2011/11/04

521見世物建築ちょい顔見世

 東京駅と丸の内は、何十年ものわたしの定点観測地点である。
 今の赤レンガの東京駅舎は、クリストのアートのごとくに布で梱包されていて、復原という名目をつけて、歴史的風景の破壊工事中である。
来年半ばには完成らしいが、先日(2011年11月1日)一部の梱包がとりはらわれていて、コピー再現した建物の部分がちょこちょこと見える。

 中央郵便局寄りの角の尖塔のあたりが下から上まで見える。尖塔の頭の辺りはあんな形であったのか。
 図面でのイメージと違うと思ったのは、なんだか丸髷が椀をかぶったような鈍重さである。

 修復された壁や窓まわりのレンガや石の装飾をよく見ると、汚れたところときれいなところが混じっている。既存材と新規補填材との区別がつくようにしたらしい。

文化財の修理の考え方も、昔はできるだけ新旧がわからないように、わざわざ新材を古びさせる工夫をしたものだが、現代はその逆となったらしい。それは歴史の重層を表現して、まことによろしいことである。

 梱包の上の方から、丸いドームの頭が出ている。なんだか思っていたよりも全体に小さい。壁部分が赤色でなくて茶色であるのは、あそこは赤レンガではなかったのだろうか。
 丸い頭に細い避雷針のような尖塔が立つ形は、19世紀プロイセンの軍隊がかぶった鶴嘴鉄兜(ピッケルハウベ)を連想させる。

 工事囲塀に工事の内容と出来上がりの絵などが展示してある。そこに今回の修復前(1947年)と修復後(2012年)の比較の立面図が書いてある。
 立ち止まってしげしげと見ていて、ドームが小さく見えた理由がわかった。実際に小さくなったのであった。半分以下の大きさになっている。
 そうか戦災で焼ける前は、そうだったのか。

 そして思うのは、あの物資の極端にない敗戦直後のときに、簡単な屋根でも雨をしのぐことができたろうに、よくまあ鉄道省の建築家たちはがんばってこんな大きなドーム屋根を作ったものだ、ということである。
 ついでに言えば、ドームの天井内装も、ローマのパンテオンのモダナイズであるのも、なかなかすごいことだ。あの壮大な天井も消えるのであろうか、もったいない。

 大きなドームも壮麗な天井も、あれは戦後の仮設に過ぎないから、昔に戻すのだというのが復原の論理らしいがが、どうしてどうして、あれが仮設であるはずがない。
 だからこそ66年も保ち続けて、創建時の姿よりも長生きをしたのだ。

 そしてまたふたつの図を見比べつつ思ったのは、どちらかといえば、戦後修復デザインの方が、辰野金吾のオリジナルよりもメリハリがきいていて、プロポーションもよいということである。
 辰野デザインはただただ長く横たわり、尖塔やドームでメリハリつけようとするのだが、全体に鈍重である。辰野の設計の建物は、どれも西欧様式ディテールのアプライは得意だが、総じて建築デザインとしては鈍重である。

 国鉄の建築家(課長・伊藤滋)が戦災復興のために手がけた修復デザインは、台形ドームを載せるという近代建築の手法を様式建築にアプライして、非凡な腕を見せている。
 みればみるほど、日本の不幸な戦争とそこからの力強い復興の姿を、これほど如実に表現していた証人たる建築が、復原という美名に聞こえる宣伝の仕業で消え去ろうとしているのが、残念でならない。

東京駅丸の内側から八重洲側に移り、東京駅を背にして八重洲通りをまっすぐに歩く。

 銀座通りとの交差点でふりかえって見ると、道の真正面が真っ黒な新丸ビルである。丸の内の行幸道路とは一直線でなくて軸が曲がるので、こうなるのである。

 新丸ビルがこんな風に見えるのなら、都市景観としてはこんな中途半端な形態ではなくて、もっと正面性を持たせるデザインであった方がよかった。(2011.11.01)

*参照→東京駅復原反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/tokyo-st/index.htm

2011/11/03

520鎌倉世界遺産登録推進第ワークショップ

毎年開いている鎌倉ワークショップへのお誘いです。
      
●鎌倉世界遺産登録推進第5回ワークショップ

【テーマ】『住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり』
「武家の古都・鎌倉」は日本の世界文化遺産としての登録を
ユネスコへ推薦されることになりました。
登録後を見すえた「歴史を活かすまちづくり」について、
みんなで語りあいましょう。
・主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会
   http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
・共催 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会

【ワークショップの進め方】
①下記のテーマごとのグループに分かれて自由に意見交換
Aグループ
  
交通問題:交通混雑への対策、望ましい回遊空間の整備
Bグループ
  
情報センター:世界遺産情報の発信とその内容、保護、管理
Cグループ
  
まちの姿:鎌倉の多様な空間要望に応える都市空間の整備
②意見や提案を付箋に記入、多様な考え方を一覧しながらグループごとにまとめる。
 意見や提案は必ずしも一つにまとまる必要はありません。
③中間で進行状況を発表、ゲストや運営側の感想や意見を聞く。
 さらに、グループとしての意見をまとめて発表。
*提案の成果は、事務局でできるだけ早くまとめて公表します。

【日時】平成23年11月27日(日)13:30~16:30<13:15開場>

【場所】鎌倉市役所・第三分庁舎講堂(鎌倉駅西口徒歩5分)

【参加料】無料

【申込締切】平成23年11月18日(金)必着
   先着50名様…結果は全員に通知いたします

【申込み先】
 〒248-8686(住所は省略できます)
 鎌倉市役所 鎌倉世界遺産登録推進協議会「11/27ワークショップ係」
 電話:0467(61)3849
 FAX:0467(23)1085 
 E-mail:sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp

【申込方法】
 下記必要事項を記入、FAX・Eメール・はがき、
 いずれかでお申込みください。

=====参加申し込み=======
11月27日第5回ワークショップ参加申込書
・氏名(ふりがな)
・住所 〒
・性別   男性 女性(○をつけてください)
・電話番号
・FAX番号
・Eメールアドレス
・参加希望するグループ(○をつけてください)
  第一希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第二希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第三希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
・ご意見や話題にしたいテーマなど自由にお書きください。




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このブログの関連ページ→210鎌倉の世界遺産

2011/11/02

519価格ゼロ円の原発被災土地

 原発被災土地の地価がどうなるのか気にしていたら、こんな新聞記事が出た。
「国税庁は1日、相続税や贈与税の算定基準となる2011年分(1月1日時点)の路線価に、東日本大震災直後の地価下落を反映させる調整率(倍率)を発表した。(中略)第一原発周辺の警戒区域と計画的避難区域、緊急時避難準備区域(9月30日解除)については、放射性物質などの影響を算定できないとして、調整率の設定を見送り、税務申告の際、路線価の欄に「0円」と記せるようにした。国税庁は「土地の価値を0円と判断したわけではない」としている」(読売新聞2011年11月1日夕刊)

 路線価は税制上の値で、国税庁が「土地の価値を0円と判断したわけではない」と言っても、現実の土地取引価格に影響するのは常識である。
 地震津波被災では対応する調整率を示したが、原発被災地では示すことが不可能としてはいるが、実態は価格ゼロを不動産業界では意味するだろう。
 地震津波は天災だから、天災の影響を受けやすい土地の価格が低くなるのは、取引上ではあたりまえ。
 だが、原発事故被害は天災ではなくて人災である。

 これまでも人災による被害はあってもそのまま土地価格下落に影響することは、ないことはないだろうが、ほとんど一過性だっただろうと思う。
 原発の場合は、人災ながらもその影響の深刻さ、時間の長さ、範囲の広さがはなはだしいから、土地価格へも大きな影響が長期に響く。
 その公的な認知が、原発被災地の路線価対応でようやく始まったといえる。
 さて、その土地価格ゼロ円になった財産下落について、その原因者の東電はどう補償するのだろうか。
 いま行いつつある被害補償に、この項目もあるるのだろうか。多分、ないだろう。核毒の濃度、除染の具合、元に戻る期間など、算定条件があまりにも難しい。
 だからといってこの財産侵害を等閑視しておいてよいことでもない。

 そのいっぽうで、こんなことも考えるのだ。
 これは8月22日にこのブログに書いた記事21世紀の「谷中村」は「核毒の森http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.htmlであるが一部再掲する。
『「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
 わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
 こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
 もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる』

 つまり、住民がもう戻れないと見られる土地、つまり路線価ゼロ円の土地を、いまのうちに所有者から買い叩いて買占め、いずれ政府なり自治体なりに高額に貸したり売りつけようって、そういうアウトローなことが起きるのではあるまいかって、ことである。
 わたしの杞憂であれば幸いである。

(追記111103)
 相続税が減額されるってことは、国の税収が減るってことである。
 その原発によっての減額に関しては、その原因者の東電が、原発事故がなかったなら徴収できるとみなした差額の税金を、国に補填をするべきである。
 でないと関係のない沖縄の人までも被災することになる。
 同様に、固定資産税も減額になるだろうし、その他、土地取引にかかる諸税、事業所がなくなるに伴う諸税など、もろもろの減少についても同様である。

2011/11/01

518天日干し自作新米がやってきた

 さあ、今夜は自作のうまい米の飯だあ!
 中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
 わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
 今回で6回目の収穫である。
 わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
 田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
 指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季

2011/10/30

517福島観光パンフレットを見て

 横浜の都心部の日本大通りで、東北復興支援のイベントが開催されていた(2011年10月29日)。
 福島県の観光パフレットをもらってきた。震災後まだ行っていないので、震災と核災のお見舞いには、どう行けばよいか知りたかったのだ。

 ところがである。震災も核災(原発事故被災)も一切書いてないのだ
 う~ん、そういうものかしら。
 それらしいことは、地図の上に事故原発を中心に灰色の半円が書いてあるだけ。その半円も何キロか分からない。それが原発関連だと、わたしは知っているけど、地図には何も書いていない。
 常磐線久の浜駅ー亘理駅間は運転見込みが立ってない、と書いてあるのだが、地図には久の浜駅も亘理駅も記載がないから、どこか分からない。

 観光パンフレットだから、震災や核災は関係ないのだってことだろうか。福島には震災も核災もなかったことにする、そういうようである。
 なんだか間違っているような気がする。
 これをおつくりになった方の意図を忖度すれば、ひとつは災害情報は物見遊山の来客を阻害する、もうひとつは物見遊山気分でこられては困るって、そういうことなんだろう。

 しかし、いまの東北に行くのは物見遊山だけではない、いやあってはならないと思うのは、いまや世の常識である、とわたしは思う。

 その地の光を見るという古典的な観光ではないが、震災と核災というその地の闇をこの眼で見ることで、次の時代への光を探る(当て字をすれば「観荒」か)のも、重要なる観光であると、わたしは思う。

 福島の人たちの気分を害してもいけないと思うが、世の警鐘として震災・核災をひろく知らしめることが、いまの福島の役割でもある、福島観光はそういう新たな時代に突入していると、そう考えてはどうだろうか。

 わたしが福島原発を世界遺産にせよと唱えるのも、物見遊山の見世物観光ではなくて、深い沈思の文化への志向をも観光に意図するからである。

516敵は東電だろうに

 それにしても不思議なのは、原発事故問題で、政府の偉いおかたばかりが福島にたびたび行くし、たびたび謝ることだ。
 これってほんとはぜ~んぶ東電がやることでしょ
 除染ってのも、ほんとは東電がやることでしょ。なぜ政府がしゃしゃり出るのかしら。
 東電の尻をたたいてやらせるのが政府の役目のような気がする。

 ってことは、つまり東電がその能力を欠いているので、緊急を要する社会的大事件なので、政府がかわりにやってるってことかしら。
 もしそうだとしたら、そんなアホな事業者に危険とわかりながら原子力発電を任せていたことが、そもそも間違っていたことになる。
 ということは、他の電力会社もそうなんだろう。
 能力ないのは困るけど、せめて政府のあとをくっついていくぐらいするモンでしょ、直接原因者なんだから。

 あ、もしかして東電も動いているんだけお、マスコミが伝えないだけかもなあ。
 世の中には、なんでも政府が悪い行政が悪いと言っていれば、とりあえずは万事がうまく収まるって、そんな風潮があるのに、メディア連中も尻馬に乗って煽っているのだろう。
 そして本当の敵を忘れさせる

 なんだか東電の身代わりで政府が怒られているような。
 ということはその政府を作っているわたしたち、みんなが東電の身代わりになってるのか。
 東電の不始末の尻拭いを、日本中でよってたかったみんなでやってあげるって、そんな構図になってるのは、いったいどういうわけなんだろうか。
 だんだんと東電のことを忘れて、基地問題みたいに政府を追及するばかりになるのかしら。
 だんだん敵を間違えてきているような気がする。

2011/10/29

515普天間問題に似てるような

 福島第1原発によって各地に降った核毒汚染物質を集めて、それぞれ近場に仮置き場を設けて3年間ほど置いておくそうだ。
参照http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY201110290361.html?ref=any
 どこに置くかもめるだろうなあ、NIMBYで当たり前だもんなあ。
 絶対にNIMBYといえないのは東電ただひとりだけである。そうか、原発作っている東芝や日立、三菱もそうかな。

 山の中の国有林におくとかの話もあるようだが、水が流れてくる上流部においたら、雨のたびにだんだん流れて、人里にやってきそうだよなあ、いいのかしら。
 といって、隣の町との境のあたりに置くと、隣が文句言うよなあ。

 3年ほどの後に、こんどは中間貯蔵施設に持っていくのだそうだ。で、この中間貯蔵施設だって、仮置き場と同じ問題を抱えてるから、難しいよなあ。
 それからまた30年以内に福島県外の最終処分場に移設するのだそうだ。そこには大量の核毒がやってくるのだろうなあ。
 お近くの人は、30年も毒に行き来されては、たまったものじゃないよ。

 県外に移設って、はて、どこかで聞いたような、あそうかUSARMY普天間基地移転の話だ。
 そう、大迷惑施設の受け入れ先が、福島県外って言っても、どこなんだろうか。
 これって原発立地の交付金以上に持参金をつけたら、こんな醜い嫁あるいは馬鹿な婿でも、もらう気になる自治体が出てくるのだろうか。
 もういちど鳩山宇宙人にでも、ゆきさき探しをお願いますかねえ。

 このブログに何度も書いてきたけど、わたしはどう考えても、東京電力が福島原発敷地とその周辺の土地を買い増しして、そこに持っていくしかないと思う。
 ITNPYである(in TODEN nuclear power plant yards)。
 あ、そうだ、そこは福島県から分離して、東電県としてはどうか、それなら県外である、って、冗談を言ってみたが、考えるとありうるかもなあ。

  あ、そうそう、で、東電県を世界文化遺産に登録するのであったよ。
 東電はご自分が出したすべての核毒を抱えこんで、その毒が消えるまで何百年間かしらないが、世界の文化遺産としてずっと県土をお守りなさって下さいませ。

2011/10/26

514【くたばれ乗用車】年寄りの自転車

 土地がまったいらな横浜都心に住むようになって、足も老化しつつあるこちとらには自転車の利用をしやすい。
 でも近所をまわるにはともかく、遠出となると横浜都心の周りは丘陵ばかりで、けっこう歩いて押さなければならない。
 まあ、足の運動になってよろしい。

 先般東京の有楽町から浅草まで自転車で走った。横浜都心でもそうだが、自転車で走っていて困るのは、車道に停車している自動車である。
 これを回避するために、さらに車道の中側にはいって走るのが怖い。それが、しょっちゅうあるのだ。

 車道の駐車を回避するために車道の中よりに移るとき、とうぜんのことながら後方確認をする。
 年寄りになって反射神経が鈍くなると、自転車での走行時によそ見をすると、ふらふらする。
 ふらふらしても、歩道なら倒れてもなんとかなるだろうが、車道で倒れたらこれは危ない
 危ないから歩道を走ることになる。
 でも歩道には車道から建物に入るために切込みがあるので、自転車は上へ下へと振られて不安定である。これも老人には危ない。
 車道に自転車専用レーンのようなものは、見たことがない

 で、今日の新聞に、歩道を走る自転車の危険運転や歩行者との事故が目立つとして、警察庁は自転車は車両であることを庶民に認識させて、歩道通行自転車を断固取締りすると決めたとの報道である。
 警察庁の通達を見た。http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/bicycle/taisaku/tsuutatu.pdf
「車道を通行する自転車の安全と歩道を通行する歩行者の安全の双方を確保」という大義名分であるらしい。

 自転車の取締りをしっかりやるってことは、車道に駐まる自動車もしっかり取り締まるのでしょうね。パーキングメーターのある道路は、どうするのだろう。
 車道を走っても安心できる自転車専用レーンをつくるのでしょうね。
 警察庁の最新通達を見たら、書いてあった。
 曰く、「自転車道等の整備を検討」とか「パーキング・メーター等を撤去を検討」とある。
 あのなあ、役人用語で「検討」って、昔から「やらない」って意味だったはずですが、どうなんですか。

 自転車は歩行者なのか車両なのか、よくわからないままに、その場その場で変身するカメレオンをやってきたが、これはいけないのだった。
 歩道を通ってよい例外は、13歳未満の子ども、70歳以上の高齢者、身体障害者とある。法を調べると道路交通法施行令第26条にあった。
 そうか、わたしも例外にはいるのか、ではこれからは堂々と歩道を走ることにするか。つかまったら、身分証明書を出すのだ。
 美術館無料とか、映画1000円とか、自転車歩道走行OKとか、年寄りの役得である。

追記111028)書き忘れたこと。 自転車で出歩くと一番困るのは、とめるところがないことだ。
 歩道走行云々もけっこうだが、駐輪スペースをなんとかしてほしい。
 コンビニ、パチンコ屋くらいは止めるスペースを確保しているが、商店街ではほんとに困る。
 特に横浜中華街では、従業員用駐輪場ばかり大きいが、客用はどこにもなくて、ちょっとしたデッドスペースに止めようとすると、かならず駐輪禁止と書いてある。なんとあかしろ。
 量販店の前の歩道にむやみに広がるのは、みっともないし、危ない。
 神奈川県民ホールにもないので、どうすればよいか聞いたら、道をわたって山下公園にある駐輪場を使えという。
 新しくできた神奈川芸術劇場には駐輪スペースがある。
 横浜開港資料館では、駐輪スペースはないので、建物の陰にでも置いておけという。

参照→021老いて徳はないけど得をする
http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_22.html
   222交通信号を歩行者のために
http://datey.blogspot.com/2009/12/222.html

2011/10/25

513城下町・高梁の玄関の風景

 久しぶりに故郷の高梁の駅に降りた。駅前から見る風景は、城下町とは思えないのは、全国どこの城下町駅でも同じことだ。
 でも、通りの向こうに霧にけぶる山が見えるのがうれしい。この山あての風景こそが高梁の大切な個性であるし、わたしの記憶の中の大切なふるさと風景である。
 とくに高梁の象徴である備中松山城のある臥牛山(がぎゅうざん)は、街のどこからでも山あて風景となっている。
 でも、並木がどうしてこんなにショボイのかしら。

 ありふれた駅前風景だが、おや、なんだか目障りな看板がビルに張り付いている、ブサイクな風景だなあ。
 え、「学園文化都市 ようこそ高梁へ」だって?
 これってどうみても非文化的な風景だけどなあ。
 その上にはまたひときわ大きく「備中高梁 ロケのまち」ってある。
 ロケってどんな高梁名物なの?

 で、駅の方に振りかえると、おお、こちらも負けすに大きな看板。
 あのね、この備中高梁駅舎って、歴史的な代物なんですよ。なにしろ1926年、大正15年8月にできたってのですからね。
 今はなんだか年寄りの厚化粧って感じだけど、皮をむくと昔の姿が出てくるだろう。
 やる気があるなら登録文化財くらいにはしてもバチが当たらないと思いますがねえ。もうちょっと大切に姿をまもってあげてはどうですか。

 もちろん、宣伝なさるのはよろしいのですが、どこかこの風景は、品がないと思うのです。
 学園文化都市もよろしいし、映画になるような文化的風景都市もよろしい。
 ですが、もうちょっと、文化的な宣伝のしかたというか、文化的な風景になる看板のあげ方がありそうなもんです。
 せっかく、歴史的街並みの保存の努力をなさっているのに、玄関先がこれじゃあねえ。
 
 ついでに、自動車での玄関口を見るかと、グーグルストリートを探した。
 高梁川沿いに国道180号を北上してきての玄関は、向こうに臥牛山が山あてで見えているのはよいのだが、鉄塔やら赤い看板やらなにやらが、いただけない。
 お客をまねきいれるホスピタリティに欠けていて、愛想なしである。
 両側に樹木を植えた美しい並木道にして、うるおいある風景にしてほしいものである。
 もうひとつの玄関は、ループ橋からおりきったあたりだろうが、そこはグーグルストリートにはでてこない。どんな風景なのだろうか気になる。
 どこの町でも、こういうところには派手な看板が立ちならんで、ゲンナリとさせてくれる。
 実例として、長野県の城下町・松代に行ったときの、わたしのゲンナリ風景をご覧ください。
http://datey.blogspot.com/2008/10/blog-post_27.html

 ふるさとの街の客間や居間をきれいになさるのはもちろん嬉しいことですが、玄関もきれいにしてくださるといいのになあと、おもいました。

2011/10/23

512路地と小路

 街の中の狭い道が、自動車が通りやすくとか、災害時に消防車が入りやすくとかの理由で、次第に広げられていく。
 昔の道は、人が歩き荷車がとおればよいから、ほとんどの道幅が6尺程度でよかった。街を貫通する大動脈のような数本の主な表通りは広くても、それらをつなぐ毛細血管のような道は細くてよいのだ。

 そこでは子どもの遊び場でもあったし、ちょっと広がったところに井戸があって井戸端会議をする。縁台を出して涼みながら将棋をうったりして、近所つきあいの場でもあった。
 先般、ネパールに行ったとき、カトマンヅ盆地の古都バクタプルを訪ねて裏町を歩いたら、子どもが遊び井戸端会議のある路地が生きていた。

 戦前の都市計画では、便所の汲み取り路として、細い裏道をわざわざつくったものだ。それが生活の道となって今も生きているところがある。東京の銀座にもそのような細い裏道が今も生きている。
 そんな狭い横丁や裏道を「路地」とか「小路」とか、各地で呼び名がちがう。
 いまは法律が4m幅未満の道路を許さない。だから、今も生き残る狭い路地は道路としては違法であるか、または道路ではない街の隙間である。

全国路地サミット」なる妙な名前の会合が、毎年一回は各地で開かれている。今年は、東京都墨田区の向島地区である(2011年10月21~23日)。
 毎回、100人ばかりが全国からやってきて、うろうろとあちこちの狭い路地を歩きまわったあとは、みんなで集まって路地を守ろうと気勢を上げる。もちろん路地裏の飲み屋での2次、3次の会が続くらしい。

 自動車が通りやすいように道を広げてばかりいるが、狭い道がかつて持っていた地域での生活の場としての役割を見直そう、というのが会合の大義名分である。そのいっぽうでは裏路地の飲み屋の保存も大切な目的であるらしい。
 新潟市や諏訪市など、かなり興味深い路地保存運動がされているところがある。行政マンが市民運動として保存運動をしているのも面白い。

 墨田区では、来年の夏にスカイツリーなるノッポ鉄塔ができて、これの見物客がわっと押し寄せる。そうすると路地にも観光客が入り込んでくるかもしれない。
 表通りの商売人は喜ぶだろうが、路地はほとんどが住宅地だから住民は大いに迷惑である。さて、どう考えるか、そんなことが話題になっている。

 だが、住宅地の面白くもない路地に入ってくるのは、物好きだけだろうとおもう。
 もっとも、鉄塔がらみの観光客は年間2千万人と皮算用だそうだから、その0.1パーセントの物好きがいても2万人か、ちょっとした数ではある。

 その物好きのひとりであるわたしは、昨日、向島の玉の井をうろうろしてきた。永井荷風が愛した私娼窟だった街である。
 実は歩いてみても、その名残はなにもないのである。東京下町によくあるありふれた木造建物が密集する住宅街である。

 1923年の関東大震災以来のその下半身商売繁盛の街は、1945年の東京大空襲による丸焼けのあともさらに北に広がって繁栄する。1956年の売春防止法の施行によって幕を閉じた。
 いま残るのはその曲がりくねった細道ばかりだが、これは江戸時代からの遺産で、田んぼの畦道がほとんどそのままに現代に引き継がれているのだ。

 細い路地を通り抜けながら、故郷の高梁小路(しょうじ)をおもいだしていた。
 こちらは江戸期の都市計画の城下町だから、道は曲がりくねるのではなくて直線だが、ところどころに筋替えとなる食い違いがあるのが特徴である。
 向島はまったいらだから、路地の向こうには広い表道に建つビルが見えるが、高梁は盆地の中で小路の向こうには必ず山が見える。ハイデルベルグの路地と同じなのである。

 高梁救助か町にはたくさんの小路があるが、それらの名前のなかでわたしの記憶にあるのは「菊屋小路」と「牢屋小路で」、「森小路」というのがあったような気がする。
 菊屋小路は幅6尺ほど、わたしの生家と母の実家を結ぶ路の一部だったので、よく通ったものだ。両側に蔵が並び、途中で食い違いに折れ曲がる。
 幼児のわたしが、ひとりで母の実家に行くとき、母に必ず言われたことは、菊屋小路からでて本町(ほんまち)通りを横切るときには「左右を見てバスに気をつけて!」
 その本町通りは、なんとまあ狭い道であることか。

 だが、高梁のそのような小路も、自動車が通りやすいように道幅を広げているし、食い違いはまっすぐにしている。時代の要請だろうが、道の先が見え隠れする面白さがなくなって、味気ない風景となっていく。
 せめて道の上に、元の道の形を色違いにして描いて、城下町の記憶のよすがにする工夫をしてほしいものだ。

 菊屋小路は今もあることを先日に確認したが、この道は都市計画によって12mに拡幅されることになっている。
 はたしてそれが必要なのだろうかと思うが、わたしのノスタルジック小路は、さて、いつまであるものやら。
 牢屋小路はいまもあるのだろうか。