民俗学者の山口弥一郎が書いた『津波と村』(三弥井書店、1943年発行の復刻版)を読んだ。
1895年、1933年の3陸津波の村を1940年前後に三陸海岸を足で歩いて、その復興と復旧の姿を、地区のレベルと家族のレベルでトレースしている。
そして1960年のチリ津波についての新聞寄稿文も、復興版には採録している。
その結果として、わかっていながら2回も被災するはなぜか、検証している。
今も被災各地で高台移転や、現地嵩上げ、高い防波堤などが住民たちと行政そしてコンサルタントや学者たちの間で、多くの検討がされているようだ。
だが、117年前も79年前も同じようなことを考え、同じような事業をして、人々は次は被災しないようにと、新たな地へと住まいを移したのだ。
だが、それでも次の津波では被災してしまう。それはせっかく移転した先から、元の被災した場所に戻ってしまうからである。
被災経験のない新入り住民が、被災した空き地になっている海べりの地に家を建てて、漁業をやると、海べりの利で漁に有利になる。大漁を得る確率が高い。
それを見て、高台移転した罹災経験者も、そんな不公平なことに耐えられなくなって、次第に海べりに戻ってくる。
そして忘れた頃に津波がやってきて、またご破算となる。
民俗学者の調査らしい面白いことも書いてある。
ある高台の集落には、昔からの伝説があり、あるときやってきた役の行者が、この集落の者が他に移転すると、かならず集落が災厄に見舞われるといった。
その集落はそのタブーに縛られていたために、津波被災者は出なかった、というのだ。
人は今日の利便のために、何かを得て何かを捨てていくのだが、それを封じるのは宗教的タブーしかないのだろうか。
人もまさに海辺の生き物だ。今日を食って生きないと、明日の暮らしがないのは、生き物だからだ。
それを乗り越えるには、人間だから可能な文化的なタブーということになるのだろう。
現代ではどのようなタブーをもって人々を災害から救うのか。
この本には1895年と1933年の三陸大津波の前後の、いくつかの集落再構築の図が載っている。大移転、大防波堤など、いつもものすごいことを人間はやるものだ。
でも、それらと今回の被災状況を示すgoogle earthの衛星写真と見比べる(ここでは吉里吉里を例として掲載した)と、いずれの集落再構築もほぼ役に立たなかったほどに、今回の津波は巨大であったことがわかる。
海辺の民は、今日の暮らしのために海辺に生きる。やってきた津波から明日も生きのびたいならば、「てんでんこに」いちもくさんに逃げる、それしかないようだ。
この本を読んで、海辺に暮らしたことのないわたしは、つくづくそう思ったのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿