2023/05/31

1689【薄れる境界】男と女・生と死・公と私の境界が曖昧になる現代

地球も身辺も災禍重層時代

 遂に5月が終わる。だからどうというのではないが、コロナ禍プーチン禍冬の寒さが重なる暗い日々で気がなえていたのだ。
 それが初夏の5月がきて日が照り薫風が吹き、急に明るくなってきたと、気が晴れてきたのだ。しかしまた、梅雨が来ると暗いなあ、と、6月が来るのも憂鬱なものだ。

 いつも月末にはコロナ禍とプーチン禍のその月の締めを書いてきたが、もういいやという気分になってきた。
 コロナ禍はなんだかよく分からないが、コロナ夜が明けたようなまだ暗いような半端な気分である。その半端気分に合わせて、マスクを顎にずらして外出すれば、同じような気分らしいマスク半端人が結構多いのに笑ってしまう。
 つまり今はコロナ禍とインフルエンザ禍の境界あたりにいるのだろうと思う。禍だらけの時代に生きている。

 もう一つの大禍であるプーチン禍、すなわちプーチンのウクライナ侵略戦争だが、こちらの禍は実のところよく分からない。先日はゼレさんが広島までやって来て、七國組に応援依頼した。世界は露中二国組日欧米七国組とが戦い、インドブラジルなど南國組が傍観中、こんな構図に陥っているらしい。

 そのような地球で生きる人間たちは食料とエネルギーの争奪戦に入ったらしく、これからどうなるだろうか。その争奪戦を生きなければならない次世代人間たちは、なにを考えているのだろうか。
 わたしのような前世紀前半生れの超高齢者は、実のところそれを心配するよりも、身辺に迫る自分の老いの問題の方がはるかに深刻だ。わたしが死んだ後のことはもうどうでもよい。孫たちの世代のことを考える余裕がなくなってしまった。コロナ後の世界を観たいと言う欲望が失せてしまった、もう、どうでもよいのだ。

男と女の境界が薄れる

 同性婚者を異姓婚者と同等に扱う法がないのは憲法違反とする判決を、名古屋地方裁判所が判決したと、今日のニュースである。最高裁まで行くかもしれないから、確定は先としても既にそれに似た判決がべつの裁判所でも出ているから、世の流れとしては同性婚も法的な枠組みに入る時がくるだろう。

 それで思うのは、人間世界はあちこちあれこれで、これまで確固とした境界なるものが存在していたのが、次第にあいまいにぼやけていくことだ。
 男女という生物的な境界は、これほど人間にとって身近過ぎる境界として、文化を規定してきたものはない。たとえば、フランス語やスペイン語には男性名詞女性名詞が隅から隅まであって、男女を分けることがおびただしく、外国人にとってはまことに面倒な言語だ。それほど面倒なのに普遍的に使いこなしているのは、それほどに境界としての規定度合いが人間の基本にある(あった)ということだ。

 それが今や言語という文化的な人間が意識して作り上げた境界を、人間の意志としてその存在を取りのぞこうとする。
 そればかりか、人間が生来のものとして備えて生まれてきた生物学的雄雌の境界にも、人間は文化の側から手をいれて境界をあいまいにしようとしている。他動的に決まってきた生の境界を、自意識として自動的に超えることを許容するようになったのだ。いや、まだ許容する世界もすこしは出てきたというべきか、この同行の顕在化によって、大きな軋轢も起きている国々もあるらしい。

生と死の境界が薄れる

 生物的な男女という性の境界があいまいになる時代だから、人間一人一人にある生と死という厳然たる生物的境界さえも、今やあいまいになりつつあるようだ。
 人間同士の争いの結果としての殺したことによる生と死は別にして、個人的な生と死の境界のあいまい化を迎えつつある。その発端は、臓器移植技術に対応して生者と死者の判別に混乱が起きたことだろう。

 太古からある不老長寿の願いとそれへの人間の努力は、境界をいかに遠くの時間に押しやるか、生と死のあいまい化への初歩であろう。それは医療技術の発達によって実現しつつあるが、死という境界線を消滅するものではない。しかし遠ざかれば遠ざかるほど、実は生と死の境目が分からなくなっている気配である。

 医療技術の発達は、多くの生物的死に近い高齢な人間を急増させる結果となり、生と死の境界上のあたりに渋滞する人間が多くなる。そうなると多様な死に方が登場してきてなにがしか分からなくなる。死という境界をかつてのように絶対的ないわば神の行為とする考えが、必然的に消えつつあるのだろう。
 自死する人間とか安楽死する人間が多く出現してくるから、死は生ある人間が自由に選ぶ身近なものとなり、死と生の境はあいまいになってきた。

 どうやらこの考えは、わたし自身が死を身近にした超高齢者になったことと大いに関係がありそうだ。人間社会に増えすぎた超高齢者を作り出したのは、医療技術の発達の結果であり、これが生と死のあいだの壁を、どんどん透明化してあいまいなものにしてきたようだ。

 コロナ禍の最中は葬儀に参加することが途絶えていたのだが、先般ひさしぶりに親友の葬儀に参加した。簡潔な無宗教で気持ちよかった。そこで思ったのだ。
 葬儀という形式の発明は、もともとは人間の生と死の境界をあいまいにして、生の延長のような死を演出して、悲しみを消すための仕掛けであったろうと思う。
 ところが、それが長い歴史を経るうちに宗教的儀式となり、死を祭り上げることで生から死への境界を巨大な装飾装置に仕立てて、それを特別な事件とする方向になったらしい。それを葬式の産業化という、と、親友の無宗教葬儀の場で考えたのだった。

公と私の境界が薄れる

 コロナ禍で急にオンライン出勤とか講義なるものが、世の企業や大学などに流行してきた。住家で仕事をするのはコロナ禍前は公私混同とか超時間勤務とかで、不都合なる状況を意味していた。それがコロナ禍以後はすっかり変わって、公私混同が当たり前になってしまった様子である。ころなが人間社会の評価の軸を変更させた例であろう。
 もっとも、さすがに住処でオンライン通学大学教育の変更は無理であるらしいが、実のところはどうなのだろうか?

 わたしの息子ときたら、コロナ禍の最中に転職するにあたり、オンラインで採用面接を受けて外資系企業に移ったが、その後3年たっても一度もその企業のあるオフィスに行ったことがないという。自宅でオンライン勤務の日々とて、それで成り立つのが不思議だ。

 この例は仕事内容がコンピュータ・ネット関係である特殊性もあるが、オンライン勤務は公と私の空間をあいまいにしてしまった。空間だけではなく、企業文化も変わったことだろうと思うが、それはわたしには分からない。

 この公と私の境界のあいまいさの普及は、どんな文化を生み出しているのだろうか、興味ある。私が現役で仕事をしていたころは、かなりの頻度で出張があったが、それはいまではオンライン会議でも済むことが多かったと、思いだすのである。

それなのに今も強固な国と国の境界

 生物として地球上に繁殖した人間が、生きるために食物やエネルギーの確保で争いの結果で発明したもっとも面倒で硬い境界は集団と集団徒を区切る国境であろう。
 国家集団の構成員たる人間は、地球上を自由に情報が駆け巡るネット時代となって、国家間の人間の移動も著しく、文化的には国境が薄れつつあり、その面からは国境は崩壊状態である。

 個としての生物的文化的人間境界としての国境はしだいに崩壊する気配なのに、この集団としての国家の境界は、崩壊と再構築が繰り返されていても厳然として亡くならないし、あいまいさを許さない争いが絶えない。これはどうしてだろうか。
 その原因の根底には、二元が私物として生きるために必要な食糧やエネルギーが、地球上の国家の存在する位置によって大きな偏在状態があることだろう。

 国境は戦争や交通の発達によって変わりつつも、今も強固な境界である。こうして人間は個人としては国境は崩壊しているのに、集団としては強固な境界を維持しているという、きわめて矛盾する位置にいま立っているらしい。
 矛盾の解消は戦争しかないらしいことは、プーチン戦争が如実に示してくれた。20世紀の戦争時代に生まれたわたしは、今また戦争時代に死ぬのである、戦争の人生であった、ヤレヤレ、、。

(20230531記)


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