【書評】神奈川県住宅供給公社編
『横浜関内地区の戦後復興と市街地共同ビル』
(2014年、神奈川県住宅供給公社、非売品)
今年2015年の秋、横浜郊外の都筑区にある持家共同住宅ビル(世間はマンションと言うが、それは欧米で豪壮大邸宅の意だから、日本では“名ばかりマンション”)が傾いて、基礎杭工事偽装事件が日本列島各地を震撼させている。
そしてこの秋、横浜都心の関内にある借家共同住宅ビルがひっそりと姿を消した。ビルの名は「弁天通り3丁目第2共同ビル」という貸家ビル、1958年竣功、持ち主は神奈川県住宅供給公社である。
それは太平洋戦争で荒廃した横浜都心が、戦後復興した記念碑的な建築であり、同潤会による関東大震災からの東京復興共同住宅に匹敵するものだった。
横浜都心の関内関外地区は、太平洋戦争中の空爆と戦後のアメリカ軍の占領で、道路も建物も大部分が滅失して関内牧場と揶揄されたほどだったが、朝鮮戦争が終わる1954年ころから本格的復興を始める。
2012年撮影 弁天通り3丁目第2共同ビル |
2015年撮影 ビルは消えて駐車場となった |
その事業手法は、公的規制とインセンティブを持った耐火建築促進法による防火建築帯造成事業である。関内関外の道路沿いは耐火建築の3階建て以上とすると法による決定をして、そのための公的な資金助成や建設技術提供や調整支援をして建築誘導したのであった。
中区のエリアで1950年代の10年間で265棟、間口総延長30kmに達したとされる。
現在、その半数以上が建てかえられたらしいが、その連続共同建築の街並みが、横浜都心景観のベースとなっている。プレ田村期の壮大な住民参加型都心再生まちづくりであった。
横浜都心に賃貸住宅と商業施設を合わせて積極的に供給することで、被災した地主たちの生活と仕事の復興とともに、市民の日常の暮らしがある活気に満ちた都心の復興を目指し、それは成功したのであった。
ここに紹介する本は、その事業を積極的に進めた県住宅公社の関内関外における共同住宅ビル建設の記録である。
特に記念碑的な上記の共同ビルを取り壊すにあたって、その記録保存とともに、建て替えが進んで忘れられがちになる戦後都心復興期の実情を、公的事業者の立場から全般的に調査した報告書である。
ここにある「公社物件」52棟のうち26棟が現存とのこと(藤岡泰寛氏)
建設されてから、それらのビルの中でどのような動きがあったかも分って、都市民俗学的な興味もわくのである。特に名作でもない戦後建築が壊されるときに、その意義を再評価して記録保存をする時代となったのも感慨がある。
今後に望むのは、民の側の動きも含めて防火建築帯の全体像について、どなたか(この本の執筆者のひとりの藤岡泰寛さんか)ドキュメンタリーを書いてほしい。来たるべき巨大震災後の都心復興に役立つにちがいない。
最初にあげた事件のような持家型共同住宅の問題は、杭打ちという工業的技術よりも区分所有システムに根本原因がある。
戦後復興期は借家政策であったのが、高度成長期から持ち家政策に転換してから、住宅という箱づくりの経済政策はあれども、社会政策としての居住環境づくり無いままである。
だからいまや空き家問題が澎湃と起きてあわてているが、すぐに持家共同住宅にも及んでくるだろう。
大震災が来ようとしてもしている今、大問題にならぬうちに公的対策を打ち出す必要があり、所有と管理が安定する借家政策を再び推し進めるべき時代が来ていると、わたしは考える。
そう、今こそマンション再生に、戦後復興時代の意気に燃えた住宅公社が動きだすべきである。日本住宅政策を借家政策に転換するべく、空き家問題、マンション問題を社会的に解決する先兵となってほしい。
この本のしめくくりに公社専務理事の蔀健夫さんがこう書いている。その言や良し、大いに期待する。
「現在の公社も非課税法人として果たすべきセーフティネット機能などの公共的役割は大きいが、それだけが公社の役割ではない。将来を展望しながら地域に密着して必要な事業を展開する企業(ソーシャル・エンタープライズ)としての本質を失ってはならない。それが住宅公社の創業の精神であり、団地再生等の新しい事業の中でその精神を生かしていくのが今後の我々公社職員の使命である。」
*この場を借りてちょっと宣伝、雑誌「建築ジャーナル」2015年12月号に新国立競技場の都市計画についてのわたしの論評を寄稿、おなじく2016年1月号に杭打ち偽装事件がらみの「マンションは買うな」緊急座談会でしゃべっています。おヒマなら読んでくださいませ。(伊達美徳2015/12/12記)
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小論は、『現代まちづくり』(2015年12月 現代まちづくり塾発行)に掲載した。なお写真は、この記事のために追加した。
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