2013/03/09

728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚

●本棚にある2冊の宝物本
 建築写真家の二川幸夫が1950年台前半に写した、日本の民家の写真展を見に行った。これはいろいろな意味で懐かしい。
 写真の風景そのものが懐かしいのはもちろんだが、実はその写真そのものが懐かしい。学生時代にその写真の民家に強烈に魅せられたことがあるのだ。そしてまた、その写真に民家の論考を書いた伊藤ていじ先生との出会いに、強烈な思い出もあるからだ。


 近頃はなんだか、昔の回顧展が多いような気がするが、そうじゃなくて老化して懐古趣味になったわたしが、そういう展覧会に目が向きやすくなったということだろう。
 歳をとるとしだいに原点回帰する現象が起きる。わたしは建築学を学んで大学を出た。卒業研究は建築史の研究室で、京都御所遺構に関する論文を書いた。
 社会に出て建築設計の仕事に就いたが、いろいろとあって30歳半ばころからしだいに都市計画に転向していった。建築家になれずに都市計画家になってしまった。
 そして建築史を趣味としたのである。これはなかなか品がよろしい。

 建築学生の時に、二川幸夫が発表した民家の写真を見て、そのあまりに美しい風景、建物のプロポーション、しつらえの良さに感激し、魅せられてしまった。二川は本物の民家を見て魅せられ、わたしは二川の民家の写真に魅せられた。
 わたしの魅せられっぷりは、卒業設計にいくつかそのデザインをパクッてアレンジした覚えがあるほどだ。
 倉敷の町屋は、少年時に見ていたから美しさをそれなりに知っていたが、二川の写真で再認識した。

 わたしの本棚に宝物のごとく鎮座する2冊の本、それが二川幸夫の写真と伊藤ていじの論考が載っている『日本の民家』(「陸羽・岩代」編、「山陽路」編、美術出版社 1958 各420円)である。
 420円という定価は、学食の昼飯定食が30円の時代だからけっこう高額である。貧乏学生がよく買ったものだと思うが、それだけ感激したということだろう。
 少年時代、学生時代に買った書籍類は、何回もの引っ越しで一冊も手元に残っていない中で、この2冊だけは表紙の背が切れてぼろぼろになっても、いまだに宝物のごとく持っている。
(追記:これを書いたときは忘れてたが、その後に思い出した重要なことを書いておく。この2冊の本は、のちにわたしの妻となる人からのプレゼントであった。)
 

 二川の民家写真の中でももっとも感激したのは、遠野の千葉邸であった。力強い中にやさしい茅葺の曲線があり、全体に均整のとれた配置にマイッたのでああった。
 ところが千葉邸にはまだいったことはない。今は保存公開されているとのこと、いつの日か訪ねる楽しみを、残り少ない人生にとっておくのだ。


●伊藤ていじ先生の思い出
 展覧会場のロビーで、二川幸夫にインタビューする映像を見せていた。
 美術出版社が二川の民家写真を出版してくれることになり、伊藤ていじと組んで全国を撮影に回った端緒について語っている。
 その始まりが1950年とすれば、伊藤ていじは28歳、その頃、死にそうになった大病(肺結核)がようやく治癒したばかりだった。二川は伊藤より9歳若い。

 二川は、写真に論考を書く相棒を、それまでの民家研究者や建築史家ではなくて、まだ若い研究者だった伊藤を選んだそうだ。後の伊藤のことを思うと、その人選は実に見事だったし、二川の眼力のすごさに驚嘆する。
 病み上がりの伊藤が全国行脚を渋るのに対して、二川は、どうせ一度は死んだんだから一緒に回って死んでも同じだろう、と、説得したのだそうだ。

 1960年の夏、わたしの所属する藤岡道夫研究室と東大の太田博太郎研究室の共同研究として、丹波の農村に滞在して民家調査をした。
 両大学から学生、院生、指導教官が集まって、毎日、手分けして民家を訪ねた。
 建ててから100年ほども経った大きな農家に上り込んで、間取りの現状と変化を調べ、天井裏に入って構造を調べる。囲炉裏から舞い上がって天井裏についている煤で、頭から真っ黒になってしまった。余談だが、それから48年後に越後の山村で、そのようなことをして懐かしかった。

 その指導教官に、伊藤ていじ先生がいらしたのであった。体力がないので、荷物は持たない、やむ得ず持つときは風呂敷ひとつであった。
 伊藤先生は毎晩よくしゃべった。それが実におもしろかった。若いみんなで聞き入ったものだ。けっこう与太話もあった。
 その話はもう覚えていないのだが、一つだけ強烈に覚えている話が、二川さんが映像で言っていた、ほとんど死にかけた病気のことだ。

 伊藤さんは、東大の院生の頃、肺結核で病院のベッドに伏して起き上がることさえできない日々、ほとんど死にかけていた。
 ある日、ふと目覚めると、ベッドの周りで何人もが泣いている。ははあ、自分は死ぬんだな、そう思っても、気力がないから何の感情もなく眺めていたという。

 肺結核は死の病であり、戦争直後の日本を、いまの癌のように席巻していた。
 その治療薬の抗生物質ストレプトマイシンが発見されたのが1944年、結核がこれの投与で治るようになった。
 ストレプトマイシンは戦後ようやく日本にも入ってきたが、初期だからそれを誰にでも投与するほどの数がない。

 そこで医者は優先的に投与する人を選んだのだが、その選に伊藤先生もはいったので、生き返ったのだそうだ。
 つまり、東大の将来ある学者としての立場がその選定の理由で、それで命は助かった。
 しかし、その陰には後回しにされて死んだおおぜいの患者がいる、その人たちに自分はおおきな借りがある、だからその人たちの分までもこれから生きるのだと、若い伊藤さんの熱のある話は、若いわたしの心を揺さぶった。

 わたしを魅了した日本の民家という名著ができたのも、ストレプトマイシンのおかげだった。そしてこんにち、それを懐古することもできたのだ。
 その後はわたしと伊藤先生とは縁はなかったが、個人的に尊敬する心の師匠として、出版されるご本を買ったものだ。
 記憶にはないが、もしかしたら丹波で伊藤先生の話にこの本のことをもあって、どうしても買いたかったのかもしれない。
 
 わたしが大学を出てからの伊藤先生との再会は、それから40年ほどたったころ、東京駅ステーションホテルの宴会場での何かのパーティーで出くわした。
 もちろん先生がわたしを覚えておられることはなかったが、しっかりをお礼を述べてあの時を思い出していただいた。

 ついでに、わたしの民家写真も一枚乗せておこう。

 
*「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」は、2013年1月12日(土)~3月24日(日)、新橋の「パナソニック 汐留ミュージアム」にて開催中。

(追記2013/0312)
 新聞報道によれば、二川幸夫さんは2013年3月5日に逝去されたとのこと。惜しいことです。
 
 それでふと思いついて、伊藤ていじ先生が亡くなられたときに、丹波の思い出を書いたような気がして、このブログ記事を探したら2010年2月に書いていた。伊藤先生も惜しいことであった。
 「236丹波の伊藤ていじ先生」http://datey.blogspot.jp/2010/02/236.html
 

2013/03/07

727津波の日からいまだに海水が引かない被災陸地もある

 
 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙石線にのって被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
「地震津波被災地を見て思う」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

 その記事の初めにこの写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。
 ここから惨状をくみとって調べていろいろと書い たのだった。
ところが最近、ウェブサーフィンをしていたら、なんと、この写真の景色の真ん中の向こうのほうから、こちらにカメラを向けて写真を撮ったY.Oharaという人がいた。
 その写真ページには「許諾不要で自由に複製/再配布/二次利用/改変 OKの自由なライセンスです」と書いてあるので、コピーして拝借する。

 これはY.Oharaさんが2013年1月19日に撮ったパノラマ写真の一部を拡大した。中央あたりに陸橋が見えるが、そこからこちらを向いて撮ったのが、上のわたしの写真である。
 
 Y.Oharaさんのパノラマ写真の全景は下図である。上の拡大写真の陸橋があるあたりは、赤い矢印に下である。
わたしが撮った写真の中央上あたりの水上に建物がみえるが、それがY.Oharaさんの写真の中央にある黒い建物である。

 次の画像に、google earthの空中写真(2012/4/12)で撮影位置を示す。
 この赤色矢印の位置から撮ったのがわたしの写真、黄色○印がY.Oharaさんが撮った位置(推測)である。
 これを見ると、この区域は2011年3月11日の津波来襲から今に至るまで、ほとんど海水が引いていないことがわかる。

 
 そして下図は、津波前の2004年の空中写真である。
 一面に田畑があり、それに連なる集落がある。
 もしも津波前にY.Oharaさんがパノラマ写真を撮っていたなら、今は海面となっているところは田畑がひろがり、そのの向こうに家屋が立ち並ぶ街並みが写っていたはずである。
 
 そして、わたしも震災前に陸橋の上から撮っていたなら、海水ではなくて田畑の風景であったはずである。

 さらに詳しくは、Y.Oharaさんのパノラマ写真ページでどうぞ。
http://gigapan.com/gigapans/121827/
 このページは「助けあいジャパン|情報レンジャー」サイトにある。
http://tasukeairanger.heteml.jp/wp/

(追記)
今日のニュースで、今度はピロティ建築礼賛だそうである。
1995年の阪神淡路震災で、ピロティ建築が軒並みに崩壊、以後ピロティ建築はご法度。
ところが津波ではピロティ建築が効果的とか。津波が股下を抜けて行く。
あちら建てればこちらが建たず、なかなか世の中うまくいかないもんです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130307/t10013027211000.html

2013/03/03

726震災津波による「災害危険区域」って人柱が建たないと指定しないのかしら

 また3月11日がやってくる。あれから2年、復興はどうなのだろうか。
 わたしが行っていた中越震災復興の長岡市小国町の法末集落の2年目、2006年を思い出せば、全戸避難した住民は7割くらいは戻って暮らし始めたが、まだ道や家の修理をしていた。
 それと津波被災地とを比べても意味はないが、それでもあれを思い出すと津波被災地は簡単ではないだろう。

 昨日と今日の朝日新聞朝刊から2枚の図を引用する。昨日は東北沿岸部の復興状況を示す図、今日は関東各県沿岸部の津波リスク図である。


 

 復興状況図をみていて「災害危険区域」指定の広大さに驚いた。広さを足してみたら1250ヘクタールにも及び、これから指定するところもあるから、もっと増える。
 早く言えば、これだけ広いところが津波で壊滅したということ、津波被害壊滅区域である。
 
 そして今日の関東各県の津波リスク図を見て、考え込んだのだが、要するに今後の津波による津波被害壊滅区域がこのあたりにしっかりとあるという図である。

 東北沿岸部の「災害危険区域」の指定は、大被害が出た後で指定したのである。
 関東沿岸部では、これから大被害が出るのである。そこは「災害危険区域」に指定するのだろうか。被害が出てからでは遅いから、その前に指定して対策をとるのが防災というものだろう。

 たとえば、わたしが住んでいた鎌倉とか、今住んでいる横浜都心とかは、いったん大津波が来たら「災害危険区域」となる資格は立派過ぎるほど備えているように見える。
 だとしたら、津波がやってくる前に指定してはどうか。指定するとどうなるかは、よく知らないが、なんでもそこに住んではいけないってことになるらしい。

 事務所、店舗や工場などは立地できるらしいが、でも、そこにも人間はおおぜいいるんだけど、それはどうしていいのだろうか。学校はどうなんだろうか。
 今の段階で指定したら、不動産業界は大恐慌だろうなあ、あ、そうじゃないか、高台や内陸に移転する人が増えて、災害前特需が生まれるかもなあ。
 災害危険区域には産業施設の立地はできるらしいが、それでもそんな危ないところから企業だって逃げるかもなあ。

 まあ、日本では昔から、なにか政策が大きく変わるのは、外圧と人柱によるものと決まっているから、実際に津波で人柱が建って初めて「災害危険区域」指定ができるのだろう。

●参照
瓢論◆絆を解いて民族大移住時代が来る
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
弧乱夢◆地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm

2013/02/27

725福島第1原発の現地調査段階の記録映画を今見ると実に興味深い

 おもしろい無料配信サイトにある記録映画を見つけた。
「黎明 福島原子力発電所建設記録 調査編」(1967年 企画:東京電力、製作:日映科学映画製作所)で、「科学映画館」サイトにある。
http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/350/

 製作されたそのころは日本が高度成長期にさしかかり、まさに発展途上国に足を突っ込んだ時代である。
 映画の雰囲気が、いかにもそれらしくて、なんだか懐かしくなる。今の若い人が見たら、これは中国の映画だ、と思うだろう。そういえば1950年代のソ連の宣伝映画がこんな感じだったな。

 映画は福島原子力発電所の工事にあたって、現地の地上、地中、海上、海中、空中、上空において、その綿密なる事前調査を行う様子を描く。地震、地盤、大気、水質、波浪などなど、こんなに入念に調査してるんだから安全だよと。

 さて、その中で「津波」がどう出てくるか、注意して聞いていたら、なんと、まあ、たったの一回のみであった。
 冒頭でこの用地の地域をこう紹介する。
数百年にわたって地震や津波などによる大きな被害を受けたことはない
 これだけ、あとは波浪は出るが津波はない。感無量になってくるよなあ。

 それにしても、あの原発用地の元の地形は、海岸からいきなり30m以上もの高さのある絶壁の上にある台地だったのですね。
 それを削って削って削って海岸に平地をつくり、そこに原子炉を置いたのだったとはねえ、、。
  
1966年当時の福島原発用地のあたりは絶壁海岸

映画に出てくる海から見た原発用地あたりの崖

 映画は、このようなナレーションで締めくくる。
かぎりない創造の夢はひろがり、人間のはかり知れない叡智は、輝かしい次なる文明段階へとつながり、今ここにひとつの偉大なる建設が成し遂げられようとしている

 ああ、あの頃、わたしの上に輝いていた未来、あの懐かしい未来は、いま、どこに行ったんでしょうねえ。

 今日の視点でこの映画を見ると、たまらなく面白いですよ(不謹慎ながら)。
 ついでにこれとセットで、開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』を読むと、おもしろさが倍増しますよ。

●参照⇒地震津波火事原発オロオロ日
 http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/02/25

724再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」

―その登録運動自体が愚昧なる人類の悲劇を後世に伝える            

●福島原発跡の観光地化だって?
 若手の論客やアーティストたちのグループが、「福島第一原発観光地化計画」なる提案をしているそうだ。新聞でその紹介記事をざっと読んで、さっそくそのサイトを覗いてみた。
 サイトを見る前は、たぶん、原発反対運動のメタファーとして「観光化」なんて俗な言葉を使ってるのだろうと思っていた。


 ところが違った。真面目に観光化を考えるらしい。こう書いてある。
「福島第一原発観光地化計画、それは読んで字のごとく、福島第一原発の事故跡地を「観光地化」する計画のことです。…2036年の福島第一原発跡地に、どのようにひとを集め、どのような施設を作り、なにを展示しなにを伝えるべきなのか、それをいまから検討しよう、そしてそのビジョンを中心に被災地の復興を考えようというのが、計画の主旨…」
 そしていかにも建築家というか不動産屋が考えそうな観光計画らしい、俗な絵による提案もある。あら、若い人ってマジメなんだね。


 そこで年寄りも悪乗りして考えることにした。
 なにしろ2036年というと、わたしはそれを体験することは確実にありえないのだから、無責任になるはやむを得ない、という勝手な前提である。
 「フクシマ」がらみで観光というと思いつくのはなんといっても「常磐ハワイアンセンター」である。こう書いて、はてな、今もあるのかなと、さっそく貧者の百科事典ウェブサイトで検索したら、今では「スパリゾートハワイアンズ」と改名していて健在であると分かった。
 ここも石炭→石油へと燃料転換から生まれた跡地の観光化だから、福島第一原発事故による跡地の観光化は核燃料→自然燃料というこれまた似たような歴史をたどるかもしれないという点では、メタファー(暗喩)どころか、実に分りやすい直喩でさえある。


●福島観光ヌックリランド
 さてそれでは、“福島第一原発ハワイアンセンター”はどんなものになるのだろうか。常磐ハワイアンセンターができたころは、リゾートといえばハワイ、いや、リゾートという言葉もまだなかったな、“夢のハワイ”だったからハワイアンセンターだったのだろう。
 今は東京ディズニーランドもある時代だから、ここは「福島原発ランド」なんだろう。いや、もっと直截に「福島原発事故ランド」か、いや「核毒ランド」か、あ、「福島ヌックリランド」がいいか。

この続きと全文は
再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」
http://goo.gl/kEtO9
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage

2013/02/23

723横浜港景観事件(13)サーカス小屋のキリンが見ている横浜新港の観覧車と結婚式場工事

 いま、横浜都心で「木下サーカス」が公演中である。
 その隣のビルの窓から見下ろすと、真っ赤な丸いテントがあり、そのわきに出演動物たちの小屋も建っている。
おや、キリンが野外でウロウロしつつ、首を伸ばして海のほうの景色を見ている。

 木下サーカスねえ、懐かしい、としか言いようがない。少年時代を想い出させる。
 あれは生まれ故郷の町の稲荷神社のお祭りの日だったろうと思う。広い河原にたくさんの露天商の屋台群とともに見世物小屋もいくつか建っている。
 怪しげな蛇女とか首だけ人間とかの小屋もあるが、なんといっても素晴らしいのは大きなテントで堂々たる木下サーカスである。

 テント小屋の裏にまわると動物の檻がたくさんあって、ライオンやら象やらがいる。あたりに立ち込めるその糞尿のにおいも思い出す。
 金網で作った地球儀のような球体の中をオートバイがぐるぐると天地の境目なく走り回る、空中で男女が飛びながら手をつないでのブランコ、あまりに昔のことで、実はこれくらいしか記憶がない。 

 その横浜都心のサーカステントから、頭を港のほうにめぐらす。
 目の下の北仲通りの再開発はとん挫しているらしく、いまだにビルは建たないで、一面の駐車場になったまままである。
 2棟だけ残存している帝蚕倉庫の建物はどうなるのだろうか。

 その向こうの新港地区を見ると、サーカステントにお似合いの観覧車が回っている。
 お、あれはなんだ、おお、そうか、やってるやってる、これが例の景観騒動(世間では騒動でもないが、業界ではね)があった結婚式場の建物工事が進行中であるか。
 鉄骨骨組みが黒々と観覧車のふもとに建っている。これから白い外装がついてくると、これは結構大きい建物であるようだ。

 さてどんな景観が実物として現れるか、そして景観業界がなんというか、世間がなんと噂するか、ちょっと春が楽しみである。

●参照⇒横浜風景、横浜港景観事件

2013/02/17

722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もひっくるめて犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる

 東日本大震災以来、妙に気になる言葉がある。「犠牲者」である。
 津波に襲われた死者も、テロで人質にされて殺害された死者も、通り魔に刺された死者も、いずれも犠牲者とマスメディアは書く。
 あるいは、これはずっと昔からのことだが、戦争の犠牲者とよくいう。
 ずっとなんだか引っかかっている。死んだ者は誰でも「犠牲」者なのか。

 そもそも「犠牲」とは、なにかとなにかがバーター関係であることがまず前提にあるはずだ。
 Aが有利になるためにBが不利になるのだが、このときBはAの立場を肯定して、やむを得ず、あるいは積極的に自分の立場を選んだ場合に、BはAのために「犠牲」になったというはずだ。

 スポーツの野球に「犠牲打」というプレイがある。
 あちこちの解説を簡単にまとめると「打者はその打撃でアウト(犠牲)となるが、それによって塁上にいる他の走者が進塁し得る打撃を指す」とある。自分はアウトになるのに味方チームの得点へのアクセスを容易になるように導く行為である。

 古典的には、牛などの生き物を神にささげて(生贄)、神の恩寵を得ようとする行為である。
 このとき牛は犠牲になる。もっとも、このとき牛は肯定していないだろうが、それを提供した飼い主が肯定していることになる。

 さて、津波に襲われた「犠牲者」は、何とバーター関係にあるのだろうか。
 津波は天然事象だから、それ自体は何かの目的をもっていはいないから、バーターは成立しない。
 ただし、こういう例では犠牲である。たとえば消防団の人で他人の避難を助けるための活動で、自分が避難に間に合わずにやむを得ずに落命した人である。他の人の命とバーター関係になっている。
 だれもかれも津波の犠牲者として言うのは、どうも引っかかる。

 同様に犯罪による死者は、何とバーターなのか。テロリストのいう目的とのバーターとか、アホバカ通り魔の言う理由とのバーターは成立しないことは明らかだろう。
 戦争の犠牲者という言葉も、どうも抵抗がある。戦争という行為を肯定しているからこそ戦死者を犠牲者というのだろうと、わたしには思えてくるのである。
 フィリピンの山中で非業の戦死をしたわたしの叔父は、あの悲惨な戦いを肯定してはいないだろう。ましてや遺族においておや。

 考えてみるに、近頃はどうも、いわゆる「非業の死者」はすべて「犠牲者」というようになったらしい。
 非業を非難しているつもりかもしれない。しかし、非業と死とはバーターにならないのだ。
 死者を悼むつもりでこの言葉を使うとすれば、使い方を間違っている。
 言葉は世につれて変ることは承知しているが、それにしても、「死者」と「犠牲者」はもっと慎重に使われるべき言葉であると、わたしは思う。

2013/02/13

721朝鮮半島地下核爆発と日本列島地上核毒バラマキはどっちが罪が重いか

 核実験と原発とは関係ないのかしら。
 どちらも原子核の分裂によるエネルギー発生を、装置として使ってるような気がするけど、違うの? 
 核実験はエネルギーを集中させて一気に使う、原発はエネルギーを徐々に出させて使う、こういう違いのような気がするけど、違うの?

 同じものを使いながら、核実験は「核」という言葉を使うのに、原発はどうして「核発電」と言わないのかしら、違うものなの?
 「核実験」はなぜ「原子力実験」といわないのかしら?
 あるいは「原子力発電所」は「核発電所」といったらどうなの?
 核実験で出てくる放射性物質は、福島原発から出てきたそれとは違うものなの?

 いま、世界でどれくらい原発があるんだろうとネットで探したら、こんなサイトを見つけた。
【地図】世界の原子力発電所からの【距離】
http://arch.inc-pc.jp/004/index_12.html


 あるわあるわ、いやまったくすごいもんだねえ、こんなにあるのかあ。お隣の韓、朝、中の各国にもたっぷりとそろっていて、かなりおそろしい。北東アジアは原発の巣かよ~。
 これらがエネルギーも作り出しているけど、同時に核毒ウンコもどんどん排泄していて、今のところその浄化槽はどこにもないから、多分、野積みなんだろうなあ。
 さらにかの発展途上大国では、もっともっと増設計画があるらしい。日本の原発密度を見たら、かの人口大国ではもっともっと必要でしょうね。

 あちらでは今、大気汚染の公害が著しいとのニュースが出回っている。日本が高度成長時代の事件と同じである。
 70年代には日本では誰もかれもがマスクをして暮らしていると、国際ニュースになったくらいである。
 それだけじゃなくて、偽物ブランド、無断コピー商品、安物衣料、安物電器などなど輸出して軽蔑されるって、昔日本がまさにそうだったよなあって、なんだか懐かしいニュースに思えてくる。

 
 で、原発であるが、アメリカとソ連という核爆弾と原発の先進国で原発事故が起きたように、日本もその後を追って原発事故を起こしたのである。
 アメリカの良いことも悪いことも倣って発展途上を抜けだしたと思った日本、やっぱり発展途上の大事故を起こした。

 さあ、次の原発事故はどこで起きるでしょうか。
 日本海や東シナ海の日本の向こう岸あたりで起きそうだなって、だれでも思うよなあ。
 近いうちに核毒まみれのPM2.ってえやつが降ってくるぞ。
 覚悟決めるしかないかもなあ、日本は、え、原爆を持つってことじゃないよ、原爆だろうと原発だろうと原子力だろうと、核抜き3原則でしょうよ。

 でもなあ、これだけたくさん作ったうえにもっと作り続けているのだから、もう引き返せないかもなあ。
 今に人類は自分がつくりだした核毒ウンコに埋もれて野垂れ死にするしかない、そう思えてきた。
 そのまえにこちとらは人間おさらばしているんだから、知ったことか、って言っていいのか、これって違うか?

(追記130219)
 先般、核発電装置(原発)の地図を発見してのせましたが、もっと探していたら、なんと核爆発の世界地図が見つかりました。
 地球上での核爆発の実績は、1945年から1998年まで、実に2054回、この後もまだやってるから、核発電装置とあわせて、いやはや、核の毒にすっかり侵されてしまった地球です。
 アーチストのさくひんだけあってメッセージ性のあるデザインです。
「"1945-1998" by Isao Hashimoto」
http://www.ctbto.org/specials/1945-1998-by-isao-hashimoto/

 

2013/02/12

720それにしても安倍さんにどうしてこれほど支持があるのだろう

 マスメディ屋さんたちがそろって安倍内閣支持率の世論調査。
 高い順に書くとこんな具合。
76.1%:TBS系(JNN) 2月11日(月)
71.0%:読売新聞 2月10日(日)
・64・5%:産経新聞社とFNN 1月26、27日
64・0%:NHK 2月12日
 なんかよくわからないが、いつも出だしのあたりは期待もあって支持率が高くなる傾向がある。調査方法にもよるのだろうが、ずいぶん差があるものだ。
 
 それにしてもどうしてこれほど支持があるのだろうか、安倍さんに。
 安倍さんになって起きたこと、株高・円安になっている数字だけはわかる。
 これをどういうわけか、アベノミックスと言うらしいが、株と円がミックスしてサンドイッチになってるのか。そういや昔、レーガノミクスってのがあったな。

 まあ、ミックスサンドでもミックスジュースでもよいが、景気がいいのは株屋と輸出屋だけで、株もなければ売るものもないこちとらには、な~んの関係もない。
 円安で海外旅行にも行けない。そのうちに円高になって旅行代金が安くなったころは、こちとらはヨイヨイになっていて、行きたくとも行けない。

 このところ大陸や半島あたりの国との関係で変なことが起きるたびに、それみろ、だから軍備拡大だ、軍隊派遣だ、憲法改定だとかって、政界も世論も安倍流に下司に盛り上がるのも支持率アップになってるんだろうが、それってかなり気味が悪い。
 

2013/02/11

719TV嫌いネット好きなわたしは浮世離れしすぎた年寄りだろうか

 NHKの研究所が毎年やっている調査らしいが、TVの見方について結果を発表している。
 世の年寄りはどう回答したのか興味あって、その中の一部をここに引用する。
 「あなたが欠かせないメディアは何か」という問いへの回答である。
まず、わたしの属する階層の「男70歳以上」では、どんな回答かしら?
 あれまあ、70パーセントもがTVを見なくちゃいられないよって、そんな回答をしている、驚いたなあ、ほんとかよ~?
 そしてまた、ウェブサイトはゼロであるらしいのには、もっと驚いたのである、まさか~?

 こうなるとTV嫌いでほとんど見ないし、ウェブサイトにかなりハマッているわたしは、つまり要するに、あまりに浮世離れしているってことになるのか。驚くこっちがおかしいのであったか。

 そういえば、FACEBAKAに書き込むのは、どいつもこいつも年下のやつらばかりかりだなあ、こちとらイイトシして恥ずかしいなあ、、。
 こりゃ、どうすればヒトナミの老後を過ごせるのかしらと、考え込んでしまうよなあ。
 せめて紙の新聞でも読んで、年寄仲間に入れてもらうしかないのか。
 でもなあ、ウェブサイトいじりは、庭いじりよりもボケ防止になると思うよ。
 そのうち老人ホームに入ったら、ウェブサイトいじりしようにも、そんな設備ありませんて言われそうだな、う~む、もっとボケが進むぞ。

 では若い奴ら「男16~29歳」の回答を見ようか。
 ウェブサイトが31パーセントで年代別ではいちばん多いが、意外に少ない感もある。
 驚くのは、たった2パーセントしか新聞に関心を示さないことである。これからは新聞は生き残れないのだろうなあ、だからせっせと電子新聞に切り替えろって宣伝してるんだな。でもそれって自分で自分の首絞めてるような。

 全体を俯瞰すると、活字メディアの新聞が、年齢とともに関心度が上がるのに対して、意外なのは本・雑誌・マンガが年代による大差がなくて、しかも少ないことである。
 男も女も50歳代になるとTV大好きになるようだ。これって、TVが普及進行する時代の世代であるような気がする。そこから下は普及しつくして、あるのが当たり前時代の世代だろう。

 ウェブサイトは、ただいま普及進行時代だから、このあとTVと同じような足跡をたどるのだろうか。
 今とは違うメディアが登場して、ウェブサイトを駆逐するとしたら、それはなにだろうか見当もつかない。
 まあ、かつてのTVもインタネットも今日ほどになるとは見当つかなかったのだから、わたしごときでは考え付かないのは当たり前だ。
 それに、そんなものが出てきたころは、こちとらはとっくにこの世に関係ないんだな、、、知ったことか、、。