2017/01/10

1245【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側の駅ビルとその南北のビル群はこの30年で大変化

東京駅周辺徘徊その3】からつづく

 東京駅の駅舎と言えば、つい丸の内側の赤レンガキンキラ駅舎のことばかりになるが、八重洲側にも出入り口があるし、もちろん駅舎もある。
 八重洲口は1929年に開業した。丸の内側の駅舎と違って、こちらの駅舎は何回も変転があって、戦後になってもずいぶん姿が変った。
 ここでは1987年にわたしが撮った八重洲側の写真がいくつかあるので、それと現在とを比較してみよう。

 まずは八重洲側の駅前にある八重洲通りから見る、1987年の東京駅の八重洲側駅舎である。鉄道会館と言い、大丸デパートが入っていた。
 

 これが最初に建ったのは1954年で、そのときは6階建てであった。この写真で見るのは、1968年に12階建てに増築したのちの姿である。
 八重洲通りの正面に、黒い壁のように立ちふさがっていた。反対側の丸の内側から見ると、増築までは6階建てだから、赤レンガ駅舎の上には見えなかったのだが、増築後は赤レンガ駅舎の上に横長に見えてスカイラインをみだしていいた。
 
 上と同じ八重洲通から見る東京駅の2016年の姿である。

 この鉄道会館が消えたのは正確にはいつか忘れたが、ある日、真っ黒だったビルが真っ白のビルになっていて驚いたことがある。取り壊し工事のための囲い壁が白色だったのだ。その白ビルがだんだんと低くなっていって、鉄道会館が無くなった。

 いまでは八重洲駅舎は3階建てになり、グランルーフと名付けられているのは、その上にテントのようなものが張りだしていてそれが大(グラン)屋根(ルーフ)なんだろうか。低くなった分の容積率はグラントウキョウノースタワーにでも移転したのだろう。

 その向こうには建て直して高くなった丸ビルと新丸ビルが見える。 
 八重洲通りの両側の姿は、30年前とほとんど変わっていない。でも、近ごろこのあたりを再開発して、超高層ビルに建て替える計画案が、事業者から発表さているから、10年後には大きく変わっているだろう。

 次は、その鉄道会館の屋上から見る、1987年の八重洲通りの姿である。
 

 次は上と同じ位置からの2015年の姿である。しかし、写真を撮ろうにも鉄道会館が消えたので、これはグーグルアースのお世話になって似たようなアングルを探したものである。
 左右ともほとんど変わっていないことが分る。しかしそれも5年ほどのことだろう。

次も同じく鉄道会館屋上から見る、1987年の八重洲通りである。

上と同じアングルで、グーグルアースによる2015年の八重洲通りである。近いうちに大きく変わりそうである。

 次は八重洲側の八重洲ブックセンターから外堀通りを北に眺める1987年の東京駅八重洲口駅前広場と鉄道会館である。
 鉄道会館の向こうに国際観光会館と鉄鋼ビルが見える。これらはいずれも1950年代早々に整備されて、東京駅の八重洲側をかたちづくったのだった。

 上と同じアングルで、八重洲ブックセンターから北に眺める2016年の風景である。この30年で大きく変わったことが分る。

 八重洲駅前広場と八重洲駅舎、その右向こうに大丸デパートが移転したグラントウキョウノースタワー(八重洲観光会館の跡)である。左端にグラントウキョウサウスタワーが見える。
 これらは丸の内駅舎の一部容積移転も受けて、2007年に建った。右端に見えるのは、再開発されて超高層になった鉄鋼ビル。

 次は上とは逆に、外堀通りを北の呉服橋交差点から南へ見通した1987年の写真である。右に鉄鋼ビル、左に龍名館が見える。

  上と同じ位置から2016年の写真。右の鉄鋼会館が建替えられ、その向こうの国際観光会館も建て替わった。
 左の外堀通りの東側は、手前の太陽神戸銀行と龍名館が建て替わっているが、その先はほとんど変化が見えない。

面白いのは、東京駅の街区は大変化なのに、外堀通りから東の八重洲2丁目の裏路地あたりの街の、あまりにも変化のないことである。同じ東京駅周辺でも、こちらと丸の内側とのギャップの大きさが興味深い。
 1970年頃から10数年、大手町の勤め先からここに昼飯や夜呑みでやってきていたものだった。何本もの細い路地に小さな飲み屋が立ち並ぶ、なんとも懐かしい昔の風景が今もある。

つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2017/01/05

1244【東京駅周辺徘徊その3】駅前の行幸道路でやんごとなきお方が眺める景観変化この90年と未来景観戯造お遊び

東京駅周辺徘徊その2】からの続き

八五郎:ご隠居、明けましておめでとうございます。
ご隠居:おや、八ツアン、いらっしゃい。はい、おめでとうさん、今年もよろしくお願いしますよ。
:正月早々から、ネット遊びですかい。日本橋の景観戯造なんて、、。
:はは、ヒマだからね、正月は、いやまあ、1年中ヒマだけどね。
:で、つぎはどんな戯造です?
:いや、偽造の前に去年やった東京駅の話の続きをしようかね。こんどは丸の内の駅前道路、通称・行幸道路の景観ね、これが今の姿だよ。
丸の内行幸道路の東京駅方向を見る風景 2016年12月

:ああ、東京駅と皇居前広場を結ぶ広い道路ですね。何で行幸道路なんだろ、天皇だけが通る道ってこともないだろうに。
:うん、もしかしたら自動車に乗って真ん中を通ることができるのは、天皇だけかもしれないね。とすればこれは、やんごとなきお方が眺める風景だ。
:こんなに左右の高いところから見下ろされると、やんごとなきお方だって鬱陶しいかもなあ。

昔の風景はどうだったんでしょうねえ。
:はいよ、これが1928年の写真だよ。関東大震災の5年後だけど、ここはあまり被害はなかったね。東京駅は1914年にできている。右の手前のは1918年にできた日本郵船ビル、そのむこうに少し見えるのは1923年にできた丸ビル、左に見えるのは1918年の東京海上ビルだよ。
:ほう、スッキリですねえ、えらく空が広いや。まんなかの東京駅は今と変わらないけど、左右のビルはずいぶん違いますねえ。総じてバランスがいいなあ。今の風景はビルがこけてくるような、。あ、そうだ、右が丸ビルなら左には新丸ビルがあるんでしょ。
:いや、海上ビルの向こうの新丸ビルは、このときはまだできていないから空き地だよ。

:このあとの大変化が、1945年の大空襲ですね。
:そうだね、東京駅は焼けて屋根が無くなったけど、丸ビルなどのコンクリビルは大丈夫だったんだね。戦後の変化は、1952年に新丸ビルができたのが第1号だな。
:新丸ビルは丸ビルと同じ高さでしたね。
:そう、1963年までは法律で高さ100尺つまり31mまでしか建てられなかったんだな。そのあとがずいぶん変わってきた。これが1987年にわたしが撮った写真だよ。
:どこもかしこも変わっちまって、変わらないところを探すほうが早いや。まず真正面の東京駅は変りませんね。
:いや、中央部分は変わらないけど、その左右の高さが3階建てが2階建てになっているよ。
:あ、そうだ戦後に戦災の傷跡を修復をしたのでしたね。それと東京駅の後に高いビルがありますよ。
:それは八重洲口の大丸百貨店だよ、1968年に12階建てにしたので、丸の内側からそれが見えるようになったんだな。

:右向うの丸ビルも替わりませんね。並木に隠れて見えないけど、左向うには新丸ビルがあるはずでね。
:そうだね、丸ビルと新丸ビルはまだ変わらない。ここでの大変化は、左の東京海上ビルが1974年に25階建てに、右の郵船ビルが1978年に15階建てに、どちらも建て替わったことだな。
:ほう、左右アンバランスですねえ、こういう時にどうせ建替えるなら、右と左をそろえた高さにすれば、門のようになって格好良かったのにねえ。

:そうだね、まあ揃えればいいというもんでもないけど、都市の景観デザインを考えて建て替えたのかという問題提起だね。
:そう、その問題提起ってヤツですよ、エヘン。
:この東京海上ビルを建てる前に、その景観について世の中に論争が起きたんだよ。あんまり髙すぎる、いや、現代都市は超高層ビルであるべきだとかって、1966年から10年くらい続いたな。
丸の内景観論争って、有名人とか不動産屋とか建築家とか政治家とか登場したんでしょ。
:そうだったね、そのころ日本でも超高層ビルを建てられるように法律が変り、技術も進歩したんだね。建築家も建設業界も、超高層ビルを建てたくてしょうがないんだな。
:そこで丸の内で超高層ビルを建てるって計画が出てきて、世間がビックリしたんですね。

:それまではビルと言えば高さが31m、例外的に45mまで建って、丸の内では街並みの高さがそろっていたんだな。それがこれを機会に崩れて凸凹の風景になるのはケシカランてね。
:それだけじゃないでしょ、皇居を見下ろすのが不敬にあたるって、そんな意識も根強かったとかでしょ。
:もしかしたら反対論の根にはそれが深かったのかもしれないねえ。まあ、なんにしても海上ビルが超高層で建ってしまったら、あとは一瀉千里、今のように超高層だらけになったな。
:じゃあ、あの景観論争って、いったいなんだったんですかねえ。
:そうだねえ、なんだったんだろうねえ。その後に景観が法律に登場するまでには四半世紀以上もかかってるんだもんなあ。
:ずいぶん長くかかってますねえ、丸の内景観論争は狭い範囲の騒ぎだったんですね。

:さて次の写真は、その景観法ができた2004年に撮ったよ。
:あっ、右の丸ビルが超高層ビルに建て替わりましたね。
:そうだよ、2002年に37階、179mに建て替えたな。景観論争であれこれあって、100mで手をうった筈なのにねえ。

:次は2007年の写真だよ。さて、どこが変ったかな。
:ほほう、左の新丸ビルが超高層に建て替わり、東京駅左上にも超高層建築が建ちましたね。
:新丸ビルが建て替わったのは2007年、高さ176m、38階だよ。左向うは八重洲側に建つグラントウキョウノースタワーってんだな、ここに大丸デパートが引っ越した。
:あそうだ、新丸ビルとグランノースは、東京駅上空の空気を買ってノッポになったのでしたね。
:そう、容積率移転と言ってね。その東京駅は、この年からしばらく増築とお化粧工事の板塀に囲われて姿を消すんだよ。

:さてその次は去年2016年の12月だよ。さあ、どこが変ったか分るかな。
:うーむ、そのグランナントカってってやつの下の方が、右に伸びてきてるなあ、ほかはあるかなあ。
:あるんだよ、東京駅だよ。
:東京駅の後ろの大丸がなくなった。あっそうだ、2007年から東京駅の増築とお化粧工事で、2011年に戦前の姿が現れたんだ、でも、これみてもあまり変わらないような。
:そうだね、中央のドームは変わらないけど、よく見ると尖塔がついてるし、3階ができてるよ。

:ここまできましたけど、まだまだ変わるんでしょ、八重洲側で大きな開発計画があるとか。
:そうだね、その開発事業者が発表してる絵をもとにして、2023年の風景はこうなるらしいと戯造してみたよ。東京駅の上も賑やかだねえ。

:でもねえ、ご隠居、その先があるでしょ、なんだか止めどもなく開発するようですよ、だからあっしがこんなの未来戯造しましたよ。
:おうおう、八重洲が超賑やかなばかりか、丸の内の東京海上ビルも日本郵船ビルも建替えて丸ビル並にノッポにするかい、スゴイすごい。
:隣が超髙くなったんだから、こちらが25階とか15階じゃあ損だ、建て替えようってどっちも思うでしょ。

:よし、それならわたしも、例の丹下案をはめ込んで未来偽造だ、どうだい。どこが変ったかわかるかい。
:うわっ、八重洲側目隠しビルですねえ、え、郵船ビルもレンガ色ですかあ、うーむ。
:これを上と比べると、なんだか妙に整いすぎて見える、ちょっとつまんない感じもあるよね。
:そうですね、模型を見てるようで、左右がそろえばいいってもんでもないか、アレッ、東京駅ビルの中間に穴を開けて風が抜けるようになってますね、ワハハ。(続く


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/02

1243謹賀新年2017年新春のお遊びは東京は日本橋の景観戯造

謹賀新年
2017年元旦

本年も「伊達の眼鏡」ブログのご愛読をお願い申し上げます。

新春のお遊びとしてお笑い戯造景観遊びでお楽しみください。

東京の日本橋は、川の上に橋が架かり、
その橋の上にまた橋が架かる2重橋です。
川の上の橋は19世紀の終わりごろ、
橋の上の橋は20世紀の半ば過ぎにできました。
今では後からの橋の上の橋がでしゃばっていて、
元祖日本橋が日陰の身になっています。

そこで橋の上の橋、つまり首都高速道路高架橋を取り除いて、
昔々のような日本橋の景観に戻そうとの構想は、
もう何十年も言われていますが、いまだに2重橋のままです。

そこで新春のお遊びとして、
わたしが橋の上の橋を取り除いてみました。
いかがですか。


でもねえ、取り除いてもたいした景観が現れるのでもないですねえ。
そこでちょっと考えました。
取り除くとしてもせっかく作った橋の上の橋だって、
それなりに歴史的な時間を経た建造物として人々の景観記憶にあるので、
その一部を記念として日本橋の横に保存した景観もつくりました。
いかが?

◆◆

ところで実は、わたしは同じことを2005年にもやっていたのです。
それが下の画像ですが、上と比べてたいして変っていませんが、
よく見ると超高層ビルが完成したり工事中だったりいくつかあり、
今後はかなり替わるようですね。
また10年後につくるかなあ、まだわたしが生きていたらね。


なお、景観戯造遊びは、ここにたくさんあります。

まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2016/12/27

1242【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランドになっちゃった東京駅丸の内駅舎の歴史についてご隠居と八五郎の10年ぶりの長屋談義

東京駅周辺徘徊その1】からの続き

八五郎:ご隠居、元気ですかい。
隠居:おや、八ッぁんかい、ひさしぶりだね。うん、元気だよ、口だけは。
:先日ね、10年ぶりに東京駅のあたりをぶらぶらしてきましたよ。いやもう超高層ビルがびっしりで、あたまのうえあたりが鬱陶しいったらないね。あんなにビル建てる場所ありましたっけ。
:いやいや、建ち並んでた高層ビルを、もっと高く太く次から次へと建てなおしてきてるんだな。
:壊す費用だって莫大だろうに、それでも儲かるんですね。でも東京駅だけは低いままに建て直してましたよ。
:あれは建て直したのじゃなくて、戦後修復した建物に3階部分を増築して、ついでにお化粧直ししたんだよ。いわば再修復だけどね。
:そういえば、そのことで10年前にご隠居と長屋談議をやったことがありましたね。どうせならもっと高く建て直しゃよかったのに、なんでです?
:うん、まあ、昔の形に戻してみたかったんだな、その化粧代金が500億円かかったけど、もっと髙く建てられる権利、つまり頭の上の空気を売って調達したんだね。
:すごいねえ、ホントに空気を金にするんだもんねえ、人間はキツネやタヌキ以上ですね。
◆このあたりの詳しい談議はコチラ
 
:ちょっと東京駅の歴史を振り返ってみようかね。これが1914年にできたときの写真だよ。
:そうそう、10年前の姿から今はこの姿に戻ってましたよ。赤くてキンキラで派手なもんで、ナントカランドみたい。1914年にこれを見た日本人は、そのキンキラキンの西洋建築に圧倒されたでしょうねえ。
:その頃の日本は、日清、日露、日独って10年ごとの戦争に勝ち続けて、先進の西欧列強に並ぶ帝国になる背伸びを始めた発展途上国だったからね、このような成り上がり的建築にあこがれたんだよ。

:でも、次のアメリカとの戦争では負けちまって、東京駅は敵からの空爆で燃えてしまったのでしたね。
:そう、1945年5月のこと、屋根は燃え落ち、内装は全焼、でも煉瓦壁やコンクリ床は燃え残った。
:創建から31年目ですよねえ、もったいない、でもまあ、東京中が燃えたんだからしょうがないや。

1945年3月10日の東京大空襲で炎上し屋根がなくなり壁だけになった東京駅

:そこでね、燃え残った煉瓦壁や床を再利用して応急修復したんだよ。それができたのが1947年のことだった。
:その戦後修復東京駅が2007年まで見えていた姿だったのですね。
:そうだよ、それが60年間もあった。創建時の姿は31年間だから、戦後修復の姿の方が2倍くらい長くあったんだね。
:戦後応急修復建築にしては、エラク立派なものでしたねえ、今の姿からキンキラキンを取り除くとあの姿でしたねえ。
:そうだね、あの金も物資もない時に、機能的には要らないものなのに燃えた3つのあのデカいドーム屋根まで作り直したんだからねえ、よくまああそこまで立派に修復したもんだよ。
:かんがえようによっては、あのままでこそ重要文化財級でしたね、対清露独戦勝+対米敗戦記念碑だったんですものねえ。


:それが1970年代の終わりころから、国鉄は赤レンガ駅舎を高層ビルに建て直したいといいだし、歴史文化好きの市民たちは保存しろとか、建築史関係者は辰野金吾の設計だから復元しろとか、あれこれ騒がれてきたんだね。
:どこかの市長が、壊すならうち市のの公園に移築してひきとる、なんて言いましたね。
80年代半ばの世の中のバブル景気と国鉄民有化政策も絡んで、いろいろあったけど結局は「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告東京駅専門有識者委員会が「現地で形態保全とし、政府もそう決めたんだな。そのときに空中権の移転も示唆されているよ。
それで今のようにキンキラキンの昔の姿に戻すことに決めたんですか。今や時代は右寄り、なんだか復古調の世の中ですからね。
いや、専門家の委員会では、復元せよとは言っていないよ。わたしは戦後修復の姿で保存するべきと思っていたけど、その後に復元する方向になったらしいね。
:そう、建築の世界じゃあ、古い姿ほど価値があるって思い込みがあるでしょ。わたしたちの時代の歴史的意義が深い戦後修復よりも、1914年の姿が価値があると思うらしいですよ。
:でも、復元たって実は半分上は2012年にコピーして作った新しいものなんだな、へんだよね。やっぱりナントカランドが好きなだけなんだろ。
:じゃあ、三菱1号館美術館と大差ないですか。
まあ、これらキンキラ出現もまたひとつの歴史ではあるけどな。ただねえ、あの戦後修復の姿は、日本の愚行と不幸を今に眼に見えて伝える戦争と復興の記念碑だった、それが消えて惜しいことをしたよ、国鉄建築家の伊藤滋の修復デザインとしても秀逸だったしねえ
2012年にキンキラキン化粧の1914年の姿に戻った現代の東京駅

:ところが、そのナントカランドキンキラ新東京駅もまわりから攻められてますよ。前後左右からガラス箱大入道集団に襲われているみたいですよ。
:そのガラス張り超高層は、東京駅空気を売った先のビルなんだな、だからあんなにもデカいんだな。
:そうか、お化粧代として空気を売ったら、お返しとして日陰になった、あ、そうか、身を売って日陰者になっちゃった。
東京駅が上空の空気を売った先の6つのデカビル

:身を売った先ばかりじゃなくて、これからどんどん大入道が建ち並ぶらしいよ。これは八重洲側の開発について最近その事業者が発表した絵だよ。
:おやおや、乱杭歯のように立ち並ぶねえ。

:さてさて、この先どうなるのだろうねえ。
:ちょっとそれを描いてみましたよ。どうですかい、もちろん、いい加減な推測戯画ですよ。
:うわっ、どうせならこんな乱杭歯じゃなくて、金屏風を立てたように都市デザインすればいいのにねえ、キンキラ新東京駅がもっとキンキラキンになるようにね。

:あ、そうだ、こんなのもありますよ。ほれ、30年ほども昔々に建築家の丹下健三からの提案があったでしょ、辰野金吾デザインをそのまま高さ100mにするって、それを絵にしてみたんですよ、
:うわ、すごいねえ、あ、そうそう、わたしは丹下事務所でその模型を見たことがあるよ、ほう、これなら東京駅自体が金屏風、いや赤屏風になるんだな、わはは、う~む。

つづく


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2016/12/24

1241【東京駅周辺徘徊その1】東京の丸の内と大手町は今やデブデカ超高層ビル群おしくら饅頭なんとも鬱陶しい景観

派手に着飾った東京駅はいまや八重洲側の開発で背景もこんなに賑わってきた
まだ歯抜け背景だけど続く開発でこれから乱杭歯が建ちならぶので乞うご期待

 久しぶりに東京駅下車、1985年頃から毎年2回くらいは定点観測し続けてきたのだが、さすがにもう飽きた。
1960年代末から80年代半ばまで、東京駅北口にある事務所に通勤していたので、八重洲・丸の内・大手町の30年前の姿が脳裏に刻まれている。
 特に、1980年代半ばに政府の仕事で東京駅周辺再開発計画を担当したので、表面的なことばかりではなく、ある程度は深く知ることもあった。
 その後も、このあたりが中高層ビルから超高層ビルへと、都市景観が変化しつづけるのを観察するのが面白かった。

さて、久しぶりの丸の内・大手町は、建築群がここもそこもかしこも高く髙く太く太く大きく大きくと、一途に増殖し肥満し続けているのであった。すごいのだが、どこか狂気のごとくも見える。
 昔の超高層建築は細くて高くて孤立していたから、すらっとして格好が良かったのだが、今どきの超高層建築はデブデカ肥満児というか巨体に成長して、しかも群れているのである。
 それらデブデカ建築群がおしくら饅頭でひしめきつつ、道の両側からてんでにワラワラと覆いかぶさってくるのは、なんとも鬱陶しいものである。

 建築を作品として鑑賞する気にならないのは、鑑賞するような建築がないのか、それともこれほど立ち並ぶとよほど奇抜なデザインでないと見るべき建築にはならないのだろうか。例えば三菱一号館美術館のようにクラシックコピー建築にするとか。
 摩天楼の街のニューヨークやシカゴのような建築的面白さが、丸の内と大手町にはないのだ。

 1988年であったか、丸の内の大地主の三菱地所が、いわゆる「三菱丸の内マンハッタン計画」なるものを発表して、超高層の墓場のような将来像が不評を買ったことがある。
 そしてそれから30年ほどの今の丸の内・大手町は、中高層ビル群は次から次へとガラスの石塔群に建て替えられて、超高層ビルが雨後の竹の子のごとくたちならんでいる。あまつさえ超高層ビルを壊して超高層ビルに建て替えることさえやっている。
1988年丸の内三菱マンハッタン計画の丸の内俯瞰図

2015年 上の絵とほぼ同じ視覚の丸の内俯瞰画像(google earth)

 マンハッタン計画が発表されたころは、バブル景気初期の頃で、東京のオフィス需要がものすごくなる、それに対応しようとてあれこれあったものだ。
 この計画への世の批判は、その墓場の如き漫画的お絵かきもあったが、基本は丸の内・大手町の都市計画としてその大規模な集中に対応できるのか、そしてまた東京一極集中を助長して国土計画として適切か等であった。

 わたしがこの絵を見て思ったことは、1966年から1年ほど起きた景観論争のことである。超高層の東京海上ビル計画が発表されて、高いビルは皇居を見下ろすのでケシカラン、いや高いビルこそ先進国であるとか、反対賛成の論争である。
 建築家たちは賛成、知識人は反対という構図であった。その頃に誰もが思った基本的な疑問は、超高層建築群がつくりりだす都市景観は、はたして美しいものとなりうるか、という思いだった。

 このとき反対の企業側の急先鋒は三菱地所であった。三菱の反対論の底には、19世紀からえんえんと築き上げてきた丸の内の不動産価値の大きな変動への不安であったのだろう。
 世間も業界もすったもんだ、総理大臣まで介入、行政不服審査にもなり、あれこれの末に、では高さ100mまでにしましょうよと、とくに根拠もない業界手打ち、以後しばらく100m丸の内だった。
 それが三菱丸の内マンハッタン計画は高さ200m提案であるから、20年後の大変節にわたしは笑ってしまった。(美観論争についてはこちらを参照

 その後、バブルパンクとか平成大不況とかリーマンショックとかいろいろあったが、いま見る状況はマンハッタン計画はとにもかくにも実現しそうというか、既に実現してしまったという姿である。
 それはもう底が抜け落ちたというか、天井が破壊しつくされたというか、。
 では、あの頃の批判とか問題をすべて乗り越えることが、東京都心も日本もできたということなのだろうか。う~む、とてもそうとは思えないのだが、。

 そんな摩天楼景観をきょろきょろ見上げて眼も首も疲れるが、ふと、昔ながらの8階建て程度のビルを見つけると、おお健在かと懐かしく見つめるのだった。
三菱地所が「ビルヂング」と命名していた頃の、そんなビルがまだいくつかある。たぶん、建て直しを待っているのだろう。
右端は丸の内超高層第1号の東京海上ビルだが周りが高くなって埋没、
中央の銀行協会ビルは建替えた超高層ビルをまた壊して超高層建替え中

アートで暑苦しさをなんとかするか

こんな笑える自然の広場もある

巨大開発中工事場にとり囲まれてポカッと空いた将門塚は
今どきでも祟りがあるとて誰も地上げしない真空エリア

将門塚を取り囲むこの開発は祟りがあるかもなあ
建築主、設計者、施工者そして入居者のみなさまお大事に

あそこに見える8階建て「ビルヂング」は今や貴重な「低層」建築

そのひとつに「日本ビルジング」があったが、ここの中にあった事務所に通勤してたのだ。
 いま、その前を通れば工事用の囲いがビル全体を覆っていて、解体中であった。こんどは跡地に日本でいちばん高いビルを建てるとか。
日本一床面積が広かった日本ビルも解体中、跡には日本一高いビルができるとか

いまから30年ほど昔だが、東京駅周辺再開発計画の仕事がらみで、このあたりの写真をたくさん撮ったことがある。そのほかにも画像を数多く収集しており、今はそれらがPCの中にある。久しぶりにそれらを取りだして、今の姿、将来を並べてみよう。
 30年前はビルに入って外を撮影するのは難しくなかったが、いまではシャットアウトばかり、しょうがないから、俯瞰写真の一部はgoogle earthのお世話になって比較する。

1987年 東京駅八重洲口大丸屋上から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元前、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄本社いずれも建て替え前

2017年 東京駅八重洲口の建替え後の大丸12階便所から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元後、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄いずれも建替え後


1987年 八重洲口大丸屋上から北西方面俯瞰
駅前広場の北にある国鉄本社ビルがまだ健在

2015年 上とほぼ同じ俯瞰(google earth)
左は建替後の新丸ビル、中央に国鉄本社建替後のオアゾ

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)






2016/12/19

1240【父の十五年戦争】戦中の海外日本植民地にあった神社を研究すると意外に深く苦い歴史が露呈してくる

 わたしの生家は備中の高梁盆地にある神社である。父が宮司をしていた。わたしが後を継がなかったからか今は宮司不在だが、神社は今もある。
高梁盆地にある御前神社 写真:川上正夫 2015年

 父は1931年から日本の15年戦争中に3回も兵役につき、3回とも無傷で戻ってきた。最後に帰還した日は1945年8月31日であった。
 2度目の中国北部では通信兵の本務の傍ら、本職を生かして所属する軍隊での諸神事を司った。兵役に出る前に軍から指示があり、あらかじめ装束を持参して入営したそうだ。
中国の敦河で日本が作った神社(父のアルバムより)
流造らしい本殿が見える

中国の保定で日本が作った神社(父のアルバムより)
既存の廟建築に和風の向拜を付加したように見える

●戦争と神社

 わたしは父の遺品のなかに、彼の兵役中の記録を見つけた。それを『父の15年戦争』という戦中の家族の記録として本にまとめ、兄弟や親せきに配布し、全文を「まちもり通信」サイトに掲載している。
 この中の中国戦線での軍隊神事関係の記録を読んだお方二人から、去年と今年に問合せのメールをいただいた。どちらも戦場や植民地での神社や神道についての研究者である。

 そのような研究が今では行われているのかと初めて知り、若干の感慨をもってその方たちに父が遺したメモや写真のコピーを提供した。
 これまでにもわたしのサイトを見て、論文を書く学生や院生から都市や建築のわたしの仕事や歴史的研究についての問い合わせはあったが、異分野の研究者からとは珍しい。
 その研究者のひとり、中山郁さんはわたしの父の軍隊での祭祀行動を知りたいとのことだった。陸軍における戦場慰霊と「英霊」観』を書かれ、そこに父のことも一部引用してある。それを掲載した論文集『昭和前期の神道と社会』(2016年、坂本是丸編、弘文堂)をいただいた。
 
 またもうひとりの研究者の中島三千男さんは、日本の植民地にあった神社が、今はその跡地がどのようになっているか研究中とて、父の記録の中に出てくる中国での神社について知りたいとのことであった。
 中島さんから著書『海外神社の跡地の景観変容』(2013年、お茶の水書房)といくつかの論文集をいただいた。
 それらを読んで「海外神社」なるものにがぜん興味がわいて、中に紹介されている参考文献の『海外神社史上巻』(小笠原省三)、『植民地神社と帝国日本』(2005年、青井哲人、吉川弘文館)など何冊か読んだ。

海外神社とは、要するに外国において形成した日本人コロニーに、日本人がつくった神社のことである。
 とはいっても海外日本人コロニーは、現存するブラジルの日本人社会もあれば、現存しないがいまだに戦争後遺症をひく朝鮮半島や中国東北部の植民地もあり、その研究は意外に複雑多様なものらしい。
 沖縄もそれに含めるとさらに複雑になり、まことに興味深いものがある。

 かつての日本植民地における神社については、戦争と神道、植民地支配と神道、植民地都市計画の神社立地など、なかなか刺激的なテーマである。
 植民地と言っても、台湾、朝鮮、樺太、満州あるいは南洋諸島があり、そこでの神社のあり方も多様であるが、いずれにしても日本の敗戦でほとんど消え去ったということが、その意味をいちばん物語っている。
 特に朝鮮では日鮮一体化・皇民化政策に神社が使われたので、日本人コミュニティのシンボルの神社跡地は、憎しみのメタファーの危険性をさえはらんでいる。
 海外神社とはかなり特殊な時空に起きた現象かと思ったら、実は深刻な歴史をえぐりだす普遍の種らしい。

●海外神社研究
 
 中嶋三千男さんから案内状をいただき、神奈川大学での「海外神社研究会」なる会合にヤジウマ一般参加してきた(2016年12月17日、神奈川大学)。なかなかに刺激的な報告が続いて、実に興味深く聞いたのであった。
 太平洋戦争で日本軍が占領して悲惨な戦場となったフィリピンで、消え去った神社を探索した調査報告(稲宮康人氏)では、マニラ、ダバオ、バギオで4つの神社跡地を確認したが、今回はとにかく場所の確認作業だったようだ。
 面白かったのは、どこの神社跡地でも一部に土を掘り返した跡があり、聞けばそれは伝説の山下将軍財宝探しの山師たちの仕業で、今でも日本関係跡地を探しまわっているらしい。

 旧満州開拓団神社跡地の調査報告(津田良樹氏)は、加藤完治たちが送りこんだ数多くの満州開拓団コロニーは消え去っても、その共同体のシンボルとして開拓民たちが自ら作った神社の跡地について探索している。
 それはまるで時間をさかのぼるタイムマシーン秘境探検隊であり、いくつも特定に成功した努力に敬服する。
 だが津田さんは「今も重い気持ちが抜け去らない」という。ソ満国境に近くの入植地では敗戦時戦乱による開拓団民多数遭難死の悲劇があり、その一方で土地侵略者開拓団への中国側の今も続く憎悪があり、それに向きあわざるを得ない現地調査には辛いものがあったようだ。
 満州・朝鮮という日本植民地の神社跡地探索が小さな傷痕かとおもえば、実は後遺症を大きくえぐりだすかもしれないという、歴史の重さが研究者にのしかかっている。

 「植民地期満州における日本の宗教」と題するフランス人研究者(エドワール・レリソン氏)の発表も面白かった。
 宗教的人物からキメラ満州という特殊にして特定の時空を追うとして、明治天皇、松山珵三、水野久直、乃木希典、加藤完治、溥儀、新田石太郎、出口王仁三郎をとりあげて、ドクター論文を執筆中だそうである。この顔ぶれを論文にまとめるとは、すごいとしか言いようがない。
 わたしたち日本人は、満州に対しては日本特有の目(それをどういうか難しいが)を持っているような気がするのだが、それをひきずらない外国人には新鮮な何かがありそうだ。どう展開するのか興味がある。

 琉球・沖縄の神社に関する報告(後多田 敦氏)の報告も、実に興味深いものがあった。聞いてみると本土から進出した日本の神社は、沖縄ではまことにマイナーな位置であるようだ。
 琉球王国に於いて確立していた祭祀制度に対して、薩摩侵略、琉球処分、アメリカ占領というそれぞれの大政治的変革がどう影響を及ぼし、あるいは及ぼしえなかったか、社会史として面白い。

 沖縄では戦前戦中とも、日本国政府が台湾や朝鮮でしたようには、神道を押し付けえなかったそうだ。
 琉球時代からの聞得大君を頂点とするノロたちがよる女性祭祀システム地域にしっかりと根を張っており、彼女たちが拠るウタキの神社化を画策しても成功しなかったらしい。
 琉球王国を舞台の小説「テンペスト」(池上栄一)を、学問的方向からあらためて思い出した。沖縄と神道の関係は、近代日本植民地でのそれとは明らかに異なるフェーズであり、これも興味ある研究テーマのようである。

 私事である「父の十五年戦争」は、戦争という大きな公事に取り込まれた私事であるとは思っていたが、この様な回路の端っこに組み込まれているとは思わなかった。
 海外神社研究が、これからどう展開するのか楽しみである。わたしの関心は、朝鮮と沖縄のそれである。

●参照外部サイト:海外神社(跡地)データベース 
http://www.himoji.jp/database/db04/index.html

●参照まちもり通信サイト:父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html