【老々看護介護日録抄】妻が老衰進行かと介護していたら実は重度の脳腫瘍と判明して老々看護介護へ

老々看護介護日録(抄)(伊達美徳 2024)

はじめに

 老々介護なる言葉を、自分にはまだ遠い一般用語と思っていたが、自分が八十路半ばを越えたところで遭遇することになった。妻(以下Kという)が脳腫瘍という特別な病を患ったので、その看病と介護の日々がはじまったのだ。今思うとそれは2021年6月が起点であると推察している。この掲載は、わたしの介護日録なる日記の抄録である。

 老人介護とは、人間の老化のために起こる諸般の身体的機能低下による日常生活問題に対処すること思っていた。Kの場合は2021年に路上転倒以来、日常的に転びやすくなってきた。わたしと同年なのに彼女が先に顕著な老衰化が始まったかと思いつつ対応を始めたが、次第に深刻化してきた。月1回通うクリニックのかかりつけ内科医師は、毎度に言われたのは、とにかく歩け、そして回復するようにリハビリテーションを頑張れ、寝たきりになるな、であった。

 ところが実は、原因は老衰化ではなくて、重篤なる脳の病であったと分かったのは、転倒して頭を打ったときに脳内を診た脳神経外科医師の診断で、2024年10月だった。Kの人生のいつの日だったかに発生したという脳腫瘍(脳底動脈血栓化巨大動脈瘤)が、Kの身体の行動を蝕んできているのであった。

 なぜそれが発生したかについては、先天的な異常などによるのか、後天的な負傷などによるのか医学的には一般的にまだ不明らしく、Kの場合も医師は時期も原因も不明といった。
 しかもその腫瘍は、脳の奥部(脳低というらしい)で多くの血管が集まる位置にあり、手術により除去は非常に困難な場所であり、いつ破裂して最期を迎えてもおかしくないが、見守るほかはないというのである。これは老化へ対応する介護ではなく重病に対応する看護というべきである

 思い出してみると、Kの脳内に巨大動脈瘤ができたのは2021年6月に路上転倒して頭部強打が発生原因にであろうと推察している。その日までのKは普通だったのが、その日から次第に日常転倒が増えて、3年目にはついに半身不随に至りほぼ寝たきりになった。いわゆる認知障害らしきことはないが、次第に諸反応が鈍く遅くなってきた。

 は身体の自らの動きはわずかに左手足のみで、起居も寝返りも自らは不能だが、苦痛や苦悩あるいは錯乱を訴えることなく、素直にそれらに対応してくるのであった。そのような状況下で息子Tが介護保険適用による居宅介護看護体制を整えることに尽力し、要介護4の認定を受けてようやく定常的な状況で日々が動きだしたのは2024年の5月半ばからであった。

 介護保険制度をフルに利用した在宅介護サービスメニューは、専門家による訪問看護、訪問リハビリ、訪問診療そして訪問入浴、そしてデイケアサービスの利用である。これらの週単位の定例として繰り返す在宅介護体制が完成したのは7月になってからだった。これで定常的になった介護を、わたしと息子とですすめてきた。

 7月20日昼前、ベッドに寝ていたKの呼吸が急に荒くなり、緩急いろいろに変わり、大きく慟哭のような声もあげる。救急搬送を要請して近くの大学病院に入院した。医師の診断は脳底巨大動脈瘤の破裂によるクモ膜下出血、Kは目覚めることなく21日夜8時前に永眠した。これで老々介護は終止符を打った。

●Kの病状

(2021/6/16~2024/7/21)

●概要

・病名:脳底動脈血栓化巨大動脈瘤、右偏麻痺 
   (2024年4月16日 横浜中央病院 脳神経外科医の診断による)

・初期症状は転倒で、2021年6月16日の路上から始まり徐々に回数が増えてきた。

・右手、右足麻痺で動かすことが不能だが時に痛む様子で、寒暖や痛覚の感覚はある。

・左手と左足は普通に動かすこと可能。4月9日転倒から自力による起居歩行は不能に。

・2024年5月初めから全面的介助が必要になり、介護ベッドと車椅子利用に移行。

・反応は遅くなってきたが意思疎通は普通に可能、錯誤や迷妄はほとんどない。

・耳は難聴気味、眼は視力が衰えているらしいが、眼鏡をかけると読書可能。

・食事は3食とも普通、左手を使ってスプーンフォーク利用なので不自由。

・食事中にむせることが多い。時々動作が30秒くらいフリーズすることがある。

・排泄は襁褓利用。入浴には全面介助必要だが家庭では危険なので不可能、清拭のみ。

・2024年4月までは不眠症を訴えていたが、5月からは寝ていることが多くなった。

・食事の前後でTVを2時間くらい見ているが、その他ほとんどいびきかいて睡眠。

・4月初めまで週1日リハビリテーション通いで身体能力が戻る効果は全くなかった。

・4月9日室内転倒で頭強打、これを境に半身不随となって寝たきり生活の本悪介護へ。

・5月から介護ベッド使用、在宅介護体制を徐々に整えて行った。

5月半ばに「要介護4」認定、7月にさらに「要介護5」に認定変更申請。

・7月20日に脳底巨大動脈瘤が破裂してクモ膜下出血、翌日夜に永眠、介護終了。


●経過の詳細

●路上転倒で救急搬送

 2021年6月16日に、Kが近所の山吹公園の歩道で転倒して気絶、救急搬送されて掖済会病院で診療、傷は顔面上半分に打ち身による内出血による大きな青あざができて、消えるまで1カ月くらいかかった。医師の診断では打ち身程度のことで軽度だった。

 しかし、それからは彼女の外出が極端に減ってきた。家事もできることが次第に減っていった。

 この年のワクチン接種を機会に、近隣内科診療所「ポーラのクリニック」に毎月高血圧についての受診をするようになった。それまでも別の診療所にかかっていたが、これを機会に近所の診療所に替え、山中修医師(専門は循環器内科)が主治医となった。

 2022年になってからは買い物に行くのも月に1,2回になり、夫の付き添いが必要になった。買い物の店で転倒もしたし、100メートル往復に途中で休憩も必要になった。
 5月にクリニックで血液検査したが、特に悪いところはなかった。6月ころからは、Kができる家事は半分くらいになってきた。クリニックには手押し車を押して歩くのだが、ふらふらとして安定しないし、30mも歩くと休憩する。
 8月なかばころから、室内でちょくちょく転ぶようになった。助け起こすと何ともなかった様子である。
 11月30日、夕方のこと、結果はなんともなかったが、風呂場で転んだ。この頃からちょくちょく転ぶのだが、老化によって足が弱ってきたのだろうと思っていた。

●次第に衰えゆく日々は老衰か

 2023年にはいり、日中も寝て暮らすことが多くなった。クリニックの医師からは毎度歩きなさいと念入りに言われるが、当人はふらふらするから歩かないという。たまには公園に連れ出すのだが、すぐに帰るという。高齢者施設に入ろうかともいいだした。家の中でちょくちょく転倒するので、こちらが不安になる。

 4月12日、バルコニーで洗濯物を干していたら、転んだとて顔にあざが付いている。この頃は部屋で寝ていることが多い。
 4月28日、ポーラのクリニックの一階入り口で転んだ。
 5月10日、ガスコンロの火を消すのを失念した。水道を出しっぱなしも時にある。

 5月15日、ポーラクリニックへ定期診察、医師に「もう車椅子にした方がよいか」と聞くと、「それが寝たきりへの入り口になるから絶対にしてはいけない」。そして脳梗塞の有無を検査をしたが、「脳梗塞はない、老化現象によるふらふらだから、とにかく歩きなさい」と言われた。クリニックからの帰り道も、手押し車を押しながらもあまりにフラフラする。室内での歩行も嫌がっている。

 5月22日、夜10時頃自室で転倒。大きな音がしたので怪我をしたかと思ったら、当人は無事と言う。
 5月25日、午後7時頃、居間で転倒、怪我はないが立ちあがるのに苦労している。 5月27日、朝5時頃、キッチンで転倒、よろよろと起き上がる。
 5月28日、夕方6時頃、浴室で素裸のまま転倒、夜10時頃、自室で転倒。
 5月30日、ポーラのクリニックで定期診察、いしからはとにかくうごけ、リハビリテーションに行けとのこと、行きも帰りも気息奄々。夜は不眠症だという。
 5月31日、買い物にでかけたが、20mもいかないうちにもう戻ると引き返した。
 6月4日、バルコニーで洗濯物を干していて転倒、更に浴室で素裸で転倒した。いつ転ぶか心配な毎日である。
 6月13日、浴室から出たところで転倒。

 6月14日、申請している介護保険の認定のための調査員が来た。Kは質問にはそつなく答えているから認知不全症ではなさそうだ。
 6月18日、居間で扇風機とともに転倒。扇風機が壊れたがKに怪我はない様子。
 6月27日、今日は室内で2回転倒した。怪我がないからいいようなものだが、転倒が日常になってきた。家事能力が次第になくなる。近ごろはほぼ毎日寝て暮らしており、食事と排泄と風呂だけ出てくる。

●介護保険「要支援2」認定

 7月21日、介護保険の認定が着て「要支援2」。
 7月29日、ポーラのクリニックで定期診察、「要支援2でした」と医師に報告すると「エッ、わたしは要介護1になると思っていたが」と言う。介護度検査の時に身体の動きの検査は何もなくて、明快な受け答えだけだったからだろうという。なんだか変である。

 この頃からKの自主リハビリテーションとして、息子Tの付き添いで外廊下15mほどを往復することを毎日やるようになった。リハビリ効果はほとんどないようだ。
 9月29日、浴室内で転び、ドアの開閉ができなくなり、無理に押して開いた。
 9月28日 ポーラのクリニックへ定期診察。転倒が多いことを言うと、脳の検査をするとて、「横浜ホスピタル」を紹介され、脳のCTスキャンを撮った。

 9月29日、ポーラクリニックでCTスキャン映像を見ながら山中医師の話。「ヨロヨロ原因が脳にあった、何十枚ものスキャン写真の中の4枚の中央右寄りに小さい白い斑点が見えるが、これは視床出血であり、これが今の転びやすい原因。幸いなことに手術する必要はないし、これ以上広がることもない」。「両手掌をまっすぐに前に伸ばしてしばらくそのままでいなさい」と言われて、そのようにして「右手の方が下がってきたのはそのせいだ」とのこと。「箸を持ちにくくないか」と問われ、「そういわれるとその様でもある」と答え、「右足を引きずるようなことはないか」と聞かれ、「そうかもしれない」、「ろれつが回らないことあるか」、「若干ある」、「それらはこの脳の梗塞によるものだが、その程度で済んでいるのは不幸中の幸いだった。今後はリハビリをしっかりやりなさい」と言われた。

 9月30日 排泄の失禁が始まった。

●動脈瘤発見、老衰ではなくて重病だった!

 10月11日 食事室で転んだ。これまでも転倒をしても怪我はなかったのに、今回は後頭部から出血している。救急車を呼び横浜中央病院に搬送、脳のMRI検査にかかった。
 脳神経外科による診断は次のようだった。

・頭の傷を縫合したこと、その傷と今回のMRI検査とは直接には関係ないとが分った。
・頭の傷は明後日から風呂で洗ってもよい、包帯を替えること、数日で良くなるだろう。
・MRIの画像見ながら先日のCTスキャンで分かった脳の視床出血跡は実は大きな脳動脈瘤である。
・この血瘤はいつからか徐々に肥大して脳への4本の動脈が2本しか働かなくなっている。
・この瘤を取り除くにはここから四方八方に血管が出ているので手術は超難しい。
・手術は相当に高度な手術となり、ここではできないし他でも難しいだろう。
・また患者が超高齢なのでその手術に耐えられるかその手術を受ける気持ちがあるか。
・このような脳内の症状は非常に珍しく、医師も初めてみたという。
・この瘤が破裂しないように生きていくためには血圧の厳重な管理が必要である。
・(息子がリハビリ準備中だが言うと)適切な運動をすることは必要であり推奨する。
・脳萎縮が見られ、老化現象や認知症現象の原因になるが、転倒の原因でもあろう。

 これによるとポーラのクリニック医師とは異なる診断のようだ。介護のやり方考え方も大きな局面に来た感がある。介護度の認定も変える必要がある。
10月16日 Kの介護プランについて2名の専門家来訪。

10月19日、中央病院からポーラのクリニックへの「診療情報提供書」の内容は下記の通り。

2023年10月11日に自宅内で後方に転倒して後頭部を受傷され当院に搬送されました。頭部CTでは頭蓋内に明らかな外傷性変化は認めませんでしたが、左視床に淡い高吸収域を認めましたので頭部MRIを施行しました。MRAで脳底動脈に巨大脳動脈瘤の所見を認め、一部血栓化しているBlebが視床に埋没し排圧している所見を認めました。後交通動脈や後大動脈などが動脈瘤から分岐しているため治療は非常に難しく、ご年齢も含めて血圧管理などの内科的管理の方針となりました。ご家族にはいつ破裂してもおかしくない状況であること、破裂した場合は致死的になることをお話しております。また外傷後の慢性硬膜下血腫への移行についても説明しておりますので神経的異常所見を認める際にはいつでもご紹介ください。血圧管理など今後の加療に関しましてはなにとぞお願い申し上げます

 11月7日、初めてのリハビリテーション通所で「元気ジム」へ行った。だが大便失禁をして途中で戻ってきた。今日から週1回のリハビリテーション通いである。
 11月16日、宅内廊下にて失禁。
 11月22日、自室で転倒、尻が痛いという。腿に内出血の黒いあざができている。
 11月27日、ついにKを車椅子でクリニックに連れて行った。あまりにも歩けない様子である。医師の見立てでは特に変わりはないとのこと。

 2024年1月23日 真夜中午前3時、食事室に圭子がいてTVを見ているので、どうしたのか聞けば、リハビリテーションに行く日だから起きて支度をしているという。いよいよボケてきたのか。
 1月31日、自室で転倒、尻が痛いという。歩くのに右がおぼつかない。すり足でよちよち歩き。
 2月1日、尻が痛いというのを診せるため、掖済会病衣の整形外科に行く。X線撮影では特に異常はないとのこと。
 病状は日に日に目に見えて進む。今日できたことが明日はできないから、介護の工夫がいつも必要だし、介護方法も日々変化する。

 3月11日、稽古用の介護用品の便器の手すり、歩行補助機、車椅子をリースで入れた。
 3月21日、今日から訪問介護のリハビリ担当の人が週一回来るようになった。
 3月30日、介護度認定変更「要介護2」とのこと。

●転倒して右半身不随で寝たきりへ

 4月9日食事室で転倒、頭を強く打った。ダメージがある様子。これより動きが緩慢になるし、右手右足が動かなくなった。

 4月12日、ポーラのクリニックへ診察してもらいにゆき、状況説明。医師の言うには、MRI撮影して脳の様子を見ればわかるだろうが、わかってもなおることはない。それでも検査したいなら、横浜中央病院へ紹介状を書くという。そして要介護3に変更申請した方がよいとのことで、紹介状をもらった。今や寝たきりになってしまった上に、自分で起き上がることもできなくなった。右手右足はほとんどいうことをきかない状態

 4月16日、横浜中央病院にて脳のCTスキャン。去年と比べて脳腫瘍が大きくなっている。これに要病状は進行するばかりだからそのつもりで介護体制を整えることと、医師は言った。
 4月18日、便秘が続いていたが、今日はそれが浴室で出て始末が大変であった。

 4月26日中央病院脳外科医の診断書のコピーをくれた。その主要点は次の通り。

主訴及び現病名 脳底動脈血栓化巨大動脈瘤、右偏麻痺 治療経過:拝見しました。右偏麻痺の増悪を認めます。CTでは左視床部の高信号(血栓化瘤)の増大を認めます。右偏麻痺の増悪、むせやすさ、睡眠時間の増加、認知機能の低下は一元的に動脈瘤増大で説明可能と考えます。今後はこれらの症状が進行しますので、介護や生活食事など全般に見直してゆく必要があります。ご本人、ご家族の心穏やかに生活することが最重要と考え、そのように説明しました。

 山中医師に介護についての状況説明したら、ケアマネージャーとの連絡に齟齬がある様子だったのが、不安である。特に訪問看護体制について不満の様子で、介護体制の変更がありそうな話だった。

 4月29日 今日から訪問看護師が週2回来訪することになった。Kの身体清拭をしてくれたが、入浴は医師に指示がいるとのこと。

 5月1日 今日から介護専用ベッドを介護保険利用によるリースで居間に入れて、Kをこちらに寝させることに模様替えした。ついに寝たきり老々介護状況が明確になった。先月9日に店頭から1カ月という性急な変化である。
 5月6日 いま直面しているのは老人介護問題ではなく、脳腫瘍と言う重病医療問題と思う。医療と介護の違いがよくわからないが、老齢化による介護というよりも、重病にによる看護というべきか。

●介護保険「要介護4」認定

 5月8日 今日から訪問診療とて山中医師の紹介で、小西医師が月に2回やって来るようになった。専門は循環器内科。これまで3年分の状況を書いたメモを渡し、こちらの考え治療により治癒しない病で悪化するばかりだから、できるだけ早い時期に介護施設にいれるつもり。自然にゆくところまでゆかせたい。延命処置は考えていないを示した。
 ケアマネージャーからの情報で、申請していた介護認定変更は「要介護4」が出たとのこと。要支援2から要介護2、そして要介護4へと、半年で三段跳びである。対応が追い付かなかったは当然である。

 5月14日 今日から週1回の訪問リハビリに男性担当者がやってくるようになった。
 5月15日 Kは今日から週2回のデイケアサービスに出かけるようになった。10時から3時頃までは、とりあえず介護から解放される。
 5月16日 Kは今日もデイケアサービスに出かけて、公園には波に連れて行ってもらって、ご機嫌な写真で会った。喜んでいるようなのでほっとする。訪問介護、訪問リハビリ、訪問診療、デイケアの介護保険による4つのサービスが定常的に利用できる体制がようやく整った。ここまでくるには4月以来あれこれとドタバタだった。この間の手続き、介護用具導入などは全面的に息子Tがやってくれて助かった。

 5月31日 本格的介護にとりかかってほぼ1カ月経過、介護体制が整って今のところ定常的になっている。Kの容体は徐々に進行のようで眠る時間が増えてきているし、諸反応も遅くなってきている。
 要介護4認定だから特別養護老人ホームへの入居資格ができたので、次の展開はそこへの申し込みと入居移転である。そうなれば自分自身の転居も検討しなければならない。

                   (以上、2024年6月1日記)

●ルーチン化してきた介護の日々

 6月1日(土 晴) 朝の食事のあとが薬を左手につまんで右手の上でじっとしたまま動かない。どうしたのと聞いても反応がない。はっと気が付いたのは、かつて両手が動くときは右手のひらに薬を載せて口に運んでいたこと、そうか、今それをやろうとしているのか、「もう右手は動かないからできないのだよ」と言っていたら、胸にこみ上げるものがあり涙声、わたしがつまんで口に運んでやった。

 6月4日(火,晴) 9時半から定例訪問リハビリ1時間。はこのところ眠っている時間が増えていく様子。夕食後も7時になったらいびきをかいている。そのまま起きなければ、彼女にも私にも幸せだろうに、と思ってしまう。そして可哀そうと又思う。

 6月6日(木、晴) は10時頃デイケアサービスに連れられて出かけた。3時半ころに帰宅した。イタリヤ山公園に花を見に連れて行ってもらったとのこと。はよく話をしているらしい。人見知りの強い性格が変わったのだろうか、不思議だ、それにしては家ではめったにしゃべらない。

 6月7日(金、晴) 午後訪問看護師が来て、Kの清拭と大便摘出をやってくれた。看護において大便の処理が最も難物だったが、看護師による摘便なる技術を週に3回やってもらうことで、上から入れる食事については私が責任もってやっているが、それを下から出すことについては外注によることになった。大便の処理方法が介護における最も難物だったが、これで解決したが、これは良いことなのだろうか。

 6月9日(日、晴) ルーチン化した日常になった。夜中に何回かのベッドの様子を見て、掛布をはだけているのを直す。6時頃にが目覚めるので、そろそろ起こす力を出すべく心の準備をして、に「おはよう」と声をかけて、下着から全部着替えをさせ、拭い、髪を梳く。7時頃になり、をベッドから熊椅子に移し、食卓に着かせて朝食にかかる。左に持つフォークで食べる。ランチパック2枚、目玉焼きひとつ、紅茶一杯、果物少々、そして薬二粒(ヴィタミンD錠と便軟化錠)などを、1時間くらいかけて食べると8時になり、またベッドに移して寝させる前にちょっとだけTVを見せるが、すぐに眠ってしまう。わたしは洗濯したり、時に買い物に出かける。11時半ころに目覚めるので、昼食の前にTVをちょっとだけ見せて、12時半ころには食卓へと車いすで移動。昼食は3割くらいはが自分の左手のスプーンとフォークで食べるが、7割くらいはわたしが口に運んぶ。食べ終わると1時頃、ベッドに移して、尿パッドを取り替えると、もう眠ってしまう。3時か4時頃に目をあけていることに気が付くと、TVを見るか?と聞けばうなずくので、上体を起こしてTVの方に向ける。チャンネル操作が難しくなったらしく、際限もなく各局に切り替え、時に大音響になり、時に消えたりするので、この1週間くらいはNHK総合にしたままでチャンネルいじりさせない様にした。1時間もすると眠っているので、ベッドを水平にして眠らせる。5時半ころにベッドから車椅子に移動させて夕食の食卓に着く。昼と同じような進行で1時間ほどかけて食べ終わると6時半、洗面所で歯磨きをしてベッドに移動。尿パッドを取り替えて寝させると、すぐにいびきをかいて寝てしまう。これで朝まで12時間近く眠っていることになる。(日録全文)

 6月11日(火、晴) 午後訪問診療の医師と看護師、薬剤師が来た。風呂について未だに決まらないことを医師に言うと、すぐにケアマネージャーに電話で訪問入浴をさせるように指示したのは、てきぱきしていてよろしい。

 6月14日(金、晴) この数日、わたしは左右の肘が痛い。特に左ひじが痛いのだが、これはKを着替えさせたり車椅子移乗などの時に、無理な力を入れていることが原因にちがいない。だが、これを毎日の朝昼夜にしないわけにはいかない。

 6月15日(土、晴) いつものごとくにの介護で一日が暮れる。3度のベッドと食卓の間だけの往復に、両肘の痛さをこらえて彼女をひっくり返し着替えさせ、下半身を拭い食事を口にもっていってやりなどの繰り返し、これに意味など考えてはならない、昨日よりは彼女のひっくり返し方がうまくなったとか、ベッド車椅子間の移乗方法に新方法を見つけたとか、ささやかなる介護の道への精進が見えたことを喜ぶべきか、はて、この奈落行きの旅はいつどのように転落して終わりか、いや、を特養に入れるという次の転落がいつ来るのか、そして自分自身をどこへやるのだろうか、

 6月18日(火、雨) 9時半から訪問リハビリ。Tが横浜市に「特別養護老人ホーム」入居申請手続き所を提出してくれた、さて、どれくらい待つことになるか、つまりわたしが次のステップに行くのはいつだろうか。
 6月19日(水、晴) 10時過ぎいつものようにをデイケア―に送り出した。すぐに外出して県立図書館に久しぶりに入り、雑誌等を読んで過ごした。

 6月21日(金、雨、曇) 夕食後の8時から介護専門家の弟とZOOM、このところわたしがFBやブログに書き込みあ少ないので心配してくれたとのこと、今の苦衷を聞いてもらい、特に心が苦しく余裕がないことを愚痴っぽくしゃべって、申し訳なかった。

 6月24日(月、晴) の睡眠時間が長くなってきていることがよくわかる。三食の後にベッドに入るとすぐに睡眠、軽いいびきをかいている。夜もしっかり寝ている。夜中に3回は様子を見に行き、毎回薄い掛布をはいでいるのをかけなおしてやる。

 6月26日(水、曇り) 介護用品レンタル屋がきて歩行補助機と便所手すりを回収、これは4カ月くらい借りたろうか。残るレンタル用具は、介護電動ベッド、ベッド用テーブル、車椅子。全部返す日は来るのだろうか。

 6月28日(金、雨) 今日で介護保険を使ってのケアメニューは、週に訪問看護2回、訪問リハビリ1回、通所デイサービス2回、訪問診療月2回となり、要介護4で使うことできる点数のほぼ全部を使い切り、1割負担で毎月4万円弱の支出である。高い保険料を取り返していると思えばよいのか、複雑な気分。このほかに介護用品レンタル料、介護消耗品の支出も多くあり、月8万円くらいか。

 6月29日(土、晴) もう1年もほぼ毎日やってきて私を助けてくれている長男のTが、今日はやってこない日、彼にとってこの数週間は土曜日が介護休日、わたしには介護休日はないが、それはこれが生活だから当然のこと。このけっこう滅入る生活にも、休日があればよいと思うが、あったとしてもそれで何かが解決するのでもない。介護という肉体労働と精神労働が組み合わさった日々は、一時的に肉体労働だけがなくなっても、精神労働は休みにならない。被介護者の死によってその開放は来るのだろうが、そのころはわたしが被介護者になっているに違いないから、休日はわたしの死によるしかない。今日のKはいつもの通り。3食の間はただただ睡眠、時々起きて薄目を開けているが、いったい何を思っているのだろうか。そんなことを思う自分を慰めるために、「TVを見るかい?」と声をかけてうなづくのを確かめて、ベッドの背を起こし、TVをみえる位置にしてHHKをつける。以前はTVリモコンを持たせていたのだが、でたらめに押すから巨大音量やら宣伝番組やらで困るので、渡さないことにした。だが、いまでは30分も見て続けることなく眠ってしまうようになった。3食をベッドで食べさせるのではなくて、食卓まで車椅子で動かすのは、せめてそれくらいは運動させないたいと思うからである。彼女の運動はその食事3度のベッド車椅子間往復移乗時の立ち座り動作と、朝の車椅子での上半身着替え、ベッド上での襁褓の取り換え下半身着替えと時の身体の左右反転動作、一日にこれだけしかない。この介助で今は両肘が痛むのだが、今に治るだろうと思うがもう3週間になる。外に車椅子を押して連れ出すのをやってみたいと思うのだが、さて躊躇するのは、こちらが転ぶかもと思うからだ、いや、それは逃げ口上か、、。(日録全文)

 6月30日(日、雨) 静かな日曜日というか、いつもの朝から介護の日が明けて暮れた。これがいつまで続くのか、別に困っているのでもないし、技術的に難しいのでもないし、介護されるKが痛いとか苦しいとかの様子もないのだが、こういう固定的な生活の日々そのものが苦しい。

 7月1日(月、曇) 午後に定例訪問看護(摘便を毎回やってもらう)。は19時には寝入り、そこから12時間もずっと眠って、7時前に目覚め、起こして身づくろいしてやり、車椅子に乗せて食事させること一日三回の繰り返し、その間は眠るの繰り返し。ベッドと車椅子の移乗の際の介助とパンツ尿パッド取り換え、着替えに使うウドの力仕事で、両肘関節の痛みは治らないで続く。

 7月2日(火、晴) の食事途中のフリーズが起きやすくなった。食事のほとんどを私がスプーンとフォークで食べさせるようになった。自力で何とか動くのは左手の左足だけ。左足一本で立つ姿勢を、ベッドと車椅子間の移乗の際にやらせるが、かなり努力が必要なようだ。これもいつまでできるのか。

 7月3日(水、晴) 10時半に毎週定例デイサービスから迎えでKは出発3、3時半ころ戻ってきた。今日は昼めしを介助する必要がなかっただけ。は夕飯食べると6時半には寝入る。

 7月4日(木、晴) 毎週定例デイサービス特養に入るには待機する必要があるとのこと、いつまでも待ってもいいとも思うが、この単調にして気力と体力がいる日々がつづくのか。

 7月5日(金、晴)10時半から定例訪問看護師、午後2時半からはじめての週定例訪問入浴の事業者3人(男1、女2)が来、要領よくの身体を洗ってくれたたぶん3カ月くらいの入浴、費用は介護保険による1割負担で約3000円、超高価な入浴料金である。
 午後2時からわたしの大学仲間たちとの月例ZOOMであったが入浴対応で欠席、当分は欠席せざるを得ない。いつの日か何かが起きて、復帰できる日が来るだろう。

 7月9日(火、晴) 午前9時半、週定例訪問リハビリ、11時から隔週定例訪問診療。特養の待機を短縮したいので、実態に合わせた要介護5への申請について医師に相談したら、可能性が高い症状なので、変更申請には協力するというので、申請手続きを提出

 7月13日(土、薄曇)介護の日常を書いておく。朝6時過ぎに起きての下から上まで全部着替え、身体も軽くふいて、車椅子に移乗させる。ここまでの扱いで両腕の肘が痛む。朝飯はパックサンドイッチパンと目玉焼き。食べ終えると8時、ベッドに戻り直ぐに眠る。12時半頃、Kを起こして小便パッドを取り替え、車椅子に移乗、昼食を食べさせる。1時過ぎにべッドに移乗させるとすぐ眠る。5時半ころにKを目覚めさせ、尿パッドを取り替えて、車椅子移譲して夕食。夕食終わると7時、ベッドに戻したらすぐに眠る。これらの直接介護作業の合間に、買い物、家事、炊事で一日は無事に終わる。今はどうやらの症状が落ち着いてきたので、3月から4月あたりの急に進む変化に対策して、夢中で対応していっていたころに比べると、介護について冷静に考えることができるようになり、介護詠をやってみた。

脳底に巨大な動脈瘤ありて破裂は死ぞと淡々という医師

みつめくる隻眼まなこ奥ふかく脳底巨大血栓化動脈瘤

数ならぶ操作ボタンに空飛ぶもあるはずとみる電動介護ベッド

 7月17日(水、曇ときどき晴) はデイサービスの人に連れられて出てゆき、3時半ころ帰宅、今日は山下公園に花を見に連れて行ってくれたとのことにて、笑顔写真、え、こんな笑顔ができるのかと驚くが、良かった。夜10時半、眠るの様子を見に行けば大便の臭い、久しぶりにその始末をして着替えさせ、11時15分となりようやく寝させた。

●救急搬送

 7月20(土、晴) Kは7時頃に目を覚まし、パンツと尿パッドを取り替えてから、車椅子に移乗させようと、ベッドを下降していたら急に呼吸困難な様子、しきりに呼吸を繰り返し喉からゲホゲホという音が出てくる。10分くらいで次第に平静になり眠った。1時間ほどで目を覚ましので、車椅子の移乗、上半身を拭い、着替えさせて、食卓に移った。いつものようにパン2枚と目玉焼き卵を作ったが、積極的に食べる様子がない。パンもたまごも水も少しづつ口にもっていってやれば、しぶしぶ口に入れてもぐもぐする。結局、卵は全部、パンも半分だけ、水は2口ほどで、食事を終えてベッドに戻した。昨日よりは明らかに退化した様子、しかたがない。そして眠っていたが、12時半頃から急に大きくゴロゴロと喉を鳴らせてせわしく激しい呼吸、のど奥に何かがつかえて苦しがる様子、ベッドを少し起こしてさすったりするが、せわしい呼吸の調子はいろいろに変わりつつも続く。このまま死ぬかもしれない、それならばしっかりとここで見守ろうと覚悟して、そばにじっと座って見つめていたが、様子は落ち着かぬままに進行、時々花と口から黄色い粘液を嘔吐するのを受けて拭く。左手がブルブルと震えるので、握ってやるが止まらない。呼吸の仕方がいろいろと変わるのは、どれが楽か探しているのだろうか、突如号泣のような音が呼吸とともに急な間隔でせわしなく発する、苦痛を感じている様子、1時40分頃にとうとう我慢できずにTに電話。これまでTにはずいぶん世話になったから、ここで死に目に会わせないままでは申し訳ない気がしてきたからだ。2時半ころにTがやってきたときも、呼吸の音が激しく響いていた。訪問看護ステーションに電話、3時頃やってきた看護師の看たては誤嚥による肺炎の疑いが濃いとして、電話した訪問診療医師は救急搬送せよとの指示にて110番電話、3時半ころ来た救急隊が搬送した先は横浜市立大学市民医療センターであった。一緒に行ったから電話、「脳底巨大動脈瘤が破裂した、手術するかどうか問われている」と、手術延命は不要と伝える。今夜が山場で明日が迎えられるかどうかの状況とのことにて、わたしもセンター病院へ。は2階の救急医療の部屋に酸素マスクをつけて寝かせられ、点滴を受けつつ大きな呼吸をしている。時々声も出るし、見ているうちにかなりの量の血を吐いた。医師が言うには「脳底巨大動脈瘤が破裂によるクモ膜下出血、今夜を越せるかどうかわからない」とのこと。破裂した動脈中の血が脳内に散り広がっているらしい。これは去年10月の転倒時に脳の検査をした脳神経経外科医の診断での言葉通りあったから、全く驚かなかった。いつ来るか全く予想できなかったが、今それが来たのだ。

 7月21日(日、晴) Kはもう目覚めることなく、朝になっても大きな呼吸をしながら眠っている。の頭の上にある体内の様子を指す数値のモニターは、時々警告音を発して容体が危険なことを示すが、また元に戻ることを繰り返している。7時20分頃、モニターの数字はすべてゼロになり、心肺停止になったらしい。7時40分頃に医師がやってきて、瞳を開けてライトを照らし反応がないことを確かめ、胸に聴診器を当てて心臓も肺も動かぬことを確認して「死亡を確認しました。時刻は令和6年7月21日午後7時49分です」と告げた。死因は「脳底動脈血栓化巨大動脈瘤破裂によるクモ膜下出血」とのこと。

 慟哭か歓喜か呼吸は荒ぶりて脳内に今あかあかと火の燃ゆるか

脳奥に上がる花火あかあかと今竟えんとす八十八公転の旅

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 これで87年と3か月にわたる長い人生が終わった。
 わたしたちの3年にわたる介護の日々も終わった。この間に息子のTは、ほぼ毎日やってきて介護作業の分担支援、そして介護保険適用に関する複雑な対外折衝をすべてやってくれた。私一人では在宅介護なんて到底不可能だった。Tに特に感謝する。
 これで老々看護介護日録抄も終わりとする。

  (20240724記)

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