2023/05/21

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?

承前)横浜名所についての新刊書籍『横浜寿町・地域活動の社会史』を読んでの話の続きである。

●田村明と緒形昭義

 この本にはわたしが面識ある人はほとんど登場しないが、それでも3人を見つけて前回の話に書いた。更に2人の名を見つけたので書いておく。それは田村明さん緒形昭義さんである。どちらも飛鳥田市政時代になって横浜に登場するひとだ。

 飛鳥田革新市政が始まったのは1964年4月、田村はその飛鳥田のもとで市の幹部になって、都市政策に辣腕を振るった。わたしは自分の専門であった興味から、田村の横浜市における都市政策が、寿地区にはどのように及ぼされたのか興味があった。
 だが、この本に田村の名前が登場したのは一回のみであった。この本の内容がいわば福祉系に偏っているから、それも当たりまえか。

 その田村が横浜市が建てる建築の設計に起用した建築家のひとりが、彼と大学同期生の緒形昭義であった。横浜市内で設計事務所を主宰する緒形の設計で有名なものは、寿町総合労働福祉センター(1974)と藤沢市労働会館(1975)とネット情報で知った。
 まさに寿町のプロジェクトで緒形は田村に起用されたが、今はもう別の建築家の設計の建築に建て替っている。
 わたしはもう40年以上も前で具体的なことは忘れたが、田村と話をしたことが2度あった。またこれも何の用だったか忘れたが、緒形をオフィスに訪ねて長く話し込んだ記憶がある。

 さて横浜市の都市政策がどのように寿町に影響を及ぼしたかを、この本の中で興味深く読んだのは、寿町の分散と縮小を意図したことがあったとの記述である(上巻第1章第6節)。
 飛鳥田市政になった頃、「寿町ドヤ街を分散して縮小・解体の方向へ誘導しようとする分散論」なるものがあったそうだ。まさに寿町都市政策である。

 そして実際に1968年には、横浜市は「寿町周辺地域の建設指導要綱」をつくり、簡易宿泊所の建設規制を始めた。その内容は簡宿の新改築の原則禁止であり、許可するには建築構造や設備等の適切な整備を条件とした。これに限らないが、田村は幾つもの指導要綱を作って、都市政策を進めたことで知られるから、これもその一つであろう。

 しかし分散論そのものは立ち消えになり、むしろ寿町総合労働福祉会館という地域のセンターをつくる方向となり、寿ドヤ街の機能強化になった。つまりドヤ街分散論ではなくて容認論へと進み、現在に見るように新改築されて高層ドヤビル化が進み、ドヤ街は分散することなく現地で繁盛している。

 わたしはその60年代半ば過ぎの当時の横浜を知らないが、ドヤ街を政策的に忌避する空気と、必要悪として容認する現実とのあいだで、現実が勝ったということか。
 と言うよりも分散も消滅も無理で、建てるならばできるだけ良い設備とする指導するしかなかった、それが飛鳥田革新市政の福祉政策の方向であったのだろう。

 この本に登場する田村は、そのような時に要綱を作っていること、そして寿のセンター施設の設計に緒形を起用したとの記述にある。田村時代には横浜市では力量ある建築家たちの起用がなされてきたが、緒方もそのひとりであったのだ。

寿町総合労働福祉会館(1974年竣工、現存しない)

寿町総合労働福祉会館

 たしかに緒形の設計した「寿町総合労働福祉会館」は、寿地区の平凡なドヤ建築群の中に、異彩を放つ大きさとデザインであり、地区のセンターとなる景観と機能を発揮していた。
 そのブルータルな表現はダイナミックであり、開放的な広場や大階段やピロティに、仕事を求める人々、ドヤ住民たち、野宿ホームレスなどなどが日夜群れていて、焚火の煙と相まって独特の活気があった。いかにも民衆的エネルギーを生み出すデザインであった。

 この会館の計画は1971年から具体化して、72年から設計にかかったとある。先ごろ横浜市都市デザイン室が開設50年記念展覧会を開催したが、この会館に都市デザイン室が関わったかどうか分からないが、横浜市の都市デザイン政策の出発プロジェクトとは言えそうだ。 

 いまはもうその会館は無くなり、後継として「寿町健康福祉交流センター」に建て替わり、その名のごとく労働から健康へと時代の変化を映している。デザインは全体配置を継承しつつも、どこかスマートな風貌になっている(小泉雅生設計)。

寿町健康福祉交流センター(2019年開館)

 ここまでが『横浜寿町』の記述にかかわることであり、これからはそれと関連しつつも別にして、わたしが日ごろ感じている横浜市の都市政策と寿町の環境との軋轢を書きたい。

●寿町と首都高速道路

 今の寿町の都市環境の大きな影響をもたらしたのが、飛鳥田市政時代の重要都市政策のひとつである首都高速道路の建設である。寿町地区の南側を流れる中村川の上空に建設した、その高架道路がもたらす日照阻害、騒音、排ガス等の公害を、この街は一手に引き受けさせられている。もちろんその騒音が横浜都心の関外地区に一日中鳴り響いている。

寿町一帯は、街の南側を高速道路の高架で囲まれ、中村川の水面は覆われた

 横浜市内のその建設計画は飛鳥田市政になる前に都市計画決定されていたが、実はs野々市は今の中むらぐぁ上空ではなかったのを、飛鳥田市政で変更してここに移しのだ。飛鳥田市政前の都市計画では、今の大通公園野市に流れていた吉田川・新吉田川の上空に通す決定であったのだた。

 それを中村川の位置に変更した理由は、横浜都心の街の真ん中を通すとは「眉間の傷」になるから変えよと、飛鳥田市長の言葉だったという。中心市街の商業者の声でもあったという。田村はそれを受けて中村川上空高架に都市計画変更したのであった。

横浜都心を抜ける首都高速道路の当初計画(左)と変更後の現実(右)

 具体的には、桜木町方面から関内関外境界の派大岡川の上空を通り、関内駅前でジャンクションを作って堀川方向と吉田川方向に分岐する計画であった。
 これを派大岡川を埋めてその地下に高速道路を埋め、石川町駅前の上空にジャンクションを設けて、堀川上空とと中村川上空に分岐することにしたのだ。
 この計画変更に関して建設省と横浜市の熾烈な論争と駆け引きの経過と結果に関しては、田村の筆で書物になり有名な話となっている。

 そして寿町はもちろんだが中村川両岸地区はもろに公害の街になった。要するに派大岡川部分は地下にして景観上は見えなくなり騒音も防ぐことができたが、中村川と堀川の部分は上空の高架のままであったということだ。
 これを田村は「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)としている。

 他の案よりはまし、とはどういう意味か。原案との比較か、あるいは大岡川の上空案もあったのか。それらと比べてよりましとは、この実現計画は景観のほかには欠点が少ないという意味か。だが堀川も中村川も両岸には密度高い街があり、特に中村川のあたりは住宅街である。

 そのころの中村川に沿う街には、寿町と同様に中村町あたりにも簡易宿所が多く建っていたから、住宅街とはいえ他と比べると地元住民とは言えない出稼ぎの労働者が多かったようだ。だから地元からの反対の声が出なかったのかもしれない。

 だからと言って密度高く人々が住んでいたことに変わりはないから、道路公害があってよいわけはない。それでも「まし」とは、そこには都市下層住宅地域とする差別感を感じさせる。関外にあるわたしの住まいからも遠いが高速道路騒音が聞こえるので、「まし」の範囲に入れて貰いたくない。

 寿町の高速道路に面する簡易宿泊所に入ったことがあるが、その騒音はかなりヒドイものである。しかもそれは排ガスとともに夜間も絶えないのである。
 簡易宿泊所は住宅でもないしホテル旅館でもない。建築空間として住宅のような日照や通風について法的保証は無い地位にあるが、事実上は住居として利用されている。
 その利用者の特殊性によって、この立地でも成り立っている不動産であるのだろう。他の機能はこの環境を忌避して入ってこないのが現実かもしれない。この20年の観察で新たな機能として入ってきたのは、数多くの介護関係施設だけであることが、この地区の劇的な変化を表している、

ドヤの南側窓を開けると目の前に轟音の高速道路

 もっとも、数は多くないが、中村川に沿う街でも寿町を離れると、騒音公害の中に高層共同住宅ビル(いわゆるマンションー原義とは大いに異なるが)は建ってきており、売買や賃貸借されている。生活の質的環境よりも、立地の便利さが優先するという現実社会がある。

 更に問題を言えば、堀川から中村川そして大岡川と連続して横浜都心の関外関外をぐるりと三方を囲む水面だが、大岡川と多とは大いに異なる環境になっている。
 大岡川が明るくて市民のレクリエーション利用水面にもなっているのに対して、中村川と堀川は上空を覆われて日の当たらない暗い水面で、市民の利用はほとんどない。

 飛鳥田と田村が決めた高速道路は、一方でこのような都市環境を生み出してるのだ。ちょっと解せないのは、この高速道路が土木学会に表彰されていることだ。しかもその理由が「地域環境に調和し景観に優れた・・」とあり、え?、土木学会は何を考えているのか。

高架道路に覆われて暗い水面

中村川下流の堀川堤防際の高速道路柱にある土木学会田中賞銘盤

 東京の日本橋の上空の首都高速道路を地下に通して、日本橋川の上空の高架道路を撤去する事業が現在進んでいる(その首都高公報サイト)。それができるのだから、こちら横浜の中村川と堀川の上空を覆う首都高速道路も、日本橋川と同じように地下に付け替える事業をぜひともやってもらいたい。山手の丘の下に埋めればよいだろう。

 この高速道路のことはこのブログに既に書いているので、これ以上は述べない。
 ・参照その1:都市プランナー田村明の呪い(2019/09/27)
 ・参照その2:【不思議街発見5】(2018/07/10)

 実はこの本を読んでいてふと気がついたのは、簡易宿泊所の経営者たちはどのような社会史あるいは経済史をもっているのだろうかということであった。だが全く登場しない。
 その多くが朝鮮半島出身者であるらしいが、それはどのような歴史をもつのだろうか。簡易宿泊所の経営とはどのような経済史を持っているのだろうか、それは釜ヶ崎や山谷にも共通するのだろうか。

 この続きは、近ごろの寿町のドヤビル建設の動きから、何かが起きようとしているらしいので、それを書く。  (2023年5月21日記) (つづく


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