2017/12/03

1305【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島プロジェクトの模型や映像を観ていて昔々この島に消えた大量の釣鐘を思い出した

安藤忠雄展雑感長屋談議】【】【続々】のつづき
直島は昔から金属工場の島 観光リゾート安藤建築は島の南
●少年のころに直島を訪ねた大昔記憶
 国立新美術館に建築家の安藤忠雄展を観に行ったのだが、大勢の入場者に驚いた。建築家ってこんなにもてるものなのかい?、いいなあ、都市計画家もそうなりたいものだ。
会場の中央に安藤流の卵があって、それは瀬戸内海の小島の直島で長期にわたるプロジェクトを、ジオラマとパノラマ映像で見せる見世物小屋だった。ベネッセという企業と組んでいて、安藤さんの営業力を見る感じだ。
直島プロジェクト見世物小屋
その安藤の建築のことは別に書いているから、ここではわたしが昔々に直島を訪ねた想い出を書くのだ。ほう、いま計算したら、それはもう70年も前のことである、すごいなあ、そんな大昔がこのわたしにあるなんて、どうにも信じられない気持ちだ。



 太平洋戦争が終わった次の年の1946年の夏、わたしは直島を訪ねた記憶がある。草木のひとつも見えない荒れ果てた岩や赤土が剥き出しの島だった。港から坂を登って行き、丘の中腹を切り拓いたらしい広い空き地にでる。
 そこには無数の釣鐘が、土の上に延々と並んでいた。これがこの島訪問の目的である。
 光景を思い出せば、たぶん2~300個はあったろうだったろう。少年のわたしの背よりも高いものがほとんどだったが、中には小さなものもある。夏の太陽に照らされた坊主頭の大群衆が、緑青や茶褐や漆黒の肌を光らせて、黙々と立ち尽くしているのだった。
 想えば、シュールリアリズムの絵画のようであり、子ども心にも異様であり、これだけがわたしの記憶にある直島風景である。

 直島を訪れたのは、その6年前に戦争のために金属供出した釣鐘を探す旅だった。父が連れて行ってくれた。ほかに父方の伯父と1歳上の従兄もいた。
 わたしの生家は神社であり、父は神社の宮司であった。そのその高梁盆地の御前(おんざき)神社には、17世紀半ばから城下町に時刻を知らせるために、時の鐘として鳴らされていた釣鐘があった。

 それが1940年に政府に召し上げられ、兵器となるために溶かして鋳直す工場がある直島に渡ったのだ。金属鉱山の無い日本が戦うための武器をつくるには、街や家庭にある規制の金属製品を改修して原料にするほかなかった。
 直島の三菱精錬所には、各地から釣鐘類が集められていたが、戦中に兵器になるべく鋳潰されないで残っていたのが、わたしたちが見た釣鐘の群れだったのだ。
 たぶん父は供出した釣鐘の行方を調べて、ウチの鐘も残ってるかもしれないと思って直島に出かけたのだろう。

●少年のころの釣鐘の記憶
 鐘にはこのような銘が鋳てあった。
吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
       慶安四歳次辛卯九月吉祥日
        城主水谷伊勢守勝隆 敬白
          冶工當国小田郡高草
           惣領 彦之丞藤原守重
 慶安4年とは1651年であり、その9年前に転封してきた城主水谷勝隆が奉納したとある。この鐘は供出するまで290年もの長い時を刻んできて、高梁盆地の城下町に響いていたのだった。
 兵器となるべく直島に蝟集した無数の釣鐘群の中には、もっと昔のものもあったに違いない。

 探しているその釣鐘は、岡山県の高梁盆地の丘の中腹にある御前神社の鐘撞堂(かねつきどう)に吊るされ、朝な夕なの時刻を知らせる時の鐘だった。昔は鐘つき専門の職がそばに住んでいたらしい。
 鐘撞き堂は、高さが3階建てほどの、木造の高楼建築だった。わたしの頃は、宮司の父が撞き、父が不在の時は母が撞いていた。その時刻が何時であったのか知らないが、父の不在中の夜中に母が出かけるとき、幼児だったわたしひとりの留守番を怖がった記憶がある。夜中の鐘撞き堂の急階段を、幼児をおぶって登るのは不可能だったろう。

 もうひとつのおぼろげな幼児期の記憶だが、家に騒がしく出入りするひとたちがいて、鐘の音が連続して聞こえていたような気がする。しらべてみて、これは1940年紀元2600年記念に、その元日に2600回連続して鐘を撞くイベントの時であったようだ。今に残るわたしの人生最初の記憶である。
 城下町に響く時鐘は町民に愛されていたらしく、1940年の金属供出で鐘が出ていくとき、それを送り出す盛大なイベントがあったことが、当時の写真で分る。
1940年12月 時鐘供出祭
左に地上に降ろされた釣鐘と祭壇 右上の父は兵役中で不在

 直島の鐘の話にもどる。父は国内勤務だったので、戦争が終わった1945年8月の末日に帰宅してきた。父が兵役で留守中に鐘を供出されたので、宮司に復帰して鐘も復帰させたかったにちがいない。
 4人で釣鐘群の迷路の中を、夏の日に照らされながら捜し歩いたが、そんなにたくさんありながら目的の鐘を見つけられなかった。父も伯父もガッカリしたことだろう。

 荒涼とした島の風景の中にたたずむ死を免れた釣鐘群は、それまでにもっと大群が兵器となって戦争の泥沼に沈む旅に出ていくのを見送ったことだろう。
 生き残った釣鐘は、その後にそれぞれの故郷に戻って行ったのだろうか。戻るべきところも戦争でなくなっていたかもしれない。故郷を失った鐘は鍋や釜になったのだろうか。

●リゾート観光地の直島に戦争の記憶は
 わたしたちの探していた釣鐘はそのまま帰ってこないが、鐘の故郷の高梁盆地にある御前神社には、いまも鐘撞堂がすっくと立っていて、戻ってくる鐘を待っている。
 だが木造高楼建築は、寄る年波には勝てないらしく、倒壊の恐れありとて、登ることはもちろん近づくことも禁止の注意書き札が立っている。
 鐘が戻ってきても、もう吊るすこともできない。もっとも、いっときのことだが寄付する人がいて、プラスチック製の釣鐘がぶら下がり、テープ録音の鐘の音が響いたこともあるらしい。
1940年末から今日まで鐘の帰りを待つ鐘撞き堂も老いてしまった

 わたしの直島の記憶は上に書いた場面だけなのだが、その帰りにどこかの海辺で海水浴をした記憶が鮮明にある。従兄と2人で泳いだのだが、白砂青松の浜辺がひろがり、泳ぐ向こうの遠くない海上に、可愛らしいお椀を伏せたような松の繁る小島が見えていた(確証はないが、たぶん牛窓の海岸のようだ)。
 この海にそそぐ高梁川の中流部の高梁盆地で育ち、その川で泳ぎを覚えたわたしには、初めての海水浴だった。海の水は辛く苦いものだと、まず舐めて確かめた記憶がある。

 海水浴を楽しむにはまだ貧しすぎた時代だからか、わたしたちの外に誰もいなかった。父と伯父は、たぶん船か列車の待ち時間に、その子たちを遊ばせたかったのだろう。
 それがどこだったのか、直島航路の宇野港に近いあたりの海水浴場を、ネットで探しても見つからない。いまでは小島もろともに埋め立てられて産業地になり、砂浜はなくなったのだろうか。
 もう、父も伯父も従兄もこの世にいない。

 金属産業の直島はいま、企業のベネッセによる事業として、建築家安藤忠雄の建築で有名な観光リゾートの地に大変身して、煤煙で島を丸禿にしていた三菱の工場はエコアイランドの核となっているという。
 かつてこの地が各地から社寺の釣鐘を集めて、兵器をつくるための島だったことは、忘れ去られているだろうか。釣鐘ばかりか、そのほかの多様な金属も来ていただろう。あの頃、各地の金属製の文化財も失われた。
 直島にもあった戦争の記憶を、今の島のどこかに残しているだろうか。直島町史あるいは三菱マテリアル社史に載っているだろうか、あの光景の写真があるだろうか。
 思えば、あの荒野の白日の下の釣鐘群の姿は、戦争直後に幻のように出現して消えた現代美術インスタレーションだったような気がしてきた。
 


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