ふるさと懐旧と巣立ち後の報告(『鳩舎第三号2018卒寿傘寿記念号』掲載)

注:2018年12月8日に、高梁中学校1953年卒業同期生たちによる文集『鳩舎第三号2018傘寿卒寿記念号』を発行した。下記はこの文集を捧げる八重子先生への人生報告としての私のミニ自伝である。
わたしの手づくりによる文集
『鳩舎第三号2018卒寿傘寿記念号』
(初刷29冊発行)

ふるさと懐旧と巣立ち後の報告
伊達 美德(神奈川県横浜市)

●高梁中学校の『鳩舎』を忘れていた

 おお懐かしや、望月先生、中村先生、豊さん、猶さん、高梁中学3年の運動会だろう
か、仮装している。

 入学3年前に生れたばかりの新制中学とはいえ、教室がなくて2年生からやっと入れた。狭い三角形の校地、東隣の鉄道列車騒音で授業中断、北は異臭を放つ煙草工場、西はドブ泥小川、1学級50人以上のつめこみ教室、講堂も体育館も無くて校門さえなかった。今にして思えば戦後急造の貧しい学舎で、卒業の13年後に他地に移った。
 教員の陣容も実業界や復員者等の免許者に、新登場の英語には臨時免許者など、旧制の古手や速成をかき集めたのだった。
 その中での救いは、戦後高等教育を受けて新時代の民主主義教育に燃える若い教師たちが登場してきたことであり、小野八重子そして望月仁両先生に出会ったわたしたちは幸運だった。

 3年前に書棚の奥に3年5組の文集『鳩舎』第一号を発見して奥付にわが名もあるのに、わたしには全くその記憶がない。平松誠雄君に訊くと第二号も作ったとて、こんな立派な文集を2度も作った八重子先生と仲間に驚いた。
 こればかりか、わたしは不思議なほどに学校生活の記憶が薄い。
 その頃のものは昔に全て棄てたので、部分的デジタル保存資料と文集記事から細い記憶の糸をたぐりよせつつ、この『鳩舎』第三号を編集していると、中学生をやり直しているような奇妙な気分になる。

 在学中のことを忘れても、卒業直後の嬉しい大事件を覚えている。小野・望月両先生の婚礼の晴れ姿を、八重籬神社の社殿の前に眺めた記憶は、思い出せば心がほのぼのとする風景である。
 その八重子先生がお元気に傘寿をお迎えとて、今また心が温まって嬉しくなります。

●中学生時の写生画で生家を偲ぶ 

 下図の水彩画2枚はわたしが中学生時に描いたもの、ヘタクソでも今となれば歴史的?資料。中村達郎先生の励ましコメントが裏にあって嬉しい。
 この下の絵は、わたしの生家近くの美濃部坂から伯備線ガードを写生、右は石火矢町、左は頼久寺、ガードくぐって青屋根と黄色ビルは警察署、更に新町を横切り菊屋小路を抜けて本町通りの向こうに方谷橋。
伯備線ガードと警察署 1951年

上と同じ場所 2017年google
次の絵は御前神社のわたしの生家で、神社は今も山林、社殿、社務所、鐘撞き堂など健在だが、わたしは父の宮司職を継がず、生家の社宅は消えた。
わたしの生家 1952年
御前神社境内風景1992年 左に見える生家は1997年に撤去
 少年時代を過ごしたこの森で、心に深く残る二つの出来事の記憶を書く。
ひとつめは1945年8月15日正午、近所の人たちが社務所に集っている。そこには芦屋からの集団疎開女児20名が7月から滞在していてラジオがあった。その敗戦放送を聴き終えた人たちは、黙りこくって参道の石段をトボトボと下り、暗い森から明るい街に出て行った。

  沈黙の湖になりたる盆の地よ 昭和二十年八月真昼

 その月末、3度目の兵役だった父が小田原から帰還してきたが、母方の叔父は南方の戦場に消えたまま。

 二つめは心の中の出来事、中学生になった頃の春のこと、盆地の街を俯瞰する神社広場から、いつも見慣れた山や森をぼんやり眺めていると、不意に、雲や風の流れ、木々の葉擦れのさやぎ、自然の微妙な色合いなどが、心と頭に感じ見え聞こえだした。
 なにか心のステップをポンと上ったようで、それ以後は四季や日々の微妙な環境変化に気づく少年になった。今もその時の光景がありありと脳裏に浮かぶ。

●脱出した故郷盆地の記憶は美化される  

 故郷を出て62年、”忘却力向上中”なので、高梁盆地のことを自分の覚えのために書いておく。
 中国山地を発した高梁川は、南に流れていくつか盆地をつくりながら、倉敷の南で瀬戸内海にそそぐ。その中流域の高梁盆地は、南北2km半、東西1kmの北と南がくびれたサツマイモ形で、平地の街の西寄りを高梁川が北から南に流れぬける。街の上流側北端に近世には城郭があって、山頂に天守が現存する。
 街の北半分が近世城下町、南半分が近代からの市街で、地域中心街の盆地内には、大学もあれば(わたしがいた頃は無かった)、市庁や諸官庁出先、商店街もあるし、山陽山陰を結ぶ特急がとまる鉄道駅もある。

 わたしがいた頃は映画館が3軒もあり、映画と言えば「男はつらいよ」の筋書で寅さんの義弟の生家が石火矢町にある。その東隣が御前町で、山裾の道から鳥居をくぐり、石段参道を登って神社の森にわたしの生家があった(こちら筋書じゃなくて本物)。
 雑草や落ち葉掃除が大変だけど、冬は毎朝の焚火、夏は蝉しぐれで昼寝、祭の日の夜神楽、秋は金色の大銀杏、町内に仲良しの奥二郎君……、思い出は美化する。 

 盆地内の居住人口は1万人くらいで、調べたら江戸時代からあまり変わらない。今では合併を重ねてとてつもなく広い市域の行政人口は減る一方なのに、中心のコンパクトな盆地内では、ほぼ一定数なのが不思議である。環境収容能力を超えて増えすぎないように、コミュニティ機能維持のために減りすぎないようにと、自然の摂理と人間の英知が働いて、一定レベルを保つのだろうか、実に興味深いことである。 

 この高梁盆地は、温暖な気候で山や川の美しい自然環境があり、歴史文化がはぐくまれ、歩ける範囲に何でもそろい、子供から老人まで一生を暮らせる良い街である(そう気がついたのはかなり後年のことだが)。
 でもねえ、少年のわたしは高校生のころから、この井戸底盆地の閉塞感に悩み、脱出願望がしだいに心の底に溜まってきて、閉所恐怖症気味であった。

 その頃、空飛ぶ夢をよく見たものだ。丘の中腹の神社参道の石段上から水平に飛び出して、鳥居を飛び越え、盆地の街の屋根上空を飛びまわるが、いつも盆地を囲む山を飛び越えられないで目が覚めるのだった。後にその頃を思い出して詠んだ歌。

  空翔ける少年の夢いくたびも 目覚めて盆地の森の奥底

  大川よわれを連れ去れ濁流に  いづくにてあれ空広ければ

 同期の藤本(林)孝子さんの歌集『ぽかりぽかり』を、わたしが本づくり趣味で4年前に編集制作したとき、あとがきにそっと添えた歌(文中の他の2首も)。

●巣立ちから渡り鳥そして盆地の林の巣箱へ

 その悩みも大学に入るまでの我慢と、特別な勉強せずに受験したら不合格、やむなく1年遅く生まれたと思うことにして、森に引き籠って受験専門自習1年間後、1957年3月東京の大学に合格、少年期終了間際に巣立ち成功、ここからが八重子先生への報告です。

 まず青年修業遍歴時代は川崎、東京、大阪、名古屋、横浜など転々の渡り鳥だった。安保闘争から建築史学徒を卒業、建築設計小集団に加わり建築家修業の道へ入り、各地の市街地(岡山駅前も)やリゾート地などで、都市や建築の計画・設計・工事監理に数多く携わる。
 例えば、30歳になる頃の4年間、群馬県太田市で駅前道路の両側に約360mの商店街共同ビルを造った時は、55軒もの商店主の意見調整は大難題だった。武蔵野市内の百貨店の設計で、屋上広場の噴水デザインを多摩美大の奥二郎君に、幼馴染のよしみで頼んだこともある。

 渡り鳥20年でやっと一人前、不惑を迎えて家族も増え、自分の巣箱を構えた地が古都鎌倉で、壮年鎌倉拠点時代の開始。谷戸の林の中に自分で設計した小さな木の家、四季に鳥の声を聴き、庭に野生リスやタヌキが来て、周囲の丘に緑が生い繁る環境は生家の神社に似ている。息子たちはここから巣立っていった。

 旧鎌倉と言われる街は東西南北2キロほど、3方が丘陵で一方が海の盆地で、都市機能のすべてがそろうコンパクトタウンで、高梁盆地のようにレベルの高い文化的歴史的そして自然的環境に恵まれている。

 巣箱を拠点に各地へ出かける。仕事は建築設計から都市計画へと展開し、新入時には十数人だった集団は四半世紀でその十倍のコンサルタント組織に成長して、わたしは役員になっていた。かねてから組織から独立して、自分自身で社会と直接に向き合い、建築と都市を結ぶ仕事に、信条を貫きたいと考えていた。

 51歳、組織を離れてフリーランス都市計画家になり、東京に個人事務所を設けた。各
地の都市計画の立案と実行、いくつかの大学の非常勤職や行政諸団体の専門委員など多様な活動を自由な立場で始めた。

 長期に亘る印象深い例は、東京駅の保存再開発計画、横須賀市の都市計画と芸術劇場計画、鯖江市伝統工芸越前漆器の里づくり、鎌倉まちづくり活動、慶應大学院で都市計画論講師などである。平見軍次君の段取りで2002年に高梁で講演した思い出もある。

 遠出が多く不規則な生活で東京にも仕事場別宅があり、数えたらこの80年間に単身赴任時を含めて1年間以上住んだ家は計18戸・延べ13都市、そのうち家族の生活拠点だった街の長期ベスト3は、鎌倉25年、高梁19年、今の横浜16年である。

●老年期には都会盆地の空中巣箱へ 

 鎌倉で25年間、老年期に入った。鎌倉と東京2拠点暮しはつらくなったので、その中間あたりがよさそうだと、横浜市の関外に仕事と生活の拠点をまとめて移した。老年横浜定着時代の開始である。
 19世紀中ごろ横浜開港時の外国人居留地が関所の内にあったので関内、その外の街を関外といい、合せて今の横浜都心部である。周りを丘陵で囲まれている盆地だが、高梁や鎌倉との大きな違いは、その丘陵に緑がなくて住家群がびっしりと建ち並ぶことで、あんな斜面地の上まで住まなくてもよさそうなものを、エレベータがない超高層ビルに住むようなもの…、でも思い出せば、わたしの生家の神社がそうだったか。 

 何度もの転居経験から、歳とってからの住宅管理や大災害時を考えて、公的共同住宅の地上20mの巣箱を選んで借りた。街は徒歩20分ほどの範囲にあらゆる生活や文化あるいは観光施設が揃う便利さで、興味ないけどプロ野球場もある。
 近所に大小多様な病院があって安心なことは、一昨年に自転車で転んで腰椎圧迫骨折、寝たきり寸前の身でヨロヨロとすぐそばの大病院に通って身をもって確めた。
 飲み屋街で安酒に酔っても歩いて帰れるし、ウチに入れてもらえなくても1泊1200円の寿町ドヤ街があるし(実際に泊ったことあり)、徘徊不良老年には住みよい街だ。息子たちも近くに住む。

 2004年に中越大震災が起きて、都市計画NPO法人の理事として被災豪雪山村に復興ボランティア活動で仲間と10年間も通う貴重な体験をした。
 自由業に定年はないので仕事を減らしつつ、師匠の著名建築家の足跡、父の十五年戦争史、戦後都市復興建築史など自由研究もしながら、徐々に都心隠居時代へ移行した。今はこの文集のような自家製本づくりと、能楽鑑賞を趣味としている。ここに16年、次は……。

●人生盆地に飽きてきた

 わたしのベスト3定着地の高梁・鎌倉・横浜を見ると、似たような広さの盆地だし、遊びや仕事で訪ねて印象深い地は越前大野、城崎、湯村、内子、人吉、そして故郷そっくりで驚いたドイツ古都ハイデルベルクなどの盆地で、盆地生れは盆地好きである。
上はドイツ・ハイベルベルクの古都市街地(伊達撮影)
下は高梁盆地の城下町市街地(田中完治君の撮影)

 専門的な話だが、今の日本の最先端の都市計画は「コンパクトシティ」といい、20世紀半ばから人口増加と経済成長で拡大拡散した都市を、人口減少と超高齢化そして縮退経済の今は、コンパクトに再編する都市計画が主流である。それは盆地のように生活圏が歩ける範囲にまとまっている街のこと、そう、故郷高梁は今や日本のトップランナーなのだ(あるいは一周遅れかも)。

 でもねえ、コンパクトタウンなんて都市計画の専門家はほめそやしても、青少年は閉塞感に悩んで脱出願望が募るばかり…、と自分の故郷での体験から考えていた。ところが、インタネットが普及した現代は、現実空間のどこからでもネット社会に簡単に脱出できるから、今の盆地青少年にはわたしが悩んだ閉塞感なんて無いのかもしれない。

 実はわたしも今、インタネットどっぷりの日々で、わたしの公開ウェブサイト『まちもり通信』は、大学以来の膨大な論文駄文著述ほぼ全部載せて、市販著書5冊と共にわが人生全集だし、公開ブログ『伊達の眼鏡』は日々の思いを書いてボケ遅延策とまだ生きているという合図だ。

 掌中スマフォや机上PCから何でも分る、どこでも行ける、誰とでもつながる(例えば中学同期生15名とEメールで、繁森良二君とはSNSでも)、芸術もエロも、右翼も左翼も…座っていて何でもそろう、これは新たな現代盆地である。 

 思えば十五年戦争さなかに生れ、もの心ついたら戦争が終り、社会に出ると高度成長期、大きな災害傷病に遭遇もせず、平和な時代の幸運な人生だったが、また盆地脱出願望が湧きつつある。
 80年余の人生という盆地に、疲れてはいないが、もう飽きてきました。

  ふるさとは晩夏や少年老いにけり はありゃあさ~よおいやさ~

(2018/11/09入稿)
関連ページ
鳩舎第三号まえがき

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