元国鉄操車場跡地のビル群とその間の緑の広場が迎えてくれる。
ここの樹木はずいぶん育ったなあ、でも、樹木の配置があまりに規則的で、高木のみの単純植物相であり、土がほとんど見えないタイル貼りの床であるので、なんとも不自然なる風景である。
まあ、名前がセントラルガーデンだから、自然の森ではなくて人口の庭のつくりであるのは当然か。
なんとなく足元が寒いような、、セントラルガーデン風景
3階レベルの回廊を歩きつつ見下ろすと、暑い夏の日の木立の陰にも人影はほとんどない。
ところが、緑の木々の間に柵の囲いがあり、囲いの中だけえらく混んでいる。中に男どもが集まって所在無げに立っている様子、なんだろうかと目を凝らすと、なんと、タバコ喫煙所であった。
そうか、今や絶滅危機に瀕しているスー族たちが、あちこちから三々五々に集まって来て、持ち寄った小さな白い紙に巻いた草の束に火をつけて、静かにその煙を吸い合って生き延びようとする聖なる儀式を行っているのであるか。儀式は炎天下でも行われるのだ。
なるほど、現代の森には、そういう聖なる文化装置もいるのだなあ。
少ないが女もいる。あれは男女共用でよいのかしら。煙で燻される樹木は大丈夫かしら。
絶滅危機種族スー族が生き延びるための聖なる儀式を進めている
ここのあたり風景は、この20年ほどで極端に変わった。
四半世紀ほど前、ここの近くにわたしの勤め先があった。その頃は品川駅の改札口は、駅の西側にしかなかった。東側に行くには、いったん西口改札を出て、地下道を通っていく。
品川駅には、京浜急行、山手、京浜東北、東海道、横須賀などの各線が乗り入れているから列車ホームの数が多い。地下道はそれを横切るのだから、たぶん100m以上あっただろう。狭くて天井が低く、途中で曲がる、コンクリートの四角な筒だった。
駅の東には東京都中央卸売市場食肉市場(牛のと場)と東京新聞社があるくらいで、こちら側に通勤する人は少なかった。
わたしの勤め先は東京駅の北隣の大手町にあったが、80年代の初めの品川駅の東に建った新築ビルに引っ越してきた。それは、このあたりの工場や倉庫街の再開発の仕事にとりかかっていたことと、その後のこちら側の発展を見越したからだった。
この駅裏の工場・倉庫街にも、次第に共同住宅ビルやオフィスビルが建ってきたのは、やがてやってきたバブル景気のせいであっただろう。
次第に東へ向かう通勤者が多くなってきた。地下トンネルの幅は5mくらいだったろうか、朝の通勤ラッシュ時には、通路いっぱいの人でノロノロ歩行となった。
1984年、旧国鉄操車場跡地が不動産市場に売られたことで、巨大開発が始まった。
そこは現在、品川インターシティと品川グランドコモンズという名前の高層事務所や住宅のビル群と樹木が茂る広場となっている。新橋の旧汐留操車場跡シオサイトの品川版である。
当然のとことに、その開発に絡めてインフラ整備もされて、今は新幹線さえ停まるようになったのだから、狭い地下道の代わりに駅の上空に広い東西デッキがかかり、駅改札もそのデッキに出るようになった。東側にも大きな駅前広場ができた。
品川駅の風景は一変した。もっとも、駅と、駅東の風景は一変したが、旧来のに西側の風景はあまり変わらない。
わたしは90年からフリーランスになって、この駅から通勤することをやめた。時どき東口にその後の変化を観察に行っていた。みるみる変わる風景は、ダイナミックであった。
工場に働く人たちがメインのお客だった駅裏の汚い飲み屋街は、堂々たる駅前飲み屋商店街となった。
食肉市場は、建物をかなり建替えたらしく、なんだかこぎれいに見える。昔は工場の雰囲気で、牛の運搬車から獣の臭いとともにモーッと鳴き声が聞こえ、時には危機を察した牛が逃げ出す騒ぎがあり、肉の切れ端を盗もうとするカラスが何羽も上空を舞い、裏の門扉の間から覗くと大きな牛の脚の肉がぶら下がるのが見えて、それらは独特の面白い風景だった。
操車場跡地だけでなく、工場や倉庫の跡地にオフィスビルや共同住宅ビルが高く立ち上がる。それはもう、東京のありふれた都市開発風景になってしまって、かつての駅裏らしい独特の産業衰退の侘しさと、転換しようとする活気とが交差する風景は消えた。
1984年の品川駅とその東側空撮(国土地理院)
1997年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発開始(google earth)
2010年の品川駅東の旧国鉄操車場跡地開発後(google earth)
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