今朝の朝日新聞東京版の神奈川ページに「戦争末期 作戦立案の地 慶応大日吉キャンパス 旧海軍司令部地下壕」との見出しがある。
記事内容は、慶應大のキャンパルには大きな長い地下壕があり、ここに1944年に入った日本海軍の司令部が、遠く海上の艦船に作戦指令を出したにも拘らず、ついに敗戦を迎えた戦争遺跡の紹介である。
戦後70年の企画記事だが、今ではこの地下壕は有名な戦争遺跡であり、慶応大学が保存に力を入れているから、わたしとしては事新しい内容は無い。
ただし、わたしとしては、どうもこの記事は食い足りない。連合艦隊司令部が地下にあったとだけしか読めないのだが、実は、戦争末期には、日吉キャンパス全体に日本海軍の軍令部、連合艦隊司令部などの枢要な機能が入っって、一大軍事基地となっていたのだ。
日吉キャンパスばかりか、周辺の丘陵の地下にもトンネルを掘って、日吉地区は海軍の陸の要塞化していたのだ。1945年に横浜都心部はアメリカ軍の空襲を受けた。郊外部では日吉だけが空襲を受けたのは、この海軍基地があったせいだろうと言われている。
海軍施設は地下にあっただけではなく、地上の大学の施設の大部分を接収して使っていた。リベラリストの小泉信三塾長も、戦争協力はやむを得なかった。
その大学の建築の中には、いくつかの近代建築として有名なものもあった。中でも建築家・谷口吉郎の設計になる1937年に建った「慶応義塾日吉寄宿舎」は、彼の若い時のモダニズムデザインの典型である。
この寄宿舎が、連合艦隊司令部の本拠となったのであった。司令部の幹部たちはこの寄宿舎で起居して、地下壕に降りて行ったのだった。
新聞が地下壕を戦争遺跡として取り上げるのは、もちろんよろしいのであるが、この有名建築家による日本近代建築史における記念的な建築が、設計者の意図とは異なる数奇な運命を経て、戦争遺跡となったことの物語もほしいものだ。
とくに地下壕は一般には見えないのだが、寄宿舎の建物は今も地上の丘の上に健在で、その端正な姿を誰もが見ることができる。
これが戦争遺跡であったとは、知る人は少ないのかもしれない。そして今、この名建築が多様な意味を持つ日本の記念的な建築であることを忘れてはならない。日本の一般ジャーナリズムは、建築についてはどうも弱いし、建築ジャーナリズムは、建築周辺のことに弱い(東京駅赤レンガ駅舎に見るように)。
慶應大学日吉キャンパスには、地上に学生寮として生き、地下には壕として眠る戦争遺跡が、数奇な運命をたどって今も存在しているのだ。
参照:「太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築」(伊達美徳)
・第1章<戦前>慶応モダンボーイの新キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi
・第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi2
・第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi3
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