2024/09/29

1836【新宿浦島太郎気分】大変化の新宿駅前東西あたりの街に昔と変わらぬ風景を探す

 コロナに重ねて老々介護で5年間もの逼塞から解放されて、少しづつふらふらと都市遠足徘徊をやり始めている。この前は品川駅東の港南地区、先週は戸塚駅あたり徘徊、今回は新宿の駅東西徘徊である。予想していたけれど、東京の都市変化は著しい。浦島太郎気分を楽しむには、じつに楽しいところだ。

 新宿の街に降りたったのは、この前はいつだったろうか。PCに保存する写真の日付で最も新しいのは2007年だから、もう17年も前のことであったか、東京の姿ががらりと変わるには十分すぎる長さだ。構造的な骨格は変わらないが、景観の変化が著しいから都市徘徊を楽しむのだ。なお、2008年に新宿を訪れて、こんなことを書いている。

 地下鉄で新宿3丁目駅に降りた。この前はまだなかったはずの副都心線であるから、駅の中でも外に出てからも、しばらくは方向感覚が戻らなかった。昔と風景がまるで違う感じだ。地上の街並み風景の基本は、道路がつけかわらなければ変わらないはずだ。だが、昔よりは小ぎれいな建築に建て替わっている感があって、頭の中の新宿イメージが異なる。

 こうなると浦島太郎気分になってくる。そして浦島太郎として街を楽しむには、昔と同じ風景を探しつつあるくのだ。新宿3丁目交差点でしばらく立ち止まって方向感覚を取り戻そうとした。そのよすがは伊勢丹という建物のであった。これは昔通りの姿で立っていた。

赤の丸に伊のマークは伊勢丹だ、昔のままの位置に昔の建物だ

 伊勢丹がここならば、次に知っている建物は紀伊国屋書店であるが、果たしてまだあるだろうか。あったあった、昔の姿で立っているぞ。うん、わたしはこれが建つ前の、木造だった建物に入った記憶もある。

紀伊国屋書店は昔のまま

 こうしているうちにようやくオリエンテーションの勘が戻ってきて、新宿駅方面へと歩き始めたのであった。沿道の建物がこぎれいな感じだが、昔よりも幅も高さも増えているようだ。昔よりもずいぶん幅を利かせているのが、ビックカメラだ。2007年にはまだなかったユニクロなんてのが、ビックカメラと肩を組んで、赤い字をきらめかせているのが、新宿の近頃の大型店なのかしら。

 ではこのあたりで北に曲がって、歌舞伎町を覗いて来よう。まあ、ごちゃごちゃぶりは変わらない。あれ、あの空色の高層ビルは記憶にあるぞ、なんてたっけか、そうそう都立大久保病院だ。検査か何かで入ったことがあったなあ、浦島太郎の記憶のひとつである。

歌舞伎町の飲み屋街で正面に見えるビルは都立大久保病院
 

 では、歌舞伎町の神髄であるコマ劇場あたりに行ってみよう。噴水のある広場があったよな気がする。あったあった、広場だけはあったが、噴水はなくて殺風景なタイル張り、しかも四周に柵がめぐらせたあって入れない。つまらない。道と広場の境目あたりに、女が一人、男が一人、別々に床に寝転んでぐっすりと眠っているのが、新宿歌舞伎町らしい風景だ。 

昔の噴水広場は殺風景なことになっている
 そういえば、今日はここに来る前の道端で若い女性がが寝転んでいたし、その前の電車の中で寝込んで、しかも床に吐いた若い女がいた。土曜日だから夕べ徹夜で飲んだのだろうが、昔は男にしか見なかったが、近ごろは女性もその風景を作るらしい。

 ついでに2008年の上と同じ角度の写真(下図)を見よう。この時もすでに噴水は消えている。向こうのビルが上の写真とは違うから、こののちに建て直されたらしい。

2008年の噴水のない噴水広場風景
 
 この広場の写真の背中の側には、新宿コマ劇場があった。ついでにその2008年の写真を見よう(下図)。
広場に面して新宿コマ劇場があった2008年
 
 これとおなじアングルの今回2024年の写真は下図のようである。白湯のビルは今も変わらないようだが、コマ劇場があったところには超高層ビルが建っている。下層は商業施設、上層に共同住宅のように見える。ネットで調べたら「新宿東宝ビル」といい、1000室近い巨大ホテルであるらしい。

コマ劇場の跡のビルにはTOHO CINEMAS IMAXと書いてあった

 広場が今もあったから、浦島の記憶のよすがにはなったが、意外につまらない風景だ。この広場を種に大きな都市再開発があったかと期待したが、2面は超高層ビルに建て替えしただけで、その他の2面は昔のままだ。そういえばここには歌舞伎座を誘致するつもりで、町名もそうつけて戦後復興の大事業をやったのだが、歌舞伎座は未だにやってきていない。

 若者たちが群れ遊ぶ飲み屋街を抜けて、JR新宿駅の東口に行く。ここに建つ東口駅ビル「ルミネ」は、昔の姿と変わらずに今も建っている。駅前広場もごちゃごちゃ狭いままだ。ところが何となくすかすかして見える。あ、そうだ、右の方の背景に壁になって見えていた西口駅前の小田急デパートが消えて、その向こうが見えているらしい。

JR新宿駅東口駅前風景 西口駅ビルの小田急デパートが消えている

 ではここから駅西口へ行こうと、昔あった狭いトンネル通路を抜けようとさがした。あの暗い狭い道が今もあるかと危惧したが、健在だったので浦島太郎は安心した。なんと「旧青梅街道」という標識もたち、その歴史をの説明版さえもあるのだった。

暗い地下道は明るく蘇っていた

 この道を始めて通ったのは1950年代の末だったと思うが、そのころは戦後新宿の暗さがある感じだった。この日はひっきりなしに人が通っているのだが、座りこんでオモライさんをやっている中年男がいたのは、さすが新宿地下道であった。ここでは60年以上も前の記憶の浦島太郎であった。ふと、傷痍軍人がいたかもしれないと思った。

おもらいさんが座っている地下道

 地下道を抜ければ、そこは思い出横丁、ここはほぼ昔と変わらぬ姿であった。久しぶり通り抜けたのだが、昔と変わったのは外国人らしい客が多いことだ。日本そばのカウンターで箸で啜りあげているのが、アフリカ系の顔の観光客たちであるのが奇妙だし、その後ろに立って並んで記念撮影などしているのは、どうも大陸系あるは半島系の人たちらしいのである。こんあところの何が面白いのかしら、ガイドブックに名所と書いてあるのかしら。
思い出横丁

 ここはハード面はほぼ変化がないのに、利用者というソフト面での大きな変化に、浦島太郎気分であった。この印旛饂飩、いやインバウンドだらけは新宿ばかりではないが、こんなところが観光になるとは変われば変わったものだ。浦島気分が高まる。

 西口駅前に来ると昔と違って妙に空が広い。そう、線路沿いに壁のように立っていた小田急百貨店ビルが消滅しているのだ。線路越しに東側にあるビル群が丸々見えるのが不思議な感じがする。あの高速道路ジャンクションのような広場も工事中だから作り直すらしい。
 建築家の東孝光が担当とはねえと、わたし妙に感心してきた頃は眺めたものだった。とにかく小田急百貨店が消えて、西口広場から東口のビルが見えている有様である。小田急と並んでいた京王デパートはまだ建っているが、こちらもたぶん今に建て直すのだろう。
西口駅前広場から東方面を見る 左端は小田急ハルク、小田急百貨店が消えて空が広い
駅東地区のビルが見える、右に京王デパートは健在


 参考までに小田急ビルが建っていたころの2022年の風景はこう(下図)だった。わたしが撮ったのではなくてネットで拾った。

 これまでの重厚な百貨店ビルが軒をそろえて建ち並ぶ20世紀型駅前風景から、たぶん超高層ビルが立ち並ぶ21世紀の都市風景になるのだろうなあ。

 小田急デパートの隣に建つ京王デパートの前に来て、お~っとびっくり感動、廃墟感に満ちたこの傾き具合と草ぼうぼうの排気?塔。これってタイルが貼ってあったはずだが、このように変更したのか、それとも本当に廃墟となっているだろうか、それとも廃墟新宿インスタレーションか。ついでに京王デパートも、近ごろ流行の壁面緑化なるものをやってくれるといいのに、。

京王デパート前の風景 この傾き具合と仮囲いが廃墟感満載

 そういえば、駅前広場に面してスバルビルといったか、大きなビルがあった記憶があるが、すっかり消えているのはこれも建て直しているのだろう。なんにしても新宿駅西口駅前広場とその周りは、巨大再開発の時代を迎えているらしい。壊される前の今の姿に大きく変わったのを同時代で見てきたが、この次の大変化の結果を見ることはないから、今の姿を見ておくのが浦島太郎の徘徊である。

(この写真はネットから拾って編集)
 西口のごちゃごちゃ飲食街は健在だったので、久しぶりに昼飯を食ってきた。食い物にほとんど執着の無いわたしとしては珍しく、ちょっとうまかったワンタンだった。

 ここを発祥地とする企業名のヨドバシカメラの店舗が、どんどん繁殖してきたらしい様子が、東口地区のビックカメラと対抗する戦いの場に見えてくる。あまり浦島太郎気分になるようなことでもない。それにしてもヨドバシの店の汚いことよ。


 西側の記憶の風景をようやく見つけたが、それは京王プラザホテルのビルである。わたしはこのあたりがまだ淀橋浄水場跡地の土の荒野であったころに、このホテルがポツンと一本だけ屹立していたのを見た記憶がある。いやその隣にもう一本の超高層オフィスビルが建っていたような気もする。そのころのこのあたりの写真も撮ったが、いま探しても見つからない。

 今ではごちゃごちゃビル群の中に、工学院大学・都庁と並んでいるのが、わたしの記憶の風景である。浦島島太郎はちょっと正気に戻る。
西口商店街から見える記憶の風景は工学院大学、京王プラザホテル、都庁

  さて、新宿で見残したところは、ゴールデン街あたりと超高層街だが、楽しみに残しておこう。次は渋谷駅あたりに行かなばならないな。来週だな。
 (20240929記)
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2024/09/07

1835【品川港南浦島太郎気分】品川駅東の港南地区から南の天王洲アイルあたり四半世紀の変貌を見る

●品川駅東にこの35年の変貌を見に

  ようやく秋の気配が来て、毎日、涼しい時を狙って外歩きに出ている。この5年ほどのコロナ禍回避と家人介護作業のために、ほとんどできなかった長時間外出と歩行運動を、再開し始めた。まるで社会復帰と身体能力復活ためのリハビリ運動である。徐々に活動範囲を広げて遠出していくようにしたい。

 その第1歩とでもいうか、9月4日に品川駅の東の港南地区へ遠出して、初秋の午後をうろうろしてきた。ここは1985年から89年までわたしの仕事の本拠地があった。久しぶりに品川駅東口に降りて、その変貌ぶりにまさしく浦島太郎現象になったのだた。それは戸惑うのではなく、むしろ楽しいものであった。

 大きく変わった景観の主役はもちろん高層ビル群の林立である。もともとは倉庫や工場地帯だったのが、日本のバブル時代にがらりと土地利用転換が起きた。低層の倉庫や工場群は中高層のオフィスビルへと建て替わった。


 特に大きな変化は、品川駅天王洲である。この両地区は離れているのだが、この再開発が二つ目玉の起爆剤となり、いまの品川駅東地区つまり港南地区全体への再開発となった。JR品川駅はその名称と異なって実は港区内であり、その東地区も港区港南という地名である。地名で港区と品川区はかなりイメージが違うらしく、幾分かは地名が再開発を促進しているかもしれない。

 さらに東海道新幹線駅が開設されたことで東京での拠点的な立地の地位も得て、さらに今後は中央新幹線の拠点駅となることで、未来の東京の拠点としての地位も確保した。したがって、そこのはある種の未来都市的な感覚に包まれている。東京湾の水辺をすぐそばに控えていて、似たようなところといえば横浜の「みなとみらい地区」であろうか。

 1990年と2024年とを空中写真で比べてみよう。


 この四半世紀を隔てる空中写真をGIFで重ねてみると、あれこれと面白い。港南地区には、駅前にちまちました商店街もあるが、概してまとまった広い敷地をもつ施設が多い。例えば、品川駅関連用地、東京都下水処理場、都営住宅団地、都営食肉市場、国立東京海洋大学などである。それらがどのように再開発されたのか、されないのか、どうなっていくのかを見るのは面白い。

●JR品川駅の大変貌

 まずは品川駅であるが、ここの土地利用は鉄道機能だが、右下のあたりが大きく商業業務機能に変貌しているのが分かる。国鉄民営化で民間に処分し、再開発された土地である。広大な鉄道操車場を民間に売却して、「品川インターシティ」と称する超高層ビルが立ち並ぶオフィス街が1998年に登場し、品川駅東のイメージを一気に変えた。

 もっとも、品川駅そのものの機能は鉄道のままでで変わらぬとしても、大きく改造されているいる。それは駅東の港南地区の変貌への対応でもあるのが分かる。かつての品川駅は、西に顔を向けていて、東口(港南口)地区に出るには細く暗く長い地下道を延々と歩いたものだった。

 それが今は、あの地下道は線路上空にかかる明るく広いコンコースに代わり、今や東口には超高層駅ビルさえも建っているし、広い駅前広場もあるのだ。何しろ今は東海道新幹線の駅なんだから、当たり前か。あの木造駅舎を懐かしい。浦島太郎気分を楽しむ。


品川駅港南口の駅ビル 2024年9月撮影

1990年ころまでは地下道から出てくるとこんな姿だった品川駅港南口

●下水処理場の蓋の上に超高層ビル

 北の方から見ていこう。広大な「芝浦水再生センター」という東京都の汚水処理場がある。都市に欠かせない機能であり、他に移しようもないが、なんとその一角に巨大な超高層ビルが建っている。東京都下水道局は立体都市計画制度を使って、汚水槽の上に蓋をしてその上に超高層オフィスビルを建ててしまったのである。都市化圧力は下水道の汚水もものともしない。

 実は、わたしの今回の港南訪問の目的は、このビル内のホールで開催した昔の仕事仲間との同窓会に出席のためだった。久しぶりに会った人たちとの立食パーを楽しんだその会場は、実は都民のウンコ壺の蓋の上であったのだ。もちろん見た目には何もそんなことはわからない。目くらましの植栽でまるで公園のようだった。

 下水処理場はまだまだ広いからどんどんこれをやるつもりだろうか。汚水処理という都市には必要な機能だが、汚染とか臭気とかの問題があるので迷惑施設とされて、居住やビジネスの場からの隔離を要求されて、都市計画において土地利用分離を厳しくしてきた。それが今や共存併存しているのは、技術的な解決が可能になっただけではなくて、経済的な要求によるものだろう。まだまだ水面は広いからこれからもどんどん都市機能のビルが、ウンコの上に建つであろう。

●今も食肉市場にカラスが舞う

 港南地区での最も特色ある土地利用は、なんといっても東京都営の食肉市場である。駅を出るとすぐ近くに南へ広がる広大な施設である。ここは東京都唯一の食肉市場(屠殺場)であり、特別な産業土地利用は今や周りとは隔絶しているようだ。

 その周辺がビジネス街に変貌するのを尻目に、その機能は厳然として動かず、むしろ建物の整備がさらに進んでおり、機能寿充実のように見える。バブル期に移転の話もあったと仄聞したが、その機能の特殊性から諸般の事情で他に移せないものらしい。

 先日も前を通ったが35年前と同様に健在である。カラスの群れも健在で、上空を飛びかい場内に舞い降り、屠殺場から生肉をかすめ取ろうと狙っているのを見た。昔、路上にカラスがついばんだ肉片が落ちていることもよくあった。時には屠殺される牛の鳴き声も聞こえたものだし、屠殺直前の牛が外の道路に逃げ出す事件も時にあった。裏門が開いていると、大きな牛肉の塊がいくつもぶら下がっているのが見えていたこともある。

 ここも下水処理場と同じく東京都のものである。もしかして下水処理場のように、上空活用を考えているのだろうか。ここも動物の生ものを扱うので臭気がかなり発生するし、生産工場であり食品流通拠点だから騒音もかなり発生する。工学技術的には下水道施設のように上下に機能分離して立体的利用により、業務商業機能導入も可能だろうか。

 汚水だけが出入りの下水道と比べると、動物や人間やトラック等の出入りが激しい食肉市場との共存は、かなり難しそうである。もちろん私には実のところはよくわからないが、今後ともこの機能はここに存在するのであろうと思うのだ。ひょいと思いついたが、もしかしたら、下水処理場と食肉市場は共存するかもしれない、う~む、冗談が過ぎるか。

●駅前商店街飲み屋街は今

 品川駅前には、かつては飲み屋や商店など雑居ビルが立ち並び、その中を路地が抜ける怪しげな雰囲気の飲み屋街がある。それは昔も今もあるのだ。その昭和の景観は、他の広大な敷地に高層ビルが建ちならぶバブル景観ではない。

 35年前と今との空中写真を見よう。土地は細分化されて、小規模な雑居ビルが立ち並んでいる。それらは小規模なりに建て替わって来ているようだ。そしてここには、超高層ビルの足元の澄ました姿ではない、昔からの街の賑わいが表出している。

2023年の品川駅港南口の商店街


1990年の品川駅港南口の商店街
 二つを比べてわかるのは、まず駅前広場がJRの用地の側に大きく整備されたことである。そして駅ビルが建ち、品川インターシティができても、駅前商店街は相変わらぬことである。他の大規模な再開発高層ビルが林立する中にあって、なかなかにしぶとく細切れ土地の活用をそれなりに模索しているようだ。そのうちに市街地再開発事業が起きるだろうか?とにかく駅前は他とは異なる東京カオスの街である。

品川駅港南口駅ビルから見る駅前風景(ネットで拾った画像)

 駅前広場からその商店街を見れば、その入り口の両側に新築ビルの工事中であった(下の写真)。工事案内をよめば、そのビルのどちらも建築面積が120㎡にも満たないが、10階ての雑居ペンシルビルらしい。こうやって昭和の駅前商店街は、新開発超高層ビル街とは異なるミニ再開発で永続するらしい。

駅前広場を背にして駅前商店街入り口を見る、左右にペンシルビル工事中

品川駅港南口商店街の裏路地風景(ネットから拾った)

●天王洲アイルの不思議

2024/09/01

1834【ようやく秋】猛暑や豪雨が毎年だから今や異常気象じゃなくてこれが普通かも、戦争もこれが普通かも

 今日から2024年9月、停滞のろのろ台風でこの数日は雨続き、おかげで涼しくなって、秋の気分だ。例年になく暑い夏と言っていたが、やはり秋は来るものだ。そして水害という災害も毎年のようにちゃんと来るものだ。異常気象が異常でなくなる時とは、災害も暑さも例年通の過酷現象になったときだろう。いつも異常だと異常とは言えなくなるからだ。

●異常気象が普通になる

 コメが食品店から消えてもう何日になるだろうか。これも異常気象のせいだろうか。しょうがないから三食を麺かパンか外食に頼る毎日だ。
 米を買えない現象はいつだったか大不作の年があって、タイから緊急輸入したのだった。今年はどうなんだろうか。農水省がコメの作柄を発表している。不作でもなさそうだからもうちょっとの辛抱か。


 このコメの状況のマップを見て思ったのは、コメは熱帯植物とばかり思っていたら、北海道や東北の方が育ちがよいらしく、冷温帯の植物に変化していることだ。
 これはコメの品種改良によるのだろうが、それよりも気になるのは、暑い日々が続く異常気象が定着して、コメも南方よりも北方の方が育ちやすくなっているのだろう。南方の昆虫や魚が来たのちや海でみられると同じことで、稲も次第に北上しているのだ。
 念の為2016年の同じマップ(右)を見たら、ほぼ傾向は同じだから、もうずっと前から本州中四国はもとより北海道も熱帯に近くなっているらしい。

●コロナは今や第11波だが

 異常気象が異常じゃなくなれば、新型コロナ禍も普及してしまって、いまや異常ではなくなるほどにも定着してきたのかもしれない。5年前の当初から数えると感染の流行の山は今や第11波だそうだ。こうも何度もやってくると異常ではなくて普通のことに思ってしまうのももっともだ。マスクもつけなくてもいいや、飲み会やって大声でしゃべりあってもいいや、なんて思う。

 2020年初からのコロナ来襲で、人々との出会い制限が特に老人には強烈にはたらき、社会的ネットワークが次々となくなってきた。これに加えて2021年から家人への介護が始まり、コロナ禍と老々介護が重なってくるともう身動きとれない日々であった。辛かった。

 今コロナ禍はほぼなくなり、家人の介護も7月末に終了し、5年ぶりに獄外に出て自由な日々を謳歌してよい日々が来た。ただし、その間にわたしに老いを確実に重ねてもいたのであった。いったん切れた社会的ネットワークはおいてしまうともう元には戻らないし、身体の老化も不可逆である。この最晩年という貴重な日々を失ったのは、大きなショックであった。

●プーチン戦争は泥沼化して続く

 そして今のもう一つの大きな悩みは、s無所の地球の争いと分断である。プーチン戦争については報道メディアのニュースは小さくなってきたが、コロナのように終息が見えてきたのではなく、むしろロシア本土攻撃へとウクライナは戦争拡大の様子である。

 これは泥沼戦争なのか、かつてに日本軍がチャイナへと攻め入った日中戦争と同じかどうか知らぬが、日本の軍部が当初考えていた短期終結が泥沼化したようなことを、今はプーチンがやっているのだろうか。
 クリミア半島は朝鮮半島であり、東南部諸州は満州のようなものか。日本の失敗の歴史的教訓をプーチンに教えてはどうか、なんて思う。いや、もっと近い時代にもベトナム戦争とか9・11復讐アフガン戦争におけるUSAの泥沼敗退の歴史もあるよなあ。
 
 気候はどんどん悪くなるし、戦争はあちこちでやまないし、USAトップ選挙に代表されるような人間社会の分断は地球上のあちこちで起きているし、わが身は老いに迫られているし、全くろくでもない時代に生きてるものだ。もしかしたら、異常気象が定着して異常といえなくなるように、戦争も定着してこれが人間の普通の地球というようになる時代が来る、いやもう来ているのかもしれない。と、慨嘆しきりの日々である。
(20240901記)
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伊達美徳=まちもり散人
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