今日(2012年7月20日)の朝日新聞夕刊に、オリンピックにちなんで「日英新世紀」と題してシリーズ記事がある。
アジア・太平洋戦争で日本とイギリスは、ビルマ(現・ミャンマー)で対戦した。そこで戦ったイギリス人の元兵士が、日本の震災のTVを見て、それまでの憎しみを捨てて義捐金を送ろうと提唱した話である。新聞が好きな美談である。
ミャンマーになぜイギリス軍がいたか、それはそこがイギリスの植民地であったからだ。西隣のインドもそうだった。
ビルマでの初期の戦いでは日本軍が勝ち続けて、ビルマを日本軍が制圧した。当然のことに多くのイギリス兵が日本軍の捕虜となった。
国際条約に無関心だった日本軍が、この捕虜を残虐に扱い酷使したことが日本の敗戦後に問題となった。そのことを映画にしたのが「戦場に架ける橋」である。
イギリスでオリンピックだと、ノー天気に日本人は騒いでいる。だが、いまだにイギリス人は日本への印象が悪いのである。
こんなことを知っている日本人はもういないのか。
その記事に出てくる元兵士は91歳、ビルマ国境に近いコヒマの戦いに参戦したとある。
そのコヒマの戦いに参戦した日本人を、わたしは知っている。長岡市の法末集落の長老・大橋正平さん(92歳)で、インパール作戦の日本軍の数少ない生き残りである。
日本はビルマの西隣のインドまで攻め込んだ。戦史上で超悪名高い大敗北のインパール作戦である。
インドのインパールを攻略するために、そこへの補給路の要衝コヒマを占領すべく攻めたのである。
だが、日本軍は待ち受けていたイギリス軍に袋のネズミにされて、徹底的に翻弄されて惨敗したのである。
新聞記事だと、コヒマでイギリス兵士が捕虜になって虐待されたと、読めてしまう。
しかし事実はそうではなくて、ここでは日本軍が大敗北したのだ。
なにしろ日本軍司令官の作戦は、武器も食料も補給しないで現地で調達して戦えという無茶なものだった。
イギリス軍の待ち構える罠に陥り、敵の物量作戦の前に武器のない日本軍は、肉弾戦で死ぬだけだった。
補給のこない無手勝流の戦いのあまりの無謀さに、ついに前線の師団長が独自の判断、つまり軍命に反して、自軍をコヒマの前線から撤退させたのだった。
イギリス軍に追われつつ、雨季の泥濘のジャングルの中を日本兵たちは敗退していく。
敗走路は累々たる死骸が暑さと雨ですぐに白骨となって連なり、通称「白骨街道」という。生き残り兵は1割ほどだった。
このことは大橋正平さんにインタビューして、いかにバカバカしい作戦であったか世に言われている事実を、戦場を体験した本人から直接に聞いた。
その記録はこちらからどうぞ。「大橋正平さん 戦場を語る」
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei
もうすぐ8月15日が来る。戦争のことを忘れまい。
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