2016/10/31

1228【怪しいハイテク】6年間使ったプリンタ・スキャナが危篤だが代替機種がない、スライドマウントのデジタル化を急ごう

 ありゃ、プリンターがエラー表示だ。なになに、「廃インク吸収材が満杯に近づきました云々」って言っているぞ。
 あ、これって、経験があるぞ。まだちょっとは動くらしいが、満杯になると全く動かなくなる危篤状態なのだ。大変だあ~、どうしよう~。

 このプリンターは2010年6月に26800円で買ったので、それなりに高い代物である。本づくり趣味のためによく働いてくれた。
 この機種を買った一番の理由は、フィルムスキャナー機能があることだったのだ。この機能のある機種はこれしかないのだった。
 1960年代から撮りためた約15000枚ある35mmスライドマウントフィルムを、デジタルデータ化するのが、わたしの本づくり趣味の印刷と並ぶ大きな目的だったのだ。

 そして4年目の2014年6月に「廃インク吸収材」を交換せよとのエラー表示が出て、動かなくなった。これに対する修理代が11500円だった。
 それだけだすと立派な新品を買うことができるのだが、癪なので修理に出したのだ。
 その修理がまたオカシくて、1週間でまた故障、それを修理したら20日目にまた故障、まったくもって新品が買えるほどの修理代を取りながら、真面目に修理したのか、CANONは、、。

 それからまた今日まで2年余、また故障で、廃インク吸収体がドートカコートカである。この前は4年目に故障だったのに、こんどは2年かよ、オカシイなあ、印刷枚数でそうなるらしいのになあ。
 また修理するかなあと思いながら、ネット検索でキャノン修理サイトを見て分かったのは、このプリンター機種(MP990)は、「本製品は2015年9月末日をもちまして修理対応期間が終了しており、修理を承ることができません」とあるのだ。
 え~っ、もうおシャカにするしかないのかい、だって危篤というけれど、今も元気に動いてるんだよ、なんでだよ~。もったいない。
 じゃあ、なんとか自分で治そうかと、いろいろネットで調べたけど、どうも無理らしい。

 しょうがないから新品を買うかなあ。
 でも、大問題があるのだ。それはフィルムスキャン機能付き複合機は、いまや絶滅なのだそうである。
 マウントフィルムスキャン専用機をもってはいるのだが、なんとも性能が悪いので、ほこりにまみれたまま。
 外注すればやってくれるところがあるが、一枚が50~60円かかるから、とてもそんなオカネが無い。

 本づくりの印刷には大いに活躍したプリンターだが、もうひとつのフィルムスキャンのほうはめんどくさくて、少しづつ気が向いた時にやっていたので、ちっともはかどっていないのである。
 しょうがないから、廃棄する前にせっせとスキャンやっちまうことにするしかないなあ。
 印刷を続けてその機能がストップするまでは、スキャン機能は大丈夫らしい。では印刷をやめて延命しつつつ、スキャンに専念するしかない。


 この15000枚の文字通りのマウントの山を征服するには、いったいどれくらい時間がかかるものかなあ、まあ、想い出の写真を眺めつつ、手抜きしながらやるしかないか。
 ヒマに任せて自分でやるしかないが、完了したころにはわたしがボケるか死ぬかして、なんのためにデジタル化したか分らないことになりそうだなあ、トホホ、、。
 あ、いやいや、その前にスキャナーがくたばりそうだな、そうなったらキッパリあきらめがついて、かえってよろしいような、。 
 でも、まあ、ヒマツブシにやろうっと。

2016/10/29

1227めったに観ないTVで珍しく映画を観てブチブチコマギレ放映に呆れ果てやっぱりTV観るのをやめた

 めったにTV番組を見ないのに珍しくも、今日はフジTVで映画「ダ・ヴィンチ・コード」を見た。
この小説発売の時にペーパーバックで読んだのだが、どうもキリスト教のことが分らないし、特に最後のあたりはなんだか分らなかったのであった。
 だから映画だと分るだろうと期待して、TVを久しぶりに見た

 ところが、残り少ない人生をなんとまあ2時間50分も無駄にしたぞ、バカヤロー
 だってさ、一生懸命見ていると、突然に広告が挟まってくる、まったく失礼だぞ、しょうがないから他の番組をチョロッと見てまた戻ってくるのを繰り返していたが、こうもたびたびコマギレズタズタに飛ばされると、しまいにゃなにがなんだかわからなくなるんだな。

 あのおわりかたはなんだよ~、尻切れトンボってこのことだぞ。
 ペーパーバックの方がまだわかりやすかったぞ。
 こんなひどい放送のしかたでは、映画を作った人たちが大いに怒るだろうなあ、
 製作意図となんの関係ないものが間にどんどん挟まったら、製作者はたまったもんじゃないでしょ。まさか、こういう放送でいいのだってことじゃあるまいな。
 そして、わたしのようにTVを見てる人たちも、大いに怒るに違いない。いいところがくるとちょん切られて、興がそがれること著しいものがある。え、どうなんですか、みなさん、そう思うでしょ?

 何回も邪魔してきた広告なんて、わたしは全く観もしない聴きもしなかったし、たとえ見たとしてもその宣伝した製品とか企業とかを大嫌いになるだけである。
 TV広告屋って、なんだかバカのような気がする。え、あなたは、TV広告なんて観ますか?

 例えばですよ、コンサートホールでですよ、ピアノ協奏曲を演奏しているときにですよ、突然に演奏ストップ、この演奏会のスポンサーの宣伝広告が挟まる、なんてことをたびたび繰り返すなんて、あるんですかねえ。
 あるいは、長編小説の間に広告ページがどんどん挟まってるようなもんだよ、いいのかい、そんな本だったらだれも買わないでしょ。

 TVって こういうことが普通なんですか、え?、そんなことをやって平気なんですか、やる人もオカシイけれども、それを観る人もなんともヘンな人たちですねえ。
 TVってこれが普通なら、どこかちょっとアタマがオカシイような気がしますね。

 あ、いやいや、TVで宣伝広告入りの映画放送を見るには、どんなにブチブチコマ切れになっても、頭の中で連続させる再編集能力が要るんだな。わたしのようなボケ頭ではTV観る資格が無いのだな。
 やっぱりTV見るのをやめたっと。

2016/10/26

1226【法末集落の四季】大震災から12年目の山里、棚田で採れた美味い新米、美しい紅葉やがて降り積む豪雪、わたしは今や飯を味わいつつ想い出のみ


今年も美味いコシヒカリ新米が、中越の法末集落からやってきた。その日は10月22日、その次の10月23日は、12年前の2004年にその集落が大被災した中越地震だった。
 そしてまた、その前の今年の21日は、鳥取の倉吉あたりで大地震、つい先般の4月には熊本大地震、あれから5年経ってもまだまだ大変な東日本大地震、さて、この日本地震列島はどうなるのか。

 新米のが育った新潟県長岡市の法末集落の復興はおわって、いまやこの小さな集落のこれからの課題はその存続であろう。
 わたしはこの集落に2005年秋から2014年まで、延べ100日くらいは訪ねたことになるだろうか。その豪雪に驚き、その緑の景観を愛で、その人々の情に癒され、わたしが知らなかった風土に親しんだ歳月だった。
 その縁で、ずっとその集落の棚田で採れる美味いコシヒカリを、営農組合から毎年買って隔月に送ってもらっている。米をつくる村人も、それを食べるこちらも老いてきた。わたしはこれをいつまで食べ続けられるだろうか。

そこは都市から遠く離れた谷川を上り詰めた峠のあたりに、ヒョイと出現する別天地の桃源郷のような山村集落である。
 そこに行くルートはいろいろあるが、わたしのお気に入りは、小千谷駅からバスで30分ほどの小さな集落に降りて、そこから更に標高差300mほどを山道を1時間ほどかけて登って、ようやくたどり着くルートである。
 もう消える寸前の集落を通り抜け、棚田のなかの道を曲がりくねって登り、峠の陰の法末集落にようやくたどり着けば、そのたしかな立地を風土の中で明確につかむことができるのだ。好きな道だった。
 そして人間は、こんなにも奥深くにあって、まさに独立した地域でも、集まって生きることができるのだと知った。

 かつて四国の奥祖谷の有名な平家落人集落を、川に沿ってさかのぼり2日がかりで歩いて訪ねたときにそう思ったことがある。あそこも奥深い山村であった。
 この法末集落での四季を通じての長期にわたる体験で、人間が自然を飼い慣らす力量のほどを知って、なるほどそうなのかと身をもって知ったのだった。
 それにしても、雪のないところで育ったわたしには、毎年2mは当たり前、ときには4mも積もる豪雪をも、強引に飼いならそうとするしたたかな生活には、ほとほと感服するばかりである。温暖な奥祖谷とは、そこが大きく違うところだ。

わたしたちの中越復興支援グループは、ハードウェアの復旧には何の力もないから、小さなイベントのようなことを起して、集落の人たちを励ますくらいのソフトウェアでしかできない。
 いったいどれほどこの集落に役立ったのか、実はわたしには分っていない。1年ほど全戸避難していた集落の人々が戻ってきて立ち直る時に、わたしたちのような余所者がほぼ棲みついて、ウロウロすることでなにかの励ましになったのであろうか。
 
 あれから12年、法末集落は見たところは何事もななかったように、大昔からの山里の四季を繰り返しつつ、人々の暮らしが続いている。
 だが、12年という歳月は確実に人を老いさせ、住民は減ってきている。老いは集落の人々とともに、訪れつづけたわたしたちも同じである。
 わたしは熱心な支援者ではなかったが、この11年間に訪れた日数は100日くらいにはなったいるだろう。初めのころは月に3回は訪れていたが、次第に足が遠くなり、2014年に2回訪れてから、ついに昨年は1回も行かなかった。わたしも老いた。
 おもえば、わたしがこの地に眼に見えるものとして残したものは、たったひとつ、それは仲間とともにつくりあげた小さな茅葺の小屋である。これからも豪雪に耐えていつまで棚田のなかに佇んでいるだろうか。

わたしたちが法末を訪れるのを、震災復興が終わっても毎年時機に応じて続けてきたのは、集落復興から集落の継続へと視点が移ってきたからだだろう。
 典型的な限界集落の継続は、大局的には大きな社会的課題だが、暮らしの現場は日々の積み重ねである。なにができるのだろうか。
 そのひとつに支援仲間の女性たちがはじめた新しい年中行事の「お茶会」がある。キチンとお茶をたてて集落の人たちに振る舞うイベントである。
 初めた頃は正月、春、秋にやったが、そのうちに小正月の地元伝統行事「賽の神」にあわせて開くようになり、継続している。絶えようとしていた賽の神行事が復活した。

もうひとつは、仲間のひとりが集落住民となって住みついたことだ。
 復興支援仲間と集落住民の有志が出資して、彼を中心とする地元会社を設立し、高齢等で営農できなくなった住民たちの農地を引き受け、都市に米の販路を開拓し、古民家での民泊営業を目指している。これが集落継続のきめてになるかもしれない。
 他から移住してきた人、住民の次世代で戻ってきた人、古民家を改修して別荘として住む人などの、少ないながらも震災後に新たな住民もある。
 
そろそろ紅葉が美しい時を迎え、やがて雪が来る。今年は地震が多かったから、豪雪だろう。あの204年中越地震の年もそうだった。
 わたしも老いた。あの山道を1時間も登って、法末集落にたどりつく脚力はもうない。豪雪の雪の中を歩いて転ぶのが怖い。現に2014年の小正月の日、雪道で転んで捻挫して仲間に迷惑をかけた。
 わたしがもう訪ねることはないであろう法末集落、あの地震の後もしなやかに生きつづける村人たち、この間の歳月の中に静かに逝った村人たち、いっしょに訪ねた仲間たち(その中には逝った人もいる)、そして美しい四季の風景、いまはそれらの想い出にオマージュをささげよう。
 わたしと法末とのつながりは今や、地元営農組合から毎月来る米と、仲間が興した会社への出資だけとなってしまった。
 
 これまで書き連ねてきた「法末の四季物語」を、このあたりで締めくくることにする。その中の一部を、わたしが法末集落で学んだ成果として、自家製出版DTP「まちもり叢書」のなかの一巻にまとめてオマージュとした。
(まちもり叢書第17号『法末四季賦』
   ‐中越震災復興から次なる課題へ‐
 

・わたしのサイト関連ページ
●伊達の眼鏡ブログ「中越山村・法末集落の四季」
http://datey.blogspot.jp/p/2004-2005-2014623966-httpdatey.html
●まちもり通信サイト「中山間地の今とこれから」
https://matchmori.blogspot.com/p/chusankanchi.html

・外部ウェブサイト
●法末集落へようこそー法末集落の案内、歴史、名物など
https://sites.google.com/site/hossuey/
●法末天神囃子ー復興支援仲間が法末に住みついて続ける活動
http://www.hossue.jp/clubhossue.html
●越後の棚田集落/新潟県長岡市小国町法末(ほうすえ)集落
http://localnippon.muji.com/news/1391/

2016/10/22

1225【鳥取・倉吉地震】高梁盆地で少年時唯一の地震体感の恐怖記憶がよみがえってきた

 熊本のつぎは鳥取県の倉吉あたりで大地震だそうだ。昨日の新聞夕刊に何も出ていなかったのは、発生が14時過ぎだったので記事にするのが間に合わなかったのあろう。
 今朝の新聞のトップ記事だろうと思っていたら、一面にはあるけどトップではないのだった。ここが震源から遠い関東であるせいだろうか、それとも熊本と比べて被災程度が軽いからか。

 鳥取地震と言えば、2000年に大きな被害があったが、また起きた。あの辺りは地殻のひずみがたまりやすいところだそうだ。
 わたしの少年時の地震を怖いと体感した経験は、記憶にあるのはたったの1回である。
 調べてみるとそれが鳥取地震であり、1943年9月の夕刻、震度6、1083人死亡だった。

 そこから南西に100kmあまり、高梁盆地にあるわたしの生家の御前神社では、境内の森はゆさゆさと揺れ騒ぎ、社殿はみしみしと揺れ響いた。
 森の中の社務所の縁側から、恐怖をもって眺めていた大きく揺れるモミの大木の記憶は、もしかしたら社務所の揺れの視覚的な相対現象だったかもしれない。
 この地域に被害はなにもなかった(とおもう)が、少年時の唯一の地震恐怖体験を忘れない。

 他にも地震があったはずだが、高梁盆地あたりは地震が少ない地域であるらしく、地震の記憶はこれしかない。
 たしかに調べてみると、全国的にも有数の地震が少ない地域であることに気が付いて、わたしの故郷は安全なところなんだと思い込んでいた。
 しかし、どうもこのところのあちこちで地震が多く発生するのに加えて、今回は100キロほどの近くに迫ってくると、自信が無くなってきた。

 とりあえず、故郷の友人に見舞いメールを出したのだが、返事には、震度3、揺れにびっくりしたが、被災はなさそうだとの返事にホッとした。

●参照 ブログ内関連記事
大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

2016/10/20

1224【2年後にまた元号が変る】国も自治体も元号表記に固執するのをやめてくれ、また2年先に変ると混乱ばかり

 天皇が2年後には退位するらしい。となると、また2年後に新しい元号になるのかい、もう、やめてくれよ~。
天皇制には大いに疑問を持っているが、最も身近なそのひとつに役所が元号表記を押し付けることがある。
 書類の生年月日記入欄に、明治・大正・昭和・平成から選んで丸を付けるなんて、バカバカしいことをやる。わたしは無視して西暦を書く。

 役所の資料は、統計さえも元号表記だから、19世紀半ば以降は4つの元号がならぶと、このデータはいったい何年前のことか、頭がこんがらかる。
 そのくせ、19世紀前半以前の表記は西暦になるのはどういうわけか、統一性がないぞ。
 元号で書くなら、西暦併用を一切やめて、大化いらいの各元号で通したらどうかね、ますます混乱するだろうなあ。そんなに天皇制がお好きなら、いっそのこと神武紀元歴にするか。

 元号表記を見ると、しょうがないから西暦換算方法で暗算する。
 明治なら1856を、大正なら1911を、昭和なら1925を、平成なら1988をそれぞれ足すのだ。それではじめて何年前のことかわかる。
 でもなあ、歳とるとその暗算能力の減退が著しいのだが、まあ、暗算はボケ進行遅延効果があるかもしれないから、元号表記も捨てたものではない、というかなあ。

 小中高での教科書の表記はどうなんているのだろうか。日本で育つと国際感覚の乏しくなるのかもなあ、この元号のせいのような気がする。
 東京は、紀元2600年(西暦1940年)の記念行事としてオリンピックを誘致そして返上したが、外国人には記念の意味が通じないことだったろう。
 次の紀元2700年は、西暦では2040年だが、もしかしてまた記念万博とか記念オリピックとかやるって言いだすだろうか。

 ネパールで買ったルンビニシャカ遺跡解説の英語の本を読んでいて、どうも年代表記がオカシイと思ったら、あの国固有のビクラム歴(西暦+57)を使っているのだ。いわば日本の神武紀元歴である。
 わたしは西暦が優れているとはおもわないが、国際的スタンダードデファクトにほぼなっちまったから、これが良いとおもう。コンピュータが非合理的言語の英語に頼っているようなもんだ。

 それにしても、自分の身の進退を自分で決めることを、法的に禁止されている人間の一族が、この今の世の日本にいるとはねえ、そのこと自体が根本的に人倫に悖っているいるぞ。天皇制最大の疑問だな。

(追記2017年1月11日)
 最近の新聞によると、「国民生活に影響を最小限にする」とて、こんな姑息なことをやるらしい。元号使うのをやめればいいのに、まったくもって困った人たちだ。
 元号なんてものは、天皇家だけで勝手に使えばいいので、こちらに押し付けるのをやめてもらいたい。まったくもって癌号である。

2016/10/17

1223【新潟県知事選挙:核発電所慎重派当選】わたしが毎日食べている飯は柏崎核発電所から20km圏内の棚田の米で命がかかってるから新知事さんよろしくね

熊五郎 こんちわあ、ご隠居、なんだか涼しくなってきましたね。
ご隠居 おや、熊さん、いらっしゃい。あ、ちょうど昼のご飯が炊きあがったところだよ、一緒に食べよう。
 ハハ、昼飯時を狙ってきて大成功、ご隠居んちの米の飯はとても美味いんだもの。
 おお、ありがとよ、うちの米は新潟県の山奥の棚田で採れる、特別にうまいコシヒカリだからね。
 そうそう、ご隠居がいっとき米つくりに通っていた長岡の法末って集落ですよね。
 米つくりが目的で10年も通ったんじゃなくて、中越震災復興支援の手伝いに行ってたんだな。その縁でその村から直接に米を買って食べ続けているんだよ、もちろん美味いからだよ。
 新潟県と言えば、県知事選挙で原子力発電所について慎重派の人が当選しましたね。
 そうそう、核発電積極推進派の人になったら、この美味い飯を食い続けるのが難しくなると心配してたんだよ。
 え、だってあそこの発電所は海のそば、この米の村は遠くの山奥でしょ。
 それがねえ、なんと20km圏内にあるんだよ。ほら、東日本大地震で福島核毒ばらまき事件の時に、それに気がついて驚いたね。
参照
http://datey.blogspot.jp/2012/10/680.html
 エ~ッ、それじゃあ福島のようになると、避難しなきゃならないんですね。
 豪雪と共に核毒が降り積もったら、もうどうしようもないね。だからわたしは慎重派の人が当選して良かったって思ったよ。
 へえ~、こちとら関係ないと思ってたけど、この米の飯で大いに関係あるんですね。
 そう、この米に命がかかってるんだな。
 ちょっと前に鹿児島県知事選挙でも、似たようなことがありましたね。
 そうそう、慎重派新人が推進派現職を抑えて当選したね。熊本地震が県民に影響したのだろうかねえ。
 これからの核発電所設置県の知事は、どんどん慎重派になるんでしょうかねえ。
 いや、そうかなあ、今は核発電所設置自治体だけにお土産があるけど、これからは設置県県内自治体全部にお土産を出すようにしたら、コロッと推進派へ変るかもしれないよ。
 まさかねえ、やれやれ、明日の命よりも今日のカネって、やっぱり日本は貧乏なんですね。
隠 ♪米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする♪
 なんです、突然歌いだして、ビックリした。
 おや、知らないのかい、新潟民謡の三階節だよ、新知事が米山さんと言うらしいからね。いや、歌の米山は新潟県の名山なんだけどね、事態にピッタリでしょ。

2016/10/16

1222【珍しく病になり薬屋と論争】耄碌した年寄り患者には医薬分業になって負担が大きくなったと思った

 珍しく内臓の病で、排水管が錆びたらしい。医師から処方箋をもらったのが昨日、近くの調剤薬局が土日は休み、昨夜は我慢して過ごした。
 今朝早く起きて日曜日でも開いている調剤薬局をネットで探し、10時開店と同時に駆けこむ。白衣のオバサン(調剤人とでもいうのか)が、薬の説明をしてくれるのだが、これが要領を得ない。こちらは寝不足で機嫌が悪い。

「この薬をのんだら、乳製品を摂るなら2時間くらいあけてください」
「はい、でも、耄碌しているから忘れるので、紙に書いてください」
「この薬の説明の紙に書いてあります、鉄剤などにも注意、とね」
「エッ、あのね~、鉄棒をしゃぶるのと牛乳を飲むのじゃあ、天と地ほど違うでしょ」
「いや、乳製品に鉄分が入っているですよ」、
「エッ、牛乳は鉄からつくるかい?、とにかくそこに乳製品飲むな食うなと、大きく赤い字で書いておいてください、かならず忘れるからね」
「はいはい」
「今後は同じ薬を他に人にも出すなら、同じように書いた方がいいですよ。牛乳が鉄でできてるって知ってる人は、あなたくらいなもんですから」
「呑むのはお昼ごはんの後にしてください」
「あのね、わたしは11時ごろ朝昼兼用ですが、どうしましょ」
「あ、ブランチね。ではそのブランチの後でいいですよ」
「あ、もうひとつ骨の薬を呑んでますが、一緒でいいですか」
「あ、それもまずいですねえ、じゃあ、この薬は夕食の後にしましょう」
「でも、骨の薬は1週間に1回、火曜日だけですけど、」
「では火曜日だけは、この薬を夕方にしましょう」
「う~ん、火曜日に飲むのさえちょくちょく忘れるのに、さらに複雑なこととなんて、耄碌してるから、かならず間違うなあ、困ったなあ」
「じゃあ、この薬は毎日夕食後にしましょう、それなら間違わないでしょ」
「でも体調がよくないから、今すぐに呑みたい」
「ご飯食べてからにしてください」
「じゃあ、今日は例外にしてもらって、すぐにそのあたりでパンと牛乳でも買って、、、あ、いけないのか、ジュース買って公園で食べて、すぐにこれ呑みます」


 診察をうけた医院を出るときに受付で、この処方箋ではどこの薬屋でも買えるのかと聞いたら、どこでもよいと言う。
 では、うちの近くで買おうと戻って来たら、なんと4店もあるのに全部土曜休業である。そうか、近くの病院が休診だからだなと気が付いた。ということは明日の日曜日も休業か。医者と薬屋が結託して、自分の都合で営業してりうんだな。

 それなら、診察うけた医院の近くの薬局は営業していたに違いない。だが体調悪いのに引き返す気力がないし、もう5時近くだから着いたころは閉店してるだろう。
 それで、こうして次の日に、たまたま日曜も開店する店を近くで発見したから、1日遅れの服用開始になったが、これが見つからないと2日遅れになった。

 おいおい、医療業界はそれでいいだろうけど、患者業界としては断固として困るぞ。医薬分業でなければ診療日から服用できるにに分業のために遅れる、そのせいで症状悪化したら、責任をどうとってくれるのか。
 昔は医者が薬をくれたから、医院で一度に全部済んだから、こんな苦労をしなくてよかったのになあ、なんで医薬分業にしたんだよ、薬代金の外にいろいろ請求されるし(普通に営業しているのに休日割り増しもとる)、医者にもう話したのに同じことをまた聞かれてめんどくさいし、患者は負担が増えて困るだけだよ。

2016/10/12

1221【続々・法然院方丈襖絵事件】法念院方丈の建築と襖絵の成立年代の矛盾を、二つの出自が実は別々かもしれないと考え直してみたが、、

(【続・法然院襖絵事件】から続く)

●法然院方丈襖絵が狩野光信筆から孝信筆に変更

 わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構と尋ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。
 その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/

 特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財である襖絵について、「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28aki.pdf

 しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。孝信筆も京都の権威ある団体の発表だから、まさか光信を間違って孝信と書いたなんてことはあるまい。
 法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。

 そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨はこのブログに下記のように記載したとおりである。
 http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
 今回の変更は、要するに孝信作の仁和寺にある松の絵と比較して、絵の一部が酷似していたので、光信よりも孝信筆が妥当性が高いとしたらしい。
 さて、そのいただいた回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくるのである。

 わたしの疑問点は要するに、この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったので、襖絵を描くことはできない、ということである。
 では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。
 ここまでの話の詳細は、こちらを参照。
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1218.html
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
後西上皇姫宮御殿にあった頃の襖絵(推定復元)


●方丈襖絵と方丈建築は出自が別々かもしれない

 上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
 とすると光信も孝信もありえないのだが、これを、仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。

 そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、別のところで、描かれていたことになる。
 別のところとは、どこであろうか。
 法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。

 これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は伏見城の御殿(1595年)とするのである。
 その1595年の伏見城とは、秀吉が作った指月伏見城のことであろう。だが、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。
 ということは、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、更に木幡山城の廃城でまたどこかに移設され、1687年に方丈にやってきたのだろうか。

 あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされてた捲り状態で、どこかで誰かに保存されてきていたのかもしれない。
 そして、移築時あるいは移築後に、法然院に寄付され、今の襖絵のように貼り付けて仕立てたのかもしれない。
 それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。

●更なる疑問のかずかず

 このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
 姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵は、いったいどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。
 御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。

 狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。
 今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築の1687年から420年も)の伝承による画家の変更を、法然院はよく認めたものである。いや、実は法然院はその公式サイトの記述の変更がないから、認めていなのかもれない。研究者たちの間だけの変更かもしれない。
 美術骨董品として観るなら、光信も孝信も狩野派では、ほぼ同時代の有力な位置にあるから、絵の価値に大差はないのだろうか。

●狩野派系図

しかし、これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落になるのだろうか。わたしのいう時信説では、桃山時代の光信や孝信に比べると、時代が江戸時代に下がるから、骨董価値も下がるのだろうか。そうなれば法然院としては認めがたいことだろう。
 ところで、研究者たちは時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。孝信説を出すなら、時信説の合理的な否定をしてほしいものである。
 あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈建築の御所からの拝領移築に関する古文書類の研究が進んで、それによって孝信説になったのだろうか。
 
 わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、ただただ勝手に面白がっているだけである。

参照・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

2016/10/07

1220【続・法然院方丈襖絵事件】法然院の襖絵画家は狩野光信からなぜ孝信に変ったか、はたまた時信か謎は深まる

 

 このブログの1218【秋の京都文化財特別公開で、その特別公開案内サイトに、法然院の襖絵の作者が狩野孝信と書いてあるので、光信から孝信に変更になったらしいことを書いた。
 ふと思い付いて、その秋の非公開文化財特別公開事業の主催者である(財)京都文化財保存協会に、メールを出して変更になっている事情を質問してみたら、ご親切に丁寧な返事をいただいた(2016/10/05)。

 わたしから質問はこうである。

 2016年秋の非公開文化財特別公開事業の一覧の中で、法然院方丈の重要文化財襖絵の画家を「狩野孝信」と記してあります。しかし、これはこれまでは狩野光信とされていましたし、法然院のウェブサイトにもそのように載っています。
 孝信の記述は誤記でしょうか、それとも光信から孝信に変更された事情があるのでしょうか、お尋ねいたします。(以上)

 これに対して、いただいた回答の要旨を紹介する。

 法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆にとされてきていたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
 そして2015年に京都国立博物館での「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」展覧会に出展した際に、作風から孝信である可能性が高いと判断され、狩野孝信筆として展示された。
 そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、従来の光信筆から孝信筆へ変更することにして、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
 狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」の作品解説に記載がある。(以上)

 京都国立博物館での展示を機会に、専門家による鑑定が光信筆から孝信筆に変ったらしく、それは法然院も承知しているようである。
 面白いなあ、絵画専門家による鑑定で、作者が光信から孝信に今になってどうして変わったのか、新事実の出現に興味津々である。その上、わたしの56年前の説では時信である。
方丈襖絵桐図(1960年撮影:平井聖)
法然院方丈として移築前の後西院御所姫宮御殿では
Eの位置に柱が立っており、桐図の襖はEF間の1.25間幅だった

 襖絵ができてから法然院説では421年、わたしの建築考証では341年であるが、この80年の差を、科学的な分析技術で判定できる方法があるといいなあ。
とりあえず、その図録を図書館で探さねばなるまい。これはまたディレッタントヒマ老人のまことに文化的なヒマつぶしになるのである。

図録
唐人物図屏風 狩野孝信筆 2曲1隻 1613 仁和寺

2016/10/06

1219【くたばれ乗用車】そこのけそこのけお車様だぞ、目が悪い奴は気をつけろ~、なんて威張る自動車屋はくたばれ~

 今朝の新聞に、電気自動車に人間に近づいたら、「おい、そこの歩いてるやつ、注意せ~よっ」って警告音を出すように、義務付けするってニュースが乗っている。
 「ドケ、ドケ~、轢かれてもしらねーぞッ」っと怒鳴るのを、義務付けるのだそうである。なんというバカなことをさせるんだよ、根本が間違ってるぞ。

 歩行者のすぐ脇を電気自動車がいきなり脇を通過するとアブナイのだそうだ。
 あのなあ、その責任は、「すぐ脇を通過する」側にある。あんな鉄の箱が「すぐ脇を通過すること」がそもそもいけないのである。
 「すぐ脇を通過される側」が注意するべき義務も責任も無いぞ。
 トラックがバックして来る時、「バックします、注意してください」って、機械女の声がするが、バカヤロ、そっちが注意するべきだろッ。
 
 それをなんだよ、乗用車がすぐそばを通過するときに、警告音を出して注意してやるんだというのである。聴覚障害者を引き合いに出して、いかにも福祉のためぶるなよ。
 おためごかし
 要する、「ドケドケッ」って言うのでしょ、思いあがっちゃいけないよ、自動車業界さんよ。

 自動車の及ぼす公害は数々あるが、その中で大気汚染問題が電気自動車で解決するってのは嘘っぱちだが、騒音が解決するのは本当だから喜んでいたが、なんとまあ、こういうことでやっぱりわざわざ騒音を出すのか。
 騒音公害は続くのか~、ガッカリ。

 やるべき義務付けは、こうでしょ。
①電気自動車に限らず自動車の走行は、歩行者から2m以上離れなければならない。
②歩行者から2m以下の範囲で走行するときの速度は、当該歩行者の速度を超えてはならない。

 それを警告音でドケドケッなんて言わせるって、どこまでバカで威張ってるんだ、自動車屋は、。
 警告音を出していたのに轢いてしまったら免責されようなんて考えるんだろうけど、そりゃ穢いぞ。
 あのなあ、障害者が近づきすぎて危ないと思ったら、運転してるひとが窓を開けて、「恐縮ですが、通して下さい」って、口でお願いするもんでしょ。

 近ごろ、乗用車のデザインが日に日に悪相になって、「オラオラぼやぼや歩くんじゃねえぞ、ドケドケ~ッ」って顔になっていると思ったら、自動車屋の本性もそうであったか、この威張り様は日本帝国軍なみで、困ったもんだ。

 思い出せば、この警告音義務化という歩行者への責任転嫁は、かつての横断歩道橋による交通対策と同じだなあ。昔、「横断歩道橋は素晴らしい」、なんてエッセイを書いたことがある。
https://sites.google.com/site/machimorig0/hodokyo

参照:http://datey.blogspot.jp/2009/08/161.html

2016/10/04

1218【法然院方丈襖絵事件】おや法然院の重文襖絵作者が狩野光信から孝信に変ったらしいがそれでもおかしいなあ

 春と秋の京都では、いつもは非公開の文化財を短期間だけ一斉に公開する行事がある。
 わたしには、観に行きたい懐かしい文化財がある。法然院の重要文化財の襖絵である。
 大学時代の卒業研究材料の一部であり、現地でしっかりと若いこの目で、建築を測り襖絵を鑑賞したのであった。

御西院御所八百姫御殿を法然院方丈へ移築したときに
柱位置を変更して襖絵を一部書き替えているので画像復元してみた

●襖絵の画家の名前が違ってるぞ

  今日の新聞にこの秋の特別公開の広告が載っている。法然院もあるかと見れば、あるにはあったが、気になる記述があるのだ。
 法然院の公開文化財を、「狩野孝信襖絵 重」と書いてあるのだ。「重」とは重要文化財のことであろうが、「狩野孝信」とあるのが引っ掛かる。
 たしかに法然院には重要文化財の襖絵があるが、それは「狩野光信」作として指定されているのだ。それがどうして孝信なのだろうか

 法然院公式サイトに、襖絵のある方丈の解説にこう書いている。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている[夏期は収蔵庫に保管]。」http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-001.html#B

 法然院には重文襖絵はこれしかないから、新聞広告の「狩野孝信襖絵」とは、誤記だろうか。
 さっそくネット検索をして、今年の公開に関する新聞社の記事を見つけたら、ここには狩野孝信と書いてある。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016090262661.html
法然院 11/1(火)~11/7(月)の公開
 金地著色「桐に竹図」・「若松図」・「槙に海棠図」、狩野信筆襖絵
 後西天皇の皇女誠子内親王の御座所を下賜され移築した方丈の上之間、次之間に広がって描かれ、この桃山時代の絵があることから「桃山の間」とも呼ばれる。
 
 昨年秋の公開に行った人が書いたブログページがあった。なかなか興味あることが書いてあるので引用する。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_kyotokentei/tag/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
2015年11月12日00:16【オフ会報告】京都検定で非公開文化財を楽しむ会(法然院編)
 この作者は狩野光信とパンフレットには記載されていましたが、説明員の方の話では狩野信の作と説明されていました。狩野光信は狩野永徳の長男。 狩野孝信は狩野永徳の次男で、狩野探幽の父に当たります。 
 なんでも、一度光信作とされていた法然院の別絵画を国立美術館に貸し出したところ、これは孝信の作品である、と鑑定されたそうで、それであれば同じ作調のこの襖絵も狩野孝信の作であろう、という認識に変わってきた、とのことでした。 そうでしたか~。

●狩野光信も孝信もどっちも怪しいぞ
 
 さて、狩野孝信とは、いつの人だろうかとWIKIをみれば、1571年生れ、1618年没だそうである。ふむ、法然院サイトが書くように、桃山時代に活躍したのであるな。狩野永徳の次男で、光信の弟、探幽の父である。
 ところが、せっかく狩野光信に替わって登場したこの孝信も、わたしの建築歴史考証によると、かなり怪しいのである。

 ここでは要点だけを記すが、わたしの建築史調査研究からの考証では、法然院サイトの(襖絵のある方丈は)「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである」の記述は、かなり髙い確率で間違いであり、実は江戸時代の1675年の建築である。
 御西院上皇の御所として1675年に新築した中の皇女八百姫の御殿であったものを、後に法然院に移築して方丈に造り直したのであるから、1595年の建築ではないのである。

 「もと伏見にあった」とは秀吉が築城した伏見城のことだが、そこは地震で倒れて別のところに城を建て直し、江戸時代に入って廃城になり建物をあちこちに移転したうちのひとつがこの方丈という意味らしい。
 とすれば方丈になる建物は、震災、建て直し、廃城、移転の4度の大波を潜り抜けて、京都の上皇御所の姫御殿に移築されて生き残ったことになる。
 しかも、その上皇の御所は一度は火災で丸焼けになり、1675年に新たに建てたのである。とすれば、この火災も潜り抜けて後に法然院に移築して今に至るという、まことにもって何回もの災難を潜り抜けた稀有な奇跡の生き残り建築になるのである。ありうるだろうか。
 法然院の言う1595年建築説には、なんともはや無理がある。

 したがって、この襖絵ができたのも1675年だから、1618年に没した孝信はもうこの世にいないのである。そして狩野光信も1608年に没しているから、光信も孝信もこの襖絵を描くことは不可能だ。
 絵の考証をわたしにはできないが、建築考証からすると襖絵を光信作とするのも孝信作とするのも、なんとも無理過ぎるのである。
 まさか1675年の上皇御所の造営に、法然院のサイトがいうように80年も前の古建物と古襖絵(1595年に秀吉がつくった伏見城の遺構)をもってくるなんて、造営スポンサーの江戸幕府が常識はずれなことをしたはずもない。

 というわけで、法然院の襖絵の謎は、いまだに明快に解けないのである。だからといって、公開日に合わせて現物を観に行っても、わたしの絵を見る眼力では見破れないしなあ。
 まあ、素人の楽しみとしては、謎がず~っとと謎のまま続くといいなあ。
 詳しい考証をお読みになりたいなら、こちらをどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

◆続報を参照 1220【秋の京都文化財特別公開:続報】

◆まちもり通信の参照ページ
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
   東京工業大学理工学部卒業研究の生まれて初めての論文
   上記研究の一部を日本建築学会に論文発表(1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る2015)
   上記論文の一部のドキュメンタリー風エッセイ



2016/10/03

1217【豊洲新市場騒ぎ】できあがるまで当事者たちの誰もが建築現場を見なかったらしいお粗末などの疑問と不思議

 東京都の住民ではないからどうでもいいのだけど、ヒマだし面白いから勝手に口を出す。
 そういえば、新国立競技場も関係ないけど(納税者として少しは関係あるが)、勝手に口を出したなあ。

●不思議その1:関係者の誰もが現場を見なかったとは

  例の東京都豊洲新市場で、建築に地下空間があったことを知り、そこには盛土がないと新発見した新知事が騒ぎ、尻馬マスコミの尻馬に乗って、当事者たちも知らなかったと言う「だれも現場を見ていなかった新市場事件」である。
 わたしには、どうしても不思議なのである。今になって建物の地下に盛土がなかったって、だれもかれもが騒いでいるけど、これまで誰ひとり新市場の現場を誰も見てなかったのかしら。
 敷地に盛土したって、それを掘って地下室をつくれば盛土はなくなるって、小学生でもわかる常識である。だから地下空間つくるところは盛土しなかったろうね、盛り土してまた掘りだすなんて、超ばかばかしいから。

 こんなでかい地下空間(配管ピットらしいが)があることを誰も知らなかったということは、建設中にだれも現場を見に行かなかったんですな。
 昨日今日できた地下空間じゃなくて、1年以上も前から土を掘って建設作業してたんでしょ、現場を見りゃ盛土がないって小学生でもわかるでしょ。 
 新市場用地に盛土するって決めたナントカ委員会の先生たちも、そうせよと言っただけで、現場を見て盛土したことを確認してないという、無責任な人たちなんですね。

 都議会議員たちも、この東京都が行うビッグプロジェクトの視察を、一度もしなかったんですね。
 もちろん都知事も見てないだろうし、それどころか市場長さえも現場を見ていないという、摩訶不思議なことなのである。
 そしてまた、新市場に入って仕事する市場の業者たちも、自分たちの移転先の建物を一度も見なかったんでしょうね、見てれば今になって騒ぐのじゃなくてもっと前に騒いだはずだもんねえ。
 まあ、マスコミ連中が現場を見て、こんどのようなことに事前に気が付くほど利口じゃないから、そっちはどうでもよろしい。

●不思議その2:最も事情通のはずの建築家が沈黙とは

 この騒ぎでいろいろ言っている人たちがたくさんいるらしいが、こういう場合にいちばん事情を知っているのは、その計画と設計に関わった人たちである。
 このような公共ビッグプロジェクトの場合は、基本構想、基本計画、実施計画、基本設計、実施設計と、順番を追って詳しい設計内容をつくって行き、どの段階にも各種の専門家が関わる。その専門家たちは、ほとんどが行政の外部にいて、業務として彼らに委託する。

 最後は建築物になるのだから、多くの専門家のなかでも建築設計に関わる技術者、つまり建築家がもっともよく事情を理解しているはずである。
 なかには最初から最後まで関わっていて、ヌシのような専門家がいることもある。このことはわたしは体験的に知っている。
 もちろん行政側の技術者もいるが、それらは2年ほどで定期異動するから、いちばんよく事情が分るものは、担当する民間の専門家である。

 さて、ここでは誰が計画設計をしたのか。新聞によれば設計は日建設計だそうである。日建設計と言えば、例の白紙撤回される直前まで新国立競技場の設計に携わっていた、日本では規模がトップの都市計画や建築設計の組織(住友系)だ。
 計画段階がだれであるかの報道は無いが、ネットを探したら、みずほ総研がソフト的な部門、ハードの土木は日本工営、建築は佐藤総合計画とするページがあった。他にもいるかもしれない。
 
 だからここで問題になっている事情を、日建設計がもっともよく知っているはずである。でも、日建設計に関する報道はないし、日建設計からの説明もわたしは知らない。
 そこで思い出すのは、新国立競技場問題であり、あのときも設計がほぼできたところで、首相から白紙撤回されるなんて、建築家としては超屈辱的なことをされても、日建設計は黙りこくったままであった。

何も悪いことをしているのではあるまいに、黙りこくったままとは、マスコミが取材に行かないのか、取材完全拒否か、それとも発注者との契約に問題には沈黙せよと記されているのだろうか。
 建築家とは、そんな程度の社会的な位置づけにある職能なのだろうか。ここのところが、新国立競技場でもそうだったが、なんとも不思議なのである。

 それにつけても、新国立競技場で日建設計と共に屈辱を味わった梓設計が、やり直しコンペにゼネコンと組んで参加して、平然とまた違う設計で復帰していると言う、はたから見るとなんとも節操のない様子だから、まあ、建築家ってそんなもんだろう。


2016/10/02

1216【平塚初訪問:半端な歴史文化景観軸】八幡宮表参道が鳥居前で突然ブチ切れて門前払いを食らってビックリ


2016年の平塚八幡宮

 あれっ、神社直前で参道が突然に途切れた、こんなことっていいのかい?
 平塚市美術館で旧友が絵画展に出品するとて、鑑賞にでかけた。行ったことのない都市だから、事前にネットでその場所を調べたら、平塚駅から北にまっすぐに平塚八幡宮への参道を登っていくと、八幡宮の裏あたりにあるらしいと分かった。

 ふむ、なかなか歴史的な街の構造を維持しているんだな、駅から神社までの長い参道は、歴史的な門前町の賑やかな商店街なんだろうなあ、大昔は海まで参道がつづいていて神輿が海に入るなんてあったかもなあ、なんて想像しながら出かけた。
 見事に外れた。駅からわずかな区間が商店街だったが、あとは芸もないただの街だった。
突き当りに平塚八幡宮の鳥居と森が見える大門通り(表参道)
それでも昔は賑やかだったのだろうなあと、想像を逞しくしながら歩く。
 参道の突き当りには、朱塗りの鳥居とその背後に緑濃い社叢林が待ち構えていて、見事に街のランドマークを形成している。
 初めて訪ねる美術館は、あの裏あたりだなと、迷わずに進むことができる。街並み景観はともかくとしても、景観構造としてはなかなかよろしい。

 やがて鳥居が近づいてきたが、その手前の道の真ん中に、何やら黄色い看板が立っている。
 「横断 禁止」、エ~ッ、ここまで参道を真直ぐにやってきたのに、鳥居の直前で参道がブチ切れなのかい、そりゃないでしょ、右に50mほど迂回して交差点からまわれというのかい、しかもそこは横断歩道橋しかないのだから、こりゃひどいよ。
ウワッ、横断禁止とは、、、参道が途切れて門前払い
この酷い道は、国道(酷道か)1号である。できたのは戦後だけど、平塚八幡宮よりも偉いらしい。
 わたしは宗教にまったく関心がないが、ここは歴史的に先に存在していた平塚八幡宮に礼を尽くして、参道を優先してせめて横断歩道を設けるべきでしょ。
 歴史的景観とは、みた目だけじゃなくて、その景観構造の中での人間の歴史的行動の継承にもあるのだと気が付いたのであった。
 神社参拝する気はないが、ここまで平塚のランドマークを目指して歩いてきたのに、とつぜん文字通りの門前払いとはねえ。
国道を横断して境内に入り振り返って参道を見る
今、ネット検索していたら、こんなことが書いてある。どうやら元旦の初詣の時は、特別にここに警官が立って手信号で横断できるらしい。http://www.hiratsuka-daimon.net/
×のところで参道ブチ切れ

「表参道が復活します」平成28年元日も平塚警察署からご協力(警察官の手信号)頂き、国道1号線を横断できることとなり平塚八幡宮と大門通りが昔の姿を取り戻します。
 1300有余年の歴史を誇る平塚八幡宮、初詣には毎年およそ2万5000人の参拝者が訪れます。しかし国道1号線の整備により八幡宮と表参道である大門通りを分断されてから、鳥居を仰ぎながらの参拝ができませんでした。
 8年程前から、大門通りの商店会である大門会では参道型商店街としての賑わいを復活させる為に様々なイベント活動などを行っています。また大門会は活動の目的の一つである「八幡宮と参道を繋ぐ横断歩道設置」の要望活動を平塚八幡宮、自治会と協力して行っています。」(12月 23rd, 2015 by hiratsukadaimon) 

 八幡宮の社叢林を抜けて、美術館を目指す道にでた。この道は八幡宮の裏参道にあたる位置にある。平塚美術館は立派な施設だった。その手前には平塚博物館もある。
 だが、それらを結ぶ裏参道は、博物館の裏と工場の脇を抜けるなんだか裏さびれた路地の様子であった。
 駅から八幡宮をへて美術館までは、八幡宮の表と裏の参道上に位置しているので、都市軸としてそれなりの景観形成がされているのかと思ったが、これも期待が外れた。
 これだけの文化資産がありながら、もったいないまちづくりである。
裏参道から美術館への道
八幡宮の隣りにある横浜ゴム記念館の洋風建築を見てきた。20世紀初めの、イギリス人の設計で海軍火薬廠にあったものを、戦後に火薬廠が横浜ゴムの工場となり、2004年に市の施設としてここに移築したのだそうだ。
 風通しの良い日陰を作るベランダコロニアル建築は、ヨーロッパ人が日本を熱帯風土と誤解して設計したのであった。北海道でさえもベランダをつくるありさまだった。それをまねした日本の大工たちが、あちこちでベランダと塔のある擬洋風建築を作った。
横浜ゴム記念館(1912年前後) 設計:カリー及びウィルソン
最初は日本化薬(㈱)の外国人宿舎として建設、後に海軍火薬廠の将校クラブ
1952年の平塚市街