2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
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伊達美徳=まちもり散人
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