2013/08/21

822切符を買って電車に乗る貧乏人を差別するなんて、、

近頃、電車に乗るのに、切符を買う人をどんどん差別して、邪魔しているような気がする。切符じゃなくてプリペイドカードを買わせる作戦が進んでいる。

 第1に、切符売り場の位置を、改札口から遠いところに配置するようになってきた。
 第2に、改札機械の切符用がどんどん減って、カード用ばかり増えてきている。
 第3に、実は気が付いたのが今日なのだが(だからこれを書いているのだ)、改札機械に「きっぷ投入口」と書いてあるのだ。

 あんな紙切れをあんな狭いところに投げて入れるなんて、そんな難しいことは年寄りにはできっこない。
 挿入ならできるんだけどなあ、投入せよなんて、切符買うあたしへのイヤガラセに違いない。
 これからは駅員に見えないように不正挿入するしかないなあ。

 わたしは乗り物プリペイドカードを絶対に買わないのだ。。鉄道屋は先払いさせた金の運用でウハウハにちがいない。乗車賃をど~んと先払いさせておいて、利息をぜんぜんつけないなんて、貧乏人を馬鹿にしている。貧乏人はそのド~ンとした一時先払い金を払えないのである。

2013/08/16

821【東京熱中徘徊】靖国神社は日の丸小僧・軍隊コスプレおやじ・歴史教科書おばさんなど右傾き風景

 いわゆる記念日にはほぼ無関心だが、毎年、8月15日だけは特別な気になり、ここにもなにかを書く。核毒が降る一昨年はこんなことを書いた。http://datey.blogspot.jp/2011/08/474.html

 今年はあまりに暑い日々で出歩く気もしないのだが、それでは身体老化が進むと、熱風の中を東京徘徊に出かけた。われながら物好きである。
  それというのも、今朝起きてヒョイと気が付いたら8月15日なのである。そうかあの日か、じゃあ、靖国神社に行ってみよう、用はないけど健康のためと、好奇心の故である。

 地下鉄九段下駅から地上に出ると陽は中天にあり、熱気にまといつかれる。九段坂の木陰を選びながら登れば、おお、おなじみ右翼街宣車の騒々しい絶叫である。
  鳥居をくぐる。ものすごい人でだろうと予想していたが、それほどでもない。実は8月15日に来るのは初めてではない。2005年にも来ている
 

  では本日の靖国神社のガイドツアーを始めましょう。
 軍服コスプレおじさん、日の丸若者、歴史教科書おばさん、いかついセキュリティポリスなどにいろどられながら、戦争を知らない若い世代がまるで初詣ならぬ夏詣でのごとくに、長い行列を作って手を合わせる夏の日のどこか不思議な風景を、とくとご覧ください。
 
関連:2010年の8月17日にはこんなことを書いていた

 

2013/08/14

820【怪しいハイテク】今や世界企業のグーグルがこういう言葉をつかって恥ずかしくないのか

 このブログの駄文を見てくださる人は、特定のファンのようなお方だけらしい。日々のカウンターに表示されるわずかな数字が、それを示している。
 であればこそ、いつもご覧いただく方々には、衷心より感謝を申し上げます。
ところが最近とつぜん、毎日のカウンターがそれまでの2~3倍くらいに増えた。
 え、どうして?、喜んでアクセス分析のページを開けてみると、そんな昔の記事を今ごろなんで読むんだよ、と思うようなアクセスが増えていることもあって、なんだか変なのである。
 コメントに広告スパムが入ってくることも多くなった。カウンタはスパムがきても記事閲覧と勘定するのだろう。

 分析ページにトラフィックなる欄があり、どのURLからアクセスしてきたか、多い順にわかる。そのトップにvampirestat.comとでている。
 数日前までは、わたしの「まちもり通信」サイトからのアクセスが一番だったのに、なんだよ、これは。
 そのvampireをクリックして見たら、なんだかわけのわからないページが出てきて、こりゃ危なそうだと、すぐに引き返した。引き返してももう手遅れかもしれない。

 そこで貧者の百科事典検索したら、分った。こいつは、そうやってクリックさせて、危ないなにかをこちらに送り込み、フィッシングなどやったり、スパムをいっぱい送り込むらしい。そういう奴がネットのなかにいっぱい巣食っているそうだ。

 で、これが危ない奴かどうか診断するサイトがグーグルにあって、さっそく診断した。
 その診断結果の主文がこれである。
「このサイトで過去 90 日間に Google がテストした 7 ページのうち 0 ページで、ユーザーの同意なしに不正なソフトウェアがダウンロードされ、インストールされていたことが判明しました。」
 ざっと読んだはじめは、こりゃタイヘンとおもったが、読み直してホッとした。

 まったくもう、機械につくらせる悪文の見本である。0ページの時は、見つからなかったという別の文章にする簡単な技術さえもグーグルにはないらしい。
 今や世界企業のグーグルが、こういう言葉を使って、恥ずかしくないのか。せめて「ダイジョブ、わるいことみつからなかったあるよ」とかいったらどうだ。


2013/08/13

819【横浜ご近所探検】横浜・吉田町で炎天下の道路ビアホールってやっぱり暑くて退散

 今年の夏は特に暑いのだろうか。まあ、暑くない夏が来るようでは地球がおかしいか、暑くてよいのだ。
 街の中は熱を蓄積して発散する塊ばかりだから、天からも地からもビルからも熱戦が突き刺さる。
 そんな炎天下のアスファルトの道の上で、露天ビヤホールをやっているのが、横浜・吉田町である。
 防火建築帯の街がどう生き返っているかと、野次馬で見に行ってみたが、やっぱりこんな暑いところで飲むのはごめんである。早々に逃げ出した。

 ふらふらと日ノ出町に来れば、日ノ出町の駅前再開発が、ついに着工。吉田町とおなじの防火建築帯などの中層低層建物群は撤去されて、再開発ビルの工事中である。
 まだ地上に姿を現さないが、いずれこの交差点の正面に、超高層共同住宅ビルが姿を現せば、この街の雰囲気も変わるだろうか。
  
 日ノ出町交差点のそばでは、ストリップ劇場「浜劇」は今日も興行中である。
 見れば、その隣に大きな建設工事中、劇場増築か、、、なになに、おお、マンション、いや、マンションてのは大邸宅のことだから、これは単なる共同住宅ビルである。
    野毛山公園のすぐ下だし、交通は便利なのに、どうも街のイメージがちょっと低くて、開発の動きが少なかった日ノ出町界隈だが、駅前再開発によるポテンシャルが顕在化して、この共同住宅ビルを誘発したか。
 まあ、場所を案内するときに、ストリップ劇場の隣です、と言えば、分りやすいよなあ。
 

2013/08/10

818東京青山のJIA建築家会館で8月22日(木)午後3時から建築家山口文象について講演します

この8月22日(木)午後3時から東京青山のJIA建築家会館で、
建築家・山口文象のことを逓信建築に絡めて話する機会をいただきました。
スコラセミナー主宰の郵政建築出身の建築家・野崎英彦様からのお誘いです。
超高層下駄ばき姿となった東京中央郵便局KITTEのデザインも話題にします。

この猛暑の中の夏休み中にもかかわらず、
お出かけいただき話を聞いてくださいというのも、
まことに申し訳けなくて気がとがめますが、
ご都合つくならばおいでくだるとありがたく存じます。

――――――――案内状――――――――

「第16回スコラセミナー」を下記のごとく開催致します。

どなたでも、ご参加くださいませ。
事前申し込みの必要はありませんので、会場に直接おいでください。

■日時:2013年8月22日(木)15:00~18:00(講演、意見交換、懇親会)

■場所:日本建築家協会 JIA会館 1階建築家倶楽部会議室(案内図を参照)
  (社)日本建築家協会・関東甲信越支部
   〒150-0001 渋谷区神宮前2-3-18  
   TEL: 03-3408-8291  FAX: 03-3408-8294

■講演(15:00~16:30) テーマ「建築家 山口文象 人と作品」
・山口文象とはなにものか
・山口文象が語った逓信建築における山田守と岩本録
・東京中央郵便局をめぐる山口文象の言説及び近代建築保存の諸問題

■講師:伊達美徳(山口文象ストーカー、アーバンプランナー)
「建築家山口文象+初期RIA 」https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
「まちもり通信」https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
「伊達の眼鏡」http://datey.blogspot.com/

■質疑応答、意見交換、懇親会(16:30~18:00)
  講演会場にて、暑気払いの飲み物をいただきながら、気軽にやりましょう。

■参加費:1500円
  当日会場でいただきます。資料代、お茶代、懇親会飲み物代等ですが、懇親会参加・不参加とも同額です。

 
■お問合せ先 
  野崎英彦(事務局代表)mobil:080-5380-3800 
       Email:nova_einozaki@mac.com

●もっと詳しくは下記ご案内をご覧くださいませ。
http://goo.gl/r6ddCB
 出てきたら左上の下向き矢印をクリックして取り込んでください。

■建築家会館 会場案内(右図参照)
―――――――――――――――――――――――――



2013/08/07

817【貧乏避暑術】日本は超特大借金国と知って貧乏人は心底から涼しくなり猛暑をしのぐのだ

 ええ~っ、日本政府って、よその国の政府と比べて、こんなにも大借金を抱えてるのかよ~!!??(参照:今朝の新聞に載っている各国借金比べグラフ)

  わたしは政治にも経済にもオンチだから、どうしてこうなったの分らないが、あのごたごたギリシャよりも借金が多いのかよ~。
 分るのは、こんなに借金しても、どんどん金を使っているらしいことだ。まだまだ借金が積みあがっているのかしら。

 あのねえ~、日銀にじゃんじゃん札束を印刷させて市場に流しこみ、国土強靭化とか震災復興とかで使いきれないほどの予算をつけてるんだけど、それって手持ちのおカネなの? それともそれも借金なの?
 その一方で福祉政策の予算は削減するって、みみっちいのはどういうことなの?

 とにかく、こうやってよその国と比較して、大大大借金してるってことは、日本にはなにか打ち出の小槌があって、将来のある日ひょいと借金返済ができるんだろうなあ。

 わたしはどうせもうすぐボケてしまうし(すでにそうかな)、あの世に行くのも遠くないから知ったことではないが、これから生き続けるお方は、どうなんですか?

 あ、そうか、いいのですよね、それで、だって、そういう政府をつくる政党を、つい先日の選挙で大勝させたのが、投票に行かれた「国民の皆様」ですもんね。わたしゃ投票ボイコット組でしたがね。
 こちとら根が貧乏人だから、借金の文字を見るだけで心底から涼しくなる性分は夏向きで、それはそれで今日のところは助かっているのである。

2013/08/06

816【横浜ご近所探検】都会のセミはコンクリートの液を吸って生きていくのか

 くもり空で涼風がはいる真夏の昼寝、その耳のそばから「ジージージー」なるアブラゼミの声が聞こえる。
 ここは7階の空中陋屋、セミなどいる筈がないと起き上がりバルコニーを見れば、天井に張り付いた一匹、けなげに鳴き続ける。風に乗ってやってきたか。
 樹木にはりついてこそ樹液を吸って生るのだろうに、都会のセミはこんな無機質なコンクリ板にも樹液を求めるのか。

 
 ここで昔の思い出になるのが歳よりの常、わたしの生家は神社の森の中にあった。初夏から初秋まで、いろいろなセミが順番に登場して鳴き続けていた。
 それはもう、蝉時雨どころか蝉梅雨のごとくに降りしきり、森の空気をも染めてしまう。生れてからずっとその中で育った私は平気だったが、訪れる友人たちはそのうるささに閉口した。
 降りしきる蝉の声の涼風の森、縁台の上で昼寝をする夏休み、遠くなりすぎた少年の日々。

 
 鎌倉の緑の森の中から横浜都心のビルの森へ、地べたの小屋から空中の陋屋に越して11年目、バルコニーからの眺めは緩やかに変化していく。
 遠景の山手の丘の緑の柔らかな稜線が、少しづつ建物の固い線に変わっていく。
 中景にあったビル屋上の真っ赤な日産自動車の広告がまことに目障りであったが、去年それがビルごと消えたので喜んでいた。
 その消えた期間も短く、今やそのあとに高層共同住宅ビルが建ちあがりつつある。こいつがどこまで上に伸びるのやら。完成したらまた日産自動車が、真っ赤な広告塔をその上に載せるのだろうか。
2003年

2013年1月

2013年8月
近景の駐車場に高層ビルが建たないことを願う日々である。

(追記 2016/08/07)   2016年8月


2013/08/04

815【東京開発徘徊】品川の森の中で絶滅危機種族スー族たちの聖なる儀式の場を発見

 横浜を出て東京に行くことも少なくなった。久しぶりに品川駅に東口に下りた。
 元国鉄操車場跡地のビル群とその間の緑の広場が迎えてくれる。
 ここの樹木はずいぶん育ったなあ、でも、樹木の配置があまりに規則的で、高木のみの単純植物相であり、土がほとんど見えないタイル貼りの床であるので、なんとも不自然なる風景である。
 まあ、名前がセントラルガーデンだから、自然の森ではなくて人口の庭のつくりであるのは当然か。

 なんとなく足元が寒いような、、セントラルガーデン風景

 3階レベルの回廊を歩きつつ見下ろすと、暑い夏の日の木立の陰にも人影はほとんどない。
 ところが、緑の木々の間に柵の囲いがあり、囲いの中だけえらく混んでいる。中に男どもが集まって所在無げに立っている様子、なんだろうかと目を凝らすと、なんと、タバコ喫煙所であった。
 そうか、今や絶滅危機に瀕しているスー族たちが、あちこちから三々五々に集まって来て、持ち寄った小さな白い紙に巻いた草の束に火をつけて、静かにその煙を吸い合って生き延びようとする聖なる儀式を行っているのであるか。儀式は炎天下でも行われるのだ。
 なるほど、現代の森には、そういう聖なる文化装置もいるのだなあ。
 少ないが女もいる。あれは男女共用でよいのかしら。煙で燻される樹木は大丈夫かしら。

 絶滅危機種族スー族が生き延びるための聖なる儀式を進めている

 ここのあたり風景は、この20年ほどで極端に変わった。
 四半世紀ほど前、ここの近くにわたしの勤め先があった。その頃は品川駅の改札口は、駅の西側にしかなかった。東側に行くには、いったん西口改札を出て、地下道を通っていく。
 品川駅には、京浜急行、山手、京浜東北、東海道、横須賀などの各線が乗り入れているから列車ホームの数が多い。地下道はそれを横切るのだから、たぶん100m以上あっただろう。狭くて天井が低く、途中で曲がる、コンクリートの四角な筒だった。

 駅の東には東京都中央卸売市場食肉市場(牛のと場)と東京新聞社があるくらいで、こちら側に通勤する人は少なかった。
 
 わたしの勤め先は東京駅の北隣の大手町にあったが、80年代の初めの品川駅の東に建った新築ビルに引っ越してきた。それは、このあたりの工場や倉庫街の再開発の仕事にとりかかっていたことと、その後のこちら側の発展を見越したからだった。
 この駅裏の工場・倉庫街にも、次第に共同住宅ビルやオフィスビルが建ってきたのは、やがてやってきたバブル景気のせいであっただろう。
 次第に東へ向かう通勤者が多くなってきた。地下トンネルの幅は5mくらいだったろうか、朝の通勤ラッシュ時には、通路いっぱいの人でノロノロ歩行となった。

 1984年、旧国鉄操車場跡地が不動産市場に売られたことで、巨大開発が始まった。
 そこは現在、品川インターシティと品川グランドコモンズという名前の高層事務所や住宅のビル群と樹木が茂る広場となっている。新橋の旧汐留操車場跡シオサイトの品川版である。
 当然のとことに、その開発に絡めてインフラ整備もされて、今は新幹線さえ停まるようになったのだから、狭い地下道の代わりに駅の上空に広い東西デッキがかかり、駅改札もそのデッキに出るようになった。東側にも大きな駅前広場ができた。
 品川駅の風景は一変した。もっとも、駅と、駅東の風景は一変したが、旧来のに西側の風景はあまり変わらない。

 わたしは90年からフリーランスになって、この駅から通勤することをやめた。時どき東口にその後の変化を観察に行っていた。みるみる変わる風景は、ダイナミックであった。
 工場に働く人たちがメインのお客だった駅裏の汚い飲み屋街は、堂々たる駅前飲み屋商店街となった。
 食肉市場は、建物をかなり建替えたらしく、なんだかこぎれいに見える。昔は工場の雰囲気で、牛の運搬車から獣の臭いとともにモーッと鳴き声が聞こえ、時には危機を察した牛が逃げ出す騒ぎがあり、肉の切れ端を盗もうとするカラスが何羽も上空を舞い、裏の門扉の間から覗くと大きな牛の脚の肉がぶら下がるのが見えて、それらは独特の面白い風景だった。

 操車場跡地だけでなく、工場や倉庫の跡地にオフィスビルや共同住宅ビルが高く立ち上がる。それはもう、東京のありふれた都市開発風景になってしまって、かつての駅裏らしい独特の産業衰退の侘しさと、転換しようとする活気とが交差する風景は消えた。

1984年の品川駅とその東側空撮(国土地理院)
 
 1997年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発開始(google earth)

 2010年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発後(google earth)
 
 

2013/07/28

814【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・7】我善坊谷の未来を勝手に想像する

【麻布我善坊谷・1】http://datey.blogspot.jp/2013/07/806.html
【麻布我善坊谷・2】http://datey.blogspot.jp/2013/07/807.html
【麻布我善坊谷・3】http://datey.blogspot.jp/2013/07/809.html
【麻布我善坊谷・4】http://datey.blogspot.jp/2013/07/810.html
【麻布我善坊谷・5】http://datey.blogspot.jp/2013/07/812.html
【麻布我善坊谷・6】http://datey.blogspot.jp/2013/07/813.html


7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 我善坊谷の北の丘上の六本木から赤坂にかけては、巨大開発でどんどんと地形も風景も変化が激しい。しかも、東京都心に近いほうからだんだんと南に開発が進んで来る。その最前線の真正面にあるのが、今や我善坊谷である。

 いったいどうなるのだろうか、都市計画はどうなっているんだろうかと、ネットをうろうろと徘徊して探す。現場がどうなのか全く知らない。インタネットだけが頼りである。

 というか、よほど面白いことでもないと(永井荷風の女のような)、それ以上の努力はしないのである。
 港区の公式サイトに、2012年策定の「六本木・虎ノ門地区まちづくりガイドライン」なる計画が乗っていて、ここに我善坊谷も含まれているので、これがまずは基本であろうと読んでみた。

  と言っても、こういう類のものは、わたしも作った経験があるから知っているが、初めのほうのあれこれと書いているお題目はどうでもよくて(よくはないのだが、面白くない)ので、我善坊谷あたりの図を拾うことにした。
 まず、この六本木・虎ノ門あたりの開発状況図である。

 まったくすごいものである。このうちどれが森蛭森虎兄弟の事業かわからないが、半分以上はそうだろう。
 この図の南のほうの「虎ノ門・麻布台地区」のピンクゾーンの開発検討地区が、我善坊谷である。
 これで見ると谷の西のほうは除外されていることがわかる。東のほうは桜田通りまで入れているのに、この除外にはどんな事情があるのだろうか。

 ====この続きと全文はこちらあるいはこちらからどうぞ====
 これまで麻布我善坊谷の連載をして来たが、一段落して一部追加訂正もして再編集、「我善坊谷今昔未来譚」と改題して「まちもり通信」2013年8月号「まちもり瓢論」として掲載した。

【東京路地徘徊】
麻布我善坊谷風景今昔未来譚

<徘徊人> まちもり散人

全目次
麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)
1.徘徊老人が“発見”した東京の谷底街
2.我善坊谷底の落合坂を西から東へ歩く


麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その2)
3.我善坊谷の北側の風景を鑑賞しながら行く
4.我善坊谷の南側の風景を鑑賞しながら行く

麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その3)
5.我善坊の谷底と丘上の昔
6.我善坊谷の住人たち
 
 ◆麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その4)
7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 

2013/07/26

813【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・6】我善坊谷の住人たちー永井荷風を手玉に取った女

麻布我善坊谷・5】のつづき

6、我善坊谷の住人たち-永井荷風を手玉に取った女

 江戸時代は下級武士の住まいと分かったが、特定の人名までは分からない。もしかしたらなにかの捕り物の時代小説に、ここの街と人が登場しているかもしれないが、わたしは知らない。
 昭和のはじめ、我善坊谷の東の端に住んでいた、ひとりの女のことがわかる。あのスケベで徘徊好きな小説家の永井荷風(1879-1959年)が身受けして囲った、若い芸者上がりの女である。
 前に谷の上と下とは交わらないと書いたが、もう80年ほども前のことだが、この谷間の街と丘の上の街とを、ちょっとだけ交わらせたのが荷風散人であった。

 永井荷風は1920年5月から1945年3月の空襲まで、北の台地の西のほうの麻布市兵衛町に、「偏奇館」と名付けた家を建て住んでいた。偏奇のいわれは、木造洋風下見板の洋館風の建物で、外壁がペンキ塗りだったことによるという。
 1927年、丘の下の我善坊町を東に抜けたところある西久保八幡神社のふもとの裏路地に小さな家を借りて別宅を持った。「壺中庵」と名付けて、身請けした芸者だった女を囲って、本宅とここを頻繁に行き来していた。荷風48歳、女は22歳であった。

 荷風は30歳代に2度の結婚と離婚をしたあとは身を固めるのをやめたから、今風でいうところの不倫相手ではない。愛人というところか。「独り我善坊の細道づたい」(『断腸亭日乗』1927/10/21)に通う、平安時代の貴族の男のようであった。
 「此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る」(『断腸亭日乗』1927/11/08)

 荷風は有名小説家だし、女遊びも盛んで、硬軟いろいろな来客が本宅にやってくる。会いたくない人がくると裏から逃げ出して、丘から下って別宅に隠れた。
 多分、我善坊坂をトコトコ下ったのだろう。別宅は憩いの隠れ家であり執筆の場でもある。そこからまた女を連れて繁華街に遊びに出るのであった。

 もっとも、4か月ほどで女が店を持ちたいというので、三番町にあった待合を買って経営させるようになったので、壺中庵は引き払って荷風も我善坊谷には用が無くなった。

偏奇館と壺中庵の位置

旧偏奇館近くにある集合住宅ビル前にある銘板

   ここで話がちょっと逸れる。
 玄人女性遍歴の多い荷風だったが、この26歳も違う女とはうまくいっていて、死に水を取ってもらおうかと思っていたほどだが、4年あまりで突然に奇妙な別れ方をする。
 ある日のこと、壺中庵を訪ねた荷風とともに遊びに出ようと女が、タクシーで気絶して、病院に運んでしばらく入院したのである。ところが医者は不治の精神障害だと診断し、戻った女の日常挙動もおかしいので、荷風は仕方なく別れたのである。

 別れるにあたって、荷風は未練がましい思いを何度も綴っている。金銭的なごたごたもあったらしいが、とにかくきれいさっぱりと別れた。
 荷風はこの女のほかにも玄人女たちとごたごたしているが、別れるときはいつもお抱え弁護士を間に入れて処理している。親の遺産の利子で暮らしている金持ちなのに、いや、だからこそか、金銭にはきちんとしたひとだったらしい。

 これで我善坊谷あたりと荷風の物語は終わるのだが、面白い後日譚があるので書く。
 それから半世紀あまり後の1959年、雑誌「婦人公論」にこんなインタビュー記事が載った。語るのは関根歌、つまり荷風が別れたその人である。わたしは物好きにも県立図書館にこれを読みに行った。 
 「……。そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。……私が気ちがいになってしまったと先生はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです」(関根歌『婦人公論』昭和34年7月号「日陰の女の五年間」)
 女が書いている「そんなこと」とは、荷風の女癖の悪さとか性的変態趣味のことである。本当の理由はともかく、別れたくなって仮病を使って荷風をだまして、別れに持ち込んで成功したというのである。

 ところが、まだ続きがある。
 わたしの本棚に『荷風全集第20巻』(岩波書店、1972年)「断腸亭日乗2」があり、上記の事件がこの巻に当たるので取り出したら、「月報」がはさまっていて、その記事に「丁字の花」という一文があり、筆者は関根歌とある。
 昔を思い出して懐かしがっているし、戦後にも荷風に会ったと書いている。そしてここにも別れた事情を書いている。
 「あの日記に書かれていることは、わたしが知っている限りみんな本当のことだと思いますが、ただひとつ、わたしにとって心外なのは、わたくしを気狂い扱いにしている件りです。産婦人科のお医者様の診断を鵜呑みにされていたことを知って、戦後お目にかかりました時に、その旨お恨み申しましたら、「どんな立派なお医者さんにも誤診はあるよ。それより今元気なのが何よりです」と言って、笑われました」

 ここで彼女が言うには、精神障害だったとは医者の誤診であり(仮病ならばそのとおりだが)、気を失ったのは、その日に大森に遊び(浮気をほのめかしている)に行って昼酒を飲んで帰ってきて、荷風にばれないように息をつめているうちに、酔いが回りすぎて倒れたのが発端だったという。
 仮病ではないというのだ。まあ、どちらにしても女が別れたくなってひと芝居を打ったらしい。女は本当に医者に誤診させるほどの名演技だったのか、あるいは医者とグルであったのか。

 荷風が本当に医者の誤診を信じたのかどうか、待合の女将になってカネのかかるようになった女と縁を切る仕掛けだったのかどうか、荷風日記に書いている愁嘆の言は本当なのかどうか。
 遊び人文士と芸者上がり女との男女虚虚実実の、まさに『腕くらべ』(1916~17年作)であったのかもしれないと、下世話などうでもよいことだが気になる。

 永井荷風のゴシップ話が長くなったが、我善坊の谷底街には、二人の文士が居たことがわかっている。岩野泡鳴(1873-1920年)と正宗白鳥(1879-1962年)である。
 わたしはこの二人の名前くらいは知っているし、うちの本棚の文学全集のなかにもあるのだが、全く読んだことがないので、ネットにひっかかったことだけ書いておく。

 白鳥と泡鳴とは同時代で文壇での親交があり、共に自然主義文学の系譜であった。永井荷風は文壇嫌いだったから、二人とはどうだったのだろうか。
 岩野泡鳴は、1916年(37歳)から1920年(41歳)まで麻布我善坊町10番地に住んだ。父親が取得した下宿屋兼住まいを相続したのであった。ただし、彼の書いた自伝的私小説を読むと、その期間中にどれくらい住んだのか分らない。無頼の文士は、何やらごたごたした家庭であったらしいが、その間に精力的に創作活動をしている。

 正宗白鳥は1916年から麻布我善坊町10番に住んだとあるが(『時事新報』大正5年9月8日号「文芸情報」)(注)、これは泡鳴と同じ番地である。泡鳴の下宿屋だったのだろうか。
 白鳥がいつまで我善坊に住んでいたかは、調べがついていないのだが、「我善坊より」、「我善坊にて」という作品がある。
 泡鳴と白鳥の我善坊における暮らしについて知るには、二人の作品を読まなければなるまいが、そこまでやるのはめんどくさい。
(注):この件は下記ネットページに記載がある孫引きである
http://libopa.fukuoka-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10780/416/1/uryu_41_1.pdf

つづく。再開発後の未来を想像する)

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伊達美徳=まちもり散人
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