東京駅と丸の内は、何十年ものわたしの定点観測地点である。
今の赤レンガの東京駅舎は、クリストのアートのごとくに布で梱包されていて、復原という名目をつけて、歴史的風景の破壊工事中である。
来年半ばには完成らしいが、先日(2011年11月1日)一部の梱包がとりはらわれていて、コピー再現した建物の部分がちょこちょこと見える。
中央郵便局寄りの角の尖塔のあたりが下から上まで見える。尖塔の頭の辺りはあんな形であったのか。
図面でのイメージと違うと思ったのは、なんだか丸髷が椀をかぶったような鈍重さである。
修復された壁や窓まわりのレンガや石の装飾をよく見ると、汚れたところときれいなところが混じっている。既存材と新規補填材との区別がつくようにしたらしい。
文化財の修理の考え方も、昔はできるだけ新旧がわからないように、わざわざ新材を古びさせる工夫をしたものだが、現代はその逆となったらしい。それは歴史の重層を表現して、まことによろしいことである。
梱包の上の方から、丸いドームの頭が出ている。なんだか思っていたよりも全体に小さい。壁部分が赤色でなくて茶色であるのは、あそこは赤レンガではなかったのだろうか。
丸い頭に細い避雷針のような尖塔が立つ形は、19世紀プロイセンの軍隊がかぶった鶴嘴鉄兜(ピッケルハウベ)を連想させる。
工事囲塀に工事の内容と出来上がりの絵などが展示してある。そこに今回の修復前(1947年)と修復後(2012年)の比較の立面図が書いてある。
立ち止まってしげしげと見ていて、ドームが小さく見えた理由がわかった。実際に小さくなったのであった。半分以下の大きさになっている。
そうか戦災で焼ける前は、そうだったのか。
そして思うのは、あの物資の極端にない敗戦直後のときに、簡単な屋根でも雨をしのぐことができたろうに、よくまあ鉄道省の建築家たちはがんばってこんな大きなドーム屋根を作ったものだ、ということである。
ついでに言えば、ドームの天井内装も、ローマのパンテオンのモダナイズであるのも、なかなかすごいことだ。あの壮大な天井も消えるのであろうか、もったいない。
大きなドームも壮麗な天井も、あれは戦後の仮設に過ぎないから、昔に戻すのだというのが復原の論理らしいがが、どうしてどうして、あれが仮設であるはずがない。
だからこそ66年も保ち続けて、創建時の姿よりも長生きをしたのだ。
そしてまたふたつの図を見比べつつ思ったのは、どちらかといえば、戦後修復デザインの方が、辰野金吾のオリジナルよりもメリハリがきいていて、プロポーションもよいということである。
辰野デザインはただただ長く横たわり、尖塔やドームでメリハリつけようとするのだが、全体に鈍重である。辰野の設計の建物は、どれも西欧様式ディテールのアプライは得意だが、総じて建築デザインとしては鈍重である。
国鉄の建築家(課長・伊藤滋)が戦災復興のために手がけた修復デザインは、台形ドームを載せるという近代建築の手法を様式建築にアプライして、非凡な腕を見せている。
みればみるほど、日本の不幸な戦争とそこからの力強い復興の姿を、これほど如実に表現していた証人たる建築が、復原という美名に聞こえる宣伝の仕業で消え去ろうとしているのが、残念でならない。
東京駅丸の内側から八重洲側に移り、東京駅を背にして八重洲通りをまっすぐに歩く。
銀座通りとの交差点でふりかえって見ると、道の真正面が真っ黒な新丸ビルである。丸の内の行幸道路とは一直線でなくて軸が曲がるので、こうなるのである。
新丸ビルがこんな風に見えるのなら、都市景観としてはこんな中途半端な形態ではなくて、もっと正面性を持たせるデザインであった方がよかった。(2011.11.01)
*参照→東京駅復原反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/tokyo-st/index.htm
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