めったに映画館に行くことはない。わたしはTVを見ないから、映画ってものはうちの中でPCで見る。映画館やTVと違って、中座するときは一時停止すればよいし、眠くなったら止めてしまい、後で続きから見ればよい。
それでも年に2、3回は映画館に行く。それがこの1月中に寒いのにわざわざ近所の映画館に、もう2回も行ってしまった。今年はあとは一度も行かないで済むかも、。
見た映画は、「バウハウス100年映画祭」として合計6作品を下記4つのプログラム構成で上映しているうちのAとCである。
A「バウハウス 原形と神話」
B「バウハウス・スピリット」「バウハウスノ女性たち」
C「ミース・オン・シーン」「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」
D「マックス・ビル 絶対的な視点」
●バルセロナ・パヴィリオン
最初にCプログラムを見た。『ミース・オン・シーン』は、ミース・ファン・デル・ローエの設計になるバルセロナ・パヴィリオンの復元事業を中心に据えて、かかわった来た人たちへのインタビューと、新旧の映像で構成咲いている。
わたしはこの名作を実際に見てはいない。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホールであり、いずれもガラスと鉄の分りやすい空間である。
(映画予告編からコピー) |
これは建築空間の構成そのものを見せる作品であり、しかもガラスと石によるのだ。石目模様の色彩豊かな大理石が重要な役割を占めている。単に透明な空間ではなくて、その変幻自在な空間の展開を楽しませてくれる。
多彩な登場人物の語りで、この建築の歴史、空間の構成、力学的構造など、なかなか興味深い映画であった。そうか、安藤忠雄はこれをまねしていろいろと展開しているのだな。
●ファグス靴工場
「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」のほうは、ファグス靴工場である。これも私は実物を見ていないいし、そもそもグロピウスの作品は、ニューヨークでパンナムビルを遠望したことがあるだけだ。この人の作品は少ないが、教育者としては素晴らしい。
バウハウス創始者のグロピウスのバウハウス以前の作品であり、その後の近代建築への最初のステップを見せる作品として紹介している。
この工場は今も現役工場として靴を作っているのが素晴らしい。工場の労働環境の改善という目的と、建築デザインを商品宣伝の目的にするという、いかにも近代産業社会到来への対応としての出自を、しっかりと見せてくれるのが面白い。
現代の建築生産の目から見ると、平凡というか下手くそな感もあるが、1911年という時代相から見るとこの明快さが、時代を突き抜けているのだろう。
それは1926年デッサウバウハウス校舎についても同じように言える。とにかく近代建築史の視点で観ないと、この映画はわからないだろう。そこがミースのバルセロナパヴィリオン(1929年)とは大いに違う。
グロピウスのファグスとデッサウを下敷きにしてみると、ミースはグロピウスよりもはるかにデザインの名手とわかるだろう。
●バウハウスの人々
次に見たのがA「バウハウス 原形と神話」で、これはバウハウスの創立からその運営、影響、そして終焉までを、多くの卒業者たちに語らせるものである。
盛りだくさんに詰め込んで消化不良気味だが、かかわった人々の熱のようなものが伝わってくる。昔は建築史フリークアだったわたしだが、読み漁った近代建築史上の登場人物の名前が次々に出てくるのを懐かしく聞く。
オスカー・シュレンマーが出て思い出したが、もう20年以上も前だったか、東京のどこかのイベントホールで、シュレンマーの舞台作品を見たことがある。
ロボットのような姿のダンサーが行進のようなダンスを、どこかの劇団だったかが演じた。ほう、これがあのシュレンマーのダンスかと、興味深かったが、あれは何だったんだろう。
●バウハウスの影響
バウハウスの活動が、世界の各地各界にもたらした影響は大きい。
バウハウスのモダン住宅の例として、ドイツのジードルングらしきものも少し出たが、イスラエルのテルアビブ住宅地が詳しくとり上げれれていて、知らなかったがそれなりに興味深い。
日本にはどうだったのかは何も出てこなかった。4人の日本人留学生のことも出ない。グロピウスの弟子になった山口文象のことも出ない。
仲田定之助が訪れて日本に初めて紹介したのが1925年で、山口文象は仲田と親交があったから、当然にグロピウスのことを聞いたであろう。山口文象がグロピウス事務所で働いたのは1931年から11か月ほどだが、ただし山口が渡欧したバウハウス校長をやめていた。
●ナチスとバウハウス
こうやって1時間以上もぶっ続けで観せられると眠くなってしまう。最近はPCで短時間しか動画を続けて見ないからだろう。それがハッと目を覚まさせられたのは、バウハウスとナチスの話になった時だった。
例の有名なフォトコラージュも出てきて、ナチスがバウハウスを弾圧した話になった。バウハウスはナチスに強制的に閉鎖されたのではなく、実はミースが路線をナチスと対立しないように左翼系たちを放校し、閉鎖も自発的に行い、それなりの補償も受けたという。ハンネス・マイヤーの後を引き受けたミースは、なかなかの政治家でもあったようだ。
そして、バウハウスの学生たちにもナチス親衛隊がいたとか、のちに強制収容所の設計をした者がいたとか、一時はグロピウスさえもナチ宣伝出版物にかかわっていたとか、初めて聞く話になりすっかり目が覚めた。
ただし、その話題はあまり長くはなかったし、どうもまだ明確にし難いこともあるらしい口ぶりが、語る研究者から聞こえた。さすがにナチに対して厳しいドイツの映画であると思ったが、映画はそのあたりで終わった。バウハウスの戦争責任についてはどうなのだろうか。
●日本の建築家と戦争責任
となると自然に日本の場合はどうなのだと思う。晩年の山口文象が建築家の戦争協力に厳しい言葉を述べていたのを思いだした。
有名な話は建築家・内田祥三の戦争協力についての糾弾である。今の話題の国立競技場で1943年に、学徒出陣を送り出した時の東京帝国大学総長であったからである。山口は何度か講演会でしゃべっていた。
山口文象は戦争加担は一切しなかったと語っているが、細かく見ればそうとも言い切れない。山口文象自身の戦争責任をどう考えるか。
戦争関連の仕事でなくては建築家は食えなかった戦時中、山口の仕事も全国各地の軍需工場の工員宿舎の設計がほとんどであった。山口に言わせると、工員の生活環境を良くするために設計をしたのであり、戦争協力ではないというのだ。
だが弟子の小町和義さんが語るように、軍需工場の設計もわずかではあるがやっているし、工員宿舎だって軍需工場の一部だから、まったく戦争非協力というには無理があるだろう。
●ベルリンを出るグロピウスと山口文象
これはバウハウスと直接関係ないが、関連して気になるので書いておく。
ウィキペディアのグロピウスの記事に、「バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。」とある。
だが、山口文象がベルリンを出て帰国したのは1932年であり、イギリスに立ち寄ってはいないことは、山口文象自身が書いた当時の日記手帳によって明確である。
グロピウスがベルリンを出てイギリスに渡ったのは1934年であることは、山口の評伝を編むときに問い合わせに答えたイーゼ・グロピウス夫人の手紙にその記述がある。
wikiのこの誤った記述の原因は、晩年になっての山口の話で、1932年にベルリンを出発して日本に帰国の旅に出るとき、ナチスの手を逃れて脱出するグロピウスとともにイギリスに渡ったと、佐々木宏さんに語ったのが公刊されているが、その山口の座談によってwiki執筆者が書いたのだろう。
わたしはこれまでも著書やネットでこの齟齬矛盾を指摘しているが、もう山口文象よりも長生きしたから、生き残り末席弟子としてはっきり言っておこう、それは虚言であると。なぜそれを言ったのかわからないが、老残のなせる業と思いたい。
山口文象は晩年には座談の記録をいくつも残しているが、佐々木宏さんも指摘しているように、間違いというよりも虚言としか思えない発言も諸所にある。
今やわたしも老残の日々だからひとごとではない。バウハウスの話が妙なことに及んだものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿