毎週金曜日に国会議事堂と総理官邸あたりで、原発反対のデモンストレーションがある。友人の中にも行ってきたとFACEBAKAに書きこむ人がいる。
わたしも気になっていたが、今日、思い立って参加してきた。
霞ヶ関駅で降りて議事堂前の大通りへの横断歩道を渡ったところで、警備の警官に声を掛けられた。
「コウギにいかれますか」
講義に行くって?、あ、抗議のことか、警官もそういうのかと思った。議事堂前の横断歩道は渡れませんのでご承知ください、という。
時刻は5時だから、まだほとんど人はいなくて、だんだんと制服や私服の警官ばかりが目立つ。
議事堂近くの歩道に世話人らしい人たちがいて、「ファミリーエリア」とかいた紙を持って立っている。ならば「シニアエリア」もあるかと思ったが、ファミリーならシニアもいいだろうと、そこの道端に座り込んだ。老若男女がぞろぞろとやってくる。
6時になってもたいして多くはないが、時間通りにシュプレヒコール(今でもこういいのだろうか)がはじまった。
「サイカドーハンタイ、サイカドーハンタイ」
ふむ、大飯原発再稼動反対に抗議を絞りこんでいるらしい。それはそれで分りやすい。
6時半ごろからにわかに人出が多くなって、歩道が満員になってきた。
赤ンボが母親に連れられている。浴衣で下駄履きの花火見物のような女の子もいる。サラリーマン風、おばさん風、多種多様であるが、男よりも女のほうが多いようだ。
若い夫婦が多いのが特に目に付いた。わたしのような高齢者もいるにはいるが、それほどでもないのが、なにかイベントあるとやってくる閑老人が多い今の世に興味深いことだ。
向こうのほうで、女性の声で演説が聞こえる。民主党のなにがし、国民の生活が第一党の何がしとか、呉越同舟でやっている。
そのうちにドラムやトランペットの5人ほどの楽団がやってきて、ジャズ演奏さながらのビートのきいた演奏とともに、「原発反対、再稼動反対、未来を守れ、子どもを守れ」と、一同シュプレヒコール合唱する。
そばで白い風船をせっせと配っている中年男がいる。見たことがあるような、田中なんとかという作家の代議士のような。
わたしは道端に腰を下ろしたまま、感慨にふけっていた。
あれは1960年の6月、岸内閣のときであった。日米安保条約改定に反対する運動が高まり、毎日、国会議事堂あたりはデモの人が埋め尽していた。
わたしは大学4年生、アクティブな活動家ではなかったが、デモには何回も参加した。今眺めているこの道を、大学や職場の旗やプラカードを掲げ、「アンポハンタイ、キシヲタオセ」と叫びつつ、ぐるぐると激しい渦巻きデモ、機動隊の警官との衝突。
そうだった、若いからできた。
●(動画)18時半、人々が集まってきだした
http://www.youtube.com/watch?v=UN-SDv_Clr8
●(動画)19時前、鼓笛隊がやってきた
http://youtu.be/wSkU-iCuo4c
実は今日も来る前に、あのようなデモはもう体力も気力もないからできない、どうしようかと逡巡したのであったが、まるで様変わりのデモであった。
何しろあかんぼ連れ、下駄履きハイヒールでの参加である。団体行動は全然ない。
ひとりひとりの意思による参加であるらしいことがよく見えて、その訴えのもつ真剣さがひしひしとわかる。
何かが変わるかもしれないと、変えなければならないと、現場に来ているからこそ思う。
◆◆◆
わたしがその52年前にデモに参加したことで、なにか世の中は変わっただろうか。変わるも変わらないも分らないうちに、高度成長の大波の中に飲み込まれてしまった。
だが実は、わたし自身の人生は、そのときのデモによって確実に軌道が変ったのだった。
デモが一応の終わりを告げた夏のある日、就職活動で事前面接試験を受けた大企業(三菱地所)に採用が内定した。そのときに安保反対デモに参加したかどうか聞かれて、もちろん参加したと答えた。
そして秋の本面接でも同じ質問に同じように答えたのだが、その答えの故に内定を取り消すとされた。
もちろんわたしは、その矛盾と理不尽に抗議した。先方担当者の言い訳は、事前面接にはいなかった役員が本面接にはいて、そのひとがデモ参加をもってわたしの内定を否定したのだそうだ。それも理不尽きわまる。
しかも、当時の大学は売り手市場だったから、企業側は大学側とことをかまえることを恐れ、こちらから個人的に取り下げて引き下がってほしいとの、勝手きわまる要請であった。
承知できないわたしと、ながらくもめた。もういやになったが、意地である。秋も深まり、その年の就職先はもうなくなってしまった。
とうとう人事担当役員が大学研究室に、わたしの指導教授を訪ねて謝りにきた。ちょうどそのとき、卒論執筆で研究室にいたわたしと出くわした先方の戸惑った顔を忘れない。
指導教授から、知り合いの設計事務所に入れてやるから、もう引き下がれといわれ、こちらもその大企業がつくづくいやになってしまったので、ひきさがってやった。
超零細アトリエ事務所(RIA)に入れてもらって、そこに28年いた。入るとき15人だったアトリエが、辞めるとき200人の企業になっていた。
人生は二度できないから優劣を比較はできないが、確実に比較できることは、クラス同期生のなかで初任給が最低であったことだ。
そんなことを思い出しながら、ここにいる若者たちのこれからの人生が、このデモでどう変わるのか、変わらないのかなどと、とりとめなく思う。
道端に座っていたままに、ドラムス競演とシュプレヒコールの真っ只中になってしまった。
それでもデモの一員のような、傍観者のような、宙ぶらりん気分で7時頃までいて、また元の道を戻ったのであった。
少なくとも参加した頭数にはなったはずだ。
実はこのデモいくようにと、ある書物がわたしの肩を押したのだが、その話はここに。
●648日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html
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