2023/05/19

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり

●横浜都心名所「寿町」の歴史の本が出た

 横浜市の都心の中に「寿町地区」と呼ばれる名所がある。そこはいくつかの町名があるのだが寿町で代表されている。
 似たような名所が東京では「山谷地区」、大阪では「愛隣地区」と呼ばれている。それらはいずれも都市下層社会地区の代名詞のようになっている。 

 今年1月出版の書籍「横浜寿町 地域活動の社会史」上下(寿歴史研究会編 社会評論社)を、実に興味深く読んだ。上下巻2冊、いずれも300ページを超える厚さ、しかも横組みだから、見かけはとっつきにくい。目次を見ても硬そうな中身だが、実際に読みだすと止まらなかった。

 横浜都心に移ってきて20年半、この間に都心部のあちこちほぼ残らず歩き回りつくした。もちろん寿町にもちょくちょく足を運んでいる。この機会に少しまとめ的なことと、この本を読んで発見したことなど書いておこう。

 寿町の街並ををちょっと見たところでは、特別に変わったところはない。中高層のホテルのような中高層住宅のような建築群が隙間なく立ち並んで、日本の大都市の中では普通の風景である。知らないとなぜここが名所なのかと思うだろう。
 だが、この本を読むと、その平凡な街並みの中では、こんなにも熱いドラマが日夜繰り広げられていたのか、そして登場人物たちの多彩なことに驚くのである。

 ここに密度高く肩を並べて建ち並ぶ平凡な都市建築群は、通称はドヤビルと呼ばれ、ドヤとは宿の隠語に起因する。つまり宿と呼ぶにはいかがわしいというかレベルが低い宿泊施設であり、法的には簡易宿泊所と言う。要するに超安宿である。それに似合った施設とサービスである。
 宿とは本質は旅人が短日の仮寝の場であるのだが、ここでは都市下層民の生活の本拠になっているという大きな変質がある。

 都市社会の底辺に生きる人間たちが、小部屋の個室に住みついて、居住密度が極端に高く暮らしている。しかも低所得の高齢者層が8割を占める偏りである。
 それは日本社会の戦後諸問題が時間とともに変質しながら凝縮されて詰め込まれてきた姿である。ハードソフト両面でのあまりの密度の高さに、読んでいて息苦しくなる。それは街を見ただけでは分からないのが、この寿町の特色かも知れない。

 それに気づかされるのは、書き手が第三者ではなくて、ここで起きてきた諸問題の現場に真正面から取り組んできたた活動の実践者たちだからだ。
 都市横浜の悲惨な戦争直後からの社会史の現場の語り手たちの言葉は、日本の戦争の語り部のそれに匹敵し、戦後社会戦争の語り部といってよいだろう。

 わたしは横浜都心部の一角に住みついて今や20年を越えようとしている。都市計画を専門にしていたわたしは、現代の隠者は都心に住むにかぎると思い込んでいて、高齢者の仲間入りした年に実践した。
 いまや都市の変化を眺めて楽しむのが趣味である。隠居してからやってきたよそ者としては、この都心部のどこもが単なる傍観者であり、繁華街も観光街も住宅街も、そして寿町もそのひとつにすぎない。だが、この本に登場するトピック中のいくつかには、わたしも遭遇もしているので個人的興味もそそられた。

 このブログ読者で、横浜寿町あたりをよくご存じない方にちょっとだけ概要紹介。
 約6ヘクタールの範囲にこのような人々がいる。1000人/haとは超過密である。



 概要をもう少し知るには、わたしが4年前に作った寿町ガイドパンフをご覧ください。

●寿町にも徘徊の足を入れた

 わたしが横浜関外の一角に住むようになったのは、2002年の秋だった。それまでは鎌倉の谷戸の奥で深い緑に埋もれていたのを、街なかの空中の広く開ける住まいに、つまり正反対の環境に大きく変えたのである。
 日常買い物にもバスで通う不便から変わって、歩く範囲に何でもある超便利生活になった。鳥の声が一日中の日々は、街の多様な騒音の日々となった。
 それでも歳をとると便利な方がはるかに良い。

 関内と関外の街の表も裏も、海港のあたりも山手のあたりも、ヒマさえあれば眺め歩く徘徊の日々である。この都心にはありとあらゆるものが存在するとほとほと感心しつつ、好奇心はますます増すのである。もちろんそれは年寄りのヒマツブシに役立つだけである。

 街の表の顔として見せる観光街やビジネス街、日々の生活のある住宅街、それぞれ違う商店街などなど、観光客向け、買い回り向け、最寄り向けなど多様な街のゾーニングがある。
 それら多様な中でも特異なゾーンは寿町周辺地区である。ここがドヤ街として有名であることは知っていたので、他の街とは違う先入観と好奇心でこわごわと通り過ぎていた。

 わたしが横浜都心徘徊を始めた2000年代の半ば過ぎまでの寿ドヤ街は、その中心部の広場に酒を飲みつつ焚火をかこむ野宿人たちが大勢いて、道端に用もなく座り込む人たちがあちこちに居て、ちょっと怖い雰囲気と風景が印象的だった。
 沢山のゴミがあちらこちらの道端に積みあがっていて、小便臭い所も多かった。そんな街でも何度も通りぬけるうちに、普通の街の姿に見えてきた。

2008年の暮れの寿町風景には街角のあちこちにまだゴミの山があった

2007年の夏、寿町の職安前の待合広場には野宿の人たちがいた

 わたしがこの辺りも徘徊しだしたころはまだ汚かったが、200年代半ばあたりから寿の街が、特に道が次第にきれいになってきた。路上放置自転車の整理並べ替え、路上のゴミの片づけ、路上の各所に花が置かれて、それが勝手な焚火や立小便をなくしていったようだ。
 この本を読んで知ったが、その契機は2002年サッカーワールドカップ大会だったという。やってくる外国人に恥ずかしいからとの不純な動機でも、結果はそれで良しとしよう。寿は21世紀初め10年余で次第に普通のきれいな街の姿になる事実を、徘徊で眺めてきた。

 だが、わたしがこの街にあまり興味がわかなかったのは、街並風景に特徴がなかったからだ。これが壊れかけ家屋だらけで迷路のような路地だらけの、いわゆるスラム街ならば興味がわいたのだが、ただの平凡な小規模共同住宅ビルが立ち並ぶだけの姿は、特に面白くもない。
 ところが実はその中ではとんでもない社会的問題の数々があったのだが、新聞情報以上には思いは及ばなかった。それをこの新刊『横浜寿町』でつぶさに知った。

2007年夏、寿のドヤビルが立ち並ぶ平凡な街並

 ついでに書いておくが、わたしが横浜都心隠居して最も関心をもって変化を眺めてきたのは、都心部街並の戦後復興として計画的に建設した「防火建築帯事業」の姿である。

●寿町に泊まりに行ったこと

 2007年夏の初め、ある都市研究会が主催する寿町見学会に参加した。都市計画の専門家たち10人ほどで、寿町ホステルビレッジの受付フロントロビーを拠点にして、ドヤ街を歩き、ドヤビル(簡易宿泊所)の内部にも案内してもらった。
 わたしはそれ迄は勝手に道を歩いていただけだったが、はじめて建物の中に入り、この街で活動する人たちの話を聞いた。興味がわいてきた。

2007年夏の寿町の中心部風景

 この時に案内役だったのがYさんとYTさんで、ファニービーという地域活動組織の人であった。「さなぎ達」というNPOもあったようだ。寿町ツアーはこのファニービーの収益事業であったらしい。地域資源をもとに活動資金を得てる事業のひとつであろう。そのころわたしもあるNPOの番頭格をやっていたから、よく分かる。

 ファニービーのリーダーのYTさんとは名刺交換したので、以後はファニービーから時々は活動情報がメールで来るようになった。たまには会合に顔を出したこともあり、ホステルビレッジの宿になっている林会館の屋上で、賑やかなパーティーに参加したことがある。
 YTさんは気さくに人と人を結び付ける役目をしていた。地域社会に活躍する女性活動家として、どこかの団体から表彰されて、マスコミに評判になったこともある。

 Yさんはこわもて風体でよくしゃべる男で、リーダー的地位にいるような態度だったが、名刺交換してくれなかった。どこかインテリヤクザの気配で、正体不明のような雰囲気があり、わたしは敬遠したくなる人だった。実はその気分は当たっていたと、この『横浜寿町』のなかの一文を読んでわかった(後述)。

2007年夏の寿町ツア風景 YさんもYTさんもいる

 その2007年夏の終りに、わたしが深く関係するNPO活動のひとつとして、寿町宿泊見学会を行った。ホステルビレッジに予約してドヤ林会館の5階に泊まった。
 このときも前述のYさんとYTさんにいろいろ案内してもらった。さなぎ食堂で300円定食を食べたのはもちろんである。
 この時のことはわたしのブログのここに書いている。

2007年夏 寿町で泊まったドヤの3畳間

 ホステルビレッジ、さなぎ達、ファニービーという名称の活動と事業の組織があり、このころはなんとなく妙に寿町あたりが上昇している雰囲気があった。それが2000年代初めから半ば過ぎまでのことであった。
 「ドヤの街から宿の街へ」というキャッチフレーズがあった。徘徊の通りすがりに見れば、ホステルビレッジのフロントはいつも賑わっていた。この街にも外国人やスポーツ少年たちの泊り客が行き来するのに出くわしたものだ。ドヤは安宿に変化しつつあるのかと思ったが、今になると実際はそうはいかなかったようだ。

●「横浜寿町」で知ったある顛末

 それから1年くらい後になった頃だろうか、メール情報が来なくなった。徘徊途中の覗くホステルビレジのフロントあたりの賑わいも、あまり見えない感じになっている。いつも見えていたYさんもYTんも、消えた如くに見えなくなった。
 事情を知っていそうな人に聞いても口を濁すばかり。なにか寿町らしい?事件でもあったのだろうか、わたしはそう思って、あい変わらず街の姿観察の徘徊をやってきて、ふたりのことを忘れていた。

 寿町の街は相変わらず貧困ビジネス街として繁盛している様子である。古い中層ドヤビルがあちこちで高層ドヤビルに建て替わってきている。街の中核施設の「寿町総合労働福祉会館」は老朽化で建て替えられて、「寿町健康福祉交流センター」なる名前で立派になった。労働がなくなって健康が入ってきたのが、時代の変化を表して居るのだろう。

1974年に新築した寿町総合労働福祉会館は2016年に建て替え開始


寿町健康福祉交流センターが2019年6月に開館した
 でも、寿公園ではあい変わらぬ炊き出しなどは行われていて、寿町の中身に大きな変化はないらしい。そして今、出版されたのが「横浜寿町 地域活動の社会史」である。それで思い出して、もしかして上記の消えたYさんとYTさんのことが書いてあるかと読んだら、あった。

 そうかそうだったのか、やっぱりなあ、それでYさんは消えたのであったか。「さなぎ達」の集まる場所も消えたし、300円定食の店も消えたのはそうだったたのか。おぼろに想像していたが、どうやら犯罪がらみらしい。わたしが彼に出会った2007年頃にはすでに暗雲がたちこめていたのであったか、2008年に彼は寿を追われたとのこと。

 でもその話に隔靴掻痒の感があるのは、その顛末を記す「横浜寿町 第6章第4節」の筆者の推理小説家山崎洋子さんでさえも、現実の良く知る人間の犯罪がらみは書きにくかったのだろう。いや、山崎さんだからここまで書き得たのだろうか。
 Yさんがが消えたことは書いてあるが、あの女性のYTさんも消えたのはなぜか、とばっちりなのか、まさかと思うが彼女も共犯だったのか。

 そしてちょっと驚いたのは、そこに登場する多様な活動の中心にいる赤ひげ医者のことだ。わたしはそのころはまだ知らない人だったが、いまはこの山中修医師に面識がある。3年前のコロナワクチン注射を契機に、山中さんはわたしの妻の持病治療のかかりつけ医になっている。

 「さなぎ達」という活動組織が、寿町に旋風を起こし、そこの中心人物2人は姿を消し、組織も消えたが、実質的な中心人物として登場した山中さんの医療活動は今も続いている。つまり私にも赤城げ活動が及んでいるのである。どさくさは決して無駄ではなかった。
 「横浜寿町」下巻第6章第4節「NPOさなぎ達の設立」を、そのように読んだのだった。そしてそこに紹介してある「ポーラのクリニックのブログ」で更に深く知った。

 横浜寿町ドラマは、いつも深刻な現実を抱え込みながら、中山さんをはじめとする多くの役者たちが登場して、ひとつひとつ解決させてゆき、地域社会を前進させている。
 そして、その端っこに超高齢になったわたしもいるのだと、妻の診察に付き添って先生の言葉を聞くことで、ようやく分ってきた。

●寿町について次に書いておきたいこと

 ところで、横浜市は都心部の「都市デザイン」で有名である。都市デザインとは街の姿を美しく整えるばかりではないが、さて、横浜都心の重要な一角を占める寿町あたりに、横浜都市デザインはあったのか、例えば首都高速道路と寿町とか、緑のネットワークと寿町とか、なにか関係あるのか、ないのか、それを「横浜寿町」なる書籍の中をさがすのだ。

 また、その本にこのテーマがあるかと探したのは、ゼントリフィケーションである。最近になって高層簡易宿泊所ビル(いわゆるドヤビル)ならぬ高層一般分譲共同住宅ビル(いわゆる高層マンション)が、ドヤ街の中に建ち上った。ドヤならぬホテルの建築計画もある。
 こればかりではないがこの20年に徘徊での観察で、寿町の土地利用の変化を興味を持ってみてきたが、それらの変化がどのような方向に行こうとしているのか、ますますドヤ化が進むのか、次第にいわゆるマンション化が進むのか、ゼントリフィケーションが始まるのか、いやそうはならないのか、どうなるのか興味がある。

(20230517記  つづく

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