お囃子と神輿のワッショイなる掛け声が聞こえて、バルコニーから見下ろせば子ども神輿が行く。町内のものらしい。
 ワッショイではなくて、雅楽の優雅な響きが聞こえてきて、また見下ろせば今度は本物の神輿である。日枝神社のものらしい。担ぐのではなくてトラクターのようなものが曳いている。 

 では、日枝神社に神輿を見に行くかと、ご近所探検の徘徊に出かける。
このあたりは各町内に神輿や山車があって、それぞれに街角や町内会館に飾っている。そこが日枝神社の神輿のお旅所でもあるらしい。

 日枝神社は江戸中期に江戸山王の日枝神社を勧請し、埋立地の吉田新田の守り神様にしたとかで、埋立地の端っこの大岡川のほとりにある。かつては伊勢佐木通りが参道のようになっていたのかもしれない。

 境内には懐かしい露店がたちならび、神楽殿では笛・太鼓・鉦のお囃子を大人や子どもが演奏している。
 あった、神社の一角に見下ろしたあの神輿が鎮座している。実に立派な典型的な百貫神輿である。
 境内には大人や子どもが祭気分丸出しで大勢たむろしていて、せんだって長岡市小国町の太郎丸で見た村の祭も、この横浜都心の街の祭も雰囲気はまったく同じである。

 そこからぶらぶらと大岡川沿いに弘明寺まで散歩することにした。
 やがてやってきた弦巻橋、そのたもとの傾いた公衆便所はまだ健在であった。
 1年前に「発見」して、いつまであるか気にかかっていたが、大丈夫であった。きちんと用を足してきた。
 次に来たときもあるといいなあ、って、別にとり立てて特別なデザインじゃないけど、傾きだけで立派な存在価値がある、、か。

2009/09/20

180【言葉の酔時記】わが国わが党ってなんだか差別感ある言い方だよなあ

 このところ政治の季節で、政治家は「わが党は、、」ってあちこちで言っているようだ。わざわざ「わが党」なんて、こ難しく言わなくてもよさそうなものである。
 まあ、他の党とうちの党ではこんなに違うんだよと、政策の差を強調するつもりであろう。でも、なんだか威張っているようで、いやな語感である。

 わが国、わが軍、わが党、わが社、わが町、わが家などは、そう言う人が帰属する組織や社会を意味しているようだ。
 「我が大君」なる言葉がある(あった)が、これは国家への帰属を明確に言い表していたのだ。

 わが意、わが命、わが田、わが妻、わが子、わが輩、わが身、わが物顔、わが世の春などは、言う人の所有観念の表現である。
 このうちほとんど死語はわが輩であろうが、そのほかもある特定の慣用句とか格言でしか使われない。

 政府文書には「わが国」との言い方がほとんどである。なぜ「日本」と書かないのだろうか。他国へ対置する表現としてならそういう必要もあるだろうが、かならずしも他の国とは違うんだといいたいばかりでもないときも使うから、慣用語になっているのか。

 色々な学術的な論文類にも「わが国」は実に多く登場するのは、どうしてなのだろうか。
 なんにしても現代の「わが・・」は、帰属意識の強調であると共に、他との区別・差別を強調していて、わたしにはあまり快くは聞こえない言葉である。

 昨年に共同執筆して出版した本「はじめて学ぶ都市計画」では、原稿に「わが国」とある表現は、全て「日本」と直したのであった。
 ところで英語圏では、my country my party my company my home my town等の日常的な言い方があるのだろうか。