長かった15年戦争がやっと1945年の夏に終わったけど、世の中はまだ混乱していたその後の数年間、わたしも小学校ではじまった給食で、コッペパンなるものを初めて食った。
その頃は食料は政府からの配給だが、なにしろもとになる食糧がないのだから、満足に配給されない。だれもがいつも腹ペコだったから、こどもも大人もは食えるものなら何でも旨かった、いや、食えさえすれば味はどうでもよかった。
もちろん学校給食だけじゃなくて、家庭でも主食として食った。配給切符をだしてパン屋でコッペを買ってきていた。
そういえば思い出したが、家庭で「電気パン」なるものを作ったなあ。
給食と言っても、コッペパンが一個、もちろん何も挟んでない、それにペラペラアルミ製椀にはいった脱脂粉乳を湯で溶いたミルク、たったそれだけである。
腹ペコ少年は喜んで食ったが、あのコッペは、本当にうまいものだったのだろうか。脱脂粉乳ミルクは舌にざらざらしたような記憶がある。
給食はたったこれだけだった https://blogs.yahoo.co.jp/nenekiti37/13256755.html |
腹ペコの身にはいやもおうもなく食べたが、その独特の味と臭いを今もほのかに思い出すのが、ちょっと哀しい。
いま、ウィキペディアで「マイロ粉」を調べたら、「モロコシ」の粉であって「飼料用途としては、「マイロ」(Milo)という名称で鳥用に使われることが多い」と書いてあるから、あれは鳥の餌を横取りしたものであったらしい。
マイロ粉はトウモロコシとは違う作物のモロコシの実でつくった鳥の飼料であると、いまになって初めて知った。
あのころの少年はそれで命をつないで今があるのだから、鳥に感謝。
そうそう、外国から日本食糧援助として入ってきたララ物資(LARA ; Licensed Agencies for Relief in Asia)というのがあったから、そのひとつにマイロ粉もあったのかもしれない。
コッペパン、マイロ粉、ララ物資と連想ゲームになるのだ。
「第2次世界大戦後の多くの日本人を救ったララ物資」 と書いてある横浜新港埠頭にある記念碑 |
さて、いま、あの昔のままのコッペパンを、舌触りがざらついた脱脂粉乳液と共に食ったら、吐き出すだろうなあ。
そうだ、このニュースの「魔女のコッペパン」屋で、あのときのコッペパンを復元してくれないかなあ、マイロ粉とメリケン粉で作り、脱脂粉乳ミルクを添えてね。
まあ、売れることは絶対にないだろうが、元祖戦後コッペパン復元イベントだね。
この新聞記事に登場するひとたちが食ったコッペパンと、わたしが食ったそれとは、たぶんかなり違う味だろうなあ。ほとんど別のものだろう。
こんなニュースで思い出すことは、食い物の恨みだから懐かしいよりも、むしろ哀しいのだけど、でもいっぽうではこんな時代になったことを喜ぶのでもある。
わたしと同年輩老人が、ブログとかSNSとかを覗き込むことは稀だろうから、わたしがここに書いたことに、そのまま共感して読む人は稀だろうなあ。あ~あ、語り部老人になっちゃったよ、マッタク、、。
2 件のコメント:
のんすね、です。息子どもにかじられてしまったから、nonすね。
自分もあの当時、腹が減っていたからコッペパンには覚えがある。
家庭で作られたのが粟とメリケン粉で作られた団子汁、あれも
いま食べたらまずいだろうなぁ 広島県三次から
終戦後に配布されたコッペパンは非常に貴重なものだった。
小学生だった私は家に配布されたコッペパンを内緒で食べ、非常に旨かったことを
70年経った今もよく覚えている。
最近、ときどきコッペパンが売られている店を見るがあまり食べる気がしない。
腹が空いていると食べ物が旨く感ずるようです。
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